正岡子規が写生と言って以来、作歌理念は写生論が主導したようである。而し写生 とは如何なるものかとなると千差万別、その帰する処を知らないようである。以下私 は一切の写生論を捨てて、見るということから写生を考えて見たいと思う。
見るということで思い出すのは和辻哲郎氏の『風土』の中の一文である。氏は「自分は曽って津田青風画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いた事がある。画伯は石膏の首を指し乍ら言った。諸君はあれを描くのだなどと思うのは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えて来る。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えて来る。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。」 歌人ならば言葉が出て来るのであろう。 この見るとは何という事であろうか。例えば枝が二本出て花びらが五枚あるといった如きから私達の言葉は出て来ない。痩せた土に生えた草が小さな葉を出し、小さな 花を咲かせて生命を完成させんとする時に自ら言葉は出て来るのである。私達は其処に自分と同じ生命の姿を見るのである。
コスモスの花も、さえずる雀も、宇宙の生命が生み出したものである。そして私達も亦宇宙の生命の現れである。そこに深い同一がある。咲き出ずる花の妙は我の妙であり、我の妙は花の妙である。そこに見る事によって顕われて来る限り無い陰翳があるのである。この同一が愛である。
見るとは我と対象が相対立するのではなくして、見るものと見られるものの根底の一に還ってゆく事である。歌人は言葉によって見る。目が言葉を持つ。この言葉は根底の一に還ってゆく愛より生まれるのである。其処に作歌が写生である所以があると思う。そこより我が生まれ、対象が生まれるのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」