乙 「大分前から神について考えたいと言っていたがその後どうなったかね。」
甲「何しろ問題が大きくて、資料も少ないし、概観だけに止まっている状態なのだ。」
乙「丁度僕も絶対と相対と言った問題に悩んでいるところなんだ。考えただけ話してくれないか」
甲「いいだろう僕自身の考えをまとめるという意味で、考えながら話をしよう。」
乙「では君は神をどういうものとして捉えようとしているのかね」
甲「それは我々の存在の根源として、この我がそこから見られ、それによって成立し、 全ての価値がそこから出てくるようなものとして捉えたいと思っているのだ。」
乙「根源へ要求というのはどういうところから生まれて来るのだろう。」
甲「君が先に絶対と相対の問題に悩んでいると言っていたね、その根底には相対とし ての自己が、絶対として世界と一つになろうとする意志があると思うんだ。生死する 生命は永遠を求める生命なのだ。そこに根源を求める所以があると思うんだ。悩むと は自己が真個の自己ではないということなんだ。個と種として内に乖離をもつのが生 命なんだ。それが一として、その乖離を埋めようとするのが問いなんだ。」
乙「我々の根源と言う時、それは我々より大きな、我々を越えた存在でないといけな いのではないのか。」
甲「そうだ。」
乙「そうすると君がかねがね言っている、人間が自覚的創造的として、自己が自己を作っていくというのと矛盾しないのかね。」
甲「それは矛盾しないのだ。自分が自分を知る事が、自分を越えたものをもつことに よって初めて成立するのだ。」
乙「具体的に言ってくれないか。」
甲「生命は身体的にあるのだ。身体のない生命というのはない。自覚的創造というの も、この身体の活動に於いてあるのだ。内とか外とか、超越とか内在と言われるのも この身体を基準として言われるのだ。超越というのはこの身体を越えているというこ とだ。五尺の体と言われる如く、僅かな空間を有し、人生五十年と言われる如く、我々 の身体は生死する生命なのだ。而し我々が私という時、それは斯る事実的存在として の生命ではないのだ。何という名前の、何処に住み、どのような仕事をしているかと いう私なのだ。姓名は血族の無限の連続の上に成り立っているのだ。住所は先人が血と汗で拓いた処だ。職業は歴史の伝承を基礎としているのだ。それは何れもこの生死する身体を越えたものだ。そして私達は言葉と技術を用いてこの世の中で暮らすのだ。そして言葉も技術も我々を超え、我々がそれによってあるものだ。そして斯る越えたものに自分を見出してゆくのが自己創造ということなのだ。」
乙「それでは世界が神なのか、」
甲「そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。」
乙「というのは、」
甲「普通考えているように、単に世界が我々の住む処、我々を包むものである時は、 それはまだ神とは言えないのだ。世界が自覚的創造者として、この我の自覚的創造に対する時に世界は神となるのだ。」
乙「それはどういうことだろう。」
甲「うん、ここは難しいところで、僕自身苦しんでいるんだ。而しここを抜いては前に進む事が出来ないので敢えて言うと、この我があるということは、何処迄も生死する身体を超えたものとしてあると同時に、何処迄も身体的にあるものとして生死するものなのだ。生きているものは死をもつものとして常に死に面しているものなのだ。生きているとは常に危機にあるということなのだ。我々は危機の克服に於いて生きているのだ。先に我々がそれによってあると言った言葉や技術も、人間が死を生に転ずる手段なのだ。この死として迫って来る力、我々の全てを一挙に無とする力に人は最初の神を見たのだ。」
乙「それと自覚的創造とは何の関係があるのかね。」
甲「我々が自己を見るというのは、自己を外に表して見るのだ。手の延長として物を 道具とし、道具を握って物を製作して、欲求を外に表した時から自己はあるのだ。前に言葉や技術によって自己となったという所以はそこにあるのだ。この製作的生命の 無限の発展が自覚的創造なのだ。人は製作に於いて死を超えようとして初めて世界を見たのだ。而し生きるものは死ぬのが宿命である以上、それはどうすることも出来ない巨大なものだ。そこでこの力の庇護を受けようとしたのが最初の神なのだ。」
乙「而し人間がこの巨大な力を知るということは、何らかの意味でこの巨大な力をもっ ているということではないのか。」
甲「そうだ、何等かの意味で持たない限り、驚く事も怖れる事も出来ないだろう。それは後で詳しく話す場合があると思うが、前にも言った如く、我々が見るというのは外に表して見るのだ。表したものの力を自己として見るのだ。」
乙「そうとすると神は生産力の向上につれて変わってゆかなければならないと思う が。」
甲「そうだ、新しい状況、新しい世界と共に古い神々は死に、新しい神が誕生するんだ。」
乙「少し説明してくれないか。」
甲「うん資料もないので僕の周辺を見ながら説明をしよう。その前に言っておかなけ ればならないのは、我々は生命としてあるということだ。生命が見るものは生命であ るということだ。作られた物も、生命の影として物であるということだ。そして生命が生命に於いて自己を見るとは生死に於いて見る事だ。世界を生死として、自己に於いて生を見、自己をとりまくものに於いて死を見たのだ。生は力だ、そして死はそれを否定するより大きな力だ。而し自覚が未だ初歩の時代は、生命が自己外化をなしていない。物も亦生命をもつものだ。物も亦生命である時、物が我々に死をもたらす所以がない。そこで死の使者として考えられたのが死んで行った人々であると思うんだ。死者がこの世に残した怨念によって、この世を亡くそうとするのだ。」
乙「どうして死んで行った者が、この我々を否定する力をもつと思ったのだろう。」
甲「僕はそこにも言葉や技術といったものが介在するのではないかと思うんだ。言葉 や技術をもったものとして、後世に伝えた者、そしてそのもった言葉や技術の超越的 力が死者に力をあらしめたと思うんだ。言葉や技術は物に関る。そこに死者と物力 が関る地盤があったと思うんだ。菅原道真が雷になったのも、根底にこのようなもの もあったと思うんだ。それで初めに還るのだが、一挙に人口の三分の二を奪い去る流 行病、あらゆるものを破壊し去る暴風雨、洪水その他兇事は死霊と結びついて最初の神となったと思うんだ。勿論死を運ぶものを拝むのは、拝むことによって死を免れんとしてだ。昔僕の家の近くに地神さんを祀る処があった。竹が密生していて、人々の通る道の反対側に切り込みがあり、その奥に何かがあるようであった。夕方になると祀る家の人が灯りを上げていた。竹群をとおして、小さな灯りが見えるのは宛ら幽鬼のようであった。村の人はそこを大変怖れていて、少し暗くなると通らないようであった。僕がその竹群に小便をした時、祖母は僕を連れて祀る家に行き、なにがしかの金を払っていたのを思い出すよ、今思えばあれはきっと拝み料を払って謝ってもらったのだろうと思うよ。或る日誰もいないのを見定めて、中に入って見たら、丸い石が二、三ヶとその上に瓦のようなものが置いてあった、僕はなんだと思ったのを記憶しているよ。而し今にして思えば石器時代は石が武器であり、生産の媒介者であった訳だ。戦国時代でも、印字打ちは闘争の有力な手段だったからね、大古にはそこに大なる霊力を見たのであろうと思うよ。その外、田の中や山に稲荷さんとか秋葉さんというのがあった。それはそんなに薄暗い処にあるのではなく、人々もそんなに怖れていな いようだったよ。夏の草取りの時なんか、稲荷さんの木陰でよく休んでいたものだ。恐らく地神さんは呪術に関係し、稲荷さんや秋葉さんは物そのものに関係するのでは ないかと思うよ。そして其処には生産手段の大きな変革があったと思うんだ。亦家の 中には神棚というのがあって、種々の神が祀られて鼠の巣となっていたものだ。その 中で一番力のあったのが三宝荒神であったように思うよ。飯をこぼしたり、残したりすると祖母から、荒神さんが睨んどってやと言われたもんだ。稲荷さんなんかと共に農耕社会の最初の神であったと思うよ、一番親しまれていたのが恵比須大黒の神だったよ、何しろあの笑顔だからね、而し僕は二神の本質は陸と海の生産と収穫の技術を司るものであると思うんだ。俵と鯛、そこに相当な生産手段の発展があったと思うんだ。それからあったのが氏神さんだ。それは勿論拝む神であったけれども、氏子が寄ってお祭りする神様だったんだ。そこには意志疎通と意志統一があったと思うよ、一緒に笑ったり、歓声を挙げたりする中から一体感が生まれて来るのだ。その背景に は水利とか開拓とか大規模な土木なんかが必要ではなかったかと思うんだ。」
乙「君の言ったことは僕にも覚えがあるよ、而しそれは日本以外の国にも当てはまる」
甲「うんそれを言われると弱いんだ。最初に資料が乏しいと言った中の一つでね。そ れでもいつか読んだ、ギリシャ、ローマの宗教、法律及び制度の研究という本には、 家族神より民族神、都市神へと新たな神が生まれてく過程が書いてあったよ、そして 後から生まれて来る神がより高次なる神として以前の神に優越するのだ。それは何も 神が優越するのではなくして、氏族は家族に優越し、都市は氏族に優越するのだ。優 越するとは内包してゆくことなのだ。外の国も同じような過程を踏んだのではなかろ うかとしか今では言いようがないんだ。」
乙 「それで最初の死霊というのは氏神さんになってどうなったのかね。」
甲「うんお祭りには神楽なぞというのがあってね、そこで悪霊としての大蛇退治など があったものだよ。それに祭神としての氏の上が死霊の意味をもち、その鎮めとして の面もあったようだよ。神の発展は結局生と死の弁証法的展開と言えるんではないか と思うよ。生を否定する死、死を否定する生、環境と主体の相互限定の形相が神の形相であると思うよ。」
乙「農耕社会に於いては太陽崇拝が大変旺んであったと聞いているが、太陽神は矢張り死霊の意味をもっていたのだろうか。」
甲「うん僕達の周辺には余り祀っているのを見かけないが、それは皇室が天照皇太神を祀られ、天皇自身が天っ日嗣として、現人神であらせられた処に原因があると思うのだが。古代文明には太陽の国と言われるところが多いね。そしてそれは恵みの神として崇敬を受けていたようだ。而し恵みとは何なんだろうか、僕は死を生に転ずる意 味がなければならないと思うんだ。死に面する我々に生を与えてくれるのが恵みであ ると思うんだ。」
乙 「そうすると太陽神の巨大なる力も結局死霊の力ということかね。」
甲「そう思うんだ。勿論太陽神が死霊ではなく、死霊に打克つものとしてだ。而し死は逃れる事は出来ない、そこに祈りがあるんだ。この永久に逃れる事の出来ないもの から逃れんとするところに巨大な力が生まれるのだ。時々内藤先生の古典を読む会に顔を出すのだが、その中に物忌みで外出を止めたといった記事の多いこと、古代人は死霊との関りに明け暮れたのではないかと思われる位だ。王権の巨大な力も、この死霊との関りから説明出来るのではないかと思うんだ。」
乙「キリストの神もその延長線上にあるのかね。」
甲「生死の問題なくして神はあり得ないと思うよ、キリストも悪鬼よ去れと言っているところから見ると、延長線上にあると言えなくもないよ、而し汝の敵を愛せよと言ったキリスト教は過去の神と截然と一線を劃しているんだ。過去の神は祀るものの神だったんだ。それは敵を滅して自分が生きる神だったんだ。キリストに於いて神は人類普遍の神となったのだ。」
乙「そこには矢張り生産の発展があったのかね。」
甲「あったと思うよ。」
乙「その普遍の神とはどういう神なんだ。」
甲「僕はキリスト教について多くを知らないし。殊に二千年に亘って数知れない人が、祈り考えた神をごうも説明する力がないよ。唯僕自身が求めた普遍なる神をあてはめて話をするだけだ。」
乙「兎に角言ってくれないか。」
甲「ヨハネ伝であったと思うが冒頭に、『太初(はじめ)に言(ことば)ありき、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。』とあったと思うんだ。これは前にも言った如く僕の出発点でもあるのだ。人間だけにあって他の動物に無いもの、それは言語中枢であると言われているが、人間は言葉をもつことによって人間になったのだ。昔語部によって歴史を伝承したという如く、言葉は生死するこの身体を超えたものだ。この言葉によって蓄積された経験が技術なのだ。この蓄積が世界であり、我々は自己の底に全人類を見るのだ。蓄積は世界としての社会によってなされるのだ。ここに全てがあるのだ。」
乙「そうすると死霊はどうなったのかね。」
甲「経験は生が死に面するものとして経験なのだ。生と死は常に闘いだ。それは常に 勝敗をもつ、その勝った集積が技術なのだ。だから逃れることの出来ない死をバネとして、言葉や技術はより大なるものとなってゆくのだ。死霊は否定として、神いよいよ大なれば、悪魔いよいよ大なるものとして、神の自己創造は亦悪魔の自己創造とし てあるんだ。」
乙 「そうするとこの人間の行履の蓄積された世界、死をバネとして無限に創造してゆ く世界が神ということかね。」
甲「僕はその深大なる世界に眩めく時、それが神だと思うんだ。無限の過去と未来が その中にあるもの、草木瓦礫もその目をとおしてあるもの、前に書いた言葉と技術を もつことによってこの我があるということも、斯る世界の前に立つと言うことなんだ。この底から汝斯く為さざるべからずという声が聞こえてくるんだ。」
乙「そうすると普遍なる神というのは世界のことかね。」
甲「神というのはこの世界の前にこの我が立つということなんだ。それによってあるもの、造られるものとして立つというとき、世界は神となるのだ。そしてこの我から世界を見るとき、氏神とか、福神とか、民族神が成立し、世界からこの我を見るとき、普遍なる神があると思うんだ。」
乙「もう少し説明してくれないか、」
甲「世界が経験を蓄積するといっても、世界が記憶機能をもっている訳ではないんだ。記憶をもっているのはこの僕であり君であるのだ。言語中枢は一人一人がもっているのであって、社会という普遍者がもっているのではないのだ。そして一人一人のもつ言語が生死する身体を超えて世界を構成するのだ。言語中枢も亦身体であるとき、我々の身体は生死する生命であると共に、永遠なる生命であるのだ。自己より見るとは、世界に生死する身体を見ることだ。世界より見るとは、自己に永遠なる生命を見る事だ。」
乙「それはどう異なるのかもう少し具体的に言ってくれないか。」
甲「世界に生死する身体を見るとは、欲求としての身体を世界に実現しようとするこ とだ。より長く生きたい。他人よりよい生活がしたいと願うことだ。民族神や都市神が戦う神であったのはそこに原因をもつんだ。俗神と言われるのは生死の相を超えないということだ。世界より見るとは、生死を超えたものによってこの我があるものとして、言葉や技術に自己を見るものだ。それは自己を消して物そのものとなり、世界となる欲求否定の世界だ。世界の声に呼ばれるのだ。物に自己を見ることによって世界によみがえるのだ。」
乙「ものそのものになることによってよみがえるというのはどういうことなんだ。」
甲「物は言葉と技術の所産として、言葉と技術をふくんだものだ。永遠の内容として それ自身の展開をふくんだものだ。我々は物自身の展開によって社会を形成してゆく んだ。科学も斯る地盤に於いて成立するんだ。例えば物理学なんかでも、物の中に無眼の秩序をふくんでおり、物理学者はその秩序に招かれて体系を打樹てると思うんだ。そしてそれこそが言葉の秩序なのだ。事業でもそうだ。一つ見ることによって次が見えるのだ。その呼声が神の声なのだ。僕は若い頃、名を忘れたが西洋の著名な物理学者が、有神論者であると聞いて奇異に感じた事があるんだが、彼は無限に展けてゆく 物の秩序に神を見たのであろうと思うよ。僕がよみがえると言ったのは官能的身体から創造的身体になったということなんだ。」
乙「それでは物の内面的発展を見るのが、神に前に立つということかね。」
甲「いや、それは神に於いてあることなんだ。神の前に立つとは、物や数や事業とし てではなく、生命として、生死の根源として、永遠として、全てをそこよりあらしめるものとして、言葉に於いて向はなければならないのだ。我をあらしめるものとして向はなければならないのだ。言葉が神であるとは、言葉によって自己を現わすものということだ。」
乙「君は前に古い神は死んで、新しい神が生まれると言っただろう。それは俗神にの みあてはまるものなのかね。それとも普遍神も生まれ死んでゆくかね。」
甲「そう思うよ。言葉は歓び悲しみから生まれてくるのだ。歓び悲しみは今の他者と の関りにあるのだ。永久不変の何処に言葉があるだろう。前に物自身の秩序の展開と言っただろう。展開とは古いものが死んで新しいものが生まれてくるんだ。キリスト 教神学は大きな曲線を描いて変化している筈だ。聖書という骨格だけ残して、肉も被服も変わっている筈だ。記憶があいまいなので確かなことは言えないが、ドストエフ スキーの小説だったと思うよ、再生したキリストをなじっているところがあるんだ。何しに来たんだ今頃、君はもう必要ないんだ。君がいたら邪魔になるんだ。帰ってくれと言った風にね、僕はこの中に深い洞察があると思うんだ。佛教にも刹那生滅というのが禅にあるが、これは釈迦も達摩も免れることが出来ないと思うんだ。そればかりでなく釈迦も達摩も殺すのが刹那生滅の本当の意味だと思うんだ。もし釈迦の言葉のみでよかったら道元や親鸞の出現はあり得なかっただろう。言葉は生きているものの対話だ、そこに何時も新たな神が生まれなければならない理由がある。
乙「そうすると全ての神も佛も生まれて死んでいくものか。」
甲「そうだ、死なない神は神ではない、今時分に千年前の経を繰り返しているような佛は博物館の隅に埃を被るべきだ。」
乙「而し君は言葉は生死する身体を超えて永遠だと言ったね。」
甲「そうだ、言葉は永遠の具現であり、神は永遠だ。」
乙「永遠は生死を超えたものであり、キリストの言う如く、始めに終わりがあるものではないのかね。」
甲「そうだ、始めに終わりがあるものとして、永遠なるものだ。」
乙「それは矛盾ではないのか。」
甲「そうだ矛盾だ、そこに神の本質があるのだ。それは何処までも深く神は生命としてあるということだ。生きているものは死をもつのだ。そして永遠の中に死んでゆくのだ。永遠の中に死ぬとは前にも言った如く、人間が言葉や技術で作り上げた世界の 中に死ぬのだ。国土、習俗その他諸々のものは言葉を持ち技術をもつものとしての我々の祖先が築き上げたものだ。我々は他の動物と異なって死を知り、死を悲しむ。それはこの人間が作り上げた世界に写して知るのであり、自分の見出した世界が消えることを悲しむのだ。そのことは未だ世界をもたない嬰児は死を悲しまないし、世界を失った痴呆は死を悲しまないのでも明らかであろう。僕はこの永遠と生死、世界と自己を人間生命の種と個の形相と見るのだ。種は個を超えて個に形相を維持してゆく。個は種によって形相を与えられる。この種と個の関係が、動物に於いては個は種より与えられたままに行動するのだ。自然のプログラムのままに生きるのだ。それに対して人間は言葉をもつ。言葉をもつとは自覚的ということだ。自覚的ということは作ることによって見るということだ。そして種的個的なる生命が作るということは、種的個的なる自覚として、種的個的に作るのだ。種的方向に世界を見、個的方向にこの我を見るのだ。自覚は種的個的として一つでありつつ、相反するものとして相対する所に成立するのだ。我々は世界の方向に永遠を見、自己の方向に生死を見るのだ。この矛盾に於いて世界は自己自身を創造していくのだ。この我は世界の中にあると共に世界を作っていくものだ。世界を作るとは、世界を自己の内にもつことだ。我々は世界としての言葉や技術をもつことによって世界を作るのだ、世界をもつことによって世界を作るとは、世界を自己の性格の相にあらしめようとすることだ。自己が神であろうと することだ。そこに我々の意志があり、意志は世界を自己の下にあらしめようとするのだ。そこに意志の自由がある。個は世界を否定することによって個なのだ。而し生死するものとして、人と人と相対し、世界によってある我々はどうしても世界となることは出来ない。世界とは絶対の懸絶をもつ、そこにキリスト教の躓きがあり、キエルケゴールの絶望があるのだ。世界は個の否定としてあるのだ。世界は到達することの出来ない唯一者としてあるのだ。世界は自己の中に自己を包むもの、自己を否定するものとしての個をもつことによって自己を突き破り、自己を創造するのだ。動的として変容してゆくのだ。而して唯一者としての神は変容に於いて自己を見るものとして、見るべからざるものとなるのだ。キリスト教のかくれたる神であり、佛教の空であるのだ。而してそれは自己の中に矛盾をふくむことによって自己を創造するものとして絶対の力なのだ。世界の形相として現れた神は否定をふくむものとして、すでにある形が死して、新たな形が生まれるのだ。単なる一は一でもなんでもないんだ。一は多の否定に於いて一なのだ。多は一の否定に於いて多なのだ。一は多の否定として多を維持する力なのだ。この力に於いて我々はゲーテや達摩と対話出来るのだ。斯る一者がはたらくところに我々の言葉や技術は成立することが出来るのだ。僕は数学の一については知らないが、生命の一者はかかるものでなければならないと思うんだ。かくれたる神であり、空であるのは時間の統一者だからだ。そこに見えざるもの、形なきものが絶対有である所以があるんだ。はじめに終わりがあり、終わりにはじめがあるんだ。我々は世界を否定して自己が世界であろうとして、世界より否定されて絶対の無となったときに、見るべからざる永遠を見、触るるべからざる神に触れるのだ。」
乙「空として、かくれたるものとして絶対者があるとき、生まれて死ぬ神は最早いら ないのじゃないのか。」
甲「いやそうじゃないんだ。自己の中に否定をふくみ、否定を媒介として自己を創造 する神は、現在に於いて働く神だ。形なき神は、形に現われることによって、形なき 神なのだ。否定を媒介として、形より形へと転ずるが故にかくれたる形なのだ。無限 に動的なるものの一として、時は現在より現在へだ。永遠なるものは常に働く現在が 担うのだ。二十一世紀を担う者は二十世紀の神を滅ぼして、担うもの等の神を打樹て ねばならないんだ。かくれたる神は働く神だ。」
乙「はじめに終わりありとは、君の言うとおり現在が過去と未来をもつことであろう。 而し現在が過去と未来をもつことは過去が現在をもつことではないのかね。」
甲「そうだ。釈迦の言葉の中に歎異抄や正法眼蔵がふくまれていたと言い得るし、聖 書は辯証法的神学を孕んでいたと言い得るんだ。而しそれは親鸞や道元が著はして あったんだ。彼等の苦節に於いてあったんだ。その意味に於いて最初に言葉があった 時に、既に現在の言葉の海があったと言い得るし、地上に初めて生命が現われた時に、既に現在の我々があったと言い得るんだ。生命ははかり知る事の出来ない深さだ。」
乙「それは神の深さなのかね。」
甲「そうだ、我々が知るとは自己が自己を見ることだ。無限の時間は我々の時間とし て、我々の身体であるが故に今我々は言葉に出し得たのだ。而し言葉となり得た自己は解っている。言葉を出している自己は永遠の謎だ。そのはかるべからざる謎に於いて我々は神の前に立つのだ。」
乙「神が永遠の謎であれば、神のみちびきというのは何処から来るのか。」
甲「それは交し合う言葉の中から出てくるのだ。今こうして君と話している、話しているうちに疑問が生まれ、解答が生まれる。ここにみちびきがあるのだ。そして深大なるものへの問い、根源への問いに於いて神の存在を知るのだ。神の声を聞くのだ。神の声を聞くことによって、全てが神のみちびきであったと知るのだ。」
乙「君は前に個の否定を内にもつことによって神は自己を創造すると言っていただろう。そうとするとキリストの原罪というのはおかしいのではないのか。」
甲「いや、その故に我々は罪をもつのだ。神が自己の内にもたない否定だったらどう して罪になるだろう。内なるが故に神を否定するものを、神は否定するのだ。個は救 済を求めるものだ、今の自己を真実ならざるものとして、奥底に真実の声を聞かんと するものだ。奥底に聞くとは、この我が死んで生きることだ、罪とは真実ならざることだ。自己否定をなさなければならないことだ。我々は言葉をもった時に罪人として神の前に立つのだ。そこに一切我今皆懺悔があるのだ。悔い改めがあるのだ。そして神の前に立つと知ることによって甦るのだ。言葉としての神は、言葉によって我々を救済するのだ。我々が知るということは神の救済なのだ。」
乙「僕が絶対を何故求めるかということが解ったような気がするよ。まだいろいろ聞 きたいような気がするけれども、何を聞くか判らないのだ、今日はどうも有難う。」
甲「僕もいろいろ言い足りないように思うのだが、何を言っていいのか判らないのだ。 亦来給え。」
長谷川利春「満70才記念、随想・小論集」