経験

 生命は身体的として、内外相互転換的である。食物を摂ることによって、細胞が増殖と死滅をもち、形相を維持してゆくのである。食物は摂取するものとして、我ならざるものであり、食物の欠乏は死として、外なるものである。食物は我々に必須なるものでありつつ、我ならざるもの、外なるものとして、その獲得に努力しなければならないものとして我々に対して環境となるのである。

 内外相互転換的として、生命は主体的、環境的である。環境は単に食物的環境として、我々に対するのみではない。食物を介して、他の生命と対するのであり、行動するものとして環境の状態と対すのである。対するとは否定し来るということである。環境は否定として、死をもって我々に迫ってくるものである。内外相互転換的とは、斯る死をもって迫ってくるものを生に転ずることである。環境は常に我々に対するものである。常に対するとは常に死をもって迫ってくることである。常に死をもって迫ってくるとは、生命は常に危機としてあるということである。

 我々の身体は幾億年前の生命発生以来、斯る否定を乗り越えて来たものとして、維持して来たのである。外を内にするとは、機能的であるということである。獲得するものとして、異質なるものを同質化するものとして、それは限りなく組織的統一体でなければならない。我々の身体には六十兆の細胞があるという。そして一日に何十億かが死滅し、新生するという。それが全て機能し、その統一的整正体に於て、死を生に転換するのである。新たな状況に対応する力となるのである。

 内外相互転換的として、環境が常に否定として迫ってくるとは、状況的として一々が新たなことでなければならない。身体が機能的であるとは、転換の経緯を身体の組織に於て蓄積することである。若し常に同じ状況がくり返されて、生の維持があるとすれば、それは危機でなくして楽園である。死は身体に内在的なものであって環境が死として迫ってくることはない。生物の身体は状況としての危機の中から無限の機能を作って来たのである 生体の進化とは、如何に多面的に危機に対応出来るかの機能を作って来たかにあるとおもう。

 一瞬一瞬に否定的転換として、機能がはたらくとき、それは反射的である。その反射作用は、その生体が数億年形成し、蓄積し来たった機能の全身的動作に於ける、死の生への転換である。私は経験とはかかる生命の営為の人間の自覚的把握であると思う。

 自覚とは生命が超越者に自己を映して、自己を見ることである。個が永遠を宿すことである。私達は斯るものを言葉にもつ、私達の先祖は、語部によって個を超えた民族の歴史を語り伝えた。言葉は時の変化を超えて、過去、現在、未来をその中に包むものである。私は、経験とは一瞬一瞬の内外相互転換の営為が、永遠に包まれたものと思う。

 一瞬一瞬の営為が包まれるということは、死生転換の機能のはたらきが蓄積されるということである。一瞬一瞬の、危機を超克した機能の技術が蓄積されるということである。

 私は前に身体が機能的であるとは、死生転換の経緯を、身体の組織に於て蓄積することであると言った。自覚とは断るものを、言葉に於て蓄積するのである。身体は生死し、亦変化する状況に対応する為に、前の事柄を忘れなければならない。身体の蓄積はその故に生得的機能の蓄積に限られて、習得的機能のはたらきは、その個体の消滅と共に消滅するのである。言葉に於て蓄積をもつとは、個体のはたらきを、個体を超えて蓄積するのである。それは限りない蓄積である。

 この頃の猫はねずみを取らないと言われる。聞くところによると、ねずみをとるのは、猫の本来的なものではなくして、親猫が教えなければいけないそうである。だから生れたすぐにもらって来た猫は、ねずみをとることが出来ないのだそうである。これが人間であったらどうであろうか。いつであったか、発見された図面によって、戦国時代の製鉄法の炉を築いたと書いてあった。幾世代を超えて過去の事物を現前せしめたのである。恐らくそれは長い経験の積み重ねであったであろう。そしてそれは言葉の延長としての文字と、図面によって伝えられたのである。そこに人間の蓄積があるのである。

 蓄積するとは、現在に於てはたらくということでなければならない。生命はどこ迄も死 生転換的である。転換の経緯が蓄積されるということは、現在の転換に応用出来るということでなければならない。

 死生転換とは、死を生に転換することである。環境としての死を生に転ずることである。それを蓄積するとは環境を変革することでなければならない。生体に於て転換は一瞬一瞬であった。其処に変革はない、状況の変化があるのみである。それを蓄積するとは持続することである。持続するとは環境を生の相に作ることである。そこに機能のはたらきの持続があるのである。はたらくとは環境を合目的的とすることである。

 環境を変革するとは技術的ということである。経験を蓄積する生命とは、多くのものを 包み、統一する生命である。無限の個の経験を一に結合する生命である。私は技術とは、無限の経験が現在に於て、一つとしてはたらくものであると思う。

 はたらくものは身体としてはたらく、身体としてはたらくとは、環境に身体の構構を投 影することによって、環境を生に転ずることである。人間は手の延長として道具を作り、道具を使うことによって物を作り、物を作ることによって人間になったと言われる。道具の使用が人間のあけぼのであると言われる。かくして経験の蓄積は、人間を表現的、製作的身体とし、経験は製作的経験となるのである。一瞬一瞬の相互転換を永遠なるものに於て包むとは、斯く製作的身体の行為としての経験である。

 湯川博士は、物理学は視覚と関節覚と綜合の発展であると言われる。斯る意味に於て音楽は聴覚の発展であり、絵画は視覚の発展であると言うことが出来ると思う。私は真理とは表現が、身体の機能のはたらきと一致したることの直覚であると思う。力とか、数とかの学の内面的必然も、数億年の組成を内として、それの外化として機能に添うものであると思う。視覚とか、関節覚の延長とは斯るところから見られるのであると思う。宇宙の大も、身体的構成の外化として、構成することによって見ることが出来るのである。最初の宇宙把握が擬人的であり、漸次身体の真に動くものへの把握はこれを証すると思う。

 蓄積するとは、はじめにおわりがあるということである。現在がはじめをもつというこ とであり、はじめが現在に働いていることである。はじめとおわりを包むものによって、 蓄積があるのである。

 而して蓄積するとは、何処迄も個が世界を破ってゆくことである。無限なる経験の著積は、金銭の貯蓄の如く、同質なるものの量的蓄積ではない。同質なる物の蓄積は、経験の蓄積の上に築かれたものである。死生転換として、環境的、主体的なる経験は一回的である。一回的なものとして過去にも、未来にも有らざるものである。一回的なるものの附加として過去の変貌を求めるものである。

 変貌を求めるとは、過去の蓄積の上に立つことである。而してそれを否定することである。永遠が現在に於てあることである。永遠の内容としての一点が、逆に永遠を内にもつことである。現在の経験が、経験の蓄積の上に立つとは、歴史的形成的ということである。我々は歴史的現在に生き、歴史状況に対する、否定即肯定として、内外相互転換として経験するのである。それは最早素朴なる自然の内外相互転換ではない。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った意味に於て、内外相互転換をもつのである。そこに永遠としての言葉が、経験を蓄積するの意味があるのである。

 経験が一回的であるとは、内外相互転換としての生命は、無限に多として自己を限定するものであるということである。内外相互転換として、否定として迫って来る環境は状況的である。否定として迫ってくる状況を、肯定に変えたということは、状況を変えたということでなければならない。即ち異った状況として、状況は我々に死として迫ってくるのである。生命は製作的主体として、環境は歴史的状況として、我々の経験はあるのである。

 個は個に対することによって個である。状況に対する主体は、無数の個として対するのである。言葉は我と汝が交すのである。此処に蓄積がはじまるのである。言葉をもつとは永遠を内にもつことである。一人一人が永遠を内にもち、永遠に於て対話するところに、経験は蓄積されるのである。変化する状況に一人一人が死生転換する。そこに蓄積があるのである。蓄積とは複雑化である。複雑なるものの統一である。そこに無限の個人が要求されるのである。

 変化する状況の中に生れて、死生転換する個人は、常に無として出現するのである。此処に無というのは、予め作るべき形相をもって生れて来たのではないということである。昔狼の中に育った少年が捉えられたことがあった。その少年は手足で走り、狼の如く吼えたそうである。即ち狠の状態に生きたのである。生れたものは生きる世界を映すのである。無として生れるとは、生れるものは現在に生れることである。現在とは生が対決すべき状況である。我々は限りない経験の蓄積としての、歴史的現在に生れたのである。而して現在の史的状況が抱える、課題の転換を担って生れたのである。

 刹那としての死生転換を、言葉として永遠の相下に捉えることは、自覚的ということで ある。自覚とは自己が自己を知り、自己が自己を見ることである。死生は我の状態である、そこに経験の蓄積は自己を知ることを要請する。知るものを知ることを要請する。

 我々は此処に不可知者に遭遇するのである。言葉に現前するのは内外相互転換に於てである。それは常に状況として、変化するものである。それを捉えるものは言葉であり、言葉をもつものである。知るものを知らんと欲することは、唯一者としての、不変なるものを知らんとする欲求である。而してそれは変化としてのみ現前するのである。内外相互転換として、状況は限りなく変じてゆくものである。その一々の否定即肯定として、言葉は常に異なった言表をもつのである。

 斯く我々の内深く、一としてありつつ、無限に変ずるものとして現われ、現在を否定よ り肯定に転じ、肯定より否定より転ずるものが神と呼ばれるものであると思う。それは現 実限定として直下に触れつつ、過去として過ぎ去り、未来として未だ来らざる、触るるべからざるものである。我々も亦一瞬一瞬の映像として、時の流れの中に没しゆくべきものである。而して没しゆきつつ、神の映像として時を超え、時を包むのである。私は経験は深く神の自己限定としてあるのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」