偶然と必然

 私は前に人間が人間になり得たのは、言葉による経験の著積によってであると言った。そして経験とは生命が生死として、内外相互転換的にある事であると言った。私達は摂食と排便をもつものとして生命を維持する。その食物を取る所、排便する所が環境へしての外である。そして食物を摂るもの、排便するものが身体としての内である。そして食物が無い事は死として、我々に否定として迫って来るものが環境である。私は今食物のみを言った。その他自然の暴威、他の生物等全て我々に否定として迫って来るものが外としての環境である。死として迫ってくるものを生に転ずるのが営為である。それは常に力の表出を伴う。それは生命が本来的に宿さなければならないものである。この死生転換が人間に於て経験である。経験とは斯る様態をより高次なる立場より把握したものである。そのより高次なるものを私は人間の自覚的生命に於て捉えたいとは前にも書いた通りである。斯るものとして私は経験は偶然的であるとおもう。

 偶然とは何か。此処に石がある、それは偶然でも何でもない、唯ありのままである。 その石に私が蹴躓いたとする。その時その石は偶然其処にあったのである。私は否定に面したのである。赤犬が私を襲おうとしたとする。私がその石を掴んで投げて追っ払ったとする。私は否定を肯定に転じたのである。その時その石は偶然そこにあったのである。人に してもそうである。もし私が群集の中にゐたとする。それは偶然でも何でもない。そこで知った人に出会ったとする。するとその時、其処、知人、自分等全てが偶然となる。そして知った人とは、出会いたかった人か、出会いたくない人か、肯定か否定かの何方かの人である。その何方でもない人は知った人ではない。偶然とは生命がその時、その場所に於て死生転換する唯一点の事柄である。故に私は人間を除く生命は偶然的であり、人間も亦生命としてその多くを偶然にもつと思う。経験とは斯る偶然を把握したものである。把握するとは偶然としてあったものを繰り返すことの出来るものとするということである。言葉による蓄積である。そして言葉によって蓄積することによって偶然は経験となるのである。経験を蓄積するとは如何なることであるか。

 生命は種と個の綜合として生命である。個的生命は生死することによって個的生命であり、種的生命は個的生命の生死を内包することによって、自己を維持するものとして種的生命である。否定と肯定を内包することによって自己を維持するということは、種的生命は無限に技術的であるということである。環境との相互限定に於て、無限に適応的であるということである。如何なる小さな虫といえども、それ自身によって動くということははかり知れざる機構をもつものでなければならない。死生転換を介して種的生命はそれを構成して来たのである。偶然はその刹那に於ける外に対する内の対応があって偶然である。その対応の背後には限りない生命の技術的形成があるのである。

 死生転換に於て主体の客体化が死であり、客体の主体化が生である。環境が凛烈なる寒気をもつとき、身体がその寒気に閉さるる時は、主体の客体化として死にゆくのであり、体温を保持すべく環境を変換するときは、客体の主体化として生を見るのである。生命はその生きんとする意志に於て、常にその生の方途を見出してゆく、その方途を記憶によって再生せしめる事が出来るのが蓄積である。

 環境は我々に繰り返すものとして与えられている。日は繰り返し年は繰り返す。環境が 循環的にあるということは、方途が繰り返されるということである。再生とは繰り返し の中の無限の方途から最善の方途を撰び出せるということである。そしてその方途の上に新たな方途を積上げる事が出来るということである。

 私達は斯る蓄積を言葉に於てもつ、言葉を作った人はないと言われる。それは人間の呼び交わしの中から出で来ったと言われる。それは無限の人の交流の中より自から作られたものとして全人類の内容である。我々は世界の中に於て言葉をもつのである。言葉は内なるものを外に表わすものとして自覚的である。自覚は個を超えた全人類の内容として、世界形成的として種的生命が自覚するのである。蓄積は生死する生命を内包する種的生命に於てあり得ると思う。新たな方途も、一人の人がもつことは出来ないと思う。無数の人による無数の方途が、言葉によって結合するときに生れるのであると思う。

 環境の主体化とは物を身体の延長とすることである。環境という言葉は既に主体との交叉を意味するのである。巣を作り、塒を作るのも主体化である。それが人間に於ては自覚的である。自覚的とは本然的に具有するのではなくして、記憶と再生と他者との結合に仍て、其の時、その場所によって構図を画くことである。其処に人間の技術がある。構図を画くとは製作することである。

 私は必然とは人類が製作的、発展的となることであると思う。一つの製作としての形が 新たなる経験の形を加えることによって、より主体化されるのが必然であると思う。全人類の内容として、形が形を呼ぶのが必然であると思う。甲が作った形に、乙が自分の見出した形を附加してゆくのである。著積するとは単にあることではない。これによって生きよと呼び声をもつことである。そしてそれによって生きると共に我々は我々の製作としての経験を附加することによって、次の時代への呼び声とすることである。斯る時の連続附加が必然であると思う。

 私は偶然とは斯る必然への転化以前として偶然であると思う。偶然が言葉によって永遠の内容となることによって経験となり、経験が言葉によって統合整理されて技術的製作的として必然となるのであると思う。必然とは自覚的形成的ということである。偶然は必然の光りに照して偶然である。

 かつて何かの本で偶然は原因が複雑で究明し難い事柄であると言った意味のことを読んだ事がある。而し私は犬に吠えられた時に、其処に石があったということは、幾億光年の星の距離を測定するより複雑であるとは思われない。偶然とは言葉以前なるが故に偶然であると思う。

 勿論私は偶然が単純であると言わんとするものではない。我々が生命である限り我々の日常は偶然的である。主体化である限り主体は達すべからざる深さである。四十億年前に地球の誕生があったと言われる。その間生死を繰り返すことによって形成し来った機構は解くべからざる謎であると思う。唯生命として死生転換にその機微の一端を現わすのであると思う。我々は偶然に於て垣間見るのである。

 かつて何かの本で南方の未開人が酋長を決めるのに角力を取る所がある。その時に誰が見ても強く、酋長になると思っていた男が、偶然そこにあった木の根に躓いて負けとする。すると皆は勝った方を酋長にすべく、神がそこに木の根を置いたと信じて疑わないと書いてあるのを読んだ事がある。私はそこに偶然に対する最初の受取り方があると思う。そこは未だ偶然と必然は未分である。木の根は神の心に於て必然である。斯る必然が更に根源的な因果の必然の自覚によって、木の根は偶然となり、神の心の方向に力の必然が生れるのであると思う。木の根に躓いたということは経験となるのである。根源的なる必然の自覚は、言葉が時を内にもつことによって生れるのである。

 環境の主体化とは、環境を外的身体とすることでである。身体の延長として環境を変革することである。道具は物を手の延長とすることであると言われる。我々は道具によって対象を変革し、死としての環境を生に転じる。蓄積は身体によって、身体の外化として蓄積されるのである。外化に対応するものとして大脳の言語中枢の発展に於て蓄積するのである。故に蓄積とは無限に製作的である。而して製作の必然より見るとき、最初に道具の素材となったものは偶然である。其処に経験の蓄積がある。

 経験の蓄積は全人類的として、必然は人類の種の内容であると思う。それに対して経験は死生転換として、偶然は生死する個的生命としてあると思う。人間生命は自覚的として何処迄も必然化であると共に、個的身体的として、何処迄も偶然的であると思う。必然に於て人間の栄光をもち、偶然に於て豊潤なる質料をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」