本を読んでいると後の方で、かさかさというかすかなものの動く音が聞える。ふり返る とごきぶりが、背を光らせ乍らすべるように走っている。ごきぶりは妻にとって不倶戴天の仇にも等しいものであるらしい。見つけると大声を挙げて、行動は敏速果敢となり、たちまち打ち据えてしまう。私もその影響を受けてか、見ると殺さねばならぬような衝動が走る。私は傍にあったスリッパを掴んで電光石火の如き早業で打ち下した。実は一回失敗したのであるが、兎に角ごきぶりは動かなくなった。私は念の為にもう一度打ち下した。すると白い液のようなものを出して、脚が一本歪んだようであった。死骸は今度立った時に捨てようと思って再び本に向った。しばらくして散歩に出ようと思って振り向いて私は自分の眼を疑った。死んだ筈のごきぶりが影も形もなくなっている。見廻すと離れた壁に沿うたたみのへりを、白い液をひき、脚を一本引き摺ったごきぶりがすべるように走っている。私はその生命力というか、復原力の強さに驚嘆した。
曽って何かの本で、ごきぶりは数千万年か数億年の生命陶汰の波を乗り越えて、生き残った生きた化石であるというのを読んだことがある。私はそれを思い出し乍ら一つの疑問をもった。それは生物が若し種族保存とか、個体保存を目的とするならば、何うして全てがごきぶりのような生体構造をもたなかったのであろうかということである。億年を維持したということは、適応力の優秀さを示すものである。生命が環境適応的にあったとすれば、そこに最もすぐれたものがあった筈である。
併し生命は両棲類、哺乳類、人類へと進化して行った。而してそれらは時間としての年数に於て決してごきぶりにまさるものではなかった。それでも変化して行ったのは、生命の形成作用は、単に保存とか適応とかにつきるものではないのではなかろうか。
生命の進化は機能の複雑化である。機能が複雑化するとは、生命は内外相互転換的として、外としての世界の多様に対し、外を内とする機構を創出することであるとおもう。機能ははたらくものである。はたらくものとして我々が外としての世界を見るとき、外は限りなき多様としての世界である。環境としての自然は周期的に回帰しつつ、我々は一瞬先の生命を知らないものである。機能とは斯る計ることの出来ない外界を、生命の機構の中に取入れようとする、生命の努力である。私は五感が何のようにして出来たか知らない。併し目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぐのは、生命が外を開くと共に、未来を拓いていったのだとおもわざるを得ない。生命は空間的、時間的として、空間的なるものは時間的なるものとして見出されてゆくのである。
複雑化が世界の多様に対する、生命の自己創出であるとすれば、私は複雑化は、より多様なる世界を自己の中に織りなすものとして、生命は保存や適応を超えて、自己の風光を創造するものではないかとおもう。風光とは豊潤なる情緒であり、情緒に対応する世界である。喜び悲しみとしての内外相互転換の関りである。既に哺乳動物は喜びや怒りをもつ、それだけに環境よりの摂受は多様であり、密度高いものをもつとおもう。私は短歌を作るものであるが、人間に於ては見られたものが見るものとして無限に創造的である。私は 界と自己とのより高い密度を目指して、生命は自己を形成しているのではないかとおもう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」