見るということ

 病院に行くと友人が、「孫が出来たから見てくれ。と言う。しばらく廊下を歩くとカーテンを開けた窓があり、窓の向うに箱が並んでいる。その箱の一つ一つに赤い肉の塊を包んだようなものが入っている。その一つを指して友人が、「あれだ目を開けている。と言った。成程小さい目が開いているがその目は動こうともしない。聞くとまだ目が見えないのだそうである。

 私は聞き乍ら不思議に思った。目を開いている以上、網膜にはちゃんと外の現象が映っている筈である。人間は生れてから死ぬ迄脳細胞の数は変らないという。そうすると脳の視覚領は活動している筈である。私はこの赤ん坊は見ているんだと思った。何日かすると見えてくるというのは、まだ眼筋を動かす程の結像を持っていないのであり、その結像を準備する為に視覚は猛烈な活動をしているのだと思った。

 そうとすると、見るということは単に外を映すのではなくして、内が外をもち、外を内 の秩序によって構成するということがなければならない。結像とはそのようなものでありその構成されたものが見るのでなければならないと思う。

 生命は創造的である。創造とは作られたものが作るものであり、見られたものが見るものであることである。そこに無限の展開をもつことである。私達は見たものを集積し、その集積に於て見るのである。

 鯛は深海に於て人間の五千倍の明らかさで物が見えるそうである。併しその見えるのは餌と、襲ってくるものだけだそうである。禿鷹は三千米の高さから、地上がありありと見えるそうである。併し見るのは野鼠だけだそうである。結像は対象に随うのではなくして生存に随うのである。

 目は身体の堀割であると言われる。生命は内外相互転換的である。動物は外を食物とし、食物を摂ることによって生きてゆくのである。食物を獲る為に生命の切り拓いた世界が視覚の内容である。視覚は視覚として独立するものではない。行動する全生命が自己を実現するものとしてあるのである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。人間は動物が外に捜す食物を、作る物とすることによって、自己を見ることが出来たのである。物を作ることによって外を世界とし、世界を内にもつものとして人格となったのである。私は人間が見るとは、人格的製作的生命として見るのであると思う。

 製作とは変革することである。与えられたものとして自然を、人間生命の秩序に再生することである。生産とは人間の秩序に構成することである。発明の目となるのである。それは目自身をも変革するのである。外へ望遠鏡、顕微鏡、レントゲン写真、赤外線写真へ視界を拡大し、内に優しさ、威厳、卑屈、軽薄等、人格の深さを見る目となるのである。

 私は芸術に於て言われる純粋視覚も、斯る製作的生命から見られるのであるとおもう。作られたものが作るものえとして、世界は無限の推移である。製作的生命の目とは斯る推移を見る目でなければならない。一々の瞬間に歴史的現在を捉える目が、世界が自己を見るということである。そこに純粋視覚があり、芸術的表現があるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」