近頃何処へ行っても書道教室とか、陶芸教室とかいうのが目につく。そしてそれは失われた人間性を、創作を通じて回復しようとすることらしい。私達はもともと人間である。それを失なったということは、人間は自分の中に自分を否定するものをもっていたということである。而して人間は自己の中に自己を否定し、自己を失なうものをもつことによって人間であるということが出来る。犬や鳥はその本性を失なうということはない。
人間性の喪失が叫ばれてから久しい。人間性を失わしめたものは生産手段の発展である。巨大なる機械は分業を細分化し、人々はコンベア・ベルトの前に並べられた。そこにあるのは単調なる動作の繰り返しであった。製作する生命として人間はその背後に灰色の憂愁を宿していたのである。製作によって人間は、街頭に輝く商品を溢れしめた。而してその代償は単調な繰り返しによる感情の枯瘦であり、私有財産の争奪による精神の荒廃であった。巨大化する生産手段の中に人間は埋没したのである。 生命は本来創造的であり、創造に於て自己を充足してゆくのである。そこに人間性回復の声が生れ、書道教室や、陶芸教室の生れて来た所以があると思う。斯る創造とは如何なるものであるか。
この間永井さんから葉書が届いて、家族で足立美術館に行った。素晴しい一日であった。子供等も何か得たようであると書いてあった。何か得たとは何ういうことなのであろうか。私は子供が次に画を見るときに、見て来たものが、見る目の中にはたらくものとなることであるとおもう。見て来たものが、見るものとなるのである。先覚の目が子供の目となるのである。色や形が子供の内部として、次のものを見るのである。それは書道や陶芸の製作に於て愈々明らかとなる。
よく所用で内藤先生の書道教室を訪れるのであるが、多くの生徒が手本をそばに置いてたっぷりと墨を含んだ筆を慎重に動かしている。そして書き了ると朱筆で直してもらっている。直してもらい、次に書くということは、今書いたものが目の内容となって働いているということである。これ迄の書き上げた一枚一枚が力として、次の形を呼んでいるということである。作られたものが作るものとして、無限の内面的発展をもつ、それが創造である。そこに生命は自己を見、自己を充足するのである。見られたものが見るものとしてそこに形は常に新たである。
毛筆を習う人は師をもち、空海とか良寛とかいった手本をもつ。習うとはこれ等先覚と の格闘である。それは他者として、習うものの前に立ちはだかるものである。而して格闘とは相対するものが否定に於て一つなることである。闘うことによって習うものの内面的発展があるとは、内面的発展は習う人を超えたより大なる世界の内容であると考えられなければならない。私はそれを歴史的形成的世界に求めたいと思う。
足立美術館の画家も、空海も良寛も師を持ち、古蹟に学んだのである。見られたものが見るものとして、人類発生以来相伝して来たのである。人類の大なる創造線の一点として歴史的現在はあるのである。和歌を作り、土をひねり、墨書するとはこの創造線に添うということである。そこは見られたものが見るものとして、初めに終りがあるのである。芸術が永遠であるとは、ここに所以をもつのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」