私は自分を省るとき絶えず何かを想像しているのに気が付く。併し想像とは何かと問うとき、自明のものと思っていたのが意外に茫漠としているようである。広辞苑を開くと、そうぞう〔想像〕①〔韓非子解老編〕 実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること、「ーを逞しくする」②現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮べること。と書いてある。これだけでは説明として不十分な気がする。経験していないことをどうしてこうではないかとおしはかることが出来るのか、現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を如何にして心に浮べることが出来るか、更に岩波哲学辞典を開くと種々の学説を列記した上、ビントの考えが比較的正確に心理的事実を捉えているようであるからとして以下の如く説いている。想像は「心像に於てする思考」で、想像活動は統覚の綜合及び分析作用の一の場合であり、本質に於て悟性活動と同じ。想像活動の動機は現実の経験或は現実に近い複合経験を作り出すにある。初め種々の表象要素及び感情要素から成立し、過去の経験の一般内容を含んでいる多少包括的な全体表象が時間・空間的に結合している多数の一定の複合体に継続的に分析せられ、最後に亦全体表象として全体が漠然意識に浮ぶ。想像活動には発達上、所動的及び能動的の二段階がある。前者は比較的動的注意状態の下に受動的の予想を主とし原印象のままに想像作用を活動せしめる場合、後者は、一定の目的、表象に従い能動的注意状態の下に表象結合に対して意志的の禁止及び撰択が著しく現われる場合である。と書かれている。これに於て私達はいささか鮮明な像をもち得るようである。以下両辞典を参考にしながら私の考究を加えてゆきたいとおもう。
初め種々の表象要素及び感情要素より成立するとは如何なることであろうか、私はそこに人間の自覚ということがあるとおもう、生命は内外相互転換的に形成的である。環境を外として、食物を摂ることによって身体を形作り、老廃物を排出することによって自己を維持してゆくのである、自覚的とは斯る内外の転換が技術的となったことである。自然も技術的である。併し自然の技術は食物としての外を捕獲し、身体に化せしめる技術であった。それが自覚的であるとは身体の機構に擬えて外を変革することである、手の延長として外を道具と化し、脚の延長として車を作り、目の延長として望遠鏡を作ることである、斯る技術は経験の蓄積より来るのである。われわれの行為はその根源を生死にもつ、蓄積とはより大なる生を形成することである。それは一々の瞬間の行為を超えて瞬間を包むものをもったということである。内外相互転換は一瞬一瞬である、身体は斯る一瞬一瞬を内に包み統一するものとして形作って来た、瞬間を包むものをもつとは身体の斯る深奥が形をもったということである。形成作用として形は一瞬一瞬の内外相互転換としての営為を自己実現の手段としてもつのである。手段としてもつとはより高次なる生命が自己実現的にはたらくところに内外相互があるということである。蓄積は斯る高次なる生命が自己を実現してゆく形相としてあるのである。斯る高次なる生命の内容として、一瞬一瞬は外の方向に表象要素となり、内の方向に感情要素となるのである。一瞬一瞬は生死の転換として独自の表象と感情をもつのである。斯る表象・感情要素に対して高次なる生命は全体表象となるのである。それは要素がそれに於てあるものとして世界表象・宇宙表象の意味をもつものである。
私は想像はそこより生れるとおもう、前にも述べた如くわれわれの行為の根源には生死がある。そして表象・感情はその根源を行為にもつのである。根源に生死があるとは、高次なる生命は生死に於て自己を形成し、実現してゆく生命であることである。内外相互転換とは内の方向に生を見、外の方向に死を見る生死の転換である。形成作用とは内を外に映し、外を内に映す無限のはたらきである、それは死を生に転ずるはたらきである、外としての食物の欠乏は死を意味する、それを道具をもって獲得し、栽培は飼養することによって充足するのが内外相互転換である。表象は外を内によって変革し形象化したということである。一瞬一瞬の無限の内外相互転換とは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたものとなることである。挺子がその力の感覚に於てころと結合し、車の使用が畜力と結合するのも作られたものが作るものとしての内面的発展をもったということである。車と牛馬は別々の表象である、それが運搬という目的によって結合するのである、それは或は偶然であったかも知れない。併し一度それが結合するとき、生命は自己形成として新たな力を求めそれと結合せんとするのである。作られたものとしての車と牛馬の結合表象が作るものとして新たな力の結合を求めるのである。水の力が、火の力が新しい力として世界形成へ参加を求められるのである。私はそこにわれわれの想像が生れるのであるとおもう。ゲーテはバラの花を見ている内に花びらの中より花びらが湧き出て部屋が花びらで埋まったという。内が外を映し、外が内を映す無限の過程に於て内に蓄積された表象が一つの目的に向って結集するのである。記憶の表象が湧き出て参加するのである。そ の中から目的に合うものが撰択され、構成されて一つの形象が作り出されるのである。
生命は内外相互転換である、それに対して想像は内的表象の展開である、そこに外としての具体性はかくされて極小の意味をもつ、内外相互転換は対立否定としての転換である。それに対して想像は対立否定の意味が極小となるのである。それだけに抵抗をもたない想像の形象は自由であり、飛躍的である。私はそこに世界形成の発展の一因由があるとおもう。物への検証が極小にされているといっても表象はもと経験の内容である。それが映し映されることによって主体的表象として凝結したものである、それは形成的世界を離れるものではない、物の残影を宿すものである。物に実現されることを予期するものである。自由とか飛躍とかいうのは世界形成を内的表象に於て拡大することである、私はここに想像の世界形成に於ける先導性があるとおもう、内と外とが相互否定的緊張であるとは内は内の世界を構成し、外は外の世界を構成するということである、身体と物は各々独自の体系をもつということである。それが否定的に一として世界は自己を露わにしてゆくということである。生命は世界を生命の形相たらしめんとし、物は世界を物の形相たらしめんとする、併しその何れに於ても内外相互転換としての世界形成はあり得ない、そこに否定的一としての世界形成はあるのである。想像は内的方向の極限として私は想像なくして世界形成はあり得ないとおもう。物質はその固定性に於て物質である、想像が物質性を極小にするとはその固定性を極小にすることである、自由とか飛躍とは変革である、新しい形はそ こから生れるのである。而して内外相互転換的に形成的であるとは常に新しい形が生れることである、そこに想像があるのである。
斯るものとして想像は世界が世界を見るところより生れるとおもう。想像はこのわれがする、併し想像としての表象の結合は世界の形成的操作にあるのである。表象そのものが世界の具現としてあるのである、表象が生れるには表現的行為がなければ ない、表現的行為があるためには技術がなければならない、技術は一人の力より生れることは出来ない、多くの人の力の組織より生れたのである。このわれは斯る世界の中に於て汝に対するものとしてこのわれである。斯るものとしてこの我より生れる形象は世界は如何にあるべきかであり、世界を作るものとして我と汝は如何にあるべきかであり、世界に於ける我の地位は如何にあるべきかである。ビントは想像に能動と所動があるという、私はそこに上記の如く積極的な世界形成の肯定的方向に対して否定的な方向を見ることが出来るとおもう。肯定的な方向が生に向うに対して否定的な方向は死に向うのである。環境汚染、原子力破壊、更に死後の在り方などに向うのである。言う如く死には展開がない、そこには原印象の活動あるのみである。併しての想像は両方向であって離れたものではない。生命は生死に於て生命である、所動的想像あって能動的想像はあるのであり、能動的想像あって所動的想像はあるのである。希望をもつが故に悲観をもつのである。更に私は原印象の活動の中に唯一者への思索に至る萌芽があるのではないかとおもう。死への想像は生への希求を背後にもつのである、絶対の死を見ることは絶対の生を見んとすることである。そこに生死を超えて、生死を自己の影とする絶対者への回心が生れるのである。生あって死が 死があって生がある全体者に帰一するのである。私は所動的想像はその入口に立つものであり、その延長線上に斯る信の世界があるのではないかとおもう。
想像はこの我がする、併しての我がもつ表象の結集は一々のこの我を超えたものである、表象の蓄積は限りない人類の蓄積である。われわれは斯る蓄積を歴史的形成としてもつ、表象は歴史的世界に於て蓄積され、われわれは歴史的世界の形成要素として表象をもつのである、そこに想像は世界が世界を見る所以があるのである。われわれが想像するとは歴史的世界の形成要素として想像するのである。形成要素として想像するとは、想像は歴史的世界の自己形成としてあるということである。われわれが形成要素となるとは一つの核となることである。世界の中心としてこのわれが映した外としての表象が現在の目的に結集して世界表象を構成することである。この現在の目的は世界と我との接点に於て世界がもつ現在の歴史的課題よりわれに要請してくるのである、能動的にまれ所動的にまれ想像も亦ここより来るのである。歴史は常に危機としてある、内外相互転換は生死相接するところであり、歴史はその深奥に危機をもち、危機によって動いてゆくのである。想像の最も激しくはたらくところはこの歴史的危機に面するところである。
この我が世界の核となるとはこの我が全存在としての世界の初めと終りを結ぶものを映すということである、この我が見ることによって世界があることである。而してこの我は汝に対すことによってあるのである、対話によってあるのである。対話とは斯る世界と世界が己れの実現を目指して対することである。故に対話は内に世界をもつものによってあり得るのである、われわれが言う世界とは斯る世界と世界の無数の対話の場所である。世界は無数の小世界を内包することによって、その対話に於て動転してゆくのである。想像はこの対話に於て他者を自己とし、自己を他者とし、他者より歪められ或は他者に展開するより来るのである。世界と世界が無限に対することによって世界がある故にわれわれは希望と挫折をもつのである。世界は一々が世界を内包するものをもつことによって世界である単一なる形象は世界でも何でもない、百化斉放、百鳥争鳴が世界の形象である。一々の小世界が世界を実現せんとするところに全世界があるのである、その小世界の世界形成的意志に於てわれわれの想像があるのであり、世界が世界を見る所以があるのである。
長谷川利春