芝田さんを偲ぶ

 みかしほに入って五、六年程経た頃であったとおもう。藤原優先生より歌論の雄として芝田すみれさんを訪うことを奨められた。私は早速自転車で、閑寂な方丈の山荘をおとずれたように記憶する。其の時に何を話したか忘れてしまったが、厚いもてなしを受け、翌月の美加志保に私を主題にした作品を発表されたのをおぼえている。私も余程気が合ったのであろうか其の後度々お邪魔をした。話題は歌よりは多く宗教的なものに関してであった。仏とは何か、悟りとは何か、絶対とは何かといったようなことをくり返し論じた。若い時より病に罹られ、山中にあって雲と鳥とを友とされた生活では、それは切実な問題であったのであろう。それに生れが仏門ということもあったのであろう。よく研究をしておられた。私も生死の問題を生涯の大事としていたので話は尽きることがなかった。主として芝田さんが問われ、私は答える方に廻った。当時まだ考えの未熟であった私は、エネルギー恒存律と、霊魂の不滅の相違について答えることが出来なかったのを思い出す。

 氏は斯る永遠なるもの、不滅なるものを思慕する高貴なる請神と、制御することの出来ない憎しみの情念をもっておられたようにおもう。それは何うすることも出来ない薄幸な運命が、突破口を求めて噴き出ているようであった。自分の非力に対する、自分への怒りが形を変えて出現しているようであった。私は氏が憎しみの相手を語られるとき、憎しみを糧として生きておられるのではないかと思ったことがある。高貴なるもの、低俗なるもの、全ての人間はこの二つを糧として生きているのかも知れない。

 晩年の氏はリルケに傾倒しておられるようであった。そして矛盾という言葉を愛用して おられるようであった。併し私は氏が真に矛盾が解っておられなかったとおもう。何故なら自分の矛盾に対する、痛切なる把握を見ることが出来なかったからである。内在する高貴なるものと、低俗なるものを一つに於て見ようとする努力がなかったからである。

 ともあれ私はこの相反する二つのものが共に、氏の運命の根底に関っているようにおもう。それだけにひたすらなるものであった。私の知る限り、氏は妥協を許さない精神をもっていた。そこには小児的なものさえ思わせるものがあった。氏の思い出には清純なものがつきまとう。それはそのひたすらなるものに関っているようにおもう。

 容易に他者の言葉を肯わない氏であったが、私にはよく耳を傾けて下さった。初めて訪ねたとき、氏は既に短歌草原に重きをなす人であった。私は天性の無礼者である。駆け出しの癖に、忌憚なき言葉を身上としていた。それを首をかしげ、手を耳に当て、顔を突き出すようにして聞いて下さった。それは真摯そのものであった。終生自己も他者も偽ることのなかった氏の思い出はさわやかである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」