木蔭に寝乍ら

 私は夏になるとよく好古館の東の公園に本を携えて行く、そこにはたくさん植えられた 楠の木があって、その中に特に大きなのが一本ある。丁度午后の二時頃になると下に置かれたベンチが翳ってくるので、私は仰向けに寝転んで本を読むのである。濃緑の葉が内部見えない位繁っているのを見ると、その一樹は葉に満ちているようにおもう。併し寝転んで下から見上げると、見えるのは複雑に伸びて組合う枝が殆んどである。それは丁度傘を拡げたようである。骨組の上に布を張ったようにして葉がついているのである。私は曽って樹木は葉を光合成が最も効率的に出来るように拡げるというのを読んだことがある。成程とおもう、そして何時もこれが太陽光線を最もよく受ける為に自然が作った形なのだなあとおもう。よく見ると重なり合っているように見える葉の一枚一枚が、自分の太陽光線を享受出来る面をちゃんと持っている。而してそのことは、下に寝転ぶ私にとって大変快適な空間を作ってくれるのである。全てが太陽光線を最大限に受けようとすることは太陽光線の少ない所は陶汰されてゆくということである。上に伸びた枝が繁って、曽って葉をもった、下になった枝は枯れてゆくということである。見上げる私は高い木の一番上の方迄自由に視線を遊ばすことが出来るのである。

 高く大きく拡げた木蔭を通う風は涼しい。木蔭を区切って外は照りつける日差しに暑い風が吹いている。その風が蔭に入るととたんに涼しくなる。私はそれが何時も不思議で仕方がない。そして未だそれを解明した本に出会ったことがない。併し私は不思議なものに身を委ねているのも楽しいことのようにおもう。標とした無限なものの上に漂うているような気がするからである。

 本を読んでいると時折り、大きな目の紋様を持った蝶が降りてくる。降りてくるのが殆 んど何時もその蝶であることをおもうと、恐らくこの楠の何処かに棲んでいるのであろうか、私にはこの目の紋様が翅にどうして出来たのであろうかということも不思議の一つである。第一に考えられることは敵を威嚇するためである。これは誰も思うことであり、恐らく正しいのであろうとおもう。不思議は次の問いからである。何うしてそれを蝶が知っているかであり、何うして翅に紋様として現れたかである。外に現われるためには何か内にはたらくものがなければならない。如何なるものがはたらいたのであろうか、そこで考えられるのは、蝶は度々斯る目を持ったものに襲われ、殺されたということである。この丸いのは恐らく鳥の目であろう。そしてこの様な目に出会った時、蝶は本能的に逃走の飛翔をもつのであろう。併しそれが何うして翅に巨大なる目の紋様となって現われたのか。

 私はここで更に細胞の不思議へと思考を進めなければならないようである。鳥の目に恐怖するとすれば、同じ形相の更に大なるものは、より大なる力をもつ筈である。大なる力は小なる力を圧伏する筈である。逃げ出さなければならない目は、更に大なる目によって追い払える筈である。私は恐怖によって紋様が出現したとすれば、蝶の内部に斯る生命の論理が働いたとおもわざるを得ない、測り知ることの出来ない時間の中に、限り無く襲われ、食われることによって、生命細胞は斯る形を現わし来ったとおもわざるを得ない。如何にしてという問いを超えて、生命細胞は保護色虫が自在に色を変えるごとく、生存に最も適する形を実現するものとおもわざるを得ない。

 近頃は余り見かけないが、一時よく原始社会の彫刻が公園などで並べられたものである。直線の輪郭の顔、逆立つ眉、大きく剥いた眼、張り出た鼻、分厚い唇、そして犬のような牙、それらは全てわれわれを威圧し、恐怖に導くものであったようにおもう。それ等は原始人が魔除けに作った形であるという。それ等は全て悪魔の形相である。悪魔を払うために更に大なる悪魔の形相を見出たのである。勿論それは生命細胞が自己を具現したのではない、自覚的生命として外に、木や石に表わしたものである。併し私はそこに生命細胞と人間の表現の接続を見ることが出来るように思う。生命細胞の中に人間の表現の原質を見ることが出来るようにおもう。

 形は内なるものの表れであり、内なるものの表れとしての形が美であるとすれば、私は芸術の淵源はここにあるようにおもう。原始表現は、更に生命細胞に潜むものの中にあるようにおもう。勿論蝶の紋様が芸術とは言えないし、原始的表現も芸術とは言えないものであろうとおもう。人間は自覚的として外に物を作り、内に愛を創った。そこに人間は無限の多様なる形をもったのである。言葉を介して形が形を生んでゆくのである。価値はそこより生れる。美も美的価値として内面的発展をもつものであり、芸術とは形の内面的発展に付けられた名であるとおもう。併しての形が形を生んでゆく内面的発展の力は、蝶が襲われ食われた限り無い時間の中に見出して来た、目の紋様の出現と同じ力がはたらいていると思わざるを得ない。生命細胞が目の紋様をもったということは思議すべからざるものである。私はそれと共に芸術家の手を動かす形の出現も思議すべからざるものであるとおもう。芸術家は作ることが呼ばれることであるとおもう、知らざる手が導くのである。私は私達の背後に全生命を一とした、大なる生命の運びがあるようにおもう。我々の思議は不思議の上にあるのである。不思議が思義するのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」