この間近くの家のお通夜に行った。私の地方では習慣として、西国三十三ヶ所の詠歌を上げる。そして其の後でお経らしきものを唱える。それは忍耐を必要とする退屈極まりないものである。私はそのお経らしきものの中に、「自他平等」とあるのを耳に挟んだ。平等というのは、今年の巨勢五号に「人権について」を寄稿し、自由と平等についてを論じたばかりである。私は平等についてを考えていった。
このお経らしきものが出来たのは何年程前のことであろうか。兎に角斯く言われたということは、当時は自他平等の時代ではなかったということであるとおもう。自他平等でなければならないということであるとおもう。自他平等とは、自己と他者は同一の世界にあるものとして、等しく権利をもち、義務を背負うということであろう。当時は斯る等しくということがなかったのであるとおもう。
最近読んだ本に、猿はボスが代ると、先代のボスによって生れた幼児を全部殺してしまうと書かれていた。生命は種族保存、個体保存の意志をもつのではなく、自己の遺伝子を維持しようとすると書かれていた。私は読み乍ら源平の争いに思いを馳せていた。源氏は常盤御前の美貌によって助かったが、源氏の平氏への追討は徹底したものであったらしい。今でも平氏のかくれ里と言えば人跡絶えたる所を想像する。日本では血族ということを非常に重要視した。血族を重要視するとは、自己の血族を隆盛ならしめて、他の血族を制圧することである。 「藤原氏にあらずんば人にあらず」とか、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉がある。それは自己の一族の繁昌に努めて、他をかえり見ないことである。私はそこには、生物の遺伝子維持の本能が強くはたらいているようにおもう。生命は自己が大ならんと欲するのであり、決して自他平等をその本来とするものではないようにおもう。果してそうであるならば何故に自他平等でなければならないという要請が生れたのであろうか。
私はそれを人間の自覚に求めたいと思う。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは言葉による。言葉は我と汝の重々無尽の人と人との関りの中より生れて 来たものである。言葉を作った人はないと言われる。言葉は呼び応ふるものであり、面々相対するところにあるものである。自己を知るとは、我と汝の出会うところとしての、世界形成の社会に於て知るのである。人間が自覚的生命であるとは、本能としての生物的生命に生きることではなくして、自己が形造って来た生命としての社会に生きるということである。我々は生れたというのみによって我があるのではない。社会の中にあって習い学ぶことによって我となるのである。
我々は身体をもつことによって我である。身体は生れ来ったものとして何処迄も生物的である。而して身体は言葉をもつものとして、自覚的身体である。面々相対し、我と汝の関りに於て自己があるとは、世界が一なるものとして我があるということである。そこに平等の要請がある。身体が生物的、自覚的であるとは生物的なるものの上に自覚的なるものを打樹ててゆくことである。それは利己的なるものの上に自他同一を打樹ててゆくことである。自他平等は自覚的生命の要請として、努力によって打樹てるべきものである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」