私はシャーマニズムについて特に研究したということはない。偶々バスに乗ろうと思って、オーバーのポケットに突込んだ本が佐々木宏幹氏のシャーマニズムという本であっただけである。そして私の心を捉えたのは、近代科学に照して迷信としか言いようのないようなことが、蜿々として人類の歴史の中にはたらいて来たのは何故であったかということである。
私はそこに自己を見るということがあるようにおもう。自己を見るとはより大なるものに自己を写すことである。私達は形あるもの、相対するもの、有限なるものとして自己をもつ。形あるものは空間に限定されたものとして、無辺なるものがなければならない。相対するものは相否定するものとして、否定によって自己を見る相対を超えたものがなければならない。有限なるものとは形あるものと等質なるものである。
シャーマンは霊が憑依するか、霊を呼び寄せるかをする。その霊は身体より独立していて身体を支配し、身体を生命あらしめるものである。霊は通常不死なるものであり、死とは霊が身体を離れることである。シャーマンは離れた霊を尋ねて天上に飛び、海底に潜る。そして霊に病気や死の救済を求めるのである。
生理学や、病理学の発達した現在、身体を離れて生命をあらしめる霊などと言うものは荒糖無稽なるものであろう。併し私はこの中に幾多の深い洞察があると思わざるを得ない。その第一は霊はこの身体を離れて、我ならざるものとして我をあらしめるものであり、我をあらしめるものとして不死なるものであることである。我をあらしめるものとは、それによって我々は我であるのであり、それが我ならざるものとは矛盾である。それは我の内よりはたらくものが、我の外としてあるということである。
生命がはたらくとは内を外とし、外を内として形成的にはたらくのである。形が現われるというには、瞬間としての内外相互転換を超えて、内外相互的に自己を現わすものがなければならない。即ち生命の形成作用には永遠なるものがなければならない。瞬間的なるものが永遠なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものであることによって生命の形成作用はあるのである。生命は単細胞より初まったと言われる。そして人間は今六十兆の細胞の構成体であると言われる。そこには一貫せる生命のはた らきがなければならない。生命の創生より三十八億年の、無数の生死を超えた形成作用がなければならない。今持つ身体ははかり知ることの出来ない生死を蔵することによってあるのである。我々の身体も亦生れ来って死にゆくものである。今人生は七十年とか八十年とか言われる。併しその七十年は、三十八億年を包む七十年である。数限り無い生死にはその一々に愛憎と哀歓を伴う。三十八億年を包むとは、我々の哀歓はその限り無い哀歓を包むということである。三十八億年の陰翳を宿すということである。
斯る陰翳が真に露わとなるためには、生命は言葉をもたなければならなかった。即ち言葉をもつ人間に於てそれが真に露わとなったということである。形成作用とは作られたものが作るものとなることである。作られた形が新たなる死生転換に於て、新たなる形質を獲得することである。過去がはたらくことによって現在があるのである。現在とは形作られたものとしての過去が、当面する内外の矛盾としての、生死の相克の中に転生することである。
言葉は分別し、統一するはたらきである。分別が統一であり、統一が分別である無限のはたらきである。私はシャーマニズムは分別と統一の、最初の自覚に現われた生命の相であるとおもう。身体のもつ絶えざる営みと、形による営みの統一、瞬間的なるものと永遠なるものが分別されたところに、身体と霊魂の分離があったとおもう。はたらくものは生死を超えた形成作用を本質として、身体は霊魂の容器の思想が生れ来ったとおもう。霊魂の遊離は一切の活動の停止であり、一切の活動の停止は死である。而して活動は何処迄も瞬間的なるものが永遠なるものでなければならない。斯る媒介者がシャーマンである。それは遊離せんとするとき、亦は遊離せるときにのみ媒介者となるのである。媒介者の能力は直接霊に交流する力である。私はそこに形成作用の原型を見ることが出来るように思う。人間が霊能者となり、霊能者が媒介するということは、媒介は自己が自己を媒介することであり、無媒介の媒介ということである。永遠なるものと瞬間的なるものの否定と統一があるということである。形成作用の影であるということが出来る。無媒介の媒介とは初めと終りを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくということである。
作られたものが作るものとして、私は中世の神も斯かるシャーマニズムの自覚的徹底より考えられるとおもう。霊は身体に入ることによって形をもつものであり、それ自身形なきものである。形なきものであるが故に、形作るものとして、はたらくものとなることが出来るのである。形なきものは相対を絶したものである。相対を絶するとは普遍者として、唯一者としてあることでなければならない。シャーマニズムに於ては、精霊は個々の生き人間に対するものであった。個に対するものとして、精霊も亦個としての存在であった。そこには具体的な形成作用はないと言わなければならない。形成作用は個と個が相対することであり、個と個が相対することは世界を形作ることである。個を担うものは形としての身体である。霊は形なきものとして世界を担わなければならない。瞬間的なるものに対する永遠なるものとして、永遠なるものとしてはたらくことによって、瞬間的なるものを成立させるものでなければならない。個が個である限り、個を超えることは出来ない。シャーマンの交通する霊は個として身体を超えつつ、身体の次元に付着し、身体を真に超えて創造する霊ではなく、身体を維持する霊に外ならなかったとおもう。シャーマンは治癒師として、真に創造するものとなり得なかったとおもう。斯る身体と霊の根底に立って普遍なる神、一切の創造主の神を確立したのがキリストであるとおもう。曽って何かの本でキリストが治癒神であったというのを読んだことがある。聖書にも治癒神であった痕跡を多く見ることが出来る。キリストの神は生死を超えて、生死を支配する霊を徹底することによって啓示する神、隠れたる神、永遠なる一の神の自覚に達したのであるとおもう。終末観は斯る自覚の到達すべき必然であるとおもう。
神は死んだという言葉がある。近代は霊の容器としての身体がはたらくものとして、感覚の捕捉し、展開するものを実在としたということが出来る。身体は行動的として自己形成的である。それは神によって作られるのではなくして、身体が生死の矛盾をもつことによって、矛盾の超克として身体が身体自身を作ってゆくのである。我々の自己があるとは神によってあるのではなくして、経験の統一としての理性の構成によってあるのである。永遠なるものは身体が自己形成的として永遠なのである。無限の世界形成は物と技術的努力の中より生れてくるのである。
生命は動的なるものであり、動くものは相反する方向に動く、相反するものの相互否定として動くのである。シャーマニズムの特殊として個に即した霊は、その純化徹底に於て普遍なる霊となった。普遍にして唯一なる神は形なきものとして、逆に一々の形として自己を実現する。そこには必然的に個が生れなければならない。生れた個は創造する神の投影としてはたらくのでなければならない。創造点として生産を担うものでなければならない。近代の個性としての人格の成立は、神の否定ではなくして神の更なる純化徹底であるということが出来る。近代科学を自己の純化徹底として把握することのないキリスト教は、シャーマニズムと同じく過去の中に埋没するの外なき運命をもつものとなるであろう。歴史は変遷する。併しその変化は突然に異った形相が実現するのではない。自己に内在するものの発現として変遷するのである。前にも書いた如く生れくる形は否定として、相反する形として生れてくる、そこに私達は断絶を見る。過去を誤りとし、罪とする。併しその誤りとし、罪とするものはそのものの中より生れ来たものである。誤りや罪の中より生れ来ったのである。私はシャーマニズムは深い生命の真実に立っていたとおもう。過去、現在、未来を見、世界を見、自己を見ている。そしてそれを動的一に於て捉えている。初に問題として捉えた、蜿々たる歴史の中のはたらきは、斯る生命の自己の運びの上にあったが故であるとおもう。斯る意味に於てシャーマニズムは今もはたらくのである。形を二転三転してはたらくのである。シャーマンは天に翔び地に潜る。それは時の中に転じて宇宙船となり、潜水艇としてはたらくのである。転ずるとは死して生れるということである。かつてのシャーマニズムのあったところより宇宙船は生れることは出来ない。新たな形が生れるためには、過去の形は死ななければならない。併しそれは新しいものを生むはたらきとして死ぬのである。
新しい形を生むはたらきとして死ぬと言えば、過去は新しいものを生むためにあったと思われる人があるかも知れない。併しそれは死ぬということと、生れるということを真に考えたことのない人であるといわなければならない。生れくるものはその一々が三十八億年の生命形成を負うものとして生れくるのである。それはホモサンピエスとして生れてくるもの全てが同じである。そして生れ来ったものは生むものとして生れ来ったのである。それは無限の過去と未来をもち、永遠を宿すものとして一つの完結をもつのである。完結とは初めと終りをもつということである。自己の中に初めと終りを結ぶということである。霊、シャーマン、人の三位一体は自覚的生命の一つの完結である。分別と統一をもったということは、自己が自己自身に生きたということである。永遠の形相として生きたということである。生れて死ぬものが担う歴史の変遷は永遠より永遠へである。それは否定されつつ何処迄もはたらくものである。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」