文化について

 「砂漠の文化」という本を読み乍ら私は、オアシスとは砂漠に与えられた天恵の濕地帯ではなくして、人が砂との戦いに築き上げた歴史的産物である事を知った。用水溝を掘り、貯水池を作り、降雨の殆んど無い地域に於いての撓まざる利水への努力が 人間の生活を可能ならしめるのである。天山山脈の氷雪の融け水が河となって流れ、果てしない砂の乾きの中に消えてしまう迄の間の、利水の努力がシルクロードのオアシスとして点在したのであると言われる。

 人は手を持つ事によって人間となったと言われる。手とは物を作っていくものである。物を作るとは、欲求としての生命が外に自己を露はとする事によって自己を充足していく事である。物とは生命の外在の形相であり、物質の概念も近代的自覚の所産であるという事が出来る。

 物を作るという事は技術的となるという事である。我々が人類の特長とする、知るということも其処から生まれてくるのである。例えば水利の為の溝を作るとする、それがより大なる水の力の為に決壊する。すると前の技術を参考として新たな技術を案出する。技術は新しい状況の前に新しい技術が生まれて来る。技術は次の技術を呼ぶの である。それが技術の内面的発展であり、知るという事は斯る内面的発展を宿すとい うことである。前の技術と、現在の技術と、未来へ展開すべき可能としての技術を内 に持つということである。

 此処に文明の発端がある。文明とは環境として我々に与えられたものを、我々の欲求の秩序に再編する事である。欲求の外化としての商品の氾濫は文明の爛熟である。物として外化する事によって我々に新たなる欲求が生まれ、新たな欲求によって新たな物が生まれる。文明は斯る無限の進行である。

 而して外化はまた内化である。外に物を見るという事は内に自己を見るという事である。言葉を作ったものがないと言われる如く、技術は内外交換としての生命が人間に於いて自覚的であるところより生まれたものと思う。時間は操作の形式であると言われる如く、それは世界形成的として時間をも内に包むものであるという事が出来る。 時間を内に包むものとしてそれは伝統的である。技術的なるものは伝統的なるもので あり、伝統的なるものは技術的なるものである。それは世界形成的として歴史的なる ものである。私達は斯る世界に生まれ、技術を習得して自己となるのである。生産亦 は其の結果としての物に関る事によって世界に関り、世界に関る事によってこの我が あるのである。

 伝統はこの我を超えたものであることによって伝統である。技術は其の淵源するところを知らない。強いて求むれば人間生命が自覚的であるという以外にないように思 う。我々を超えた過去からあり、我々がそれによってあり、我々を超えた未来を生み ゆくこの歴史的世界、我々がつくりつつ我々を超えてその内面的必然を持つものでな ければならないと思う。それ自身の内面的必然をもつという事は歴史的世界は我々によってつくられつつ、逆に我々を歴史的世界の自己顕現の内容とする事である。時代の流れに勝てないとよく言われる。世界は世界自身の自己限定をもつのである。我々は世界の自己顕現の内容として、我々が自己を有限として過去、現在、未来を見るのは世界本来の内容となるものでなければならないと思う、世界は過去、現在、未来を内に包むのとして自己を限定していくのである。世界の中に時は生まれ、時は消えつつ世界として一つなのである。伝統は斯るものの上に初めて成立するという事が出来る。

 永遠とは過去、現在、未来を内に包み、其の中より時が生まれ、時が消えいくところである。静止しつつ無限に動きゆく永遠の形相は世界の自己限であるという事が出 来る。我々が伝統的技術的であるという事である。私は前に技術とは欲求としての生 命が外に自己をあらわにし、物を作っていく事であるといった。技術は斯る欲求的な るものに永遠なるものが働くということである。欲求的なるものが永遠の内容となり、 逆に永遠なるものを内にもつということである。時間は過去より未来への流れに対して、未来より過去への逆限定に於いて成立すると言われる。このことは永遠が働くも のであり、永遠が働くということである。

 生命は形相具現的である。私は前に欲求的生命の形相的具現としての物の生産が文明であると言った。そして斯る生産の根底には技術としての世界の自己創造があると言った。生命は形相具現的であるという時、生命はこの欲求的生命よりの方向と世界よりの方向の具現をもつ事によって自己の具体的な形相を顕現していくのである。私は欲求的生命よりの方向が文明であるに対して、世界よりの方向に文化が見られると思う。文化は文明の上に咲いた仇花ではなくして同時発生的である。生命の自覚の両面である。

 生命の自覚の欲求よりの方向と世界よりの方向というのは相反するものである。欲求は充足と共に消滅し、次の欲求が生まれてくるものである。物はその欲求を充たすと不用となり、次の欲求を充たすべき物が作られるのである。それに対して世界は時を包むものである。文化は時を超え、時を包む永遠の形相を志向するのである。物は技術的生産物として瞬間性と永遠性を有する。それが欲求的方向を志向する時実用 品として日々の生活を充たすものとなるのであり、世界顕現的なる時、永遠の形象と して精神を充たすものとなるのである。

 相反するものは単に対立するのではない。対立するものは否定し合うものである。 文化は文明の否定の上に成立するといわれる。物としての形相の日常性を否定して、永遠性の純なる造型を求めるのである。物は欲求充足の実現として形をもつ、その形をして形相実現の根底へと還らしめるのである。根底に還るとは日常性の否定でなければならない。哲学も詩も言葉に於いて日常性を超えるのである。色彩に於いても何かの目印は生活の必要である。而し絵画は日常生活の必要を超えたものである。

 日常性の否定と言えば、何か日常的なものが先ずあってそれを否定するものが現れ たと考えられるかも知れない。そうではないのである。其処からは否定の発生という ものを考える事は出来ない。物の出現という事がこの両面をもつことによってあるの である。自覚としての技術的製作は相反するものを内包することによってあるのである。物は矛盾的なる事によって形相をもつのである。その一つの方向を志向するのである。一つの方向の志向は他の方向を否定するのでなければならない。物は有限なるもの、相対的なるものとして物である。而しその具現は永遠なるもの形を超えたものが働くのである。そして形は生命の自覚的実現としてこの両面を持つのである。故に日用品も永遠の一面をもち、芸術品も商品の一面をもつ、唯その志向に於いて否定し合うのである。闘うのである。我々は日常として生活する。文明的展開に於いて生活する。文化は斯るものの否定として価値の転倒である。

 文化の創造を担うものはその無関心性がよく言われる。無関心とは何事にも関心を 持たないと言う事ではなくして、通常、日常生活に於いて持つ関心を持たないという 意味である。

 美衣、美食、名誉、権威等に無関心であるということである。永遠を見つめるものにとって平氏の栄華も槿花一朝の夢に外ならない。百万石も笹の露である。結ぶ草庵こそが安住の家である。価値は有るものにあるのではなくして、有るものの内深く見えて来るものである。日常生活者にとってそれは一つの狂者に外ならない。世界は日常的、有限的自己の達すべからざる深さである。世界が世界自身を限定するところに世界があるのである。この達すべからざる深さが現れる処に文化があるのである。故に文化の世界は啓示的であり、霊感的である。作ろうと思って作るのではない、現われるのである。創作は常に永遠の女神に呼ばれ招かれるのである。招かれて我々は知らざるところにいくのである。其処に世界は自己自身をあらわす、それが文化の内容である。斯る声を聞き、斯る御手を見た者が天才である。天才は努力すると言われる。而しそれは努力ではなくして斯る声、斯る御手の中にある自己が眞の自己として行かざるを得ないのである。ミケルアンジェロには鑿の先に目があると言ったという、一打が次の一打を呼ぶのである。形が次の形を見ていくのである。世界が永遠の形相を開顕していくのである。其処に何等この私を挟むものがない。絢爛たる文化の形象は斯る天才によって見出されたものである。

 文化は個的、世界的としてのこの我の世界的方向に見られる。而してこの我の世界的方向に見られるということが世界が世界自身を創るということである。我々の脳髄 の働きは宇宙の自己認識であると言われる如く、我があるということは全存在に於い てあるのである。個的、世界的ということは全人類的ということである。唯一生命に 於いてあるということである。ロダンが道を行く少女を指さし乍ら「あそこに全フラ ンスがある」と言った如く、全てあるものは全存在に於いてある。

 眞理を証するものは世界である。それは眞理が世界の展開なるが故に外ならない。 内なる良心の声は世界より聞こえて来る。エチオピアの飢餓より、東南アジアの虐殺より我々を呼ぶのである。美も亦我々の視覚の楽しみでなくして深く世界を表すと ころにある。我々は其処に文化を見るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」