先日天神の方へ行った序に湖内さんの見舞に寄った。顔の腫みは大分引いたようなので 「この頃歌の方は何うです」と聞くと、「ヘヘヘ」と笑っておられた。傍から奥さんが、「食欲の方は出て来たようですが、何もする気が無いんです」と言われた。氏は笑っておられた。「脳の意欲の座が冒されられたのでしょうか」と言うと、「お医者さんもそう言われるのです」との事であった。私はあの静かな中に潜められた、激しい表現意欲は何処へ行ったのであろうかと思った。
二十数年前にもなろうか、私は湖内さんを訪ねては呑み且つ談じたものである。それは哲学、宗教にも亘ったが、概ね短歌に関するものであった。私が取材角度、発想を最も重要なる核心としたに対して、氏は文章が整っているということを重要視された。常に「言葉がちゃんとしていたら、それでよろしいやないかいな」と言われた。私は私の主張を今も捨てる気はない。併し今二部の撰評をしながら氏の言われたことの重要さを熟々と思っている。
言葉は我と汝が交すものである。湖内さんとでもそうであったが、初めから何かを言おうとしたのではない。偶然にも似た話題の発端から、お互いの応答によって言葉が生れてくるのである。何かを言おうとして行った場合でも、一方的に自分の言葉があるのではない。相手の言葉によって自分に新たな言葉が生れるべく交すのである。我と汝が交すということは、我と汝によって言葉があるとともに、言葉によって我と汝があるということである。私の言葉は何処迄も私の言葉であると共に、この我を超えて、そこにこの我を映すことによってこの我があるものである。言葉はその秩序に於て、我と汝をあらしめるものである。
我々は言葉によって無限の過去を伝承し、無限の過去へ伝達する。言葉とは生命が初めと終りを結ぶものとして、自己自身を表現するものである。初めと終りを結ぶとは、言葉をもつものが一であることである。言葉は一人一人がもつ。それは交すことによってあるものとして無数の人がもつ。言葉が一つであるとはこの無数の人が一であることである。時間は人の営為であり、初めと終りを結ぶとは、無数の人々が一であるとゆうことである。多くのものが一であるということが秩序があるということである。
多が一として我々が対話することは、初めと終りを結ぶものの内容となることである。 初めと終りを結ぶものを実現してゆくことである。初めと終りを結ぶものが、はたらくも のとして自己を実現してゆくことである。無数の人々が一なるところが世界であり、我々は世界の自己実現の内容となることによって自己を見出してゆくのである。斯る世界の自己実現が言葉によって成就するのである。
我々が世界の内容として自己があり、世界が言葉によって実現するとは、言葉の構成は我々の自己構成であり、言葉の秩序は自己の秩序であるということである。そこに私は言葉が整うということの重要さがあると思う。表現とは自己を外に見ることである。それが整っていないことは、自覚としての自己が破綻していることである。
整っているとは、全文字が一つの主題、一つの感動を構成していることである。如何に長大な文章と雖一つの核がなければならない。その構成のあり方が表現の密度である。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」