知るということ

 何日であったか、日本経済新聞の対談の切れ端があったので読んで見ると、品川と いう人が脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われていた。私達が知るということ は宇宙が自己自身を知ることであると言われるのである。意識をつきつめてゆくと、そういったものに行きつかざるを得ないように思う。

 もう二十年も前になるであろうか、新聞に狼少年のことが報道されたことがある。狼に拾われ育てられた少年が発見されて、捕えられた記事であった。彼は狼の如く手と足を用いて走り、人が近づけば唯唸るのみであったという。その後手なずけられてからも、遂に人語を解する事が出来なかったという。脳髄は身体が適応すべき世界を写すのである。

 商売は道によって賢しとか、餅は餅屋という言葉がある。私達は働くことによって知るのである。知るとは働く身体が、身体自身に刻んだ行履であると言い得る。この働きは限り無い過去の伝統を負うのである。身辺の一枚の紙、一本のペンといえどもはかることの出来ない過去の技術の集積によるのである。働くことによって知るというとき知るとは斯る永い時間を媒介とするのである。私達は身体の生死を超えた時間をもつことによって知ることが出来るのである。

 過去は過ぎ去ったもので働きではない。働くとはこの我が生を維持せんとすることである。常に死に面する個体が生に転ぜんと努力するのが働きである。しかし生の直接なるものも働きではない。働くとは物を作ることである。性欲、食欲といった生体維持の本能から技術は生まれて来ない。働くとはこの二つのものが一つであるということでなければならない。生死する身体は、生死を超えた身体である処に働きがあるのである。そこに我々の知るということが成立するのであるとおもう。生死を超えたものに生死を映すのである。それは生死するものが生死を超えたものをもつのである。

 よく芸術家や発明家は寝食を忘れて没頭すると言われる。そういう特別の人でなくても忙しくて飯を食うひまが無かったとか、帳簿の整理をしていて夜中になったということをよく聞く。食欲、性欲、睡眠欲は生体維持の三大本能であると言われる。生の本源的欲求である。それを忘れるとは、人はそれを忘れしめるものをもつということである。我々との身体は斯る相反するものをもつのである。そして寝食を忘れしめるとは働くことが我々にとってより大切な事であるということである。私達は物を作ることによってよりよき生を見出すのである。私達は本能的生を拒否し、物を作ることによって世界を出現せしめることを自己の眞個の生とするのである。世界は技術の無限の連鎖に於いて世界自身を作ってゆくのである。私達が過去の技術を自分の技術として、物を作ることによってある時、連鎖の一環として、世界が世界を作っていく内容となるのである。私達が働くとは世界の一要素となることであり、知るとは一要素として、世界を映し、世界に映されることである。自己を否定し、世界に生きるものとなることによってあるとは、働く事は安逸を拒否し、知ることは努力の中より生まれることである。

 個体が生を維持せんとするところに働きがあり、死を生に転ずることが働くことであるこの我が、生の維持本能を拒否することは、我々の身体が個体的、世界的、世界的、個体的としてあるということでなければならない。拒否するとは拒否することである。私達の身体は相反する二つのものをもつことによって身体である。相反するものをもつことによって、形相を形成してゆくのである。働くことは形相形成的であり、創った形相を見ることが知ることである。

 身体は一つである。それが相反する二つのものをもつということは、二つのものが一つであるということである。相反する二つのものが一つであるとは、闘うことである。闘うことによってあるとは、一方がなくなれば対手もなくなることでなければならない。個と世界、生死する生命と永遠なる生命は、相反するものが闘うものとして一なる生命として、生命は自己自身を限定してゆくのである。そこに生命の限りなき創造があるのである。

 闘うものは常に現在に於いて闘う、現在とは闘うものの在り処である。闘うものの創った時間である。而して個と世界が闘うことによって一つであるとは、永遠なるものは瞬間的なるもの、瞬間的なるものは永遠なるものでなければならない。此処に物の製作があるのである。無限の過去は現在の物の製作に於いて維持されるのである。前に芸術家や発明家は寝食を忘れるといった。それは永遠なるものが身体的なるものを否定すると言った。そこに製作があると同時に、製作は生死をバネとして新たな身体の形相を創ってゆくのである。そこは今この生きているいのちとして永遠は否定されるのである。斯くして永遠は否定を介して働くものとなり、生死するものは否定を介して、生死を超えた形相をもつのである。ここに世界は個に自己を現わすものとなり、個は世界を映すものとなるのである。

 製作に於いて過去が働くとは現在の中に消えてゆくことである。自己を否定して新たな物を生む事である。新たなものを生むことによって過去となりつつ生きつづけるのである。無限の過去が生きて、無限の未来を呼びつづけるのが永遠である。而して製作するものは技術者としての人である。生まれて死ぬものとしての人である。斯る人がより新たな、大なるものを作らんとして、過去を尋ねるところに過去は働くのである。斯る意味に於いて働く過去は現在より見出された過去である。永遠は製作としての現在に於いて一人一人が担うのである。一人一人に担われた永遠として、永遠は現在より現在へと動いてゆくのである。知るとは我々を超えたものを、我々が担うことである。一人一人が担うところに知ることがあるのである。

 働くとは時間、空間的に構成してゆくことである。時間、空間は無限なるものである。時間、空間的に構成するとは、時間、空間を内にもつものの自己限定でなければならない。無限なるものの自己構成でなければならない。それを一人一人が担う。而しそれは何処迄も一要素として担うのである。私は品川氏の脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われる宇宙とは、人間が働くことによって構成した時間、空間の形相としてあるものであると思う。斯るものとして宇宙は一人一人を介して無限に自己創造するものである。人類の創造的總体として人類の一を把持しつつ、一人一人に担われるものとして無限に動転するものである。一人一人がもつ脳髄は担うものとして宇宙の自己認識となるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」