日常を省るとき私達は余りにもその多くが偶然であるのに驚かざるを得ない。私が今此処にあるということにしてもそうである。塚本邦雄の歌に「父、母を娶らざりせばさわやかに我なし」というのがある。多くの男女の中から二人が結びつくのは偶然である。そし 若し母の腹に私が宿った日に、父に所用があったとすれば今の私はなかったと言い得るであろう。
私は大東亜戦争に召命された。戦争は生死相接するところである。弾雨の中では一米の距離、一秒の遅速が生死を分つのである。天命に帰する外ないところである。
二人となって以来時々近くの食料品店に買物にやらされる。目当のものがあるときや無いときがある。忘れていた好物や、外国の珍品に出合うことがある。思いがけなく声をかけられて、ふり向くと少年時代の友達だったりする。必然は食物を買いに来たということだけである。出会う人、物は全て偶然である。
山に茸とりに行ってもそうである。一本も無かったのも、籠一杯になったのも偶然であ る。人に出会って、生えているところを教えてもらったのも、石に躓いて怪我をしたのも偶然である。偶然とは一体如何なることなのであろうか。
私はそこに生命の営為がなければならないとおもう。私達が山登りをしているときに、 落石があって道が塞がれていた。それは偶然である。併しヒマラヤ山の山奥で、同 落石があって道を塞いだとする。それは私にとって自然現象であって、偶然でない。魚 取りに行く人にとって、そこにばったが居たことは偶然でも何でもないであろう。併し昆虫採取に行った人であったらそれは偶然であろう。
生命は内外相互転換的である。私達は瞬時も休むことなく呼吸している。呼吸は空中の酸素を摂取して、炭酸ガスを空中に排泄することである。食物を摂取して老廃物を排泄する。食物も酸素も我ならざるものとして、外なるものである。外を内とし、内を外とすることによって、生命は自己を維持してゆくのである。外の欠乏は内の死である。私は偶然の根源を、内が外であり、外が内であり、我ならざるものが我に転換し、我が我ならざるものに転換するところに求めたいと思う。併し内外相互転換も未だ真に偶然であるということは出来ない。偶然には必然の成立がなければならない。必然の目をもって初めて、他者との転換は偶然となるのである。
生命の営為とはより大ならんとする努力である。単細胞動物から、哺乳動物迄数十億年の生命の営為はより大なる時間、空間の保持者たらん事であったと言い得ると思う。人間の細胞は六十兆と言われる。分化と統一の下に生命は一大有機体を作り上げたのである。斯る生命の主体的構成は大なる客体の構成でなければならない。内外相互転換として、内を構成することは外を構成することでなければならない。内を組織することは外を組織することでなければならない。
内とすべき外は、生命がそれによってあるものとして、環境の意味をもつものである。 蜘蛛や蜂は巣を営む、それは主体として組織化された生命が環境を造り、造った環境によって、より大なる集団化としての力をもち得たのである。内外相互転換とは生命の自己維持として、形相の実現として技術的である。内と外とが形成された技術に於て、形相を実現するのが必然である。而して生命が必然を内包し、環境をより大ならしめることは、内外相互転換としての外を、より大ならしめることである。偶然がなくなることではない、偶然を愈々多様ならしめることである。此処に偶然には必然の成立がなければならない所以があるのである。
併し蜂や蜘蛛に於ては未だ必然が顕在したということは出来ない。必然が顕在する為には、意識の内容として意志による実現を俟たなければならない。即ち人間の自覚的表現的生命に於て、はじめて必然が顕在するということが出来るのである。
自覚的生命とは時の統一者となることである。時を内にもつものとなることである。内 外相互転換としての一瞬一瞬を、内に蓄積するものとなり、著積を現在の自己限定とするものである。一瞬一瞬の異った転換を蓄積するとは、異った働きを構成することである。それを現在の自己限定とするとは、物を製作することである。物の製作に於て意志は合目的的となり、外と内とは必然の意識に於て結ばれるのである。自覚とは生命が内面的必然的となることである。人間は技術としての内面的発展によって、無辺の空間と無限の時間を見るのである。
生命は何処迄も内外相互転換的である。内外相互転換とは内が外となり外が内となることである。他が我となり、我が他となることである。偶然は必然を生み、必然は偶然を生むのである。技術の集積である自動車は、我々に益々多くの出合いの機会と、事故死の機会を与えるのである。而して事故を媒介として車は愈々精密となり、精密となることによって普及し、事故は益々増大するのである。必然は環境を自然から歴史へと転移せしめる。自覚的生命としての人間は、歴史的環境としての、自己の製作的世界の中に生きるのである。
自然的環境に生きる生命が与えられた身体として生きるのに対し、歴史的環境に生きる 生命は製作する身体として生きるのである。物に結合する者として社会に生きるのである。社会とは歴史的形成的世界である。
製作する身体として生きるということは、自然として与えられた身体を超えるということである。言葉や技術は個々の身体の生死を超えて、はかり知れない伝統の上に成り立っているのである。我々は無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私達が今自己というのは言葉や技術をもつものとして、無限の時の上に立っているということである。
我々の身体が歴史的身体として、所与としての身体を超えたものであり、身体の生死を超えて伝承し、伝達する過去、現在、未来の統一者であることを知るとき、そこに我々は永遠を見るのである。永遠の相に自己が立つとき、偶然は外として、他者として主体の否定者として運命的となるのである。必然の目をもつことによって内外相互転換が偶然になるとは、偶然は運命として我々に迫って来るということである。自己の前後を俯瞰する目によって、一瞬一瞬に生死を見るとき我々は運命的にあるものとなるのである。
蛆虫やとんぼは、離島に生れようと東京に生れようと大した差異はないであろう。併し 人間に於てはその文化度に於て、大なる運命を感ぜしめるのである。偶然ははかるべからざるものとして、理知の光りに照して運命は暗黒である。離島と東京に於てそこに出生の運命を感じるものは離島に於てより大である。
我々は生れて、物を食って生命を維持し、そして死んでゆく限り何処迄も偶然的であると言うことが出来る。即ち運命的である。我々は常に暗黒の口の前に立っているのである。併し理知の光りに照して暗黒であるとは、理知の光りは運命の暗黒より生れ来るのでなければならない。偶然はそれ自体が機能的として、必然の母胎である。 必然は偶然に回帰することによって、新たなる形象を獲得し、無限に自己創造的となるのである。運命の暗黒 を見ることは、それ自体が理知の光明である。暗黒と知るのは、光明に照らさるべく暗黒と知るのである。私はそこに人間の営為があると思う。
先日何でであったか忘れたが、輝く星は大宇宙の質量の10%程であり、後の90%は暗い空間に浮遊する微小物質である。そしてその微小物質の集合、拡散が宇宙創生の原動力であり、輝く星もこの微小物質の質量より生れたものである。世の中に神を惜定するとすれば、この微小物質の質量が神であると思うといった意味のことが書かれてあった。
私は宇宙物理学については一丁字もなきものである。その真偽については何等語る資格を有しない。而して私は読み乍ら、人生の偶然と必然も亦斯くの如きではないかと思った。 我々の日常の大部分は偶然である。而して偶然は、偶然の故に意識に上ることは少ない。 併しそこに思いを致せば、偶然ははかるべからざる奥底をもつ。神が働くというのは或は斯るところからではないかと思う。運命の底に神はあるのではないかと思う。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」