感染症文学序説

 小説は人生の喜び、愛、欲望、憎しみ、悲しみ、死、戦争、革命、事件などあらゆる事柄をテーマにしておりますが、有吉佐和子の「恍惚の人」のように認知症を扱った医学的な小説もあります。前月号でリーデンローズ館長の作田忠司氏が「音楽小説」のことを書いておられたので医学の中でも感染症に関する面白い本が出たので紹介します。今の流行に因み2021年5月に発行された「感染症文学序説」という本で、著者は国文学者・民俗学者で東京学芸大学教授の「石井正巳」氏です。

 多くの文豪たちが「感染症」を重大なテーマとして書き残していますが、時代とともに作品は埋没し評価も一定ではないとし、石井氏は「それでもやはり、感染症の実態をリアルに伝えるのは公的な統計や記録ではなく、文学ではないかという思いを深くする。

 文学は確かに虚構に過ぎないが、月並みな言い方をすればそこにこそ真実があると言ってみたい。」と序文で述べています。

 私は読んだことのない原著がありますので、本文中からの引用として紹介させていただきます。

 まず1918-20年頃新型コロナ以上に多くの死者を出したスペイン風邪については、島村抱月が無くなり、その恋人の女優松井須磨子が後追い自殺をしましたが(渡辺淳一「女優」)、この時前述の与謝野晶子は感染がかなり拡大してから対策を立てた学校や政府の遅い対応を「日本人の目前主義、便宜主義」と鋭く批判しています(与謝野晶子「感冒の床から」)。

 第1子をスペイン風邪で無くしていた志賀直哉は小説「流行感冒」にて冒頭「最初の児が死んだので私達には妙に憶病が浸み込んだ」から始まり、感染した主人公(志賀直哉自身)は感染経路や症状の描写、家庭内感染に至る様子などを細かく書き、感染症予防に過敏な人と全く気にしない人がいることを強調しています。菊池寛は短編「マスク」で「自分は世間や時候の手前やり兼ねているが、マスクの着用をしている人が勇敢である」など、社会の状況と人間の心理の関係、予防行為の表象であるマスクに対する感受性をリアルに描いています。

 芥川龍之介もスペイン風邪にかかりしかも重症であったようですが、「コレラと漱石の話」で漱石はある日の明け方嘔吐下痢が起こり、コレラに違いないと飛び起きたが、結局はコレラの予防のために豆を食べすぎたことによるものだったそうです。芥川もコレラに感染するのを怖がり予防策として煮たものやレモン水ばかり飲んでいたのですが、「臆病」と揶揄されるのに対し「臆病は文明人のみ持っている美徳である。」と反論しています。

 尾崎紅葉は「青葡萄」でコレラではないかと怯える人間の心理をうまく表現し、弟子が水を嘔吐する音を聞かれ密告されることを危惧し「自分は伝染病を隠蔽するごとき卑怯の男ではないが、吐いただけでコレラというわけではない。」として「コレラの疑いありときっぱり言われるよりは、腸胃加答児(カタル)と曖昧に濁された方が虚妄(うそ)でもうれしい。

 それが人情(ひとごころ)である。」と率直に述べています。この時から存在していた「自粛警察」の恐怖が如実に想像されます。また断定的なことを言うのを避け、他の医師や機関に責任転嫁する医師のことも描かれています。

 文学作品で最も多く取り上げられる感染症は「結核」で、亡くなった文豪は二葉亭四迷、正岡子規、樋口一葉、国木田独歩、石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、堀辰雄など、枚挙にいとまがありません。細井和喜蔵「女工哀史」で劣悪な労働環境が結核の原因であったこと、死期が迫る苦しみを正岡子規は「病床六尺」で鬼気迫る文章にて遂に「貪欲な知識欲が生きる力になった」と述べ、石川啄木は「一握の砂」で貧困・戦争・暴力とともに結核に対する人間の無力さを淡々と描写しています。

 同じく感染することへの絶望感は内田百聞が「疱瘡神」(天然痘)「虎列刺」(コレラ)にて、感染による生命の恐怖だけでなく世間の噂によるダメージが大きな要因であることを、目がゆき届いた文章で記述されています。

 このように隅々まで行き届いた文学表現は医学書より感染症などの実態の多くを語っているように思われます。(2022.1)