この間、内藤先生から、正法眼蔵を読むから来いと言われて二、三回お邪魔した。その前にも歎異抄や般若心経に招かれた事がある。私はその題目を聞いて意欲の凄まじさに驚いたものである。勿論史上稀有の大天才が全生涯を賭けたものばかりである。三月や半年の輪読位で解ける筈がない。而しその無謀と言える挑戦に敬意を表せざるを得ないと思う。
宗教は存在の根源への生命の要求である。三者その表現が異なると言ってもその帰 する所は一つでなければならないと思う。歎異抄は他力と言っても悪人正機に於いて 自力の媒介を説き、眼蔵は現成公案に於いて、「自己をはこびて、万法を修証するは迷なり」と言っている。その根源と言えるものを心経によって私の尋ねた跡を少し述べて古来心経の要諦は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うに尽きると言われ ている。このことは心経の眼目は苦厄済度に外ならないと言い得ると思う。苦とは生 命が自己の否定に面することである。四苦と言われる生死老病が釈迦出家の契機と なったことは人の知る処である。生は他者の否定に面することであり死老病は生きて いることへの否定である。生まれて来たものは逃れる事の出来ない宿命として背負っ ているのである。その中で死が要約される最大の苦であると思う。死によって一切の 自己が無に帰するのである。五蘊とは必竟斯る苦をもつ身体の内容に外ならないと思う。これを皆空なりと照見して済度したと言うのである。
人はよく全て形あるものは壊れる。生命あるものは死ぬと観念することによって救われると言う。而し生命あるものは死ぬというのは如何なる救済であるのか、それは救済ではなくして放棄であると言わざるを得ない否定が苦であればその救済は肯定で ある。死の救済は不死であり永遠の生でなければならない。一切が無に帰するのが苦であれば、その救済は一切有でなければならない。照見された空とは一切有として生命の不滅の形相でなければならない。そしてそれは死もそれによってある底のもの でなければならない。私はこれを解明するために自己は如何にあるかを把握しなければならないと思う。
巨勢二号にも書いた如く私達はこの社会の中に言葉をもち技術をもって、人に交わ り物を作って生きていくものである。そして言葉も技術もこの我を超えた無限の過去 より、無数の人によって作られ、蓄積され、伝承されて来たものである。そして我々は未来へと伝達するのである。私達は言葉や技術の始まるところを知らない。言葉は過去を孕み未来を哺むものである。そして我々がそれによってあるものとして永遠の形相であると思う。そして私は前にも書いた如く、この形相を実現するものは全人類としての人間の種の生命であると思う。人類は世界として自己を実現するのである。私は色即是空とは斯る世界が世界自身を形造ってゆく論理であると思う。般若とは論理の意である。
即とは相反するものが一である事である。相反するものが一であるとは相互媒介的 であることである。色即是空という時、色は空によってあり、空は色によってある事である。私は今言葉や技術をもつことによって自己があると言った。そして言葉や技術は世界の形相であると言った。この事は世界の中にある我々は逆に世界を内にもつ ことによって自己があることである。而してこのことは逆にこの我によって世界があるということである。誰の言葉でもない言葉はない。言葉は誰かの言葉である。相対する色身の苦しみ喜びが言葉となるのである。技術もまたこの腕の覚によって技術である。生死の関頭に立って、死を生に転ずるのが技術である。我々を超えたものは何処迄も我々の内容となることによって我々を超えるのである。それは矛盾である。而しこの矛盾的自己同一に於いて生命は無限に自己を創造してゆくのである。
苦悩はまたここより生まれるのである。我々の苦悩は無窮の世界の前の朝露のはか なさにある。而してこの無窮の世界とは、超越として言葉や技術の歴史的形成を介し て見たものである。このことは死への苦悩は人間のみがもつことによってもあきらかである。而し今見た如く超越としての永遠はこの我の苦悩に於いてあるのである。空 とは超越者は自己の形相をもつのではなく、この生死する色身にのみ形相を表わし得るが故に空である。五蘊皆空とは生死するものが生死するままに永遠であるということでなければならない。この知見が救済なのである。
私達は言葉を習い、技術を修めるのに努力する。この努力するということは世界が働くことである。それによって世界が世界自身を形成してゆくことである。それは常に我々に課題として迫って来るのである。世界は自身を形成する働くものとして世界である。時の流れとは世界が自己自身を見出してゆく相である。時の流れを自己の相とするものは時を超えたものである。それは過去現在未来を統一する絶対的一者でな ければならない。それは始めに終わりをあらしめ、終わりに始めをあらしめるものでなければならない。言葉と技術の無限の蓄積は斯る絶対的一者に於いて初めて可能で あると思う。絶対的一者に於いて全ての人生の価値は生まれて来るのである。我々の努力とはこの唯一者の声に呼ばれてあるのである。其処に全人類の生命がある。
身体なくして生命はない。この我があるとは何処迄も知覚的として色身としてあるのである。斯る色身が世界を内にもつことによって自己を自覚する。永遠を見るものとなる。而し身体的である限り生死する生命である。有限なる生命である。世界の中の一人として宇宙の一微塵としての生命である。唯一者によりてありつつ唯一者たり得ないのは勿論、唯一者を見ることさえも出来ないのである。而して唯一者によりてのみ救済される、私は此処にこの我と唯一者の関係があると思う。この我の生きる姿勢が問われる根拠があると思う。
無限なるものの内容として有限なるものはある。而し有限なるものより無限なるものに至る道はない。存在が無限と有限の綜合である時、無限への道は有限の放棄のみである。道元は、佛道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己 をわするるなり、自己をわするるというは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるいうは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなりと言っている。心身を放棄して萬法としての存在そのものに純一になれと言うのである。親鸞は阿弥陀の名を唱えて全てを任せよと言う。任せてたとえ地獄に連れて行かれても気にかけるな と言う。其処に生死の救済としての永遠はあるというのである。私は五蘊皆空の至り つくところはここではないかとおもう。而し色身なくして生命はない。この時色身は如何にあるのであろうか。ルターは斯く言っているそうである。信仰は、人々がこれをもって信仰だと思うような、人間的な妄想や夢幻ではない。寧ろ信仰は、我々の内に働き給う神の業であり、我々を更えて新しく神から生まれらせ、古いアダムを殺し、我々を全く他の人となし、更に聖霊を伴い来らすことであると。禅家に於いても死の断崖に身を絶するとか、大死一番ということが言われる。脱落した心身は世界の呼び声に甦るのであると思う。官能の欲求を抹殺するのである。言葉と技術の導きに違うのである。救済とは本来の相の具現であり、色即是空は此処に完結すると思う。色即是空の世界は自己形成的であり、無限に動的である。日日是好日とは斯る心地の風景 である。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」