一首抄

 前にも書いた如く私は一首抄が苦手である。私は取り上げた作品が卓抜という確信がもてないのである。夫々に内容をもった歌が幾首かある。その撰択は優劣ではなくして私の好みのようなところがある。私はそれに怯むのである。

 寝ねぎはに続けて長きリハビリの吾が脚未だ人に後るる 小紫博子

 洗練された作品である。私がここに言う洗練とは文字の構成も勿論であるが、それと同時に歌境の洗練である。作者の長い作歌体験が作り上げた境地の深さである。

 本首は嘆きの歌である。作者は自分の病身に嘆息をもらす。併し下句の気息は単に嘆きに終るものではない。それを運命として大なる生命の流れに写した静けさがある。私が尊敬する西田幾多郎先生の短歌に「わが心深き底ありよろこびも憂ひの波もとどかじとおもふ」と言うのがある。観念的で作品としては優れているということは出来ない。併し内容には人生の至り着いた深さがある。静けさというのはこの深さより来るのである。私は作者がこの深さに至りついているとおもうものではない。唯その翳を宿しているとおもうのである。そして私の知る限りみかしほに於てその翳を宿す唯一人の人である。私が小紫さんの歌に魅かれるのはそこにあるとおもう。

 それは下句脚未だ人に後るるに見ることが出来るとおもう。そこには声の抑制がある。 嘆きはその抑制の中に沈んでゆく。その底に中宮寺の思惟像に見る如き、かなしみはかすかなほほえみをもつかなしみとなるのである。限りなきよろこび、限りなきかなしみは、よろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみとなるのである。私はそのようなものの翳が見られるところに、前記の洗練があるとおもうのである。

 多くの人は声の大なるものに従いやすい。併し私は短歌表現に於て却ってそこに不毛の地が見られるのではないかとおもう。抑制することによって、抑制の背後に無限の陰翳が見られるのである。言ってしまえば読者はその言葉に対わなければならない。そこには読者は自分の個性の底に自分の言葉を組立てて作品に対するということが失われるのである。 そこに思いを述べることの不可なる所以があるとおもう。

 先日小野短歌教室の帰り道で藤木さんが「あの本論文があるかと思えば、短歌があって 何を書こうとしているか判らないと嫁が言っていた」と言われた。私の「始めと終りを結ぶもの」のことである。それから数日して三木の知人に出会ったところ「友人の大学教授が、あの本はいろいろの題があるが結局は一つのことを書いていると言っていた」と伝えてくれた。私は読む人によって正反対に分れるのだなあと思った。結局その人の力だけである。私の批評は私の力だけである。及ばぬところは御容赦たまわりたい。

 私は一首抄が苦手である。一首を描くからには一番い歌でありたい。併し私にはこれ が最も勝れていると決定出来ないのである。勿論私の力量不足による。

 クロバーの群落咲きて匂ふ道遠き記憶に花摘みしなり 井上徳二

 自覚的生命としての人間は主体と対象をもつ。そして主体的方向に生命を見、対象的方向に物を見る。詩は生命的方向に自己を見出すところに成立するのである。われわれは生命を身体としてもつ、この身体は生れ来ったものとして、百年足らずで多く死んでゆくものである。併しての身体は生命発生以来三十八億年の時間を以って作られたものである。人間は六十兆の細胞と、百四十億の脳細胞をもつという。その見事な統一がわれわれの身体である。今のこの身体は無限の時を宿すのである。われわれの一瞬一瞬の行為はこの統一の上に成立するのである。瞬間が永遠であり、永遠が瞬間であるところに身体は行為するのである。

 ゲーテはバラの花に過去を嗅ぐと言っている。詩は生命の表現として、身体の現在の一瞬に永遠を見ることである。生命がこの一瞬に自己を見るということが感動であり、美である。

 作者は今遠き記憶にクロバーの花を摘んだのであり、遠き記憶に花を摘まされたのである。花を摘む作者の手の動きは、遠き記憶が作者の手を動かすのである。ここにあるのは、遠い過去は作者の手を動かすものとして身体の現在である。そこに過去と現在を統一 した大なる現在がある。身体は新たなる自己を見る、そこに詩があるのである。上句と五句の的確な写生の間に、四句の茫漠としたものを入れたのはうまいとおもう。

 実はこの一首抄片山洋子さんの、

居並ぶを白線のあとにさがらせて特急電車がお通りになる。

を取り上げたいと思った。上手いというよりは、このようなスタイルのもつ短歌としての表現の位置を求めたかったのである。一時間程考えたがまとめ切れなかった。我な がら駄目なものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」