感情について

 生きているとは外を内とし、内を外とすることである。私達は呼吸をし、食物を摂るこ とによって生きているのである。呼吸とは空中の酸素を摂取することであり、体内の炭酸ガスを排泄することである。食うとは他の生命を奪うことによって、自己の生命とすることである。併して不用なるもの、死滅した自己を排泄するのである。

 斯るものとして生命は絶えざる内外相互転換である。内外相互転換として、内の働きの欠乏も死であると共に、外の物の欠乏亦死である。

 空気は常に与えられている。そこには我々の労力を要するものはない。併し食物は他の生命の奪取として、他者を殺すことによって自己が生きるのである。自己の身体に対する他者の身体を否定することによって、自己を維持してゆくことである。

 自己の身体に対する他者の身体として、この我が個有の内容を有する如く、他者も亦生命として個有の内容を有するのでなければならない。否定することは否定されることであり、生きるとは常に力の表出を伴う努力である。

 生命が常に力の表出を伴って自己を維持してゆくとは、生命は常に創造的であるということである。瞬間、瞬間が創造点として、新たな形相を作ってゆくのである。

 感情は通常快、不快に分けられている。私は快とは形相実現的としての身体がその肯定的方向として、充実してゆくときにもつ感覚的反応であると思う。不快は否定的方向として欠乏の感覚的反応であると思う。斯るものとして快、不快の感情は身体的であるとおもう。而してそれが身体的である限り私は真の感情とは言い得ないと思う。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己が見る自己と見られる自己に分れることである。見る自己と見られる自己が分れるということは、見る自己は見られる自己を絶対に超越するということである。内外相互転換的として一瞬一瞬に生死の分岐点を歩む生命を包む生命をもつということである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なる生命となることである。

 瞬間が永遠であるとは、現在の瞬間が無限の瞬間の統一としてあるということである。過去の時間を内包した瞬間であるということである。瞬間は内外相互転換として、死生転換として瞬間である。瞬間が時を包むとは、相手を否定する力の表出は技術的ということでなければならない。身体の否定の肯定としての、内外相互転換は技術的でなければならない。生命の営為とは斯る転換の無限の連続である。斯る転換は内的に一でありつつ外は無限の変化である。一瞬一瞬状況を異にするのである。この異なる一瞬一瞬の技術を体系化をし、蓄積するのが時を包むということである。これが自己の中に自己を見ることである。

 無限の内外相互転換としての技術の集積によって外に対するということは外を変革することである。生命は自然的生命を脱却して、製作的生命となることである。斯る累積は個人を超えた人類的なるものとして、歴史的に形造られることによって可能なるものであると思う。我々は斯る集積を言葉によってもつのである。ここに外なるものは食物的環境として対するのではなくして表現的物となり、主体的他者は人格として我に対するのである。世界形成的である。

 私は感情のよって来るものを断る人格的世界に求めたいと思う。ここに於て喜び悲しみは快不快とその様相を画然と截断する。快不快が身体の肯定的方向と否定的方向であるに対して、喜び悲しみは人格としての自己と他者の結合に最も深い根源を有するのである。歴史的創造的世界の内的方向として、我と汝の一の実現が最も深い喜びとなるのである。喜びはこの我を消しての世界の実現に見るのである。

 人格的となるということは、他の人格に対することであり、個的身体的なるものを超え たものとして、世界が世界自身を作ってゆくことである。この我を消して世界の実現に見るのは、この我の奥底に世界が世界自身を実現してゆくものがあるのでなければならない。身体は個と世界の矛盾的同一として、自己自身を限定するものでなければならない。自覚として自己の中に自己を見るとは、世界の中に自己を見出でてゆくのである。私は感情は此処より出でてくるのであると思う。我々の情熱は自己の中に世界を見んとする意志である。少女が昏れてゆく空に向って涙を流すのも、三蔵法師が死を決して印度に渡ったのも同一なる生命の噴出に外ならない。

 幼児のほほえみは直に我々のほほえみとなり、その昔ギリシャに流した悲劇の涙は我々の頬を伝って流れ落ちる。私は喜び悲しみは、古今東西を超えて直に一なるものがあると思う。世界が働くとは、多くの人が直に一なるものによって結ばれている事である。個的多が一である。そこに感情の現われ来る所以があると思う。

 喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないと言われる。それは我より出 ずるのでもなければ、汝より来るのでもない。我と汝の出合いの中より、我と汝に湧き来るのである。人とか物とかとの一々の出合いに如何なる表情をもつべきか、我々は予定するのではなくして、出合いに於ておのずかなる姿勢をもつのである。そこに感情は世界が世界自身を見る所以があると思う。

 世界が世界自身を見ると言っても一般としての世界が喜び悲しみをもつのではない。喜び悲しみをもつのは個としてのこの我であり汝である。個としてのこの我、汝が喜び悲しみをもち、喜び悲しみが世界が世界自身を見る所以である為には、この我亦は汝は内に世界をもつものでなければならない。

 個は個に対することによって個である。対するとは相否定することである。我と汝は否 定し合うものとして我と汝である。而してこの否定し合うことが結合することとして我と 汝はあるのである。例を国技としての角力に取れば、取組んでいる二人の内一人が勝って一人が負けなければならないのである。何方も相手を倒すべく渾身の力を振わなければならないのである。相手を倒そうとすることが角力をとるということである。否定し合うということが結合するということである。而してそれが角力の世界が世界自身を作ってゆくということなのである。喜び悲しみはこの否定し合うことが結合することであるところより出でてくるのである

 取り組む二人はそれぞれ習練と、習練より得た技術をもつものである。個的自己として内包をもつものである。個的なるものとして内包をもつということが人格的であるということである。人格的であることによる否定と結合が感情を生むのであると思う。友愛も憎悪も尊敬もここから生れるのである。

 技術も亦否定と結合の中より生れる。それは歴史的形成的である。自己の中に自己を見るとは過去が現在であるということである。無限の過去が現在の中に蓄積されているということは伝統的であるということである。伝統を踏まえていることである。踏まえるとは新たなるものを生むことである。新たなるものが生れるとは未来より呼ばれることである。過去を含み、過去を超えて新たなるものを見出すところに自己があり、自己を見出すことが自覚である。自覚とは歴史的形成的自覚である。

 私は感情も歴史的形成的であると思う。勿論何処より来り、何処に去りゆくかを知ら ない感情は形をもたない。それは瞬々に現はれて消えゆくものである。形のないところに形成ということはない。唯私は歴史的創造としての無限の世界の構築は、一瞬一瞬の喜び悲しみに無限の陰翳を宿すと思うものである。喜び悲しみは深まりゆくのである。我々は世界の深さに於て、深い喜び、深い悲しみをもつのである。よろこびという字に喜歓悦慶がある。これはそれぞれ個有の内容をもつ、私はこれは歴史的形成としての、世界の陰翳を宿すことなしには考えられないとおもう。感情は生命の結合が世界として、否定が個として、世界と個の無限に動的なる全存在の表出であると思う。生命は感情に於て全体像を現わすのである。我々は生命限定の深奥に感情をもつのである。感情に因て動きゆくのである。

 真は知に、善は意志に、美は感情に因ると言われる。感情が美であるとは如何なることであろうか。私は矢張り歴史的形成的生命を宿す感情の陰翳の中に求めなければならないと思う。否定が結合であり、結合が否定である生命創造を宿し、喜び悲しみが自己の中に新たなる陰翳を宿すこと自身が美なのである。生命形成は常に形相的である。而してその形相は動的である。形より形へである。感情はその動的方向として形をもたないのである。而してそれは形に即して形をもたないのである。形に即して形をもたないとは、形に即して現われることである。身体が時間と空間の矛盾的同一としてある時、空間が時間を宿す方向に物としての身体があり、時間が空間を宿す方向に感情があるのである。斯るものとして芸術の形相は常に韻律の翳である。韻律とは生命が自己の中に自己を見てゆく身体のあり方である。感情が物に即した形である。身体の中に見出でた身体が舞踊であり、色彩の中に見出でた色彩が絵画であり、音の中に見出でた音が音楽である。而してそれは各々即した物のあり方によって韻律を異にするのである。一々が歴史的現在の形相に結びつきつつ、それぞれの韻律をもつのである。

 私は前に古代ギリシャの人の流した涙は直に我々の頬に流れると言った。ホモ、サンピエスとして、身体の構造を等しくする我々は、古今東西を越えて直に結ぶ涙、響き合う血潮をもつのである。一瞬一瞬の歴史的形相は此処に陰翳を宿すのである。一瞬一瞬に異なる涙は其の深奥に大なる同一をもつのである。此処に我々は芸術的表現の衝動をもつのである。自己の生をこの大なる同一を通じて他者に呼びかけ、呼びかけられるのが表現である。芸術は永遠であると言われる。それは書いたものも、書かれたものも永遠であるのではなくして、それはこの大なる同一に宿された影として永遠なのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」