全て生命が見るのは直観的である。直観とは生命が自己形成に於て物を見ることである。前にも書いた如く、生命は内外相互転換的である。我々は摂食と排泄に於て生きるのである。外を内とし、内を外として生きるのである。食物を摂らざることは死である。食物的世界は死として我々に対立し、対立することによって外となるのである。而してそれは単に対立するのではない。我々は外によって生きるのである。我々がそれによって生きるものとして、外は環境となるのである。死として迫ってくる外を内とするのが生である。内外相互転換とは死を生に転ずることである。そこに生命の営為があり、生命は努力によって生きるのである。
外が死としてあり、それを常に転換して生きてゆくとは、生命は常に危機としてあるこ とである。我々が環境の中にあることは、常に死に面していることである。それを生に転ずるのが営為である。死生転換の一瞬一瞬の形相を実現せしめるのが直観である。それは偶然的である。而しそれは単に偶然的なのではない。死を生に転ずることは、対象を変貌せしめることである。それは技術的である。
経験に於て書いた如く、我々の身体は無限に機能的である。その機能は何億年の生成の過程に於て、死生転換の経歴に於て組成されたものである。それは環境としての、自然の循環性に応じて組成されたものである。更に風土としての地理的条件に応じて組成されたものである。我々の身体は斯る基盤の上に組成された、能動的統一体である。死生転換の一瞬の偶然は、数億年の時間の背景をもつ行為なのである。
人間の身体のみにあって、動物の身体にないもの、それは言語中枢であると言われる 言語によって経験を蓄積することによって、人間になったと言われる。昔時語部が語り継ぐことによって、先祖の事蹟を伝承したと言われる。言葉は個体を超えるのである。個体を超えることによって、個体を内にもつのが蓄積である。一瞬一瞬の内外相互転換が、永遠に映され、永遠の内容となるのが蓄積である。蓄積に於て内が主観となり、外が客観的世界となるのである。
我々は一人一人が言葉をもつ。言葉は個体を超えたものである。個体を内にもつものである。一人一人が言葉をもつとは、個体は我を超えた世界を、逆に内にもつのでなければならない。一瞬一瞬の死生転換をもつのは個体である。経験が蓄積されるとは、個体が言葉をもつことによってはじめて成り立つのである。この我を超えたものを内にもつことによって、我々は自己の中に自己を見るのである。人間は自覚的生命である。
言葉は語り合うことによって言葉である。独語の如きも、自己の中に他者を見、他者としての自己との対話という意味がなければならない。言葉は私の言葉という意味に於て、私の中にあり、語り合うと言う意味に於て、私は言葉の中にあるのである。言葉の中にあるとは無限の他者と連ることである。我々はそれによって、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私の言葉によって我々は個的生命を自覚し、語り合うことによって、種的生命としての全人類を自覚するのである。而してこの相反するものは常に一である。私の言葉は語り合う言葉であり、語り合う言葉は私の言葉をもって語り合うのである。私達は語り合うことによって世界を作る、世界とは種の生命の自覚の形相である。
言葉が常に世界の実現でありつつ、言葉はこの我の言葉であるとは、この我に於て常に新たな世界が実現しているということである。世界は内に矛盾をもつということである。現在を否定し、自己を破ることによって、自己を維持するということである。無数の人々が対話によって生きているとは、世界が常に自己を破って、新たな世界を作っていることである。生産を背景に、それが一つの潮流をなすことが歴史の動向である。その否定と肯定が直観である。
死生転換する生命は何処迄も生死する生命である。たかだか生きて百年の生命である。ある生命はその中に無限の蓄積をもつことは出来ない。無限の生命は、個でありつつ個を超えなければならない。私はそこに生れるということがあると思う。新しい生命が生れて新しい個性に於て死生転換をもつ、其処に蓄積をもつのであると思う。 死生転換の技術的蓄積は、死生転換の刹那刹那に於てのみ行持されるのである。技術は製作に於て維持されるのである。私は是を明らかにする為に、生れるとは如何なることであるかを立入って考えて見たいと思う。
度々例に引くことであるが、私の若い頃狼に育てられた少年が捕えられたと、新聞に報ぜられたことがある。その少年は手足を用いて走り、狼の唸り声をもつのみであったと書かれていたように思う。記憶違いがあるかも知れないが、兎に角狼の習性に生きて、人語を教えようとしても、何うしても覚えることが出来なかったという。
生れるとは主体的環境的としての状況の中に生れるのである。人間に於ては経験が蓄積され、形成された世界としての歴史的現在に生れるのである。史的状況に於て死生転換をもつのが生命形成である。生命は死生転換的に状況を映してゆくのである。映すとは自己の内容とすることである。生れたものは形成的世界を自己の内容として、歴史的現在の上に立ち、現在の状況としての、内外相互転換にそれ自身の言葉をもつのである。新たな状況に対する、新たな言葉をもつのである。而して言葉は個的世界的として、新しい言葉は 世界が世界自身を破り、新しく生れるのである。
歴史はその内包する矛盾によって動いてゆく。矛盾とは世界が世界自身を破ってゆくことである。私は矛盾とは生命が自己と異なる生命を生んでゆくことであると思う。生れた生命は、生んだものならざる生命である。生んだものとは異なった主体として、異なった状況を映し、異なった言葉によって自己を形成してゆくものである。異なった世界を形成するものとして、生んだものと対立するものである。対立するとは否定関係をもつものである。生れたものが生んだものを否定するとは。新たな言葉を附加することによって、より大なる世界を形成せんとする努力である。
此処に歴史的創造があるのである。歴史が創造であるとは、新しい個体が新しい世界を作ってゆくことである。個体と個体は否定関係として、他者としてあり、一つの世界より次の世界へは、他者の現前として飛躍である。蓄積の上に立つことは連続である。個より個は飛躍である。歴史的創造とは連続が飛躍であることである。そこに言葉に経験を見てゆく生命があるのである。
何処迄も言葉に見てゆくものとして、歴史は世界の自己限定である。内外相互転換的として個体的である。斯るものとして、新しい個体が生れ、新しい個体が、新しい言葉をもつとは、現在ある世界を古い世界として、否定さるべき世界として見出すことであるとおもう。矛盾とは現在ある世界を新たなる個体が、より大なる創造への目をもって見るところにあるのであると思う。以下少し私の立場から歴史の矛盾を考えて見たいと思う。
現代最も多く語られる矛盾は労使の階級的対立である。労使の対立は産業革命以後の、生産手段の工業化の所産である。而し産業革命の成立当時、果して斯る矛盾の自覚はあったのであろうか。生産手段の発展と、教会統治の矛盾の克服として生れた産業革命は、そのもつ可能性の輝きに陶酔したのではないかと思う。その中に対立を見たものは、産業革命を打樹てた当時者ではなくして、其の中に生れた新たなる個性であったと思う。新たに生れたものが、その上に立ってより大なる世界を築かんとする時、現在ある世界を克服さるべき古い世界として、克服さるべき与件として労使の対立を見出でたのであると思う。実際にも階級対立を見出したものは、抵抗するものとしての労働者の自覚ではなかったようである。階級斗争の演出者マルクス、ホロシア革命のレーニン、トロッキーは貴族の出であると聞いたことがある。フランス革命もそれを指導したものは一般大衆ではなくして有産階級としての知識人であったと聞く。 その中に生れたものが、其の状況の上に立ってより大なる世界を形成せんとする声をもったのである。
この飛躍が直観である。故に常に新しい生命の生れ継ぐ世界は直観の世界である。 直観は生れ来った個体の担うものとして直観である。而して言葉によって露はとなるものとして、世界の自己限定である。蓄積された技術の上に言葉をもつとは、世界が世界自身を見てゆくことである。個体が言葉をもつとは、世界が自己を直観してゆくことである。その極限に天才がある。天才とは新しい言葉をもつことによって世界を過去とし、世界の中に矛盾を見出して、より大なる世界像を樹立するものである。
世界は個体が担う直観に依て、世界自身を否定の肯定に於て維持してゆくのである。無限に動的なる歴史的世界は現在より現在へである。生死する身体の限定として、事実より 事実へである。
直観と蓄積は相反するものである。蓄積は維持されてゆくものである。直観は否定する ことによって変革するものである。而して直観は内外相互転換として、生命の本来的なものである。斯る本来的なるものの蓄積によって人間は人間になったのである。我々の直観も前に書いた如く、蓄積の上に於て歴史的現在となるのである。斯る蓄積を直観に対する反省として、以下少し考察を加えて見たいと思う。
私は前に人間は言語中枢をもつことによって経験を蓄積することが出来ると言った。言語は個体を超えて、個体を包むものであり、個がそれによってあるものとして、経験を内にもつものとなると言った。そしてそれは人間の身体のもつ個的性格と種的性格の二重構造の自覚にあると言った。
人間の自覚は無限に自己を外に表わすことによって、自己が自己を見てゆくことである。無限に外に見てゆくとは、外を変革することである。生命創造と言っても、六十兆個の生滅する身体細胞と、百四十億個の不変なる脳細胞を有する身体構造は不変である。機能活動の密度が高まるのみであって、内外相互転換の蓄積は外としての環境の変革である。環境は我々がその中に生れ、営み、死んでゆく所である。内外転換として、否定として迫ってくるものであり、我々の生命は否定を否定して生くるものとして、我々は働くことによって生きるものである。働くとは言葉を生命が内外相互転換することである。
我々は環境に於て言葉をもつ、言葉をもつとは対話をもつことである。我と汝が環境に於て関り合うところに言葉が生れるのである。言葉をもつとは、死生転換の死の方向を外とすることである。我々が内外相互転換というとき、既に言葉をもつものとして見ているのである。而して死の方向、外の方向に物を見、生の方向、内の方向に生命を見るのである。物は環境として、外として、死として迫って来るのである。斯くして我々は物の中に生れ、物の中に生き、物の中に死んでゆくものとなるのである。
言葉を媒介したる内外相互転換としての外は物である。物は内に転換されたる外として製作物である。内に媒介されて作られた物は外として、我々はその中に生れ生き死んでゆくのである。それが世界である。そこに個を超えた言葉の、種の自覚があるのである。自覚とは世界形成的である。言葉をもつ生命がそこに働き死んでゆく処として、其処に普遍的世界があるのである。
私は内外相互転換としての経験は物に蓄積されるのであると思う。物は自覚的生命の内外相互転換の内容として、内の外化方向に道具、機械に発展し、外の内化方向に消費物として顕現するのであると思う。斯く蓄積された世界の内容は、新しく生れ出でた生命の死生転換の立脚点となるものである。未来がその上に立つものとして、未来を限定せんとするものである。新しい言葉がその中に矛盾を見るとは、蓄積されたものが歴史的現実として、未来を決定せんとするのを、過去としてその延長を断ち切らんとすることである。反省とは斯る転換に介在して、蓄積より未来を限定せんとすることであると思う。
蓄積より未来を限定せんとすることは、経験を組織し体系化してゆくことである。体系 化によって機能化することである。分化と統一をもつことによって合目的的となることである。斯る体系化が自覚的生命の内外相互転換である。相互転換は相互否定である。環境よりの否定は、身体が環境となることであり、身体よりの否定は、環境を身体化することである。技術的、製作的としての自覚的生命に於ては、物が人を作り、人が物を作るのである。反省は斯る形相を時間の流れを超えて樹立することである。それは何処迄も相互転 換的として、永遠が瞬間であり、瞬間が永遠である。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠であるところに物の製作があるのである。和辻哲郎が倫理学で言っている如く、世界は人間の在り方の外化であり、ロダンが道行く一少女を指して「そこに全フランスがある」と言っ た如く、人間は環境の綜合である。斯かる綜合の立場より、一瞬一瞬の限定を綴ってゆくのが反省である。
食うだけなら犬でもするという言葉がある。蓄積するとは余剰をもつことである。転換 しつつ転換の現在を超えることである。言葉によって蓄積するとは、言葉に映すことであり、言葉を映すことである。私は物を作るとは物は常に永遠の像の自己形成の意味をもつと思う。食物を蓄積すると言った事も、蓄積自身が時を超えると共に、超える生命が自己自身を見とする行為であると思う。例えば耕作に当って殻神を祭り、耕作行為を仮現して祈ると言ったことは常に見られた事であると言われている。それは耕作に対して必要以上の事である。而してこの必要以上の事が、必要な事よりも重要視されているように思う。勿論物を得ることが目的であろう。而し外に物を作るということは内も作られることである。物は自覚的生命の内外相互転換の一方の極に見られたものであり、一方の極に作るものの形が現前するのである。
私は作るものの方向に、生命存在としての個と種の二つの面が見られると思う。個は生死するものとして身体維持的である。種は個を超えて個を包むものとして形相形成的である。個を超えて個を包むとは、個を成立せしめて、その統一の上に自己の形成作用をもつことである。儀礼とか、道徳とか、法律とかは、斯るものによって成立するのであると思う。芸術の如きも、身体が身体維持面を極小として、世界の形相の表象を見た処に成立するのであると思う。
物は身体維持的である。私達は物を衣食住に必要なものとして製作する。而し製作された物は、単に身体維持的なるもの以上のものをもつのである。物は形をもつことによって物である。例えば茶碗の如きものであっても、食物を入れるという有用性の外に、安定、整正、美麗、繊細、清潔、重厚等其の他の感情を起させる。それは有用性と関りなき形の誘起する感情である。それは価値感情として、個を超えたものが、個に自己を見出でた感情である。超越者の自己表現として形はあるのである。物は常に斯る両極をもつことによって作られるのである。超越的なるものが個物的なるもの、生死するものが永遠なるものとして、稲の田植、収穫は亦神を祭ることであることによって、物の生産はあるのである。物は単に有用性によって生れたのではない。種と個、身体維持と形相顕現、永遠と瞬間の動的生命の自覚の一極として生れたのである。よく発明家が寝食を忘れて研究すると言われる。寝食を忘れるとは個体維持の否定である。彼は其処に底深き自己の、底なる自己としての人類の形相の実現を求めているのである。神の荘厳を見出さんとしているのである。而してそのことが物を作ることなのである。身体維持としての有用物を作ることである。形は永遠の内容として個を越えるのである。
我々が自覚的生命として、環境を物として物の中に生れ、物の中に働き、物の中に死んでゆくとは、環境形成的ということである。それは製作的として世界を作る事である。而して世界は個的種的として、種の方向、永遠の方向に価値を見るのである。全て世界にあるものは、個の方向に生滅を映し、種の方向に永遠を映すのである。全て形あるものは壊れると同時に、全ての形は永遠である。我々が生死する世界は価値実現の場である。我々は世界の中に価値を見出すものとして自己である。世界は我々の価値実現を自己の創造とするのである。直観と反省は相反しつつ一つとして、世界は無限に自己を創造するのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」