「生物の進化を考える」を読んで

 私は自動車の運転免許をもたない。いきおい何処へ行くのにもバスや汽車に頼らざるを得ない。バスや汽車は待ち時間が多い。殊に私の住むような田舎では数十分が普通である。それを天恵として本を読むに決めている。本はなるべく哲学書以外のものにしている。それも一般的な啓蒙書ばかりである。それでもこの頃の科学の進歩は、大部分が私達の解り難いことである。

 この間木村資生氏の「生物進化を考える」という本を買った。御多分にもれず私達弥次馬読者には解るとは思えないものであった。それでも私には私なりに興味をもつものがあった。それはその中にその生物に感謝しなければならないという所が二ヶ所あったことである。一つはウミサソリである。少々長くなるが引用したいとおもう。『今から約五億年前にわれわれの遠い祖先で、最古の真性脊椎動物である無顎類かが現れた。これは下顎のない下等な魚の一種で、口から海底の泥を吸い込み、その中から餌をとって生活していた。つまりミミズに似た生活をしていたと想像される。中略―その化石はシルル紀(約四億四〇〇〇万年前から四億年前)に多く見られ、体はよろい状の甲羅でおおわれていて、甲冑魚類とも呼ばれている。このよろいが発達したのは、その当時優勢であったウミサソリと呼ばれる捕食性の節足動物に対する防御のためであったと考えられている。

 事実シルル期の終りからデボン紀の初(約四億年前)にかけて、化石の出方から当時の動物相を考えると、小型の無顎類と大型のウミサソリが動物の主なものであるような場合がいくらでも見つかっている。当時のウミサソリはどう猛な肉食動物で、中には体長が2.5米に達するものもあった。そして無顎類を餌にして生きていたと想像される。やがて無顎類の子孫に体制の発達した泳ぎの上手な硬骨魚が出現し、それが繁栄するようになるとウミサソリは数が減って古生代の終りには滅亡してしまう。

 このように脊椎動物の骨というものは、まず体表をおおう板として出現し、やがて頭の中へ入りこんで骨が出来、続いて体の心棒となってこれを支持する脊椎に進化していった。振り返ってみると、骨格なしにはさらに進歩した脊椎動物の出現は不可能だったわけで、それはもとをただせば外敵から身を護るための甲冑である。とくにウミサソリのような恐しい敵がいたからこそ、それが生じたわけで、アメリカの有名な古生物学者ローマーは、われわれは太古の祖先の敵、ウミサソリに感謝せねばならないと述べている。』

 今一つはおなじみの恐竜である。『最初の哺乳動物は今から二億年程前に哺乳型爬虫類の子孫として生れた。化石の資料によると、当時の哺乳類は現在のハツカネズミのような小型の夜行性動物で、恐竜の目をのがれて生活していたと想像される。そして、低温の夜の生活の適応として、恒温性や毛皮が発達した。化石の研究によると、二億年前の初期の哺乳類はその祖先の哺乳型爬虫類にくらべ、体の大きさは一〇分の一程度しかないのに、脳の相対的な大きさは四・五倍もあった。暗い夜の生活のために、嗅覚と聴覚が発達する必要があり、脳の増大はそれによってもたらされたと考えられる。

 哺乳動物にとって、中世代はいわば苦難の時であったが、また有意義な時期でもあった。哺乳動物のすぐれた性質、とくに知能と、温度に依存しない活動性は爬虫類の暴虐の下で生きのびるために大きく改良されたからである。古生物学者A・ローマーはこの問題にふれ、「われわれは、哺乳動物として、恐竜の意図もしなかった援助に感謝をせねばならない」と言っている。』

 以上の記述によると、人間の祖先は大変弱くて逃げてばかりしていたようである。常に死の危機に臨み、死の危機の中から見出した生としての身体の機構が今日の我々をあらしめたようである。パスカルは人間は獅子の一打にも耐えられないという。併し今地球上の生物の、生殺与奪を握るものは人間である。一打にも耐えられない人間が一撃にて倒すのである。ウミサソリも恐竜も絶滅した。そして恐怖におののいた人間が生き残っている。私はそこに生命の相があるようにおもう。

 生命は個体的に生死するものとしてある。生死するものとしてあるとは、生死に於て連続をもつことである。生死が連続であるとは死ぬことが生れることであり、生れることが死ぬということである。生れることが死ぬことであり、死ぬことが生れることであるとは内外相互転換的に形成的であることである。内外相互転換とは内が外となり外が内となることであり、内が外を否定し、外が内を否定することである。生命は相互否定的転換であることによって、生死としての連続をもつのである。否定されるものは否定するものである。否定される忍従の裡に、耐性と超克が生れてくるのである。相互否定的であることが連続であるとは、個を超えたものが個をあらしめ、個としてはたらくということである。耐性と超克は斯る個であるものが個を超えたものであるところに生れるのである。否定されるものが否定するものであるところに生命はある。私は人間は斯る生命構造をもったが故に今日があると考えざるを得ない。

 否定されるものは弱きものである。而して生命は斯る否定の底から新しい機能を獲得 てゆくのである。そこに生命が生死する所以があるのである。死を媒介とすることによって否定するものを超えることが出来るのである。否定するものを超えるとは、否定するものを否定することである。強者となることである。強者となるとはウミサソリに対して甲羅をもつことであり、恐竜に対して知恵をもつことである。パスカルは人間は獅子の一打にも耐え得ないものである。併し死を知るが故に殺すものよりも尊いと言っている。尊いとはより大なる生命を孕んでいるということである。知るということの中に、殺すものを超える大なる可能性があるのである。

 私は全て偉大なるものとは否定の底より生れ来ったのではないかとおもう。人生に於て最も大なるものは愛であり、愛は全てを生む原動力であると言われる。愛は惜しみなく与えると言われる如く、愛は自己を無にして、他者に自己を見るところにあるものである。自己を無にするとは、自己を否定してゆくことである。否定することによって他者に於て自己を肯定するのである。他者に於て自己を肯定するとは自他を超えた大なる世界を見ることである。愛とは生命のより大なる中心に向って一歩を進めたものである。斯る一歩は如何にして進め得たのであろうか、私はそこに限りない生のかなしみを見ることが出来るとおもう。

 ゲーテはウイルへルム・マイステルの中のミニョンの詩吟遊詩人に「涙もてパンを食 みしことなく、夜々の臥床を泣き明さざりし人は、知らじいと高き御身のいます」と唄わしめている。私はここに深い真実があるとおもう。私達は傷つくことの痛みから他者の 痛みを知るのである。より高き御身とは痛みによって結びついた世界である。結びつくとは自他一なる世界である。自他一なることによって互に癒し合うところに新しい生命の相を、新しい自己と他者の相を見るのである。いと高きものの相はその底に見えるのである。それは人類を一ならしめるものの相である。

 ドストエフスキーは罪と罰に於て、ラスコリーニコフをして娼婦ソーニャの前に跪ずかしめ、「我は全人類の苦痛の偉大さに跪ずく」と言わしめている。苦痛の偉大さとは何なのであろうか、私はそれを人類が獲得した形質に対する苦痛の役割であるとおもう。ウミサソリの恐怖に逃げ廻り、恐竜の目より逃れて生きついできた祖先の血を承け、それを発展させてきた人類の底深く流れるものであるとおもう。ソーニャが「神がなくしてどうして私達があり得ましょう」と言った背後に、私は死を潜りつつより大なる生命の形相を見出して来た、はるかな人類の生命を見ることが出来るようにおもう。私は人類が今日の繁栄をもち得たのは、他の生物に対してはるかに苦痛に耐え得る力を作ってきたが故であるとおもう。

 物質は空間の歪みであると言われる。そうとすると精神は時間の歪みであるまいか、抑圧された生命がエネルギーを蓄積して、爆発するところに歴史があるのではないか。私は歴史について深くは知らない。併し歴史は変遷である。その変遷をあらしめるものは忍従の裡に培って来た力であるとおもう。否定されていたものが否定して肯定に転じるのである。斯くて盛者は没落し、新しいものが勢いを得てより大なる世界を作る。それは否定せられていたが故に、否定するものを超えた新たな原理によって世界を構成するのである。涙もてパンを食ったものが、涙によって連らなり合う世界を作るのである。それは自他同一のより強固な世界である。歴史的展開の場は人倫顕現の場である。

 甲羅を作り、骨格を作り、知恵を作ることによって現在の人類があるとは、今われわれがあるということは無限の過去を背負っているということである。無限の過去によってあるとは初めがはたらいているということである。初めがはたらくことによって今のわれわれがあるとは、生命は初めと終りを結ぶものとして、永遠なるものがはたらくということである。はたらくとは自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に自己を見るとは自己の中に自己ならざるものをもつことである。自己を否定するものをもつことである。否定するものを否定することが自己の中に自己を見ることである。否定するものを否定することが自己の中に自己を見ることであるとは、真に自己を限定し、自己を見てゆくものは矛盾の同一として対立を超えたものでなければならない。

 甲羅を作り、骨格を作り、知恵を作って来たものは、それ自身の形をもたないものでなければならない。形に於て無なるものでなければならない。それ自身の形をもつものは次の形をもつことは出来ない。次の形をもつものは現在の自己の形を否定するものでなければならない。自己の形を否定するものは、形なくして形に自己を表わすものである。私は自己が自己を見る生命に於ては、初めと終りを結ぶものは無として、世界として形を超越するものであるとおもう。無として世界となることによって形の中に形を見てゆく生命は無限の形成をもつことが出来るのである。無であり世界であるとは、形より形への一瞬一瞬の創造は、無の創造であり、世界の自己形成であるということである。動くものは動かざるものの影であり、生滅するものは不生不滅なるものの影である。自己の中に自己を見るとは初めと終りを結ぶものがはたらくことであり、初めと終りを結ぶものの中に写されることによって我々は自己を見ることが出来るのである。私達は社会の中にはたらき、世界に自己を見るのである。形より形へとして見出でた自己が初めと終りを結ぶものに接するとき、我々はそこに神を見るのである。万物は神の創造であり、我々の行為は神の形相の実現である。神は見ることも聞くことも出来ないものである。唯行為に於て触れるのみである。否定の底の肯定に於て、涙を拭った目に於て感ずることが出来るのみである。

 人間は自覚的生命として言葉をもつ、言葉は個体を超えたものである。我々は言葉によって過去を伝承し、未来へ伝達する。我々が自己を知るというのも言葉によって自己を見出てゆくのである。斯る自己を超えたものによって自己を見てゆく、我々の対面する死は最早天敵というものではない。生命が本来もつものとしての必然としての死である。それは本来的なるが故に何うすることも出来ないものである。それは見える敵に対うが如く勇気を奮い起こすものではない。キエルケゴールは絶望したかと問うている。死を生に転ずる生命の営為はここに鉄壁に面するのである。万物の上に誇った知は、その知の故に己を一塵の微、一滴の朝露とするのである。殺すか殺されるかの死ではない。絶対の死である。抗すべからざる死である。

 併し自覚的生命となることによって絶対の死に面したということは、自覚的生命は絶対の生に転ずべく自覚的生命であったのである。自覚的生命としての言葉は我々の生死を超えてあると言った。われわれが死が見るというのも言葉がはたらくことによってである。死を見るということがすでに、われわれを超えたものとしての言葉の摂取がはじまっているのである。己を一塵の微として見、朝露のはかなさとして見るのは、言葉によってあり、言葉によって見ているということである。斯く言葉によってはたらくものの前に立つときわれわれは無力として絶対の弱者となるのである。絶対の弱者となるとはわれをあらしめるものに依ってのみ生き得ることである。帰依、回心はここに生れる。内外相互転換としての最も深いものはここにあるのである。最も深い自覚はここにあるのである。

 私はウミサソリによる甲羅の出現と、言葉による永遠の出現が如何なる関りをもつかを知らない。併し何れも弱者として、死を媒介とすることによって出現したものである。勿論ウミサソリによる死は肉体の死であり、言葉による死は精神の死である。併しそれは何れも絶対否定をくっての肯定である。輝く形象は苦難を超えなければならないのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」