かすかなるもの

 この間ホーキングを内容とした歌を作って歌会に出した。誰もホーキングを知らないと いうので概括を話した。私は話し乍らいつかの歌会での事を考えていた。それは彼の偉大なる宇宙論は、相対性理論と量子理論の結合より見出されたということである。極微の世界の電子の運動を知ることなくして、大宇宙の運動を説くことが出来なかったということである。

 いつかの歌会で、このような小さなものに目をつけたのはつまらんという批評があった。私は意識の発展は分化と統一にあるとおもうものである。分化が愈々細かくなることによって統一は愈々大となるのである。顕微鏡と望遠鏡の極限が結びつくことによって大宇宙の秘密、然も二百億年前の秘密が解明されたのである。

 画家は私達の見ていない美しい色を見ていると言われる。勿論私達に見えていないのではない、見ていないのである。画家はそれを描くことによって見出して来たのである。私達も初夏の山に萌え出る若葉を見るとき、実に多くの浅みどりのあることを知る。私は画を描いたことがない。併し若し絵筆を持って画布の前に立ったとすれば、その微妙の前に絵の具を溶くことすら出来ないであろう。それは無限の多様に面しているのである。和辻哲郎はその著風土の中で『自分は曽って津田青風画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指し乍ら言った。「諸君はあれを描くのだなどと思うのは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあく迄見入ってゆく内に手が動き出してくるのだ。」』。見入るとは如何なることであるか、それは宿されいる陰翳の今迄見ていなかったものを見ようとする努力である。その努力によって線が線を分ち、色が色を分つのである。微妙とは無限の多様である。画家の私達の見ていない美しい色とは、見つめている中に現われてくる驚きの色である。何百号の作品の前に立って私達の覚える感動は、この無限の細分化された視覚の努力への共感であるとおもう。この無限に分つ目に於てのみ、何百号の大作を力感あらしむるものとなるのである。一輪の花の、一片のはなびらを描きつくす力があって、何百号の大作をよく仕上げ得るのである。

 泰西の詩人が「詩人たるものは地球の自転の音を聞かなければならない」と書いているのを読んだことがある。地球は大である。併し地球の自転の音は小である、と言うより筆者はあるのか無いのかを知らない。恐らく生命が誕生して以来自転の音を聞いた者はないのではなかろうか。それを詩人は聞かなければならないというのである。私は創造とはそのようなものとおもうものである。与えられた目の上に目をもつのである。耳の中に耳をもつのである。物の世界に於て望遠鏡と顕微鏡をもち、それによって物の世界を展いて行った如きものを、音に色彩に言葉に於てもたなければならないとおもう。石の独語を聞き細菌の歓声を聞くのである。

 生命は時の姿に自己を露わにしてゆく、時に於ては最も大なるものが最も小なるものである。一細肪が逆に全存在を包むところに時はある。表現とは時の中に深く入ってゆく事である。微塵に全存在が自己を見ての表現である。

 私は以上言ったことを更に明らかにするために葛原妙子の短歌の世界に入って見たいと おもう。

生みし子の胎盤を食ひし飼猫がけさ白毛となりてそよげる

 何も今朝白毛となったのではなかろう。生みし子の胎盤を食ったという異常事態が、翌朝の作者の目に白毛を意識せしめたのであろう。何が白毛を意識せしめたのであるか、私はそこに同族を食ったとゆう作者のもつ罪の意識と、何ものをも食って生きてゆくという生の原質を見たのであるとおもう。上旬の暗黒と下旬の光輝、この矛盾と相克に作者は生命の真実を見たのであろう。恐らくは変っていなかったであろう白毛への意識から、生の深淵を開いて行った力は流石であり、下旬は誰でも言えるものではない。

鬼子母の如くやはらかき肉を食ふなればわずかな塩をわれは乞ひけり

 これは前に私なりの解釈をしたのでここでの歌意の追尻は止める。唯やわらかい肉を食ったというだけのことに、生きてゆくために他の生命の肉を食わなければならない。原罪ともいうべきものへ掘り下げている。

夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す

 夕映えの情景に接した作者は、わがマッチを介在さすことによって、恐怖としての実存する自己に結びつける。そこにこの歌の写生ではない異質性がある。内と外とが一なるものとしてものごとがある。作者はそこに立つのである。内と外を結びつけるものは行為である。作者はわがマッチを見出すことによってそれを成立せしめている。そしてそれは作者の卓絶した才能を示すものである。作者はマッチで火を付けたのではない。或はマッチを持っていなかったのではないか。作は想念に於てマッチを擦り、表象を拡大していったのである。表象を拡大せしめたものは実存としての生の不安である。

畳まれし鯉のぼりの眼球の巨いなる扁平をふと雨夜におもひて

 球型ではなくして扁平なる眼球、その巨いなるものは拡大された死である。それを雨の音が閉す夜に思い出している。そこに巨いなる目が作者を不安ならしめ、不安が目を更に巨いならしめている。生命の一面を私達に突きつけてくれる。

ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり

 ここにも見えない胎児が出てくる。作者は無よりの創造をもとうとするのである。性なき胎児とは如何なるものであろうか。全て胎性動物は性をもつ、それを敢て性なき胎児と言ったのは何故であるか。私はそこに作者が聖なるものに向けた目があるとおもう。仏陀やキリストは性の超克者であった。妻帯を禁じ、姦する勿れというのは、存在を一者に於て捉えんとするものの必然的帰結であった。作者はそれをすゞしき眼に於て表わさんとしたのである。

 私は葛原妙子は、日常のかすかなものを顕微鏡的に拡大することによって、人間の深部を露わにする稀有の才能をもっていたとおもう。物理学も短歌も共に世界の自己創造の内容である。極微と極大が結びつく、其処に世界は自己を創造してゆくのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」