普通私達に目があり、向うに対象があって目は物を写すと思われている。併し少し考えればそれが如何に表面的なるかが判るであろう。豚は何故真珠を欲しないのか。人間は美を感じる目を創って来たのである。豚は豚の創って来た目に写し、人間は人間の作って来た目に写すのである。
八月号の片山さんには参った。確にみみずに空の青が解るかと書いた記憶がある。併し決して「手前たちに判ってたまるか」と見得を切ったのではなかったのである。作った機縁は忘れたが、何時かの批評会で解らんと言われたのであろう。私は生命は創造的であり、人間は自覚的創造的であるとおもうものである。
自覚的とは意識して、努力して作ることである。私達は歌を作る。歌を作るとは言葉によってものを見ることである。言葉によってものを見るとは、豚が胃腑の欲求によってものを見るのに対して、高次なる立場からさまざまのものが見えるということである。
人間だけにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。人間の目は言葉をもつものの目となることによって、他の動物の見ることの出来ない世界を招いていったのである。言葉がもつものの目となることは、新たな言葉をもつということは、新たな世界が生れてくるということである。私達は対象を創ってゆくと共に目を創ってゆくのである。よくあの人はものを見る目を持っとってやとか、目の利く人やとか言う。それはものを創造のふかさに於て見ることが出来るということであるとおもう。私達が歌を作るのは作ることによって見るのであり、見ることによって作るのである。それは世界を創ることであると共に自己の目を創っていることである。
以上のようなことを考えていたので無礼とも言うべき歌を作ったのであるとおもう。 御寛恕願いたい。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」