「真実の歌道は大虚の如く、個々円成の上なり、もとより証は他を俟たず」 和辻哲郎の 続日本精神史を読んでいると、上記のような心敬という人の文言に出合った。私は昔の人達も、真剣に文字の表現をもったのだと思って嬉しくなった。和辻哲郎によると、心敬は三井寺の僧であり、連歌の名手で禅に参じたらしい。
大虚とはおおぞらとも読まれ、万物がそこに有り、それぞれがそのところを得る場所である。そこに於て個々円成しなければならないというのである。個々円成とは如何なることであろうか。円は禅僧の好んで描く図形である。円は描くのに初めと終りを結ぶ空間である。私はそこに無数のものを包むと共に、時間としての存在の初めと終りを結ぶものを表わしたものであるとおもう。
我々は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。それは技術的である。無数の過去の人々の努力の形象を自己の目として、自己の手として新たな形象を創造してゆくのが、自覚的としての人間の生命である。それは世界を作ってゆくことである。個々とはこの我である。天地間唯一個としてのこの我である。人類は唯一個としてのこの我を生んだ。そのことは唯一個としてのこの我は、逆に世界を内に包むものでなければならない。それでなければ唯一個の生れて来る所以があり得ない。ここに我々の目は無数の過去の目が自己の目となるのである。個々円成とは、この我の目は無限の過去のはたらきを宿し、この我の個性をとおして世界の新しい形が生れてくるということであるとおもう。限りない努力によって、自己を世界の自己実現の中に純化せしめることであるとおもう。
他の証を俟たずとは、自己の中に見出でた自己の形象は、世界が世界自身に見出でた形象として確信をもてということであるとおもう。自己の目は世界の目であり、自己の底に展けてくる世界に生命の真実を見よということであるとおもう。それは他人に讃められてある世界でもなければ、けなされて無価値になる世界でもない。それは過去が我をとおして未来へ流れる生命である。それは作るときに自己を動かす強さによって、自己が把握出来るものである。展けてくる目が確信を与えるものである。内面的発展が信をもつのである。
藤原彊氏が昔投稿歌人になるなと言われたことがある。私は氏の真意は展けてくる目への確信にあったと思う。個々円成にあったとおもう。勿論それは氏の如く深い歌境にはいり、内面的発展の目をもつ人に言い得る言葉であって、選者にとり上げられること喜びとし、作歌の励みとする初歩の人々は域を異にすると言わなければならないであろう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」