作歌に見る芸術の本質

 歌は感動であると言われる。私はこれは全ての芸術に言い得ることであるとおもう。 画も感動であり、音楽も感動であるとおもう。感動は字の如く感じが動くのである。動くものは物に即して動く。この動くものが感情であり、動きそのものがリズムである。喜び悲しみが生れ消えゆくのである。歌が感動であるとは、この生れ消えゆく喜び悲しみを言語によって把握し、把握することによって、次いで来る喜び悲しみにより多様の陰翳を与えることである。

 私達は喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らない。喜ばんとして喜べるものではなく、悲しまんとして悲しめるものでもない。或る状況の中から思わずほゝえみの湧き来り、涙の溢れ出るのである。我が喜び悲しみをもつのでもなければ、物が喜び悲しみをもつのでもない。喜び悲しみの中から我と対象が生れてくるのである。

 作歌に於て嫌われるのが観念の露出である。何故に観念の露出が嫌われるのであろうか。私はそれは我がそこから生れてくるという、生命の真実が失われるが故に外ならないとおもう。観念の露出とは一首を観念の内容とすることである。対象をして一つの観念を語らしめる道具とすることである。そのためにはその観念は既成の観念であるということが出来る。既に我の内容となったものである。既に我の内容となったものを対象に被せても、新しい我の生れる道理がない。新しい我が生れ、新しい感情が生れる為には、対象によって我が否定されなければならない。対象によって砕かれる所以のものがなければならない。感情はそこに動くのである。否定を媒介としての結合が動くということである。

 観念露出と共に嫌われるのは、事実に着くとか、対象に着くとか言われることである。 事実に着くとは事柄のみを述べる事である。事柄のみを述べるのは何故に嫌われるのであろうか。私は観念の露出が真にとの我を見る所以でなかった如く、事実に着くことは、真に事実を明らかにする所以ではないのに因ると思う。事実とは何か、最も直接なる事実はこの我が生きている事実である。生命の事実である。我々は自己の行為によって、事実を決るのである。見えている山は幻覚かも知れない、震気楼かも知れない。私達はそれを足で踏み、手で摑むことによって事実とするのである。事実は今私達が働くことによって物に対するところに事実があるのである。百五十億光年先の星を事実とするのは、それを我々は操作によって捉えるが故である。主体と対象の行為的転換に於て、生きている現在を決定してゆくのが事実である。事実につくとか、事柄につくというのは、主体的行為の失われた形象のみとなることである。そのことは動きゆく力の失われた事物ということである。そこからは喜び悲しみの生れよう筈はない。

 生命は主体的客体的である。 主体的方向に観念があり、客体的方向に事物がある。而して観念からも、事柄からも真に感情の生れるところを持たないということは、感情は主体と客体の交叉より生れるということでなければならない。主体は客体ではない。客体は主体ではない。それは一ならざるものである。一ならざるものが一なるところに感情は生れるのである。一が分離であり、分離が一であるところに喜び悲しみはあるのである。

 一ならざるものが一であるとは、否定するものが結合するものであることである。否定 が肯定であり、肯定が否定であることである。それは世界形成的であることである。個と個の対立と相互否定が、世界が世界自身を形成することである。何処迄も個が世界を媒介し、世界が個を媒介するのである。そこに何処迄も否定より脱することの出来ない悲しみ と、世界を成就した喜びがあるのである。喜びは悲しみを媒介し、悲しみは喜びを媒介することによって、深き喜び、深き悲しみを我々はもつのである。それは亦個の深まりであり、世界の深化である。私は芸術としての感動は此処に求めなければならないと思う。単に喜びより悲しみへ、悲しみより喜びへと移るのでなくして、大なる喜び悲しみへと移るのである。そこに自己発見の感情が生れ、世界創造への感情が生れる。表現意欲はここに発するとおもう。

 個が相互否定としてあり、相互否定が世界の自己形成であるとは、個は有限なるものとしてあり、世界は個を超えたものとしてあることである。有限としての生命が相互否定的に対するとは、生死に於て対するのである。否定されることが死であり、否定することが生である。而して世界はこれを超えたものとして、世界の形相は永遠である。生死に於て対立するものは永遠に於て結合するのである。仏教にも言える如く生死即涅槃である。生死即永遠である。生死即永遠とは永遠の相下に生きんとするには何処迄も生死するものでなければならないことである。永遠に写して生死はあり、生死に投影して永遠はあるのである。この一でありつつ絶対の懸絶をもつところに苦悩はあり、喜び悲しみの出で来る深淵はここにあるのである。前出の観念露出とか、 事実に着くというのは、個に執した永遠の喪失による感情の枯瘦によるとおもう。

 個が世界であり、世界が個であるとは、個が世界を内にもち、世界は個を内にもつことである。而して個が世界を内にもつとは、人格となるということである。生死を超えて時を包むものとなることである。私達は言葉をもつことによって時を包む。言葉は私達の身体を超えて、過去を伝承し未来へ伝達するのである。

 言葉は対話によって言葉である。対話によって言葉であるとは、対するものも人格で あるということである。人格が人格に対するとは互がその内包する世界を打樹てようとすることである。形成的世界に於て競うことである。世界に於て相互に否定せんとするのである。而して個と個が相互に否定する処に出現するのが世界である。この出現した世界によって否定された個は新たなる個として甦るのである。新たなる世界を内包する個として、世界は新たなる個を内包する世界として、自己を形成するのである。

 斯る世界と個の、否定と肯定の持続が歴史である。歴史の本質は無限に動的な生命の自己限定である。それは世界と個、否定と肯定に於て動きゆくのである。過去は過ぎ去ったものではなくして、現在を限定し、現在に否定さるるものとして新たな粧いに生きるのである。未来は現在の相互否定が投げた肯定の影である。歴史は歴史的現在に於て歴史であり、歴史的現在に於て世界が生れ、我が生れるのであり、過去は現在がもつ過去であり、未来は現在がもつ未来として、時は現在より創まるのである。

 何処より来り、何処へ去るか知らないと言われる喜び悲しみは、私は歴史的現在として無限に動的な生命の直截な現われであるとおもう。感情は常に今として、身体の動きとして現われる。而して涙は直にギリシャ悲劇に繋がり、西王母に繋がるのである。静御前の流した涙は直ちに私達の頬を流れるのである。感情の時は認識的時を超えて包み、知識が過去とするものも、感情に於ては今である。

 私はそこに真に具体的な深大な生命があると思う。知識はこれを反省することによって知識である。

 私は美とは斯る歴史的現在として、新たなる世界が生れ、新たなる自己が生れる感情の意識であるとおもう。人格と人格の相互否定が、世界形成の結合である意識とおもう。言葉をもつ人格として、新しい言葉が新しい世界を生み、新しい世界が新しい言葉を生むのである。私は短歌の表現は此処にあるとおもう。対象は新たなる自己を寓す対象であり、自己は新たなる粧いを対象にもたらす自己を謳わなければならないと思う。

 斯かるものとして、人格と人格の否定的結合としての社会生活が表現すべき課題の核心となるとおもう。否定的結合とは、対立するものは何処迄も対立するものであり、対立そのものが結合であり形成であるということである。対立は苦痛である。而しそれは反面に結合をもつものとして、喜びの翳を宿す苦痛である。其処より私達は全人生に対する声をもつ、その声が詩であると思う。夕日に挙げる讃嘆の声も勿論美しい。而し手にペンを持たしめて、表現せんとする意欲をもたしめるものは、矛盾に見出た大なる生命である。

 最後に花の美しさについて少し書いて見たいと思う。私は花が美しいと言い得るには、花が私達を限定してくる意味がなければならないと思う。画家は私達の見えない色を見ていると言われる。描くことによって種々な色が見えてくると言われる。赤の中に赤を見、青の中に青を分つのである。私は色が美しいというのはその微妙の感情であるとおもう。夕日の美しさもその瞬々の移りゆく茜の微妙にあると思う。そこに我々の視覚は無限の色を見るのである。私は花の美しさもこの様な視覚の発展がなければならないとおもう。花の美しさは百花撩乱にある。そこに木蓮の白、つつじの緋、藤の紫を分つのである。そして花の一つ一つの細胞が宿す色の微妙に打たれるのである。天空に映える木蓮の白さに心打たれる時、私は私の目の背後に無限の色の体系があり、視覚の自己創造があると思う。純白に讃嘆の声を挙げる背後に我々は灰白の影像をもつのであるとおもう。私は物を見て美しいと思う時、我々も亦画家の目をもって見ているのであると思う。

 短歌は勿論花の美しさをうたう。而しより多く花にうたうのは、開いて散りゆく命の姿 である。どうすることも出来ない生命の、生死への共感である。花のいのちを我に宿し、我のいのちを花に宿すのである。私はこの視覚と生命の流れの、二つの異なった動きは乖離するものではないと思う。一つは空間的方向として、一つは時間的方向として補完し合うものと思う。花の美しきが故に散りゆくものは一層あわれであり、散りゆくもののあわれの故に、花の色は愈々冴え勝ってくるのであると思う。最近の技術の向上は、花よりも美しい造花を出現せしめている。而しての感情の増幅作用をもたないものは低評価されているようである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」