初心の方への短歌評釈

 もう十三年前の雑誌「短歌」を開いていたら、現代ロマン短歌百選、杜沢光一郎選といのがあって、中にこういう一首がありました。

背広の殺伐たるもの身にまとう顔なき男の一人なるべし

 この歌は所謂写生というものと異なっているようです。 それならば物を見ていないのであるか、作者は見ています、洋服を着て歩いている一人の男を見ています。それなれば何故このような写生と異なった表現をしたのでしょうか。私はそこに目の置きどころの相違を見ることが出来ると思います。作者は対象に忠実になろうとせず、自己に忠実になろうとしているのです。対象の中に自分を見出そうとするのではなく、自分の疑問、自分の悩み、自分の痛みの先に目をつけて見ているのです。そういう観点からこの一首を解いて見たいとおもいます。背広の殺伐たるものとは何ういうことなのでしょうか。殺伐というのは闘争のことです。併し背広が闘争をすることはありません。とすれば殺伐は背広を見たときの作者の感じということになります。闘争を見たとき私達は何ういう感じをもつでしょうか。それは嫌悪、冷酷、虚しさというようなことであろうと思います。併し背広に私達はそのようなことを感じることはまあないとおもいます。そうとすれば背広が背負っている社会的意味ということになると思います。そこで私が思い出すのは、この頃よく言われている人間性の回復ということです。人間性の喪失について常に言われることは、合理性の追求による物の画一性ということであります。画一性は情感の豊かな流動を失わしめるということです。与えられたものであって、自分の中から湧き出たものでないことです。それで私は上句はこういうことであろうとおもいます。それは機械によって設計され、量産された背広を着ているということです。下旬の顔なき男は、背広を着ている男が顔がないということは考えられませんので、上句を承けての自分の顔をもたない、ひいては個性のない男ということであるとおもいます。従来の作歌法から行けば、

量産をされし背広を着けている個性なき男の一人なるべし

 ということになるのでしょうか。そうとすれば何うしてあのようにことごとしく作ったのでしょうか。ここは大事な所ですのでよく読んで下さい。それは作り変えた歌は私の方か ら見ているのに対して、取上げた歌は世界の方から見ているということなのです。私は初めに作者は自己に忠実になろうとしていると言いました。自己に忠実であることがどううして世界の目となるのでしょうか。それは自己の悩み、苦しみ、痛みというのは世界に面を向けていることことだからです。私達の動作は自分を世界に結びつけようとするところより起ります。それが何処迄も乖離をもつところに悩みがあります。小は隣人や異性の交際より、大は永遠への思索に至る迄絶対の断絶があるところに苦しみがあります。そこから見るということは世界からということなのです。この歌は一人の平凡な男を歌っているのではなく、画一性の中に失われた人間性への悲しみと怒りを表現しているのです。殊更に難しく作ったのではなくして、このように作ることによって、より明らかに内面を表わすことが出来るからなのです。殺伐、顔なき男といった衝撃的な言葉は、作者の感動の強さを表わすものであり、それを破綻なく使い得たのは作者の熟達を示すものです。

佐藤佐太郎の「茂吉の秀歌」を読んでゆく中に、左記のような歌に出合いました。

松風のおと聞くときはいにしえの聖の如くわれは寂しむ

 驚いたのはその評釈です。彼は「松風のおとを聞いていると昔の高僧のように寂しい思いがするというので、意味合は簡単だがこの一首からひびいてくるのは、身にしみるような遠く清いひびきである。松風などと言えば陳腐にひびくけれどもこの歌の感銘は新しい古いという境地をこえている。わずらわしい意味合いがないだけに純粋な情感がしみ渡ってくる。こういうものを第一等の短歌というのであろう。この作者一代の傑作の一つである。「ときは」「われは」の「は」の重用が何ともいいし、「聖のごとく」から「われは寂しむ」と続けた四五句が円滑でなくていい。しかしこの歌にはそれ以上の何かがある。以下略」と口を極めて賞めている。私達に親しい「赤茄子」や「動く煙」や「黒き葡萄」や「白桃」の歌もこんなに賞めていません。私は再度読み返したのですが、残念乍ら身にしみるような遠く清いひびきを感ずることが出来ませんでした。

 それでは責められるのは私でしょうか佐太郎でしょうか、これも残念乍ら私は私であるとおもわざるを得ません。佐太郎は生の沈潜に於て稀有の境地を拓いていった歌人です。しみじみとした味わいに於て独歩のものをもった作者です。彼はその沈潜の目の故に他の歌よりも秀れて見えたのだと思います。それだけに彼は私の感じることの出来ないものを感じたと思わざるを得ません。

 沈潜するとはものごとの奥底に入ってゆくことです。それは静かなもの、寂しいものに 入ってゆくことです。普通静かといえば音の無いことだとおもわれています。併しそれは静かではありません。少なくとも創作としての静かではないのです。創作としての静けさは、ものおとを包む自然の大きさ、生命の深さにあるのです。例えば鐘の音が渡ってゆくことによって、果てしない自然を知るが如きです。雑踏にいることによって、限りない生命のつながりを見るが如きです。唯包む大きさ深さに於て見るとき、ものの大小、猥雑は消えて、全てあるものは限りないもの、果てしないものの現われとなります。それが静けさであり、寂しさなのです。

 私は日本人の心はこのようなものを志向し、道というのはこのような心を実現しようと したことだと思います。近代は沈潜の方向ではなく、ものごとの輻輳する方向に進んでいます。実存はその至り着いた所であると思います。それは相反する方向です。併し文化は常に相反するものの統一として進んできました。私達は境地的なものの深さを忘れてはならないとおもいます。私はもとよりですが皆さんも、冒頭の歌に佐太郎のように讃嘆する 目を養って下さい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」