日本文化が問われるとき、常に出てくるのが無ということである。それは幾百年間問い直され、答え直された問題のようである。而して現在も尚、書店の棚に無を問う文字が背を並べている。私はそのことは無は西洋的な概念的定義をもち得ないことに由るのではないかと思う。
無を問うということは、それ自身が矛盾である。無が単に無いということならば、そこ から問いの生れてくる所以があり得ない。問いが生れてくるのはそれが相反するものを含むが故である。有が無であり、無が有である、そこに無への問いが生れてくるのである。無が有であり、有が無であるとは、有も無も無いということである。併し有も無も無いところには有が無であり、無が有であるということは出来ない。あくまで有は現前するものであり、現前するものは無としての現前でなければならない。而してそれが人間生命のこの我の存在のしかたであるところに問いが生れるのである。
生命は内外相互転換的である。生きているとは、外を内とし、内を外とすることによっ て形作ってゆくことである。斯る内と外とが転換的に純一であるということが、生命が内外相互転換的であるということである。動物は外として食物的環境をもち、内として身体機能をもつ、それは相互否定的である。動物は労力を費して食物を求めなければならない、それは苦である。併し動物はその特にすぐれていると言われる嗅覚に於て食物的環境と一体である。
犬を散歩に連れて行っていると、突然草むらの中にかくれて何かを咥えてくることがある。どうして探したのであろうと思う。そこには犬とそのものの間に特殊な関りがなければならないと思う。咥えて来たものが、犬の嗅覚をとおして呼ぶということがなければならないとおもう。求められるものと求めるものが、誘い誘われる関係としてあるのである。私の家の裏庭の、コンクリートの裂目に咲いた二、三輪の小さな花に、密蜂の来ているのを見たことがある。花と言えばそれのみである。しかも家に囲まれているのである。そこには我々の思考を超えた生命空間とでも言うべきものがあると思わざるを得ない。それは花のにおいを介して、蜂と蜜が一なる動的空間である。
私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、自己を外に形に表わすことである。外に形に表わすことによって我々は自己を見るのである。外に形に表わすとは、内外相互転換としての動的一なる生命が、内的なるものと外的なるものに分れることである。それは外なるものを物として、内なるものをはたらくものとして、技術的製作的となることである。自覚的生命とは、技術をもって物を作ることによって自己を実現してゆく生命である。我々の自己とははたらく自己である。
我々の自己がはたらく自己であり、外に物を作るとは、内と外とが分れることである。 分れることは対立することである。対立するとは相互否定的としてあるということである。動物に於ても内外相互転換的に一であるとは、相互否定的に一であるということであった。それが自覚に於て否定面が露はとなったのである。
物を作るとは、外としての我ならざるものを、我の表われとすることである。外を否定 することである。それは同時に、物を作るとは我を外とすることである。この我が物に 化すことであり自己を否定することである。物に自己が表われることは生であり、自己が物に化すことは死である。斯くして表現的世界は生即死、死即生として無限の動転である。我の表われたものは我の化したものとして、外に我に対立するものとなるのである。我々は我の表現物を外として、更にその底に我を表はすべく努力するのである。外として死として迫ってくる物を生ずべく努力するのである。我々日常の営みとはる無限の経緯である。
我と物が対峙するということは、生が死に対峙することであり、それは苦痛である。生 即死として外より自己が否定されるとき、そこに我々は自己を見る。死する自己、有限なる自己として我々は自己に目覚めるのである。斯る自己が死即生としての、有限なるものを超克せんとする、内よりのはたらきに自己を写すとき、無限の苦悩となるのである。死即生の方向に永遠なるものを見て、己れの生命の朝露のはかなさに悶えるのである。
自覚的生命とは製作的表現的に自己を見てゆく生命であり、製作とは物を作ってゆくことである。物は内外相互転換の形相的実現として、何処迄も変転してゆくものである。我々が製作的生命として物を作ってゆくとは、物に自己を表わすことであり、物に自己を映すことである。何処迄も物に自己を映してゆくのが自覚的生命に生きることである。それは変転し生死しゆく有限相対の世界である。自己が物に即して自己を見る限り離れることの出来ない世界である。生きるとは苦悩に生きるのである。
併し分れたものは一つのものが分れたのであり、対立するものはそれを包摂するものに於て対立するのである。苦悩は克服すべく我々に努力を強いるのである。そこに無の問わるべき所以がある。有限として変転し、生死するものの否定を問わなければならないのである。有の否定は無である。
ここに如何に否定すべきかの問題がある。我々は生きるものとして、それはあく迄生命の営為に即して否定されるのでなければならない。自覚的生命の内外相互転換に即して否定されるのでなければならない。物は我の表われとして、自己を見るとは物に着すること である。物に着するとは、見出でた我に着することである。物に執し、自己に執するところに物と我とは相対し、有限として相互否定的となるのである。私は純一なる内外相互転換の自覚として見出でた物と我は、再び純一なる転換にかえるのでなければならないとおもう。否定したものによって否定されるのである。
自覚的生命としての内外相互転換は製作であった、製作に於ては最早原始的生命の如く内と外と感官的に一であることは出来ない。物と我の対立するものが一なのである。人格的に一である。製作するとは、物と我とが行為に於てそこに消えるのである。消えて現われるのである。そこに有の否定がある。それは創造的否定である。我と物が無くなるのではない。我と物の根底に、我と物の消えゆく更に大なる生命の流れを見、我も物も断る 大なる生命の影と見るのである。
ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言ったとき、そこには自己も物もない 唯実現してゆく彫像あるのみである。発明家は寝食を忘れる。寝食を忘れるとは自己がそこに没することである。自己が没するとは無我であることであり、我のないところに物もない。そこに製作的生命の内外相互転換の純一がある。有限として相対するものはここに否定されるのである。而してここより物も我も生れるのである。無となるところより生れるのである。
併しここよりまだ無への問いは生れない。製作的自己としての無我は、大なる流れの中にあるというのみである。無への問いとは斯る自己を無とならしむる大なる生命を真の自己として、その消息を問わんとすることである。行為するのではなくして、行為の根底を言葉によって捉えんとすることである。見られた自己を見るのではなくして、見る自己自身を見るのを真の自覚とせんとすることである。
それによって我と物のある世界とは、物でもなければ我でもない世界でなければならない、その世界は物によって見られるのでなければ、我によって見ることの出来ない世界でなければならない。それは物と我とに自己を露わとしつゝ、否定的転換的に露わにするものとして見ることの出来ないものでなければならない。 我と物が否定転換的に露わとなることが、自己を露わとするものとして、私はそこに生命の初めと終りを結ぶものを見ることが出来るとおもう。
初めと終りを結ぶ生命が内外相互転換的であるとは、創造的であるということである。創造的とは技術的に自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に見られた自己として、内外相互転換的に露わとなった自己が、初めと終りを結ぶ生命の表れとして、始めと終りを結ぶ生命に触れるとき、製作的自己を無我ならしめた絶対の無に接するのである。それは自己の中に自己を見るものとして、無限の活動であるとともに、見られたものは自己の中に見られたものとして無限の静止である。相互転換的に自己を限定するものとして、常に現前すると共に、一瞬も捉えることの出来ないものである。
禅家に大死一番という言葉がある。見ることが出来ないということは、知見によって捉 えることが出来ないということである。物を捨て、自己を捨てて唯現前そのままとなるところに見られるものである。現前そのままとなることは原始的生に還ることではない。あく迄も製作的努力に生きるところである。製作的生命が真の自覚をもつのである。製作的努力の過程を経ずして至り得ない世界である。我と物なくして、我と物を捨てることはあり得ない。自覚的生命として、自己の中に自己を見るとは死して生きる道である。我と物がそこに死ぬとは、我と物が始めと終りを結ぶ永遠なるものの風景となることである。そこに我と物の真の姿が現前するのである。そこは我と物の相対的知見を捨て切ったところに見られるものとして絶対の無である。そこは全てのものがそこより生れるところとして絶対の有である。
私は日々是好日と言った如きに斯る風景を求めたいと思う。これは我や物を介在させてもつことの出来ない世界である。知見によって捉えることの出来ない世界である。それは唯在る一日一日である。併しこれは大力量の士によってのみもち得る日々である。一瞬一瞬を常に大死出来るもののみが維持出来る日々である。悲しみ痛みを永遠なるものの影とし得るもののみがもち得る風景である。
始めと終りを結ぶものが、自己の中に自己を見ることによって我と物があるとは、我と 物は始めと終りを結ぶものであることである。そこに無が自己の奥底への参見である所以がある。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」