現代短歌について

 正岡子規の「歌人に与ふる手紙」の中の一節「紀貫之は下手な歌詠みにて候」より近代短歌は初まったと言われる。果して紀貫之は下手だったのであろうか。私はそう思うことは出来ない。貫之死して千年、その間誰も正当な評価をなし得ず唯々諾々していた私は我々の祖先が馬鹿だったと思うことは出来ない。それでは子規の意図は那辺にあったのであろうか。私は彼の短歌革新の情熱にあったと思う。滔々たる維新開化の西洋文物の流入は彼の目に無限の世界を開顯して行ったであろう。即物的なる 西洋芸術は、宮廷歌人の幽玄体、艶麗体なぞという呪文の繰り返しを唾棄すべきものと思はしめたであろう。古き偶像の破壊なくして新しい権威の確立はない。新しい世 界は自己の表現を求めるのである。

 それから幾十年、万葉に還れの声に全歌人は唱和し、写生の理念は見事大輪の花を咲かせたと言い得る。斉藤茂吉を頂点とする幾多歌人の成果は仰ぐべく高い。而しそれと同時に写生の理念に基づく作品は最早完成された感じがする。新聞に雑誌に同人誌に日々発表される夥しい作品は殆どが同工異曲である。発想の基盤を等しくし、事象に於いて異なるのみのものが多いように思う。類型の中に埋没することは作品を創造とするものにとって耐え難いことである。私は現代短歌とは幾多新鋭歌人の、写生理念よりの脱却乃至は脱却的努力の一群を指すと思う。創造とは何か、私は創造とは歴史の運であると思う。世界は物と人、我と汝の対立を含みつつ一つである。対立は対立を生み、常に新たなる一つが実現する。それが歴史である。無限に動転してゆく矛盾の統一が創造であると思う。芸術が創造であるとは斯く常に新たなる歴史の自己表白であると思う。我々の作品が創造であるとは、我々は世界の中の一人として 世界の動きを聞きとり、対立を一ならしめる歴史的生命の内的なるものを露わにすることであると思う。私達は若し生まれた時に無人島に捨てられていたらこの我というものはない。歴史的創造の創造的個としてのこの我である。この創造個としてのこの我が世界を自己の内なる深き奥底として自己の行履に世界の内奥を見るのが創作であると思う。

 歴史は常に矛盾的に自己を限定してゆく。その軌りが我々の哀歡である。矛盾とし動くものは常に新たなるものである。新たとは過去を否定したことである。歴史は常にこの否定の苦悶によって動きゆくのである。私は耳を澄ましてこの声を聞き、目を凝らしてこの相を見るのが芸術的創造であると思う。創造は自己の恣意にあるのではなくして我々は歴史の自己創造の中に自己を消してゆくのである。この死灰の中より羽搏く不死の白馬が作品である。

 若いものの思考、行動の変化はよく日々の新聞、テレビの報ずるところである。それは我々大正生まれの者から見れば異質とも見えるものである。私は若者とは現代の 体現であると思う。生まれるものは歴史的現在に生まれるのである。異質と見えるの は世界が質的変化しようとしているのである。若者の身体がもつリズムは歴史的現在 の律動である。私は歴史は正岡子規が宮廷短歌につきつけた如き変革を要求していると思う。 コペルニクス的転回を要求していると思う。

 写生の理念は生の真実にあると言われる。実相観入をその究極とする。この生の真 実は如何なるものであったのであろうか。私は自然の中に生まれ働く生命、自然の暴 威と闘い、恵みに感謝する生命、即ち受容の生命であったと思う。農耕的基盤の上に 立つ自然と人間の交叉であったと思う。中世も農耕社会であった。その意味に於いて 中世も近代も同じ基盤の上に立つ。子規が否定したのは対象と遊離した位置より見る宮廷的観照であったと思う。そして否定へと働かしめたものは西洋的生産の概念で あったと思う。農耕社会より、工業社会へ、更に情報化社会へと歴史は移る。其処に表現のスタイルを変革すべき要請がある。而し子規の時代には西洋という衝撃があった。今はそれに比すべきものがない。其処に現代歌人の苦悩があると思う。

 最近よく古今、新古今の見直しということが言われている。古今とは何か、私は仏教、道教等のもつ内面的なるものの目をもって対象を見ようとした努力の表白であると思う。幽玄は斯る内面の目による対象の創造であったと思う。中世日本文学の研究家谷山茂氏は其の自序に於いて言う、「定家、家隆達いわゆる新古今時代の歌人達の 血みどろな苦悩の山にぶつかってしまった。こういう人達の一見絢爛たる色彩の蔭に は、沈痛を極め真摯に徹する悲願が深く潜められている。」 そしてそれが幽玄の道で あったという。

 生命は内外相互転換的である。表現に於いても内的なるものが形の飽和に於いて行き詰まり、外的なるものが台頭して新しい形を造り、その形が飽和して内的なるものがこれを打ち砕き、更に新しい形を見出してゆくのが自覚としての人間生命であると思う。私は受容としての写生の道はものの中に自己を消し、ものそのものとなって見ることにあったと思う。ものそのものとなって見ることはものが働くことである。外を内とすることである。斯るものの否定とは内を外とすることでなければならない。ものの中に消えるのではなくしてものの変革者となるのでなければならない。私は明治以降の近代と現代を分かつ質的なものを斯る立場に求めたいと思う。

 写生に試行錯誤はない。唯鍛練あるのみである。而し現代短歌に試行錯誤はつきものである。正確な内容は忘れたが「私達は対象に接してそれを何う言葉に表はそうか と苦心したものであるが、今の若い人達は言葉が先にあるように思う」と言った意味 のことを対談で述べているのを読んだ事がある。この場合言葉とは日常のお喋りでは なくして、理念としての内的なるものであると思う。対立、死、不安等内的なるものによる造型化であると思う。写生に於いて不完全なる没入が未熟であった如く、内的なるものの不完全なるものは独善となる。独善とは万人の内容であるべき言葉が訴求機能を失ったことである。言葉が独り歩きをして対象構成の働きをもたないことである。

 現代短歌は現在自己の像を模索中である。塚本邦雄も山中智恵子も短歌の主流とは言い得ない。主流ではないということは真に現代の感情ではないということである。 一つの方向であっても、現代を包括する唯一者の理念を提起していないということで ある。或はこの混迷そのものが現在としての世界かも知れないが、混沌が凝固する為には今暫くの時が必要のようである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」