幼心と言っても、本文は幼児の心理を書こうというのではない、唯ゲーテの幼時の思い出というのを考えているとき、不意に孟子の「長じて幼心を失わざる、是を大人という」言葉が浮んで来たので、ゲーテから孟子を捉えて見ようと思った迄である。故に本書の幼心とは孟子の言葉の幼心である。
ゲーテは幼時バラの花を見ていると、はなびらの中よりはなびらが出て来て室に溢れたという。勿論本当にはなびらが出てきたのではない、想像の中に溢れ出たのである。併しそれは単に想像の産物ではない、現実のバラのはなびらがはなびらを産んだのである。現実のはなびらが想像の中に自己増殖をもったのである。
生命は無限に動的である 動的であるとははたらくものであることである。はたらくと は形に自己を見てゆくことである。人間は自覚的生命として外に自己を見てゆく、物を作る青年の情熱、壮年の実践、老年の英知とよく言われる。何によって斯る変化を遂げてゆくのであるか、私はそこに身体の熟成を見ることが出来るとおもう。青年は身体躍動して血気旺に循るときである。それは自己を捨てて、世界を自己に見ようとする意志がおのずから働くときである。情熱とは全身全霊を挙げて、世界と結合し世界を実現せんとすることである。壮年は心身充実し、世界という茫漠たる理念から、世界を構成する物と自己の個性が結合し、世界を実現してゆくものとなることである。青年が理想に面するに対し、現実に面するのである。老年の英知とは、身心鎮静して活動力を失い、青年の情熱と壮年の実践、理想と現実を統一した相に於て観照することである。青年の非現実性、壮年の理想喪失を世界形成の立場から適切な言葉を見出してゆくことである。
それでは幼時とは何であろうか、私はそこに成長を見ることが出来るとおもう。僅な日 時の間に見違へるばかりである。成長は細胞増殖である。私は細胞増殖に幼時の身体を見ることが出来るようにおもう。成長し増殖してゆく身体には常に新しい機能の統一がなければならない。匍匐(ほふく)より直立歩行し、直立歩行より走り出し、言葉を覚える、それは常に新しいものに面する飛躍である。私はそこに幼心があるとおもう。匍匐より歩行し更に言葉をもつということは、その一々が新しい対象面を拓くということである。対象面を拓く ということは自己の外への投げかけをもつということである。
幼時の感情、行動、表現は自由であり飛躍である。泣いていたと思っていたのが笑い、直ぐく走っていたのがくるりと向きを変え、字も知らないのに絵本に向って声を挙げている。そこにはいささかの渋滞もない、対象と自己は行動的空間として、純一より純一へと移ってゆく、私はそこに幼時の細胞の生長増殖を見ることが出来るとおもう、それは新陳代謝と質を異にしているようである。生長増殖は形成であり、飛躍である。無よりの創造である。
長じて幼心を失わざるとは如何なることであろうか。長じるとは身体が完成することで ある。身体の完成は対象の形相が固定をもつことである。併し生命は内外相互転換として常に新しい状況に接する。固定は生命の死である。そこに無心に還り、既成の形を超え現在の形をもつ、そこに幼心があるとおもう。転換は否定的転換である。外を否定して内となし、内を否定して外となるのが転換である。そこには常に変化がなければならない、形の飛躍がなければならない。
私は大人と小人を分つものは目を転じ得るか否かにあるとおもう。内を否定して外とすることは自己を対象化することである。物になるということである。このとき物は自己を映した物である。目を転じるとは映された物に目を置くことである。我々は物を製作することによって世界を形成する。この世界から逆に自己を見るのである。見出た世界を自己の形相として、形相の底からはたらくものとなるのである。形作った世界が世界自身の内面的発展をもつのである。そこに創造があり、対象を知り、自己を知ることが出来るのである。目を映された物に転じるとは、世界となってはたらくものとなることである。欲求としての自己よりの目をもつ自己を殺すことである。
否定的転換は死生転換である。我々が生きているとは一瞬一瞬生死相分つ峰を歩いているのである。働かざるものを待つのは死である、働くとは死を生に転ずる行である。一々に死に一々に生きる生命形成は飛躍である。それは過去がそこに死に、未来がそこに死ぬことによって出現するものとして、絶対現在として生命はあるのである。過去と未来は現在に死ぬことによって、現在に生れるのである。そこに死して生れるものとして現在は絶対の無である。
私は大人とは自己を殺して世界として甦った人であるとおもう。自己は斯くあるという のではない、現在を自己の初まりとして、現在に死に、現在に生れるのである。過去と未来を截断して、今に生きるのである。そこは自由であり絶対の無である。大人とは絶対の無にして、無なるが故に過去と未来を真に生かす人であるとおもう。世界の創造的形成の創造線に沿う人である。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」