歌会の後で雑談に耽っていると、一老婦人より突然「貴方は神があると思われます か。」と尋ねられた。私は「神は我々があるとかないとか言うものではなく、私達がそれによつてあるものです。」と答えた。そして後日私の考へを明にすると約束した。一体私達があるというのは何うゆうことであろうか。私達は初対面の人に自己紹介をする時に大い名刺を差出す。その名刺には住所、氏名、職業が記載されているのが通常である。この住所、氏名、職業とは如何なるものであろうか。住所とは私達の祖先が汗を流して拓いた土地である。そして住居を作った処である。氏名とは、はるかな過去より血の神秘に於いて連綿として一統を維持し来ったものである。限り無き栄辱を潜めるものである。職業は技術として、人間を人間ならしめたものとして、無限の過去より承継し来ったものである。私は鎌を商うものであるが、鎌は収穫器として石器時代以前より木の股になった処をうすくして、木や草の実などを採取したところに初まるであろうと言われている。私達が今手にもつ鎌は、幾万年の技術の承継と発展の成果である。
私達が名刺を受け取って読むとき、はかり知れない時間の上に作られた一人の生命 を見ているのである。自己とはこの生死する身体としての生命を超えたものとして、無限の過去を孕むものとしてあるのである。この感情的自己を絶対に超えるものとして自己なのである。勿論この生死する身体なくして生命はない、生命なきところに自己はない。而して自己とは生死する身体を超えたものであるとは、生死するこの身体が生死するものを超えた無限なる時間を内にもつと考えられなければならない。永遠なるものを宿すと考えられなければならない。名刺は生死するこの我の名刺である。而してこの我を生死を超えたものとして呈示するのである。斯るものは如何なるものであろうか。
私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。生命は能く知られている如く、種的なるものと個的なるものとの綜合として成立する。種とは個を超えて個によって形相を維持してゆく力である。個とは種の要素として種の形相を実現してゆくものである。故に個は個に対するものとして集団し、出産、死亡によって連続する。人間は斯る生命の自覚として、種の方向に世界が形成され、個の方向にこの我があるのである。
種と個とは単に共存するのではない。生死するものは永遠なるものではない、永遠なるものは生死するものではない。我々の身体は一つである。この一つの身体に於いて、生死するものと永遠なるものは各々の形相を実現せんとするのである。それは否 定し合うものである。私達の小さい頃、よく秋の稲田で雌に食われる雄かまきりを見たものである。背を反らして耐え乍ら、それでも抵抗することなく腹の半ば迄食われ た姿をみると、悲傷の思いに耐えられなかったものである。種が種を維持する為には、個への斯る惨虐を内包するのである。蜘蛛は無数の子を産む、それは殆んどを死なしめることによって、幾匹かを残すべく産むのである。それは死としての環境と闘い来った生命の摂理である。
人間とは斯る生命の自覚的なるものである。世界とは常に我々に否定として迫って くるものである。而して斯る否定をとうして我々は生きるのである。我々は世界を作 ることによって生きるのである。世界を作るには努力しなければならない。努力する とは今の自己を否定してゆくことである。動物に於いても個の死が種属の生であった。我々は世界を作る為に官能的欲求を超えなければならないのである。暖衣飽食は人間の敵である。世界を作るとは身体的欲求的自己を殺すことによって、より大なる生命に生きることである。私は名刺に記載する自己とは斯かる自己であるとおもう。
自覚とは自己が自己を見てゆくことである。種は個を超えて個を包むものとして、種の自覚とは人類の初めと終りを結ぶものでなければならない。私は言葉とは斯るものをもったものであると思う。私達は言葉によって自己を知る。それと共にスメル文字を解読することによって六千年前の人の生き態を知るのである。そこには全人類一なるものがあるのでなければならない。無限の過去と未来を包むものがあるのでなければならない。我々が種的、個的としてあるということは、斯るものとしてあるのでなければならない。名刺は永遠の上に記された文字としてこの我なのである。
全人類一にして、我々に死を命じ、死を介して我々を甦らせるもの、その上にのみこの我があるもの、私はこれを神とするものである。眞、善、美とは永遠を実現したこの我に外ならないと思う。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」