生死

 近頃は熟れた稲田の畦を歩いても、風が流れてさらさらと穂波を立てるのみである。 私達の小さい頃は、秋の稲田と言えば無数の虫の棲家であった。雑魚取りなんかで、畦にはみ出た穂を分け乍ら行くと、蝗やよこばいが縦横に跳び散ったものである。その中に混って少数乍らかまきりがゐた。あのやせたかまきりが大きな斧をふりかざして、果敢に迫ってくると、悪童どももたじろいだものであった。

 秋も終りに近くなり、稲を刈る頃になるとそのかまきりの、雄が雌に食われるさまがし ばしば見られたものである。雄かまきりの大きな腹が半分程なくなって、そのなくなった処より、雌かまきりの口が続いており、雄かまきりは苦痛に耐えているのであろうか、背を反らせるだけ反らして動かずにいるのを見ると、性を同じくするものとして、悲痛の感なくして見得なかったのを思い出す。

 食は個に関り、性は種に関ると言われる。生命は個的、種的である。個的方向と、種的方向をもつことによって生命は自己を維持してゆくのである。併してこの両方向は決して和平的な結合をもつのではないらしい。食われるかまきりや鈴虫がそうである。亦おたまじゃくしや蜘蛛の子は無数に生れる。それは全部が生きようと思えば、全部が死ななければならない数らしい。即ち彼等は殆んどが死んで、幾何かが残るべく生れて来たのである。種は斯る残酷をもつことによって生命を維持してゆくのである。

 生きているとは自己矛盾としてあることである。生きているものは死ぬ。生は死の対極をもつことによって生である。死の対極をもつことによって生であるとは、生は死すべく生れ来ったということである。生けるものは全て、生れ来った時より死への道を急ぐ旅人である。而しそれは滅亡への道ではない。種の形相を実現したものは、新たな環境適応をもつ生命に、種の形相実現を負託して死にゆくのである。個的種的なる生命は、個の生命が死ぬことによって種の生命を維持してゆくのである。

 私は自覚する生命として人間を捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己を知ることである。自己が自己を見るとは如何にして可能であるか。私は自己が自己を見るとは、自己を外に表わす事であると思う。我々は形に表わすことによって自己を見るのである。形に表わすとは物を作ることである。自己を物となすことによって我々は自己を見るのである。外部知覚の内容は形成的物でなければならない。物を作ることによって、内外相互転換としての食物的世界は外部知覚的となり、製作するものとしてのこの我は内部知覚的となるのである。

 それは技術的である。技術的であるとは、長い歴史の集積であるということである。技術とは死を生に転ぜんとする本能の行為を、集積し、整理して現在の環境との対決に、生の形相を打ち樹てる力だと思う。それは始めが働き、終りが働くことである。人間はそれを言葉によってもつのである。私は人間が他の動物と異るところは、初めと終りを結ぶ力を有することであると思う。我々が今斯くあり、斯く働くということは、全人類の無限の経験の、言葉をもつことによる蓄積と整理によるのである。

 湯川秀樹博士が物理学は視覚と関節覚の発展であると言われた如く、外に見るとは、身体的なるものを物に表わすことである。身体は物に自己を表わすものとして、何処迄も内なるものである。而して物に表われるものとして何処迄も外なるものである。

 生命とは身体をもつことによって生命であり、身体は内外相互転換として身体である。禅宗でよく、生命は呼吸の刹那にあると言われるそうであるが、呼吸とは内を外とし、外を内とすることである。摂食と排泄も外を内とし、内を外とすることである。

 内外相互転換的とは、生命は常に死に面しているということである。摂食に於て食物の欠乏は死である。呼吸に於て酸素の欠乏は死である。生命は危機としてあり、危機の克服として生きるのである。危機の克服の蓄積と構成が技術であり、製作である。

 言葉をもち、物を製作する人間は、動物が食物的環境としてもつものを世界として形成する。それは最早食物としてのみの意味を有するものではない。言葉が言葉自身の展開をもち、物が物自身の発展をもつのである。それが世界を形成するということである。人間は動物が、生得的に与えられた所に生きるのに対して、瞬々環境と自己を改造するのである。創造に生きるのである。

 私は此処で自覚というものに一歩立入って考察を加えなければならない。自覚とは内外相互転換の自然の流れより、人間が初めと終りを結ぶ力をもつものとして、言葉に写すことによって内と外を分ち、自己を分たれた内と外の統一者とすることである。内部知覚と外部知覚の相即者として無限に動的となることである。自然としての、所与としての内外相互転換が立体的構成的となることである。製作的表現的であるとは、何処迄も身体を離れると共に、何処迄も身体を基盤にもつのである。自覚とは空中に楼閣を見るのではない。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われる如く、表現は身体の発展である、日々の行為の上に成立するのである。

 内部知覚即外部知覚・外部知覚即内部知覚とは、生物的生命としての食物的な内外相互転換の発展として、常に死と背中合せにあり、自覚は亦危機の自覚として発展するのである。危機も亦自己形成的となるのである。

 初めに生命は個的種的であると言った。自覚とは斯る個的種的なる生命が無限に自己創造的となることである。創造とは、世界形成的に自己を見てゆくことである。技術的、言表的である。而して技術的言表的であるとは、この個としての自己を越えたものである。言葉も技術も生死するこの個を超えて、無限の祖先より継承し来ったものであり、子孫に達してゆくものである。言葉と技術は個を超えて世界として自己を見してゆくものである。生命に於て個を超えるものは種としての生命であった。私は自覚とは種の発展であり、世界とは歴史的形成的世界であると思う。

 生命は死をもつものであり、生物が死ぬとは種の中に死ぬのであった。種は個の生死 於て自己の連続をもつのであり、個は斯る連鎖の一環として、種の中に生れ、種の中に死ぬのである。連鎖の一環として死ぬということは、種に生きるということである。

 人間に於てはこの世界の中に生れ、この世界の中に死んでゆくのである。生物が生れて種の形相を実現してゆく如く、我々が生きるとは、よりよき社会を作ってゆく事である。より豊富な言葉と、より多様な技術をもつ社会を作ってゆくことである。

 生物に於て種は個に対して、残酷をもつことによって自己を維持してゆくと言ったごと く、人間に於ても世界と個は矛盾をもって対立する。個人は恣意を否定することによってのみ世界を実現するのである。世界は個人の恣意を抹消しようとするのである。 世界は法として個人にその従属を強制するのである。而して個的生命は恣意を否定してのみ、真の自己となることが出来るのである。生死する生物的生命を超えて、初めと終りを結ぶ世界に触れることが出来るのである。世界実現的として恣意は意志となるのである。斯るものとして克己を伴うことなくして、意志の実現はあり得ないと言い得るのである。

 雄かまきりが雌に食われてゆくのを見ると悲痛の感を持たざるを得ない。併しそれが種に生きる道である。人間は創造的生命となることによって世界を見る。そこには私は雄かまきりにも似た捨身がなければならないと思う。死して生きなければならないと思う。勿論自覚的生命としての人間は、生物の如く身体を殺すのではない。世界形成として、生死を超えた技術・言語に純一となるのである。本能的欲求を殺して、展けゆく世界そのものとなるのである。

附記

 先生から難しいことを書くなと言われた。それで私の文章の基礎となるものを記したい と思う。私は人間は生れて言葉を覚え、技術を習い、働いて物を作って、食って生きてゆき、そして死ぬ存在だと思っている。私はそれを究明しているだけである。唯それが如何なるものかと求めた時はかることの出来ない深さとなってゆくのである。残る生命を賭けて究め得るだけ究めたいと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」