或る日の歌会で、一老婦人が自分の作品を説明し乍ら「この間も小豆を煮ているの で、その煮方を説明してやったのですが、嫁は聞こえぬふりをして言うたとおりにしませんでした。何か言うと激しく口答えをするので、今では何も言わない事にしています。一緒に暮らそうと思えば何方かが辛抱しなければなりませんので。」と言っていた。孫子も言う如く一歩を譲ることは百歩を譲ることである。この婦人はやがて一家の片隅へ追いやられるであろう。気が弱いとは如何なることであるか。
人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間は言葉をもつことによって他の動物と人間を区別したと言われる。私達はスメル文字を解読することによって、六千年前と心を一つにすることが出来た。六千年を一つの時間としてもったのである。この一つにする力によって技術を蓄積して来たのである。木を削り石を磨いて道具とした古代より、近代の壮大な機械文明の構築はながい時間の蓄積なくしてあり得ないものである。この蓄積は言葉が、そして言葉の延長としての文字が担ったのである。そこに人 間の栄光がある。
しかし栄光は同時に悲惨である。我々は我々の生死を超えた時間に於いて自己をも つ。自己を超えた時間によって自己があるとは、我々は自己を否定することによって 自己を見出してゆくことである。歴史の蓄積とは多くの人々によって作られたと言うことである。このことは他者によって自己があると言うことである。私達は自分の所在を己の技術に於いて見るとき、無限の過去・現在・未来の人々との関わりを見ざるを得ない。他人の人格を認めない自己の人格はあり得ないと言われる所以である。人格とは自己の中に世界を持つことである。偉大なる人格とは、自己を忘れて世界となっ て考え行う人である。
しかし他の人格を認めるものと、認めないものが、一緒に暮らしたらどうであろうか。それは一目瞭然である。一者は他者の行為を尊重して譲歩するであろう。一者は他者の譲歩を自己の力の証しとして益々自己を主張するであろう。他者との関わりに於いて自己を見ることの出来ない下劣なる人格は、自己の中に世界を見るのではなく、相手の譲歩に自己の拡大を見るのである。一者は益々主張し、一者は益々譲歩する。一つの生活に於いて一者が自己の意のままにするということは、他の一者は自己実現の場所を失うことである。人間にとって自己を実現するところをもたない程哀れはない。河合広仙氏は機関誌「巨勢」の中で「恥を知らず、厚かましく、図々しく人を責め、大胆で不正なるものは生活し易い。恥を知り、常に清きを求め、執着を離れへり下り暮らす賢者は生活し難い」と佛教の原始経典にあると書いておられる。私は心弱いと言われるのは多く斯る人格的なるものに由来すると思う。例えば言葉にしてもそうである。一方が罵っても低劣なる言葉を出すことを理性が許さないのである。他人の座敷に土足で上がって襖を破って帰るような言葉は唯自己嫌悪におち入るのみである。斯くして唯その人格関係に無限の悲しみをもって黙しているほかはないのである。私は冒頭の老婦人と嫁との間にも斯る関係を見ることが出来るのではないかと思う。
而し人間に於いて栄光が同時に悲惨であるとは、悲惨は亦栄光でなければならない。ゲーテはミニヨンの詩の中で盲目の竪琴弾きに、「涙もてパンを食みしことなく、 夜々の臥床を泣き明かさざりし者は、知らじいと高き御身のいますを―」と歌わしめている。魂は常に不死鳥である。それは死の灰の中より羽ばたくのである。譲歩は他者につながるところにあつた。人間は他者につながることによって、自己を超えた無限の生命を見ることが出来るのである。私は日常生活の弱者は自覚的生命の強者であると思う。キリストが地の塩と言った人であると思う。悲嘆に暮れる代わりに聖者の言葉を探すべきである。譲歩を突き進めて死に切るべきである。そこに人間本来の無限の過去と未来を包む永遠の世界が現われるのである。譲歩せざるを得ない心弱き者は、その奥にいと高き唯一者への通路を持つのである。そしてそこから日常生活を見るとき、譲歩なきものは逆に哀れなものとして、新しい生活風景が生まれてくるのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」