現代短歌について

 正岡子規の「歌人に与ふる手紙」の中の一節「紀貫之は下手な歌詠みにて候」より近代短歌は初まったと言われる。果して紀貫之は下手だったのであろうか。私はそう思うことは出来ない。貫之死して千年、その間誰も正当な評価をなし得ず唯々諾々していた私は我々の祖先が馬鹿だったと思うことは出来ない。それでは子規の意図は那辺にあったのであろうか。私は彼の短歌革新の情熱にあったと思う。滔々たる維新開化の西洋文物の流入は彼の目に無限の世界を開顯して行ったであろう。即物的なる 西洋芸術は、宮廷歌人の幽玄体、艶麗体なぞという呪文の繰り返しを唾棄すべきものと思はしめたであろう。古き偶像の破壊なくして新しい権威の確立はない。新しい世 界は自己の表現を求めるのである。

 それから幾十年、万葉に還れの声に全歌人は唱和し、写生の理念は見事大輪の花を咲かせたと言い得る。斉藤茂吉を頂点とする幾多歌人の成果は仰ぐべく高い。而しそれと同時に写生の理念に基づく作品は最早完成された感じがする。新聞に雑誌に同人誌に日々発表される夥しい作品は殆どが同工異曲である。発想の基盤を等しくし、事象に於いて異なるのみのものが多いように思う。類型の中に埋没することは作品を創造とするものにとって耐え難いことである。私は現代短歌とは幾多新鋭歌人の、写生理念よりの脱却乃至は脱却的努力の一群を指すと思う。創造とは何か、私は創造とは歴史の運であると思う。世界は物と人、我と汝の対立を含みつつ一つである。対立は対立を生み、常に新たなる一つが実現する。それが歴史である。無限に動転してゆく矛盾の統一が創造であると思う。芸術が創造であるとは斯く常に新たなる歴史の自己表白であると思う。我々の作品が創造であるとは、我々は世界の中の一人として 世界の動きを聞きとり、対立を一ならしめる歴史的生命の内的なるものを露わにすることであると思う。私達は若し生まれた時に無人島に捨てられていたらこの我というものはない。歴史的創造の創造的個としてのこの我である。この創造個としてのこの我が世界を自己の内なる深き奥底として自己の行履に世界の内奥を見るのが創作であると思う。

 歴史は常に矛盾的に自己を限定してゆく。その軌りが我々の哀歡である。矛盾とし動くものは常に新たなるものである。新たとは過去を否定したことである。歴史は常にこの否定の苦悶によって動きゆくのである。私は耳を澄ましてこの声を聞き、目を凝らしてこの相を見るのが芸術的創造であると思う。創造は自己の恣意にあるのではなくして我々は歴史の自己創造の中に自己を消してゆくのである。この死灰の中より羽搏く不死の白馬が作品である。

 若いものの思考、行動の変化はよく日々の新聞、テレビの報ずるところである。それは我々大正生まれの者から見れば異質とも見えるものである。私は若者とは現代の 体現であると思う。生まれるものは歴史的現在に生まれるのである。異質と見えるの は世界が質的変化しようとしているのである。若者の身体がもつリズムは歴史的現在 の律動である。私は歴史は正岡子規が宮廷短歌につきつけた如き変革を要求していると思う。 コペルニクス的転回を要求していると思う。

 写生の理念は生の真実にあると言われる。実相観入をその究極とする。この生の真 実は如何なるものであったのであろうか。私は自然の中に生まれ働く生命、自然の暴 威と闘い、恵みに感謝する生命、即ち受容の生命であったと思う。農耕的基盤の上に 立つ自然と人間の交叉であったと思う。中世も農耕社会であった。その意味に於いて 中世も近代も同じ基盤の上に立つ。子規が否定したのは対象と遊離した位置より見る宮廷的観照であったと思う。そして否定へと働かしめたものは西洋的生産の概念で あったと思う。農耕社会より、工業社会へ、更に情報化社会へと歴史は移る。其処に表現のスタイルを変革すべき要請がある。而し子規の時代には西洋という衝撃があった。今はそれに比すべきものがない。其処に現代歌人の苦悩があると思う。

 最近よく古今、新古今の見直しということが言われている。古今とは何か、私は仏教、道教等のもつ内面的なるものの目をもって対象を見ようとした努力の表白であると思う。幽玄は斯る内面の目による対象の創造であったと思う。中世日本文学の研究家谷山茂氏は其の自序に於いて言う、「定家、家隆達いわゆる新古今時代の歌人達の 血みどろな苦悩の山にぶつかってしまった。こういう人達の一見絢爛たる色彩の蔭に は、沈痛を極め真摯に徹する悲願が深く潜められている。」 そしてそれが幽玄の道で あったという。

 生命は内外相互転換的である。表現に於いても内的なるものが形の飽和に於いて行き詰まり、外的なるものが台頭して新しい形を造り、その形が飽和して内的なるものがこれを打ち砕き、更に新しい形を見出してゆくのが自覚としての人間生命であると思う。私は受容としての写生の道はものの中に自己を消し、ものそのものとなって見ることにあったと思う。ものそのものとなって見ることはものが働くことである。外を内とすることである。斯るものの否定とは内を外とすることでなければならない。ものの中に消えるのではなくしてものの変革者となるのでなければならない。私は明治以降の近代と現代を分かつ質的なものを斯る立場に求めたいと思う。

 写生に試行錯誤はない。唯鍛練あるのみである。而し現代短歌に試行錯誤はつきものである。正確な内容は忘れたが「私達は対象に接してそれを何う言葉に表はそうか と苦心したものであるが、今の若い人達は言葉が先にあるように思う」と言った意味 のことを対談で述べているのを読んだ事がある。この場合言葉とは日常のお喋りでは なくして、理念としての内的なるものであると思う。対立、死、不安等内的なるものによる造型化であると思う。写生に於いて不完全なる没入が未熟であった如く、内的なるものの不完全なるものは独善となる。独善とは万人の内容であるべき言葉が訴求機能を失ったことである。言葉が独り歩きをして対象構成の働きをもたないことである。

 現代短歌は現在自己の像を模索中である。塚本邦雄も山中智恵子も短歌の主流とは言い得ない。主流ではないということは真に現代の感情ではないということである。 一つの方向であっても、現代を包括する唯一者の理念を提起していないということで ある。或はこの混迷そのものが現在としての世界かも知れないが、混沌が凝固する為には今暫くの時が必要のようである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

墨絵を見ながら

 古美術商を営む某が、或る家が曽我直庵の鷹の絵の屏風を売りたいといっているが 要るかといってきた。美術年鑑を開いて見ると桃山時代の処に重文作家と載っている。私は二つ返事で承知をした。それから二、三日すると、見るも無惨なぼろぼろの屏風を持って来た。二つ折りの中央の処の木を虫が喰って、裏打の紙がぶら下がり、殆ど二つに分離してしまっているようである。これはひどいものだと思い乍ら開いて見てあっと驚いた。にらみ合っている二匹の鷹の凄まじい気魄に圧倒されたのである。紙魚の蚕食した跡であろう。白い斑点が周辺より中央に向かって時々墨痕に迄至っている。而し九十五パーセントは原型をとどめているように思う。

 私は古美術商が帰ってから暫く絵を見つづけた。そして色彩画とは受ける感じが違 う、この違いは何から来るのであろうかと考えた。私は鷹の目を見ながら雪州の彗可断璧図を思い出していた。両者に感ずるのは共に気魄であり、力である。私は見乍ら これは対象鷹を描こうとしたのではなくして、作者が自己の内に感ずる力を描こうとしたのではなかろうかと思った。鷹を描くのであれば彩色をする方が其の真に迫り得る筈である。而し例えば今この松に止まっている絵を彩色して、松葉を緑に、幹を褐色に描いたとすれば鷹は自然の中の一羽の鷹となるのみであろう。而しこの迫力は違 うように思う。鷹が存在の力、自然の力を内包しているのである。迫力は内包の強さ である。

 大分前になるので正確には覚えていないが、彫刻に彩色するのはナンセンスである と書かれていたように思う。彫刻は三次元的である。三次元の世界は力の世界である。それは視覚と異なった、関節覚、筋肉覚の自覚の世界である。其処に視覚的なるものが極力押さえられなければならない所以があると思う。其処に素材にのみを加えるのみであって、色彩を加えない所以があると思う。彫り込んだ凹凸の陰翳が力感をもつのであり、色彩は単純な程迫力は大である。視覚内容の多様性を拒否した墨一色は、彩色画よりも力の表現の意味をもつと思う。而し彫刻の三次元の世界に対して墨絵は二次元の世界である。墨絵の表わす力は、彫刻の表わす力と自ら異ならなければならないと思う。

 墨絵が力を表すとは、立体を内にもった平面となることである。無辺の平面となることである。無始無終の時間が其の中を流れる空間である。時間の否定としての空間である。時間の否定として、時間を内に包む空間である。力を内にもつ空間である。その力は宇宙創造の初めより否定を内にもつ生命としてありつつ、自己の存在を維持 してゆく力である。自己否定的なる時間を包むものとして永遠なる空間である。私は この鷹に感ずる力は、作者が見たこの力を越えた力であると思う。この鷹の力ではな くして、時を超えて生命が生命を維持してゆく力である。其処に墨絵の表現分野があ と思う。

 墨絵を語る時、よく気韻生動と言われる。それはこの働く力が表れていなければならないことだと思う。亦静即動と言われる。この静とは動く物を超えて、動くものを一の立場より見るものとして静であると思う。この鷹の目には太初よりの創造者の力が感ぜられる。静とは見る者をして思いを太初に至らしめるものであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

歴史の意味

 歴史の意味とは、我々は何故に歴史を知ろうとするかの一語につきるであろう。堀米教授は其の論文「歴史の意味について」に於いて「われわれが歴史に向かうのは、われわれ自身を知ろうとしてである。われわれ自身を知るためには多くの人文、社会の学問があるように、その方法は種々である。而し歴史的方法はそのすべての基礎にあり、事物をその生成においてとらえようとするものである。

 歴史的にみずからを知ろうとすることは、不断に生成転化する歴史世界の中において、同じく不断の生成転化の過程にあるわれわれがどのような位置を占めるかを明ら かにしようとする事である。ここにみずからへの問いは客観的歴史世界への問いに結び付く。われわれはこの世界のわれわれにとっての意味を問うているのである。」と述べている。

 最近は歴史ブームであると言われている。それには種々の条件があるであろう。而しその最も深い理由は我々の自己は歴史的にあるということに外ならないと思う。知るとは自己を知る事であり、自己は他者と関わる事によって自己である。他者に関わるとは世界に生きる事である。世界に生きる事が自己を知る事である時、自己を知るとは世界を自己の内にもつ事でなければならない。我々は世界の中に生まれ、働き、死んでゆく。この世界の中に生きるこの我が逆に世界を内容とするところに自己はあるのである。世界の中にあるものが逆に世界を内容とするという事は、何処迄も世界の中に入ってゆく事でなければならない。世界の中に入ってゆくという事は、我々が自己を失って世界が世界自身を実現してゆく事である。私達の自己は自己を無とする事によって自己を実現するのである。生命は無限に動いてゆくものである。それ自身に動きをもつものである。動くとは一つの形を否定して次の形を生む事である。生命は自己の中に自己の否定を含む矛盾的存在として生命である。否定の喪失は死に外ならない。自己の否定として世界があり、世界の否定として自己がある。世界となる事によって自己があり、自己となる事によって世界がある。それが人間の働きであり、歴史である。

 時代の変化に勝つ事は出来ないと言われる如く歴史は我々を超えた流れである。無 限の過去と未来、数十億人の汝、彼が交叉する歴史的現在は一つの魔力とでも言うしかない力である。我々を一微塵として翻弄するのみである。歴史的事件はよく意表をついて複雑怪奇であると言われる。世界は世界自身の展開として我々の思量を超えたところに働くのである。而し其の故に世界を内にもつ事によって見出される自己は亦限りない奥行きをもつ事が出来るのであると思う。「自己を知れ」とか「汝自身を知れ」という言葉がある。自己の知るべからざる深さを歎いた言葉である。この言葉は自己が世界を円にもつ事によって自己である世界の深さに淵源をもつと思う。

 しかし翻って考えれば歴史の複雑怪奇は、この我、汝としての個人が世界を超えたものであるが故に起こり得るのであると思う。私が世界を内にもつという事は働く事よって私に世界を実現するという事である。すでにある世界を否定して私による世界を実現する事である。世界は個的生命を超えて個的生命の否定として動く。而し世界が動くのは世界を超えた個的生命の世界の否定として動くのであると思う。それなくして世界が動くという事が出来ないと思う。われわれは世界によってあると共に、世界は我々によってあるのである。この事は世界を知る事は我を知る事であると共に、我を知る事は世界を知る事であるという事が出来ると思う。それならば我を知る事が世界を知る事であるとは如何なる事であろうか。

 教授も言う如く歴史的世界は不断に生成転化する。而し単なる転化は何ものでもない。転化は一の多として転化するのでなければならない。世界史という時、転化は常 に世界に包まれていなければならない。常に転化を超えて世界でありつつ自己自身を転化させてゆく世界がなければならない。時は流れる、而し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の統一に於いて成立するのである。初めと終わりが結びつくのである。初めが終わりを孕み、終わりが初めを含むのである。キリスト教 の世界終末の神の審判の如き、佛教の億劫未来の弥陀の救済の如き、近代思惟に照らして荒唐無稽とも言い得るであろう。私もこれを肯うものではない。而し斯るものによって時は成り立ち、歴史は動くのである。私は斯る時の統一は、我を知る事が世界を知る事であるところより考えられると思うのである。

 世界を内にもつとは働く事であり、我々は働く事によってこの我となる。働く事は技術的として物を製作する事であり、技術は無限の過去を負うところに成立する。物は世界の相として作られる。我々は無限の過去を自己の内容とすることによって一瞬、一瞬世界を実現していくのである。一瞬、一瞬世界を実現していくことは、一瞬、一瞬世界を過去として否定していく事である。実現せられた世界は、外的世界として我に対立し、我々に否定として、死として迫って来るのである。形相的個化として、我々の自由なる創造的生命を固化せんとするのである。斯る死として迫って来るものを生に転換するのが働く事である。世界は生死転換として自己を実現するのである。与えられたのは否定すべく与えられている。この否定的転換点が歴史的現在として時を包むのである。

 問の中に答はあると言われる。問の根底に還える事が答である。世界は時の統一として世界であり、統一するものが働く事が世界である。働くものは我々であり、我々が働く事は逆に世界を内にもつ事である。この事は我々の一人、一人が世界と同じ根底に立つということでなければならない。無始無終の世界は、無始無終のこの我でなければならない。私達一人、一人が無限の過去と未来の統一である。一々が時の統一者であって初めて世界の時の統一が成立すると思う。生殺与奪の長い繰り返し、流れたはかり知れない血と涙、我々の感性はその上に成り立っているのであり、それを潜めるのである。而してそれは知る事によってより養われるのである。私は我々の歴史的認識の欲求はここより来るのであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

一期一会

 私達は言葉を介して自己自身を知る。私の言葉は私が事に触れて自分を見出だしてゆく私の表れである。そして日本語は日本人が見出だした日本の表れであると思う。一つ一つが日本人が作り出した日本の姿であると思う。私は其の中に於いて一期一会は最も深く日本の心を表わす言葉の一つであると思う。儒教の仁、キリスト教の愛にもすべき深い内容を持っていると思う。深いと言うのはそれによって、日本人の心のあり方の全体像が掴まれ、それは人間存在の本質的普遍を露わにすると言う意味である。以下少しこの言葉が内包するものを考えて見たいと思う。

 一期一会と言うのは、この時、この出会いと言う事であろう。流れる時のこの一点としての今の汝との出会いと言う事であろう。この今とは如何なるものであるか。これを明らかにするために時間について立ち入って考えなければならないと思う。

 時間は通常過去、現在、未来として、無限の過去より、無限の未来へ流れるものと考えられている。現在は掴むべからざる唯無限の流れと考えられている。而し私達は単なる流れから時と言うものを見る事も掴む事も出来ない。水の流れは時を映す。而し時の内容を持たない。其処から私達は時を捉える事は出来ない。時は変ずるものでなければならない。而し単に変ずるものも亦時と言う事が出来ない。自然は変ずる。花は咲き、花は散る。而し其処からも時の意識は生まれる事が出来なかった。人間は先ず暦によって時を捉えたと言われる如く、農作業によって世界に面する時、世界は時の形相を持ったのである。即ち時は行為によって対象に投げかけた自己の相である。斯るものとして時間は人間の主体に即して見られるものである。行為とは如何なるものであるか、対象が死として迫って来るものを、働く事によって生に転換する事である。放置すれば雑草、乾燥のために餓死しなければならないのを除草、潅漑の努力によって豊かな生に転換さす事である。変ずるものは全て内在的矛盾によって変ずる。斯る内在的矛盾的なるものが自覚的行為的として外に、物に自己を見てゆく、この物に自己を見てゆく技術的操作の内容が時間である。物が過去として、あるべき相が未来として、行為的現在の内容となり、時の相が成立するのである。物は技術的、表現的に決定された過去として現在の中に死んで行き、行為の中に新たなものが生まれるのでる。行為は事実的として、この現実の中に過去と未来は動転するのである。時は自覚的表現的生命が自己自身を見た相である。よく記憶に於いて過去があり、希望に於いて未来があると言われるのは、この我が自覚的事実として、行為的現在の立場に立つが故に外ならないと思う。我々は働く事によって未来と過去をもつのである。企画し、想起するのである。斯くして現在は事実的として過去と未来をふくむ全時であり、永遠の相をもつのである。而して現在は絶対に否定さるべきものとして現在である。現在が現在自身を否定するものとして現在である。死すべく生まれて来た生命は恒常の相より見る時矛盾である。絶えざる生より死への推移である。斯る生命が自己自身を知るものとして人間がある。移る瞬間は捉える事が出来ない。而しこれを捉える事なくして自覚はあり得ない。この捉える事の出来ないものを捉えるのは、瞬間を捉えるのではなく、瞬間が瞬間自身を見るものとして初めて捉える事が出来ると思う。それが現在であり、瞬間が自己自身を見るものとして行為の根底は直観である。生より死へとして自己を絶対に否定する所に現在がある。而して否定を肯定に転じ、死を生に転ずるものとして現在である。時は現在より現在へ、永遠より永遠へと移るのである。

 技術的発展は歴史的であると共に、歴史は技術的展開的である。ナイル川の氾濫と恵みがエジプトに暦を生んだ如く、時は其の奥底に於いて歴史的時である。歴史は無数の個的生命によって作られる。無数の個的生命が物と我と相対し、我と汝と相対するものでありつつ、それを自己の内包する矛盾としてそれ自身の自己限定をもつのが歴史である。物と我、汝と我とは対立するものとして、絶対の否定をもつのである。死の深淵をもって相距てるのである。これを統一するのが歴史である。 我と汝は技術的表現的物を見る事によって結ぶのである。表現的世界に於いて出会うのである。この事は亦表現的世界の中に於いて我と汝は相対するのでなければならない。自己であるとは世界の中にあるものが逆に世界を中に見る事である。製作者として、歴史的、 技術的なるものを所有する事によって作るものとなるのである。斯く世界を内に見るによって作るものとなるのである。斯く世界を内に見る事によって我は種的連続を超えて絶対の生となるのである。絶対の生として死は絶対の死となるのである。斯るものとして歴史は限り無い暗黒と光輝である。愛と罪である。歴史的世界は一人一人が担うのである。世界が深くなるとは一人一人がいよいよ深くなる事である。より大 なる世界を内容とする事である。意志は世界を所有せん事を欲し、神人たらんとする。それは他者の絶対の否定である。其処は果てしなき闘争の世界である。而し我があるとは我と汝が相対するものとしてあった。汝の否定は我の否定である。技術は死に面しての生への転換として、絶対の死をもつ処に見出されるものであつた。しかもそれは歴史的として多数の人々の間から生まれるものであった。自己として世界に面する時如何なるものも其の深淵に無として消え去るのみである。流れる時の前に英雄も亦槿花一朝の夢に外ならない。

 私は前に我々の自己は世界の中にあるものが逆に世界を内にもつ事によって有ると言った。歴史的技術的世界を内容とする事によって、物としての世界を働く事によって転換する処にあると言った。この事は世界を内容とする事は愈々深く世界の内容となることでなければならない。我々が自己を見出でて出ていく事は世界が自己を見でてゆく事でなければならない。真の自己は物そのものとなって働く処に見られると言うのはその間の消息を語るものであると思う。真に創造的なる時寝食を忘れるのである。斯るものとして世界と自己とは、生命創造の両極に見られる一なるものの影であると思う。真なる生命は個的、世界的として、自己の中に絶対の否定をもつ無の限定と考えられるものであると思う。この絶対否定を以って対するものが無に於いて自己を限定するものの両極として真に一なる時、我々は歴史的形成的となるのである。而して無なる生命は形相的に自己を限定するのである。この限定された形相が限定するものである処に、無の限定はあるのである。そして無の限定の方向に世界が見られ、形相の限定の方向にこの我があるのである。世界はこの我の根底として、我々は其の中に埋没してゆくのである。而しこの我は世界を作るものである。其処にこの我が 世界に蘇る契機がある。世界の手となって働き、世界の目となって見るのである。世界は多くの人が寄って形造るものである。世界は多くの人が多くの人でありつつ、世界として自己自身を創ってゆくのである。世界が一つであるとは多くの人が自己を捨てる事である。多くの人が多くの人であるとは個性に於いて世界に参加する事である。私は前に行為は意志であり、意志は世界を自己の内容とせん事であり、他者の否定として結果は自己を否定する悪であると言った。斯る意志が逆に世界の内容となり、行為は自己を見るのではなくして世界の実現となるのである。悪の否定は善である。世界を内容とする事によって見られる自己は世界そのものとなる事によって完成するのである。其処は自己の絶対の肯定である。其処は愛の世界である。お互いが自己を否定してより大なる世界を実現せんとする関わり合いが愛である。

 私は真に人が出会うのは斯る処に於いてであると思う。意志として物を介して相対する処に尊ぶべき出会いは無い。自己を否定して世界を実現すると言っても単に世界と言うものは無い。我、汝、彼の無数の人の関わり合いである。関わり合いとして、自己を否定するとは汝に否定するのである。我と汝があって出会うのでなく、無として出会いの中から我と汝が見出されるのである。今としての我が生まれるのである。この新たな我が生まれると言う事が世界が世界を作ってゆく事である。新たなる自己が見出されると言う関わり合いの密度が、より大なる世界が実現されると言う事である。よき出会いは言葉、礼節と言った歴史的技術的なるものを介し、その最も適切なものを選ばなければならない。其処に今の生命が生まれるものとして一期は永遠の今の意味をもつのでなければならない。一会は新たな自己が生まれるのでなければならない。斯る意味に於いて同じ人との出会いに於いても刹那刹那が一期一会である。木も石も亦汝として出会いである。生命は生の事実として自己自身を維持する。生の事実はこの我であり、汝である。出会いである。出会いの中から我と汝が生まれる。生まれた我と汝が、我であり、汝であるとして出会う時に対立が生まれ、否定が生まれ我は汝を我の実現の内容たらしめんとし、汝は我を自己の実現の内容たらしめんとする。一期一会は再び初めの出会いに還る事である。もとより一度見出でた自己は単なる無に還る事は出来ない。自覚内容としての時は一瞬の過去にも還る事は出来ない。此処で自己は自己でありつつ自己でないものとなるのである。自己を絶対に否定して世界となり、出会いの中に新たな自己となって生まれるのである。死して生まれるのである。生命が生の事実として自己を維持するとは、この死して生まれるものとして、自己を維持するのである。一瞬一瞬再び同じ事のあり得ない我々の意識はこの死して生まれる処より出でて来るのである。一期一会は斯る生の実相の自覚であり、実現であると思う。無の中に死に、無より生まれるのである。

 私達は知る者として自己であり、知る者として人間である。私達は知る者として生まれ来り、知る事によって自己となる。知る生命はこの我を超えた大なる生命である。この我を超え汝を超えて、この我、汝に生みつぐものとして、人間の本質である。我々が知り、働くのは、この生命が我に於いて働くのである。形なくしてこの我に於いて形を実現するのである。無の中に死に、無より生まれるとはこの大なる生命に於いて働く事であり、大なる生命が働く事である。形なくして、この我に形を実現するものとして真に働くものは大なる本質としての生命である。我と汝を超え、我と汝を関わらしめるものとして、無数の個的生命を超え、無数の個的生命を包んで一つならしめるものである。本質は働くものであり、此処に於いて全ての現象は一つなるものの示現である。此処に於いて我々は自己の生まれる前の過去、死した後の未来を内容とする事が出来るのである。現在が過去を孕み未来をはぐくむとは斯る働きから考えられるのであり、前に現在が永遠の今としてあると言ったのは断るものとしてである。我々は働くものとして、本質的なるものの実現として全存在を宿す事が出来るのである。永遠を未来の面目とする永遠の影としてあるのである。ゲーテの言える如く我々は働く事によって救われるのである。

 この一なる生命の中に無数の個的生命が生まれ死に、対立し統一してゆくのが歴史 である。一即多、多即一として、時に多の原理が働き、時に一の原理が働く。而してこの無限の過程が一つになる時歴史がある。一期一会は今、此処として最深なる一者 の表れとしてあるものである。全てが自己を否定し、そして表れる形としてある。生と生の対面の中に時は包まれるのである。この我、汝として歴史の中に際会しつつ、絶対の自己を否定として、汝に生き、他者に生きるものとして永遠に面するのである。

 勿論私は斯る自覚の下に一期一会の言葉が生まれたと言うのではない。否言われる如く日本人は君の臣、親の子、夫の妻として生を見出したと言う事が出来る。昔の日本語に人格と言う言葉がなかったと言われる如く、其処に真の自己はあり得なかったと言い得る。前にも書いた如く自己は世界の中にあるものが逆に世界を内容として見られるのである。而し私は其の故に一期一会があり得たと思う。日本の文化は情的方向に見出でたと言われる。情に於いて自他は直に一つである。古代ギリシャの悲劇を読む時、私達の胸は暗澹たる雲に閉ざされざるを得ない。もらい泣きと言う言葉がある如く、他者の涙が己れの目に溢れて来る。吾がほほえみは他者のほほえみとなる。あるものが一つのものとしてある。斯るものとして日本の形は調和の形であったと思う。全体の中の一である。自然の中の家であり、家の中の一室であり、一室の中の器具である。家は自然を写し、一室は家を写し、器具は一室を写すのである。人は一人一人が宇宙を写すものとして、出会いの相手にいたるのである。主は客を写し、客は主を写すのである。其処に宇宙的生命を見るのである。調和は存在を大円と見、個々は大円を写すものとして大円を実現する事であると思う。そしてこの大円の基礎をなすものは自他直に一つなる情の波動であると思う。

 その故に私は一期一会は日本的特殊の意味をもつと思う。個的なるものが極小化さ れ、全体の中に没してゆくのみである。形は宗に還るのみである。働くものはこの我であり、汝である。この我が見えてゆくとは常に新たな我となってゆく事である。瞬に自己を破ってゆく処に自己がある。それは世界が自己自身を破って新たな世界を見てゆく事である。生命は否定が肯定として内外相互転換的に自己を維持し、形成してゆく、其処に時があり生命は時である。大円に没し、宗に還る処に時はない。あるものは時なき無辺の平面である。生命は常に自己限定的に動く。それが形をもつ時、今、此処として特殊化する。特殊の背後には常に普遍的なるものがあるのである。日本的特殊も亦風土と民族性を負える人間の自覚的限定である。而して特殊は普遍に還 る事によって真の形象をもつ事が出来ると思う。全は個を含む、而しそれは没するものではない。否定契機として含むのである。其処に自覚がある。其処に真の調和が生まれる。出会いはこの我と汝の出会いである。この我と汝は世界を内に含み、世界実現的に働くものとして、人格としてこの我であり汝である。其処に私が前に書いた一期一会があり、一期一会の普遍があると思う。一期一会は真の形、形象をもつ事が出来ると思う。西洋的近代自我の洗礼を受けた我々にとって、宗に還ると言うのは浮遊の如き感なきを得ない。よく茶道に於いて一期一会が言われる。而しそれは最早我々の自己限定より離れた遊戯の感なきを得ない。出会いは現実のこの我の自己限定として出会うのである。織豊、江戸の時代にはよく現実限定の意味を茶道は持っていたのだと思う。古い皮袋に新しい酒を入れる事は出来ない。時代と共に形は亡びる。而しそれが日本的真理である時、日本人の中に新たな装いを持って生まれるのでなければならない。人間的真理である時、人間と共にあり続けるのでなければならない。その為に私は私の考えた如き論理的基盤がなければならないと思う。

 私は冒頭に、それは人間存在の本質的普遍を露わにすると言う意味であると書いた。それは論理の普遍的構築をもつ事であると共に、よく他の特殊との対面に耐え得るものでなければならないと思う。以下これについて少し考えて見たいと思う。現代は多様の時代であると言われている。人間は自覚的として物に自己を見てゆく。外に限定してゆく、この見出してゆくものとしての主体の性格と、見出されるものとして客体の性格によって一つの形式が生まれる。性格が異なる時異なった形式が生まれるのである。それが現実に於いては民族性と風土として形式を決定するのである。多くの民族が各々特有の形式をもち、それを持続するのが多様である。而し世界は世界として一つたらんと意志を有する。歴史的意志として現在を決定せんと欲する。斯るも のとして世界の現在の矛盾を最も救済するものが主流となる。最も深い世界史的自覚を持った特殊が世界史的普遍として他の特殊を指導し、一つの時代を形作るのである。他の特殊はそれに追随してのみ特殊となるのである。近代に於いて世界史的普遍となったのはヨーロッパであった。而し栄えたものは衰える。私はヨーロッパは自己自身の内在的矛盾によって衰えるのであると思う。世界を知的、意志的方向に見た泰西文化は、分割、対立として、形相的に展開して行ったと思う。我思う故に我ありは近代ヨーロッパを象徴する金字塔である。而し分別、対立は何処迄も分割、対立である。西洋哲学は全て克服されるべき課題を持っていると言われる所以であると思う。生成期に於いて個は世界の個であった。自我は世界の創造的尖端として自我であった。創造的尖端であるとは常に世界を破る事によって創造的尖端である。自我が自我である時、世界が失われる所以が其処にある。英国病と言われる生産を無視した賃金の要求。山猫スト等肥大した自我の末期症状であると思われる。多様とは斯る指導原理の崩壊と、新たな指導原理の模索の過程に見られるものと思う。新たな指導原理は突如として生まれるのではない。それは過去を受け継ぎつつ、過去の矛盾の救済として生まれるのであると思う。それは亦過去の自覚に匹敵する大なる論理を潜めるものであると思う。私はヨーロッパの崩壊は分別、対立が初めと終わりを結ぶものを持たない。直に一つなるものを持たない事に原因すると思う。それに対して日本的自覚は直ちに一つとして対立するものが極小化されている事はすでに述べた。宗に還るものとして、初めが終わりであり、円還的であると言った。私はこの相反するものの統一が次の世界の形象を生んでゆくように思われる。勿論歴史は歴史自身が決定する。個の意志を超えてより大なる自己の相を選擇する。それは我々の思惟を絶するものである。而し歴史は我々の作るものである。多くの人の構想の綜合である。ともあれこの頃よく 新聞紙上に欧米の学者により、二十一世紀は日本の世紀であると言われている。そして日本の人々の間に一期一会、出会い、ふれあいと言った言葉が多く語られている。私にはそれが何かを暗示しているように思われる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

花有情

 よく飲みに寄るグリル文福の正面に、花竹有情と書いた額が掲っている。明るさと 温かみを持ったよい言葉だなあと思って何時も眺める。書体も優美、清楚でよい。此処にはたまゑ君と言って評判の才媛がいる。ドストエフスキーに傾倒していると言うので、話すのを楽しみに行くのであるが、何分私は一番安物の客である。利潤追求の必然として、私の前に来るのは客の空いた時となる。豪勢な客に彼女が営業用の微笑をもつ時、手持無沙汰な私は花竹有情とは何ういう事なのだろうかなどと考える。今日は一寸閑なので以下感じた事を書いて見たいと思う。花も竹もとはいかないので花 に主題をとりたいと思う。

 花有情と言っても花が情念をもつのではないと思う。遺伝因子と環境の関連の必然 としてある花に、感情や意志のあり得ないのは当然である。而し私達がこの言葉にうなづかざるを得ない時、花は私達に語りかけ、誘いかけるものをもつのでなければな らないと思う。呼び応えるものがなければならないと思う。それが花自身から考えられない時、花有情の花は花自身より更に深い意味をもつものでなければならないと思う。勿論それは花以外のものであってはいけない。あく迄も花でなければならない。果してそうであるならば、この語らさるものが語るとは如何なることであろうか。私はこの謎を解くためには人類が経て来た、限り無い時間の秘密の中に入りゆかねばならないと思う。

 私達は目で花を見る。そして見えた花を美しいと思う。そして花を見る目は直ちに美と結び付くように思う。而し花を見る目は直ちに美に結び付くものであろうか。或る人の短歌に、畦の草刈をしていると美しい花の一株があったので其処だけを刈り残したと言うのがあった。若しこれが牛であったら食べ残しはしないであろう。若し食べ残すとすれば食えないからであろう。視覚神経は同じ構造をもつはずである。生命としての生体を維持せんとする動物に於いてあるのは食物のみである。其処に花の美しさはあり得ない。若し花園の中に羊をつないだとしても、羊の知るのは何れが食えるかであり、見るのは食えるもののみであろう。今でもオーストラリアの山中に真に原始生活を営む人がいるそうである。雨期になって川に水が溢れ、植物が茂り、動物が繁殖すると、何処からかともなくその種族の人が集まって来、乾燥期になって食物がなくなると亦何処かへ散ってゆくそうである。その人達は死の恐怖も生の歓喜ももたないそうである。そして汚れた泥のような肢体に生きているそうである。私は其処にはやはり花を美しいとする目はないように思う。それならば人間が花を美しいと見る目を開いた発端は何であったのであろうか。私はそれは人間が神を見た時に始まると思う。我々の祖先は先ず死の恐怖に於いて神を見た。死として無に帰した霊魂を形に露わにする事によって鎮めんとした。生死を超え、生死を支配するものを造形する事によって死よりの救済を求めんとした。私はそれは人間の自覚の最初のものであると共に、最も本質的なものであると思うのである。(それについての考察は亦別 の機会に譲りたいと思う。) 古代遺跡として今に残る造形物は全て斯る意味をもつと思う。全て怪異であり、巨大である。而しそれはまだ美ではない。此処に美ではないと言うのはまだ美意識を生まなかったと言う意味である。私はそれが美となったのは製作者が自己の力の自覚を持った時からであると思う。形の中から次の形が生まれた時からであると思う。形の中から次の形が生まれる為には、作者は自己の内面的なものに入ってゆかなければならない。無なるものが形となるのは全て内面的なるものの表出である。原初に於いては人間一般的であったものが、この我としての真の内面的なるものとなるのであろう。人間一般と言うのはあり得ない。あるのはこの我だけであり汝である。この我が自とは如何なるものであるかを求めた時、自己の奥底に人間一般が見られるのである。人間一般は内面となる。表現はこの個と一般の相剋と統一の苦悩と歓喜である。この我の確立によって生死は愈々深くなる。無限の形は此処より生まれるのである。この自己の底から一つの形より、次の形が生まれる時、私達は美しいものの意識をもつのであると思う。自己の形を見るとは世界のイデアを見るのである。

 花を見て美しいと思うのは、このような人類の内面的発展をひそめもつが故に外ならないと思う。私達の目を牛や鳥の目と分かつものはこの限りない苦悩と歓喜の努力の上にあるが故に外ならないと思う。或は私はそのような苦悩と歓喜、内面的発展を持たないと言われるかも知れない。而し前に書いた如く、個としてのこの我が見てゆく自己の奥底は世界である。世界の自己実現としてこの我はある。世界の自己実現として真の創造は歴史的創造であり、歴史的現在としてこの世界は無限の過去を孕み、未来をはぐくむのである。我々はこの世界を映すものとしてこの我である。我々は一つの生物としてではなく、歴史的創造の創造点として、過去、現在、未来を統一するものである。

 日本人は花を自然の花としてではなく、活花として存在の相を表そうとした。自分の一番深い相を見ようとした。種の花に無常な己の生命の姿を見、散りゆく桜の花に己の死すべき姿を見ようとした。やはり野におけれんげ草と言う句は、亦己が野生への郷愁でもあったであろう。白い花に清潔を、赤い花に情熱を、全て花は情念に於いて捉えられ、見られたと言う事が出来る。そして私達が今花を見る目はこの生花の形が働き、和歌、俳句の心が働き、物語りが働き、絵画が働くのである。私は花有情と言うのは、花が情念をもつのではなくして、過去より数限りなき情念の目を以って見られ、私達の目はそれをひそめるものとして、花を介しての過去との目の対話であると思う。目がひそめもつと言う事は花がひそめもつと言う事であり、花がひそめもつと言う事は目がひそめもつと言う事である。目は歴史的現在の目であり、我々の目は歴史的現在の目として全人類となる。内容をもつのである。この事は花が情念の影となる事ではない。斯る目に於いて花は愈々赤く、愈々白いのである。花の色愈々鮮やかにして情念の愈々大なるものがあるのである。園芸を培うのは亦自己の情念を培うのである。そしてその情念の背後に深き歴史的創造の世界があるのである。バラを見る時リルケの詩があり、ダリヤを見る時ゴッホの画がある。菜の花を見る時蕪村の句があり、垣根の小さな花を見る時芭蕉がある。世界に入る事深くして花は多くを語ってくれるようである。花に我と過去と出会う時花に情のすまうのである。花も目も我も重畳無限の歴史的自覚の内容であり、限りなき生命の荘厳である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」