つとめ

 「まあこれ、あの家の一番しまいの子も某会社へきまったんやて。」 「そう、あの家もえらい事やったけどもう楽やなあ。」「そうだいなあ、旦那さんやろ、奥さん内職しよってやろ、上の子の姉さんも勤めとってやろ、中の子二人は外へ出とってやけんど、もう楽なもんだいなあ。何ぼ宛でも何ぼ何ぼやろ。これから残るばっかりだいな。」 聞くともなしに聞いていると、何でも子沢山のために苦労していた家の末子が勤めが決まったらしい。私もよく知っているが、よく米を一升買いしているとか、着せる服が買えないので奥さんの里からもらったとか、噂の出ていた家である。よかったなあと思い乍ら勤めという言葉からふと、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり」と言う歌を思い出していた。誦し乍らこの歌のつとめとその子の勤めが決まったと言うつとめと一寸ニュアンスの食い違いがあるように思った。

 その子の勤めは報酬が目的である。この歌の草取る人も勿論秋の収穫としての報酬が目的であろう。而し取れるか取れないか判らないのである。その子は報酬をくれるかくれないか分からなかったら勤めないであろう。勿論昔は他に働く所の無かったという事もあろう。而し今日の勤めと言う中には単に報酬によっては律し切れないものがあるように思う。分からないけれども今日は今日として働くと言うのである。草なんか取るのは一日位伸ばしても大した事はあるまいと思う。それなのに今日の勤めとして働くと言うのである。勤めとは本来何んな意味であったのであろうかと思って 一寸大言海を開けて見た。

 つとめ(名) 格勤 ツトムルコト。為すべき事 仁君ニ仕フルコト。役目。 職務 三毎日佛前ニテ誦経、礼拝スルコト。勤行。修行。以下略

 これでは私の問いに答えてくれない。仕方がないから自分で考える事にする。此の中で何かがあるとすれば仕える事であると思う。仕事の仕も仕えると言う字を使ってある事を思えば、人間の行為は何等かの意味で仕える事なのかも知れない。仕えると 言う意味があったのかも知れない。而しこの農夫に君への観念があつたと思えない。 それでは仕えるとすれば何に仕えたのであろうか。其処で思い出すのは和辻哲郎が書いていた事である。

 かつて自動車王フォードが南方でゴム園を経営した事があった。其の時に現地人を 使ったのであるが、其の勤労意欲の無さには閉口したらしい。それで給料を多くやって貯金でもし出すと勤労意欲が湧くかも知れないと思って給料を上げてやった。する と彼等は金のある間は休んで無くなると働きに来たと言う。西洋人の間で定説になっ ている土人の怠惰に対して和辻哲郎氏はその勤勉振りを強調される。氏は其の労働振りを詳細に書かれた上で、彼等は金銭や自己の生活のために働くのではなくして神の作業として働くのであると言われる。氏の書いておられた事が私達の小さい頃にもあった事の記憶がある。

 私の隣村に菅田と言う村落がある。其の菅田の人の麦を栽培されるさまが氏が書か れているとおりであった。うねには草一本も生やさず、土を微小に砕いてうねの肩に角をつけて其の整然たる有様は麦を収穫するというには余りにも丁寧すぎた。其の根 底に流れていたのは或は神の威儀の実現であったのかも知れないと思う。

 此処に私は今日のつとめの意味が明らかになると思う。神の前にとして、今日の神と我との姿を見出すのである。収穫も大切である。而し神の前に誠である事の方が大切なのである。収穫も亦其の結果としても大切なのである。其処に今日のつとめの根 本の意味があったと思う。

 現在に於いてもそのつとめの究極の意味は変わっていないと思う。唯我々は神の代りに世界を持つ、世界の前にとして、今日の世界に我の姿を見出すのである。報酬は神を世界に転換させた社会構造の変化の必然である。

 昔に於いて詩は頌歌(しょうか)であり、詩を作る事によって神に其の威徳を附加すると考えられた。私は全て神の前に作ると言う事は、神を作ると言う意味があったのではないかと思う。私達が今日勤めを持って働くのは世界を作ると言う意味があると思う。私達は報酬によって生きる。而し其のより奥底に世界に何かを附加する事によって生きるのであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」