抒情詩は共感の芸術であり、共感を呼ぶものは感動である。短歌も日本的抒情詩として、その内容は感動でなければならない。私は斯かるものとして短歌は何かと問うとき、感動とは何かを先ず明らかにしなければならないとおもう。
辞書によると感動は深く物に感じて心を動かすことと書いてある。私はこの深く物に感 じることに二つの場合があるとおもう。一つは物が強くはたらくことであり、一つは心が 強くはたらくことである。物が強くはたらくとは、困っている時に予想以上の支援を受けたような時である。心が強くはたらくとは、物の質量によらずして心がそこに自分の姿を見出したようなときである。一つは受動的であり、一つは能動的である。一つは日常生活に於て、一つは表現的努力に於て見られるものである。今私が問わんとしているのは勿論後者である。
私は表現としての感動は、我があり、我が生きているということが世界に関っているこ とにあるとおもう。私達は朝目が覚めると、まだ暗いとおもい、もう明るいとおもう。ま だ暗いとおもうのは人々はまだ眠っているであろう、もう少し眠っていようかということ であり、もう明るいとおもうのは、多くの人が起きている頃になった、私も起きて今日の はたらきをしなければならないということであろう。思いは人との関りの中から生れてく るのである。起きて洗面をするということは社会が営んで来た習慣に従うことであり、 歯を磨くということは、歯刷子を使い歯磨粉を使うことである。喫茶喫飯、一挙手一投足ことごとく世界に関るのであり、世界に関ることによって我々は生きてゆくのである。裸で坐って何もしていないときでも、裸であるとおもうことが既に、人の目を潜在的に意識しているのであり、着衣を反極にもっているのである。
世界に関るとは、私達の心は常に対象に向って動いているということである。対象とは世界の内容であり、それに向って心が動くとは、われわれの自己は対象によって実現されるということである。対象を見るとは自己を実現するということである。そしてわれわれが世界の内容としての対象を見たということが、世界が世界を実現したということなのである。
世界とはこの我を超えたものである。この我を超えるとはこの我の生死を超えるということである。生死を超えるとは生死を包むことである。生死はその中にあり、生死をそこに写して見ることである。そこに映して見るとは世界は無数の生死によって形作られたということである。無数の生死によって形作られた内に写すとは、無数の生死は一つということであり、世界は創造的形成であるということである。無数の生死を介して世界は大なる創造線をもつということである。対象が世界の内容であるとは、対象は無数の生命の生死を介して見出されたものである。
私は対象は斯るものとして、われわれの心は常に対象に向って動いてゆくのであるとおもう。生命は内外相互転換的である。内外相互転換的とは内を外とし、外を内とすることである。その原型的なものが食物を摂って身体と化することである。外を内とし、内を外とすることは技術的である。技術的として身体は機構的である。われわれの身体は機構的として技術の集積である。その身体の技術は無数の生死によって集積されたのである。更にわれわれの身体は表現的身体である。表現的身体とは、外が内に対立するのではなく、内として外を転換するものとなることである。手の延長として道具をもち、声の延長として言葉をもつことである。われわれのもつ内外相互転換とは、無限の生命の内外相互転換の蓄積として、外を内に写し、その内を外に写して形作られてきたものである。私達は同じ生命であっても犬の目が向く処に私達の目は向かない。それは蓄積の系譜を異にするからである。ペルーの山深く今尚原始生活を営む人々は、輝くアンデス山頂の荘麗な雪嶺を悪魔の姿として怖れるそうである。我々が雪嶺を美しいと仰ぎ見るのは、私達の目の中に幾多の先人の目の努力がはたらいているのである。
歴史は大なる内面的発展の流れである。内面的発展の流れとは、先人の目がわれの目の中にはたらき、先人の手がわれの手となってはたらくことである。私達は毛筆の字を習うときに王義之の手本を見る、それは王義之の目と手がこの我の目と手の中にはたらくということである。物の生産而り、芸術、道徳而り、我々の日常全ては全人類を一ならしめる時の統一に於てあるのである。私達が生きるとは斯る大なる創造線に添うということである。
私は感動とは斯る大なる創造線に添うことによって真個の自己に触れた感情であるとおもう。併し王義之に習い、丸山応挙に学ぶことは未だ真に創造線に添うことではない。われわれは生命としてはたらくものである。王義之がはたらくことによって見出したこの手と目は、その極王義之を殺すことによって自己の目と手として生かすのでなければならない。自己の個性による新たな形が生れるのでなければならない。そこに生命が新たなる生命を生んで死んでゆく所以があるのである。創造線とは無数の生命が生死によって描く曲線である。
日常の全てが歴史の内面的発展としてあるものとして、一挙手一投足全てが真個の自己を表すものとなるのでなければならない。唯前に書いた如く習性の中に狎れたときに真の自己を自出し得ないのであるとおもう。通常われわれが日常というとき、日常とは習慣の中に埋没した営みであるとおもう。それが真個を表わすものとなるためには外に創造的生命の表出とならしめるものが無ければならないと思う。創造的生命の表出とならしめるとは動いてゆく今を捉えることである。言葉あるいは物によって形に現前せしめることである。形に現前するとは最早ときの流れの中に埋没したものではない。時を内に包むことによって形は現前するのである。大地を踏んだ、空を仰いだということを言葉に表わすとき、言葉は無限の過去を潜め、無限の未来を孕むものとして出で来るのである。唯大地を踏んだ、空を仰いだと言う如きは身体に即して外ならざるものである。見るべからざるものである。それを言葉として、物として見るということは大なる力の表出である。表現は自覚的生命の生む苦しみである。而して形に見るということが創造線に添うということである。私は感動とは努力によって、力の表出によって自己を形に実現し、大なる世界の創造線に自己を見出たことであるとおもう。力の表出によって形を見出すとは、創造的世界を自己の内に見ることである。創造線に添うということは全人類の形成作用を自己に見るということである。そこにわれわれは生死する自己を超えるのである。一瞬が永遠を包むものとなるのである。斯るものとして私は感動は力の表出によって現われてくる新たな自己の感情であるとおもう。努力の止むとき感動は淡き残像となるのである。偉大なる作品は感動の持続の影であり、感動の持続は止むことなき努力であるとおもう。自覚的形成的に働く生命が、働く自己を表現に証するのが感動であるとおもう。
心が対象に向って動くということは、生命形成的に外に関るということである。生命形 成的に外に関るとは、作ることが作られることであり、作られることが作ることである。 そこに生命の創造的形成があるのである。創造的形成として、心が対象に向くということ は、心が対象から招かれるということでなければならない。招かれるとは対象はわれわれを呼ぶものとして、対象と我は対話的にあるということである。
創造的形成に於て対象が呼びかけるとは如何なることであるか、前にも書いた如く創造は内を外とし、外を内とする限りない営為である。内が外を宿し、外が内を宿すのが世界の形象である。それは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたも のとなることである。内は製作者となり、外は物として製品となるのである。われわれの心の向く対象は製品となるのである。そして製品は生命の形への表れとして、形成としての技術によって作られ、技術を内蔵するものとして次の形を呼ぶのである。芸術的表現の世界に於ては、ゲーテやロダンがその作品に於てわれを招き呼ぶのである。自然に対かうと思うときでも れわれは単なる自然に対うのではない。アンデスの例に述べたごとく、われわれの内に先人の詩的表現の言葉がはたらき、言葉が目となってはたらくのである。ここに月に喜びを見、かなしみを見るのである。その底には先人との対話があるのである。
内外相互転換は単なる連続ではない、外を物として、内を生命としての相互否定である。生命の否定は死である。ゲーテがわれわれを招くとは、われわれよりも偉大なるものとしてあるということである。重力に於てより大なるものが引く如く、表現に於てより偉大なるものが招くのである。而してわれわれが対うとは、対うものを転じて我の内容とし、われの働く力となさんとすることである。転じ得ざることは死である。招くとは亦一面死を以って迫ってくることである。招く力は大なる力である、そこに我々は死ななければならない、死して生れなければならない所以がある。斯るものとして表現は苦痛であり、力の表出を伴わなければならないのである。そして言葉をもつ自覚的生命としての人間は断る苦痛を介してのみ喜びをもつことが出来るのである。私はゲーテやロダンを例に引くことによって稍大袈裟にしすぎたようである。併し私は日常の喫茶喫飯といえども表現するというには呼び声があるのであり、呼び声の根底には人類の形成があるとおもうのる。連綿としてわれわれの目、われわれの言葉を養って来たものがあるとおもうのである。如何なる表現も苦しみであり、努力であるとおもうのである。
身体は情緒的である。情緒的であるとは身体の動きは情緒の表出を伴なうということである。生死は身体の最大事である。そこには最も大なる感情の起伏が見られるとおもう。自覚としての表現的世界に死ぬとは絶望することである。それは肉体の死以上の苦しみである。生きるとはそれを超えた歓喜である。私は歴史的世界は数え切れない人々が斯る絶望と歓喜に生き、呼び応えた所として感情の海であるとおもう。芸術的表現の世界は共感の世界である。斯く共感をもち得るの全歴史が喜び悲しみの場として、感情の海の意味をもたなければならないとおもう。感情の海とは一つのものとして直に繋がるということである。静御前の涙が直に我々の目より流れることである。荊軻の怒りが我々の唇を引き緊めることである。聖母に抱かれた幼児のほほえみが、われわれの頬をゆるませることである。判断を超えて全時間を唯一現在としてあらしめることである。私は感動とはわれわれの感情が斯る海に流れ入ることであるとおもう。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」