仕事の都合上大阪に離れ住んでいる子等夫婦が、学会出席の為シンガポールに行くことになり、その間幼い孫を預ることになった。三才余りの子供は成長が早い。帰る度に見せてくれる変貌は楽しいものである。昨日も一寸抱いてやろうとしたら、「奈央ちゃんはねえ、もう赤ちゃんじゃないの、もうおねえちゃんなの。だからだっこはしてもらわないの」 と言って走り去った。私は苦笑して見送る外はなかった。併し私より妻の方に傍に置いて離し度がらない。この頃は悪戯が激しくなって手古摺ることが多いのだが、それでも傍に居ないと淋しいらしい。
その孫が書斉にゐる私の所へ来て、「おじいちゃん一寸来て」と言う。「用事か」と聞 くと、「奈央ちゃんがねえ、画を描くから見ていて」と言う。丁度退屈していたところな ので、一度立ちるのも良いと思って従いてゆくと、妻が「昼の支度をするから、奈央ちゃんが画を描くのを見てやっとってえ」と言う。見ると描きかけの画用紙らしいものと、クレョンが散らばっている。クレヨンは私達の少年時代の六色か七色と違って、数十色もあろうかという豪華なものである。今更のように時代の推移を感じながら画用紙の方を見ると、円とも線とも角とも分ち難い線が、用紙一杯に引き散らされている。孫は新しい紙に描き初めたが図型は大同小異である。
表現の形は手と目の協動から生れてくる。視覚と運動覚が一つになってはたらくところより生れてくる。幼児の表現はこの手と目のはたらきが未分化のようである。表われたものを見ていると、何うやら原始感覚としての運動覚の方が優先しているらしい。孫はためらわずに線を引いている。「何を描いとるのん」と尋ねると、「兎さん」と答える。併し何う見ても兎や犬と言えるものではなくして無茶苦茶の線である。幼児の頭の中の映像は何うなっているのであろうと思いながら、「上手やなぁ」と言うと、「うん」と答える。私は見ながら、やがて意識の発達に伴なって目と手が分化し、目と手が対立して目が優先となり、手を制約するときに本当の表現となるのだと思った。
和辻哲郎はその著『風土』の中で、津田青風画伯が初心者に素描を教えているときのことを書いている。画伯は石膏の首を指しながら「諸君はあれを描くのだなどと思うは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。此処では明らかに目が優先している。此処から本当の表現が初まるのであるとおもう。併し目と手が分れて対立しているあいだはまだ表現として未熟であるとおもう。目も手も一つの生命の構成としてある。表現が生命の表現となるにはそれが再び一つに還らなければならないとおもう。一旦相分れ、対立した手と目が一つにならなければならないとおもう。目が手となり、手が目となるのである。ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如きである。開眼とか円熟というのは斯る渾然たる生命となったことを言うのであるとおもう。
孫は相変らず無心に描いている。時にははげしく、時にはゆるやかに、私達には何うしても意味の分らない線を引いている。私は見ながら形の根源にあるものは、視覚よりは、運動覚にあるのではないかと思った。幼ない孫が訳の分らない線を夢中で引いているのは、そこに手の喜び運動覚の喜びがあるからであろう。そうとするとこの線は物の形以前の運動覚のよろこびの形であろう。そしてそのよろこびは表現愛の底に深く潜むのではあるまいか。私は考えながら昔読んだ本を思い出していた。それは或る芸術家が、「表現の形の根元にいくつかの幾何図型がある」というものであり、円とか、角とか、円錘等を挙げていた。併し記憶が余りに模糊としていて、何等考えを拡げることが出来なかった。
小便がしたくなったので立上った。すると今迄私のことなど忘れたように描いていた孫 が「行っちゃ駄目」と言った。「おじいちゃん小便」と言うと肯いたが、私が外に出ると 描くのを止めて妻の傍に行ったようだった。そして私が戻って来ると描きはじめた。私は何うして私が居なくなったら描くのを止めたのであろうかと思った。私は思いながらこの問いが孕んでいる底の深さにおやとおもった。
何故見る人がいなければならないのか、同じ行為でも飯を食うときは見ていてくれと言わない。私が居ない時に描くことを止めたということは、見ている人がいるということが表現意欲への重大な要素となるのでなければならない。それは何か。此処迄書いて私は坂田さんの言葉を思い出した。「何かやわらかい文章が欲しいのです。哲学理論は真平です」これから筆を進めるには推論しかない。真平の領域へ踏み込まなくては行き場がない。これで筆を擱いて後は読まれた方の思索に委ねたいとおもう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」