お馴染みの一休物語である。併しここに御登場いただくのは一休さんではない、一休禅師である。
ある日の夕方一休禅師が門前に立っていると、一人乞食がやって来て、横柄に手を出し「物をくれ」と言う。手許に持合せのなかった禅師がとって返し、幾何かを与えると、乞食は袋に入れてすたすたと歩き出した。流石の禅師もいささかむっとして、「おい」と呼び止め、「お前は他人に物をもらって有難いと思わないのか」と言った。すると振り返った乞食は、「お前は他人に物を与えて有難いと思わないのか」と言って、後も見ずに去って行った。はっと心を打たれた禅師は、乞食の姿が見えなくなる迄手を合せて拝んでいた。以上の話は恐らく作り話であろう。併し実際の有無に関らず、私はこの中に深い真実があると思わざるを得ない。
物は労苦の結晶である。殊に古代に於ては、努力なくして一物もあり得なかったと言い得ると思う。その物を無償で他人の所有とするのである。流した汗を思えば、もらう方は感謝して当然である。それによってもらった者は、自己の生命をつないでいるのである。与えるものは、与えようと与えまいと本人の気持次第である。双方に権利・義務の関係が生じているのではない、任意である。そこには優越、劣後の感情さえ生れて当然であると思う。
併しそれは人と人、我と汝の関係に於てである。若し人類普遍の目をもって見れば何うであろうか。全てのものがそれによってあり、それによって有ると言われる神の前に立つと考えた時に何うであろうか。もてる者ともたざる者、与え得る者と、与えらるる者、何れが神に感謝すべきであろうか。
大歴史家ランケは、如何なる歴史も世界史につながると言っている。我々は全人類一としてあり、我々の行為は全人類一なる声に呼ばれてあるのである。私有財産の発生は、我々を自己と他者に引き裂いていった。併し引き裂かれたところに生はない。自己と他者は世界を造るものとして、対立しつつ一なるところに生はあるのである。全人類一なるものに回帰するところに、我々の行為はあるのである。
私は奉仕とは、人と人との対立を超えて、全人類一としての、神の前に立たんとする行為であると思う。奉仕の精神とは、与えられる者はもとより感謝すべきである。併し与えるものはより大なる感謝をもつところにあると思う。そこには最早与えるものと、与えられるものがあるのではない、全存在の深みへと入ってゆくのである。我々の生を与えたも のを表わしてゆくのである。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」