私達は何故リズムを尚び、リズムを問うのであるか、それは我々の生命がリズム的であり、リズム的に表われるからである。リズム的であり、リズム的に表われるとは如何なることであろうか、私はそれは我々の生命が身体をもつところにあるとおもう。身体は内外相互転換を行動に於てもつものである。行動によって、はたらくことによって物を作り、生活の糧を得るものである。
水は高きより低きに流れる、物の動くのは重力による、それに対して身体は自発的な力をもつものである。身体が行動的であるとは重力を越えた力を持つことである。重力を否定して独自の力学体系をもつことである。自己の行動力学をもつのである。而して否定するとはその中にあるものがそれを超えることである。重力を否定するものは、重力の作用をもつ物としての性質をもつものである。重力の作用をもち、作用を受けるものとして初めて重力を否定することが出来るのである。身体の行動は斯る物としての重力と、自発的な力の対抗緊張としてもつのである。その最も端的な現れが歩くことであるとおもう。歩くには足を挙げなければならない。足を挙げることは地球の重力に抗することである。欲求とか、意志とかの内発的な力がはたらくことである。挙げた足を下ろすことは地球の重力に即することである。歩くとは相否定する力がはたらくことである。これを自発的な力をもつものとしての我々の側より言えば飛躍と断絶をもつことである。この飛躍と断絶の連続が生命の表れとしてリズムの感覚となるのである。リズムとは身体の力の表出の感覚であり、時間の形相である。
生命は全て形成的であり、特に動物は力の表出なくして生存はあり得ない。動物の行動は全てリズムをもつということが出来る。木を登るリス、野を駆ける馬、銀鱗をひらめかして泳ぐ魚、それ等に感ずる躍動感はリズムの感覚である。併し魚や馬は本能のままに走るのである。そこに快適な感覚はあるのかも知れない、併しリズムとしての感覚の把握をもつことはないであろうとおもう。事実私達も亦所用で道を歩くとき、水は何かの機会で駆けるとき、力の表出の感覚はあってもリズムの感覚はもっていないとおもう。リズムの感覚が生れるには更に高次なる意識への到達がなければならないとおもう。
身体の行動にはおのずから情緒を伴う。行動は情緒であり、情緒は行動である。私達が日常買物に行くときでも強制された場合は足取りが重く、自分の欲しいものを買いに行くときは急ぎ足となる。身体は情緒的に自己を表出するのである。併し日常の行動は欲求にしたがい、情緒は欲求の陰翳である。私は我々の意識がリズムを捉えるには、情緒が欲求より独立して、情緒が行動を構成することがなければならないとおもう。よろこびがさまざまのよろこびの動作を構成することによって自己を表現するのである。かなしみがさまざまのかなしみの動作を構成することによって、人間の行動の深奥を露わにするのである。それは自己の所在を自己が把握することによって、より豊潤なる世界を展開し、より多様 なる行動をもち得る高次なる世界への到達である。私はそこに舞踊を見、音楽、絵画等の 表現を見ることが出来るとおもう。私は斯る表現の、表われた形の方向にではなく、表わす生命の方向にリズムが見られるのであり、表わすものとして、表わす動きにリズムの感覚をもち得るのであるとおもう。それでは斯る高次なる感覚は如何にして持ち得るのであろうか。
芸術は神に祈り、神の形を表さんとするところにその始原をもつと言われる。生命は瞬間的なるものが永遠なるものとしてある。我々が記憶をもつということも、過去となった一瞬一瞬が保持されているということである。過去が保持されているということは、現在に於てはたらいているということである。人間は一瞬一瞬を統一する大なる生命であることによって記憶をもつのである。過去が現在にはたらくとは、この大なる生命を実現せんとすることである。一瞬一瞬が大なる生命の内容として、大なる生命を実現せんとするとき、瞬間的なるものは瞬間に止まることは出来ない。大なる生命を実現するものとして、一瞬一瞬は構成されるのである。構成されるとき、構成するものは一瞬一瞬の支配者となるのである。永遠なるものは一瞬一瞬を構成することによって自己の姿を見てゆくのである。我々が神を表わさんとすることは、神が自己自身を見てゆくことである。リズムは神の創造の波動として我々は感覚にもち得るのであるとおもう。
われわれの身体が一面物として地球の重力にしたがう方向と、内発する力によって重力を否定する方向をもつとき、積極的なる力の表出を動として、力の収まる方向を静としてさまざまのリズムの姿が見られるとおもう。身体に直接するものとして舞踊がある。舞踊を基準として身体を超えた動的なものの方向の極に音楽がある。それは象に表わすことなきが故に純なる韻律の流れである。情感の直接なるあらわれである。重力の作用の最もはたらく表現として、建築は静的なるものの極にあるとおもう。ショペンホウエルは建築は 剛性と蓋性の対抗の美であると言っている。陶器の如きもあの土で作られた重量感と安定感は静的なるものであるとおもう。そしてその鑑賞は建築も陶器も皮膚感覚が重大な要素をもつようにおもう。
身体を軸として動と静を分つとは形を二分することである。一つは動が静を包むのであり、一つは静が動を包むのである。動が静を包むとは、転ずるものがそのままに形である。転ずるものは形なきものである。それが形をもつとは、形作られたものを表わすのではなくして、形作るものが自己をあらわすのである、よろこびかなしみのリズムに於て形作られるものを宿すのである。私は音楽は斯かるものであるとおもう。
静が動を包むとは、作られたものとしての形を写すことである。絵画、彫刻等はその中に入るとおもう。それはよろこびかなしみを孕む形を固定化さすことによって、対象として自己を離れて自己を見るのである。鑑賞の時間を介在さすことによって、反芻することによってよろこびかなしみを深めてゆくのである。深められた情感に於てより大なる次の製作へと移りゆくのである。私は舞踊や音楽のリズムが、共に動きを要請するリズムであるのに対して、絵画や彫刻は人生の内奥への呼びかけをもつリズムであるとおもう。
私達は草や木や、雲や水にもリズムを感じる。私はこのリズムを感じる草や雲は自然科学的認識としての対象の自然ではないとおもう。そこに観察されるのは物の組成である。花が開くのはその充足に於て、よろこびの目をもって見、雲の流れを自在として、解放されたものの豊かに於て見るのである。私達に呼びかける生命として対するのである。私達は創造的生命として身体を外に見る。斯く外に見られた身体として我々は雲や草木に対するのである。
私は日本的生命の根底には豊かなリズム感があるようにおもう。田植に歌、漁には船乗り歌、酒作りの歌等々私はそれは労働の苦しさを癒やす為の手段のみではなかったとおもう。田植の動作が歌のリズムを生み、歌のリズムが田植の動作を呼ぶのである。自然と人間が作業に於て一である。一であるとは充足でありよろこびである。近頃よく日本人の働き過ぎが言われる。私は日本人の働きの根底にはリズム的な同一があるのではないかとおもう。休息は呼吸を入れるのであって、西洋的な労働と遊びを截然と分つのは体質に押染まないのではないかとおもう。日本人の遊びは古代の道に遊ぶと言った如きであると思う。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」