神について

 乙 「大分前から神について考えたいと言っていたがその後どうなったかね。」

 甲「何しろ問題が大きくて、資料も少ないし、概観だけに止まっている状態なのだ。」

 乙「丁度僕も絶対と相対と言った問題に悩んでいるところなんだ。考えただけ話してくれないか」

 甲「いいだろう僕自身の考えをまとめるという意味で、考えながら話をしよう。」

 乙「では君は神をどういうものとして捉えようとしているのかね」

 甲「それは我々の存在の根源として、この我がそこから見られ、それによって成立し、 全ての価値がそこから出てくるようなものとして捉えたいと思っているのだ。」

 乙「根源へ要求というのはどういうところから生まれて来るのだろう。」

 甲「君が先に絶対と相対の問題に悩んでいると言っていたね、その根底には相対とし ての自己が、絶対として世界と一つになろうとする意志があると思うんだ。生死する 生命は永遠を求める生命なのだ。そこに根源を求める所以があると思うんだ。悩むと は自己が真個の自己ではないということなんだ。個と種として内に乖離をもつのが生 命なんだ。それが一として、その乖離を埋めようとするのが問いなんだ。」

 乙「我々の根源と言う時、それは我々より大きな、我々を越えた存在でないといけな いのではないのか。」

 甲「そうだ。」

 乙「そうすると君がかねがね言っている、人間が自覚的創造的として、自己が自己を作っていくというのと矛盾しないのかね。」

 甲「それは矛盾しないのだ。自分が自分を知る事が、自分を越えたものをもつことに よって初めて成立するのだ。」

 乙「具体的に言ってくれないか。」

 甲「生命は身体的にあるのだ。身体のない生命というのはない。自覚的創造というの も、この身体の活動に於いてあるのだ。内とか外とか、超越とか内在と言われるのも この身体を基準として言われるのだ。超越というのはこの身体を越えているというこ とだ。五尺の体と言われる如く、僅かな空間を有し、人生五十年と言われる如く、我々 の身体は生死する生命なのだ。而し我々が私という時、それは斯る事実的存在として の生命ではないのだ。何という名前の、何処に住み、どのような仕事をしているかと いう私なのだ。姓名は血族の無限の連続の上に成り立っているのだ。住所は先人が血と汗で拓いた処だ。職業は歴史の伝承を基礎としているのだ。それは何れもこの生死する身体を越えたものだ。そして私達は言葉と技術を用いてこの世の中で暮らすのだ。そして言葉も技術も我々を超え、我々がそれによってあるものだ。そして斯る越えたものに自分を見出してゆくのが自己創造ということなのだ。」

 乙「それでは世界が神なのか、」

 甲「そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。」

 乙「というのは、」

 甲「普通考えているように、単に世界が我々の住む処、我々を包むものである時は、 それはまだ神とは言えないのだ。世界が自覚的創造者として、この我の自覚的創造に対する時に世界は神となるのだ。」

 乙「それはどういうことだろう。」

 甲「うん、ここは難しいところで、僕自身苦しんでいるんだ。而しここを抜いては前に進む事が出来ないので敢えて言うと、この我があるということは、何処迄も生死する身体を超えたものとしてあると同時に、何処迄も身体的にあるものとして生死するものなのだ。生きているものは死をもつものとして常に死に面しているものなのだ。生きているとは常に危機にあるということなのだ。我々は危機の克服に於いて生きているのだ。先に我々がそれによってあると言った言葉や技術も、人間が死を生に転ずる手段なのだ。この死として迫って来る力、我々の全てを一挙に無とする力に人は最初の神を見たのだ。」

 乙「それと自覚的創造とは何の関係があるのかね。」

 甲「我々が自己を見るというのは、自己を外に表して見るのだ。手の延長として物を 道具とし、道具を握って物を製作して、欲求を外に表した時から自己はあるのだ。前に言葉や技術によって自己となったという所以はそこにあるのだ。この製作的生命の 無限の発展が自覚的創造なのだ。人は製作に於いて死を超えようとして初めて世界を見たのだ。而し生きるものは死ぬのが宿命である以上、それはどうすることも出来ない巨大なものだ。そこでこの力の庇護を受けようとしたのが最初の神なのだ。」

 乙「而し人間がこの巨大な力を知るということは、何らかの意味でこの巨大な力をもっ ているということではないのか。」

 甲「そうだ、何等かの意味で持たない限り、驚く事も怖れる事も出来ないだろう。それは後で詳しく話す場合があると思うが、前にも言った如く、我々が見るというのは外に表して見るのだ。表したものの力を自己として見るのだ。」

 乙「そうとすると神は生産力の向上につれて変わってゆかなければならないと思う が。」

 甲「そうだ、新しい状況、新しい世界と共に古い神々は死に、新しい神が誕生するんだ。」

 乙「少し説明してくれないか。」

 甲「うん資料もないので僕の周辺を見ながら説明をしよう。その前に言っておかなけ ればならないのは、我々は生命としてあるということだ。生命が見るものは生命であ るということだ。作られた物も、生命の影として物であるということだ。そして生命が生命に於いて自己を見るとは生死に於いて見る事だ。世界を生死として、自己に於いて生を見、自己をとりまくものに於いて死を見たのだ。生は力だ、そして死はそれを否定するより大きな力だ。而し自覚が未だ初歩の時代は、生命が自己外化をなしていない。物も亦生命をもつものだ。物も亦生命である時、物が我々に死をもたらす所以がない。そこで死の使者として考えられたのが死んで行った人々であると思うんだ。死者がこの世に残した怨念によって、この世を亡くそうとするのだ。」

 乙「どうして死んで行った者が、この我々を否定する力をもつと思ったのだろう。」

 甲「僕はそこにも言葉や技術といったものが介在するのではないかと思うんだ。言葉 や技術をもったものとして、後世に伝えた者、そしてそのもった言葉や技術の超越的 力が死者に力をあらしめたと思うんだ。言葉や技術は物に関る。そこに死者と物力 が関る地盤があったと思うんだ。菅原道真が雷になったのも、根底にこのようなもの もあったと思うんだ。それで初めに還るのだが、一挙に人口の三分の二を奪い去る流 行病、あらゆるものを破壊し去る暴風雨、洪水その他兇事は死霊と結びついて最初の神となったと思うんだ。勿論死を運ぶものを拝むのは、拝むことによって死を免れんとしてだ。昔僕の家の近くに地神さんを祀る処があった。竹が密生していて、人々の通る道の反対側に切り込みがあり、その奥に何かがあるようであった。夕方になると祀る家の人が灯りを上げていた。竹群をとおして、小さな灯りが見えるのは宛ら幽鬼のようであった。村の人はそこを大変怖れていて、少し暗くなると通らないようであった。僕がその竹群に小便をした時、祖母は僕を連れて祀る家に行き、なにがしかの金を払っていたのを思い出すよ、今思えばあれはきっと拝み料を払って謝ってもらったのだろうと思うよ。或る日誰もいないのを見定めて、中に入って見たら、丸い石が二、三ヶとその上に瓦のようなものが置いてあった、僕はなんだと思ったのを記憶しているよ。而し今にして思えば石器時代は石が武器であり、生産の媒介者であった訳だ。戦国時代でも、印字打ちは闘争の有力な手段だったからね、大古にはそこに大なる霊力を見たのであろうと思うよ。その外、田の中や山に稲荷さんとか秋葉さんというのがあった。それはそんなに薄暗い処にあるのではなく、人々もそんなに怖れていな いようだったよ。夏の草取りの時なんか、稲荷さんの木陰でよく休んでいたものだ。恐らく地神さんは呪術に関係し、稲荷さんや秋葉さんは物そのものに関係するのでは ないかと思うよ。そして其処には生産手段の大きな変革があったと思うんだ。亦家の 中には神棚というのがあって、種々の神が祀られて鼠の巣となっていたものだ。その 中で一番力のあったのが三宝荒神であったように思うよ。飯をこぼしたり、残したりすると祖母から、荒神さんが睨んどってやと言われたもんだ。稲荷さんなんかと共に農耕社会の最初の神であったと思うよ、一番親しまれていたのが恵比須大黒の神だったよ、何しろあの笑顔だからね、而し僕は二神の本質は陸と海の生産と収穫の技術を司るものであると思うんだ。俵と鯛、そこに相当な生産手段の発展があったと思うんだ。それからあったのが氏神さんだ。それは勿論拝む神であったけれども、氏子が寄ってお祭りする神様だったんだ。そこには意志疎通と意志統一があったと思うよ、一緒に笑ったり、歓声を挙げたりする中から一体感が生まれて来るのだ。その背景に は水利とか開拓とか大規模な土木なんかが必要ではなかったかと思うんだ。」

 乙「君の言ったことは僕にも覚えがあるよ、而しそれは日本以外の国にも当てはまる」

 甲「うんそれを言われると弱いんだ。最初に資料が乏しいと言った中の一つでね。そ れでもいつか読んだ、ギリシャ、ローマの宗教、法律及び制度の研究という本には、 家族神より民族神、都市神へと新たな神が生まれてく過程が書いてあったよ、そして 後から生まれて来る神がより高次なる神として以前の神に優越するのだ。それは何も 神が優越するのではなくして、氏族は家族に優越し、都市は氏族に優越するのだ。優 越するとは内包してゆくことなのだ。外の国も同じような過程を踏んだのではなかろ うかとしか今では言いようがないんだ。」

 乙 「それで最初の死霊というのは氏神さんになってどうなったのかね。」

 甲「うんお祭りには神楽なぞというのがあってね、そこで悪霊としての大蛇退治など があったものだよ。それに祭神としての氏の上が死霊の意味をもち、その鎮めとして の面もあったようだよ。神の発展は結局生と死の弁証法的展開と言えるんではないか と思うよ。生を否定する死、死を否定する生、環境と主体の相互限定の形相が神の形相であると思うよ。」

 乙「農耕社会に於いては太陽崇拝が大変旺んであったと聞いているが、太陽神は矢張り死霊の意味をもっていたのだろうか。」

 甲「うん僕達の周辺には余り祀っているのを見かけないが、それは皇室が天照皇太神を祀られ、天皇自身が天っ日嗣として、現人神であらせられた処に原因があると思うのだが。古代文明には太陽の国と言われるところが多いね。そしてそれは恵みの神として崇敬を受けていたようだ。而し恵みとは何なんだろうか、僕は死を生に転ずる意 味がなければならないと思うんだ。死に面する我々に生を与えてくれるのが恵みであ ると思うんだ。」

 乙 「そうすると太陽神の巨大なる力も結局死霊の力ということかね。」

 甲「そう思うんだ。勿論太陽神が死霊ではなく、死霊に打克つものとしてだ。而し死は逃れる事は出来ない、そこに祈りがあるんだ。この永久に逃れる事の出来ないもの から逃れんとするところに巨大な力が生まれるのだ。時々内藤先生の古典を読む会に顔を出すのだが、その中に物忌みで外出を止めたといった記事の多いこと、古代人は死霊との関りに明け暮れたのではないかと思われる位だ。王権の巨大な力も、この死霊との関りから説明出来るのではないかと思うんだ。」

 乙「キリストの神もその延長線上にあるのかね。」

 甲「生死の問題なくして神はあり得ないと思うよ、キリストも悪鬼よ去れと言っているところから見ると、延長線上にあると言えなくもないよ、而し汝の敵を愛せよと言ったキリスト教は過去の神と截然と一線を劃しているんだ。過去の神は祀るものの神だったんだ。それは敵を滅して自分が生きる神だったんだ。キリストに於いて神は人類普遍の神となったのだ。」

 乙「そこには矢張り生産の発展があったのかね。」

 甲「あったと思うよ。」

 乙「その普遍の神とはどういう神なんだ。」

 甲「僕はキリスト教について多くを知らないし。殊に二千年に亘って数知れない人が、祈り考えた神をごうも説明する力がないよ。唯僕自身が求めた普遍なる神をあてはめて話をするだけだ。」

 乙「兎に角言ってくれないか。」

 甲「ヨハネ伝であったと思うが冒頭に、『太初(はじめ)に言(ことば)ありき、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。』とあったと思うんだ。これは前にも言った如く僕の出発点でもあるのだ。人間だけにあって他の動物に無いもの、それは言語中枢であると言われているが、人間は言葉をもつことによって人間になったのだ。昔語部によって歴史を伝承したという如く、言葉は生死するこの身体を超えたものだ。この言葉によって蓄積された経験が技術なのだ。この蓄積が世界であり、我々は自己の底に全人類を見るのだ。蓄積は世界としての社会によってなされるのだ。ここに全てがあるのだ。」

 乙「そうすると死霊はどうなったのかね。」

 甲「経験は生が死に面するものとして経験なのだ。生と死は常に闘いだ。それは常に 勝敗をもつ、その勝った集積が技術なのだ。だから逃れることの出来ない死をバネとして、言葉や技術はより大なるものとなってゆくのだ。死霊は否定として、神いよいよ大なれば、悪魔いよいよ大なるものとして、神の自己創造は亦悪魔の自己創造とし てあるんだ。」

 乙 「そうするとこの人間の行履の蓄積された世界、死をバネとして無限に創造してゆ く世界が神ということかね。」

 甲「僕はその深大なる世界に眩めく時、それが神だと思うんだ。無限の過去と未来が その中にあるもの、草木瓦礫もその目をとおしてあるもの、前に書いた言葉と技術を もつことによってこの我があるということも、斯る世界の前に立つと言うことなんだ。この底から汝斯く為さざるべからずという声が聞こえてくるんだ。」

 乙「そうすると普遍なる神というのは世界のことかね。」

 甲「神というのはこの世界の前にこの我が立つということなんだ。それによってあるもの、造られるものとして立つというとき、世界は神となるのだ。そしてこの我から世界を見るとき、氏神とか、福神とか、民族神が成立し、世界からこの我を見るとき、普遍なる神があると思うんだ。」

 乙「もう少し説明してくれないか、」

 甲「世界が経験を蓄積するといっても、世界が記憶機能をもっている訳ではないんだ。記憶をもっているのはこの僕であり君であるのだ。言語中枢は一人一人がもっているのであって、社会という普遍者がもっているのではないのだ。そして一人一人のもつ言語が生死する身体を超えて世界を構成するのだ。言語中枢も亦身体であるとき、我々の身体は生死する生命であると共に、永遠なる生命であるのだ。自己より見るとは、世界に生死する身体を見ることだ。世界より見るとは、自己に永遠なる生命を見る事だ。」

 乙「それはどう異なるのかもう少し具体的に言ってくれないか。」

 甲「世界に生死する身体を見るとは、欲求としての身体を世界に実現しようとするこ とだ。より長く生きたい。他人よりよい生活がしたいと願うことだ。民族神や都市神が戦う神であったのはそこに原因をもつんだ。俗神と言われるのは生死の相を超えないということだ。世界より見るとは、生死を超えたものによってこの我があるものとして、言葉や技術に自己を見るものだ。それは自己を消して物そのものとなり、世界となる欲求否定の世界だ。世界の声に呼ばれるのだ。物に自己を見ることによって世界によみがえるのだ。」

 乙「ものそのものになることによってよみがえるというのはどういうことなんだ。」

 甲「物は言葉と技術の所産として、言葉と技術をふくんだものだ。永遠の内容として それ自身の展開をふくんだものだ。我々は物自身の展開によって社会を形成してゆく んだ。科学も斯る地盤に於いて成立するんだ。例えば物理学なんかでも、物の中に無眼の秩序をふくんでおり、物理学者はその秩序に招かれて体系を打樹てると思うんだ。そしてそれこそが言葉の秩序なのだ。事業でもそうだ。一つ見ることによって次が見えるのだ。その呼声が神の声なのだ。僕は若い頃、名を忘れたが西洋の著名な物理学者が、有神論者であると聞いて奇異に感じた事があるんだが、彼は無限に展けてゆく 物の秩序に神を見たのであろうと思うよ。僕がよみがえると言ったのは官能的身体から創造的身体になったということなんだ。」

 乙「それでは物の内面的発展を見るのが、神に前に立つということかね。」

 甲「いや、それは神に於いてあることなんだ。神の前に立つとは、物や数や事業とし てではなく、生命として、生死の根源として、永遠として、全てをそこよりあらしめるものとして、言葉に於いて向はなければならないのだ。我をあらしめるものとして向はなければならないのだ。言葉が神であるとは、言葉によって自己を現わすものということだ。」

 乙「君は前に古い神は死んで、新しい神が生まれると言っただろう。それは俗神にの みあてはまるものなのかね。それとも普遍神も生まれ死んでゆくかね。」

 甲「そう思うよ。言葉は歓び悲しみから生まれてくるのだ。歓び悲しみは今の他者と の関りにあるのだ。永久不変の何処に言葉があるだろう。前に物自身の秩序の展開と言っただろう。展開とは古いものが死んで新しいものが生まれてくるんだ。キリスト 教神学は大きな曲線を描いて変化している筈だ。聖書という骨格だけ残して、肉も被服も変わっている筈だ。記憶があいまいなので確かなことは言えないが、ドストエフ スキーの小説だったと思うよ、再生したキリストをなじっているところがあるんだ。何しに来たんだ今頃、君はもう必要ないんだ。君がいたら邪魔になるんだ。帰ってくれと言った風にね、僕はこの中に深い洞察があると思うんだ。佛教にも刹那生滅というのが禅にあるが、これは釈迦も達摩も免れることが出来ないと思うんだ。そればかりでなく釈迦も達摩も殺すのが刹那生滅の本当の意味だと思うんだ。もし釈迦の言葉のみでよかったら道元や親鸞の出現はあり得なかっただろう。言葉は生きているものの対話だ、そこに何時も新たな神が生まれなければならない理由がある。

 乙「そうすると全ての神も佛も生まれて死んでいくものか。」

 甲「そうだ、死なない神は神ではない、今時分に千年前の経を繰り返しているような佛は博物館の隅に埃を被るべきだ。」

 乙「而し君は言葉は生死する身体を超えて永遠だと言ったね。」

 甲「そうだ、言葉は永遠の具現であり、神は永遠だ。」

 乙「永遠は生死を超えたものであり、キリストの言う如く、始めに終わりがあるものではないのかね。」

 甲「そうだ、始めに終わりがあるものとして、永遠なるものだ。」

 乙「それは矛盾ではないのか。」

 甲「そうだ矛盾だ、そこに神の本質があるのだ。それは何処までも深く神は生命としてあるということだ。生きているものは死をもつのだ。そして永遠の中に死んでゆくのだ。永遠の中に死ぬとは前にも言った如く、人間が言葉や技術で作り上げた世界の 中に死ぬのだ。国土、習俗その他諸々のものは言葉を持ち技術をもつものとしての我々の祖先が築き上げたものだ。我々は他の動物と異なって死を知り、死を悲しむ。それはこの人間が作り上げた世界に写して知るのであり、自分の見出した世界が消えることを悲しむのだ。そのことは未だ世界をもたない嬰児は死を悲しまないし、世界を失った痴呆は死を悲しまないのでも明らかであろう。僕はこの永遠と生死、世界と自己を人間生命の種と個の形相と見るのだ。種は個を超えて個に形相を維持してゆく。個は種によって形相を与えられる。この種と個の関係が、動物に於いては個は種より与えられたままに行動するのだ。自然のプログラムのままに生きるのだ。それに対して人間は言葉をもつ。言葉をもつとは自覚的ということだ。自覚的ということは作ることによって見るということだ。そして種的個的なる生命が作るということは、種的個的なる自覚として、種的個的に作るのだ。種的方向に世界を見、個的方向にこの我を見るのだ。自覚は種的個的として一つでありつつ、相反するものとして相対する所に成立するのだ。我々は世界の方向に永遠を見、自己の方向に生死を見るのだ。この矛盾に於いて世界は自己自身を創造していくのだ。この我は世界の中にあると共に世界を作っていくものだ。世界を作るとは、世界を自己の内にもつことだ。我々は世界としての言葉や技術をもつことによって世界を作るのだ、世界をもつことによって世界を作るとは、世界を自己の性格の相にあらしめようとすることだ。自己が神であろうと することだ。そこに我々の意志があり、意志は世界を自己の下にあらしめようとするのだ。そこに意志の自由がある。個は世界を否定することによって個なのだ。而し生死するものとして、人と人と相対し、世界によってある我々はどうしても世界となることは出来ない。世界とは絶対の懸絶をもつ、そこにキリスト教の躓きがあり、キエルケゴールの絶望があるのだ。世界は個の否定としてあるのだ。世界は到達することの出来ない唯一者としてあるのだ。世界は自己の中に自己を包むもの、自己を否定するものとしての個をもつことによって自己を突き破り、自己を創造するのだ。動的として変容してゆくのだ。而して唯一者としての神は変容に於いて自己を見るものとして、見るべからざるものとなるのだ。キリスト教のかくれたる神であり、佛教の空であるのだ。而してそれは自己の中に矛盾をふくむことによって自己を創造するものとして絶対の力なのだ。世界の形相として現れた神は否定をふくむものとして、すでにある形が死して、新たな形が生まれるのだ。単なる一は一でもなんでもないんだ。一は多の否定に於いて一なのだ。多は一の否定に於いて多なのだ。一は多の否定として多を維持する力なのだ。この力に於いて我々はゲーテや達摩と対話出来るのだ。斯る一者がはたらくところに我々の言葉や技術は成立することが出来るのだ。僕は数学の一については知らないが、生命の一者はかかるものでなければならないと思うんだ。かくれたる神であり、空であるのは時間の統一者だからだ。そこに見えざるもの、形なきものが絶対有である所以があるんだ。はじめに終わりがあり、終わりにはじめがあるんだ。我々は世界を否定して自己が世界であろうとして、世界より否定されて絶対の無となったときに、見るべからざる永遠を見、触るるべからざる神に触れるのだ。」

 乙「空として、かくれたるものとして絶対者があるとき、生まれて死ぬ神は最早いら ないのじゃないのか。」

 甲「いやそうじゃないんだ。自己の中に否定をふくみ、否定を媒介として自己を創造 する神は、現在に於いて働く神だ。形なき神は、形に現われることによって、形なき 神なのだ。否定を媒介として、形より形へと転ずるが故にかくれたる形なのだ。無限 に動的なるものの一として、時は現在より現在へだ。永遠なるものは常に働く現在が 担うのだ。二十一世紀を担う者は二十世紀の神を滅ぼして、担うもの等の神を打樹て ねばならないんだ。かくれたる神は働く神だ。」

 乙「はじめに終わりありとは、君の言うとおり現在が過去と未来をもつことであろう。 而し現在が過去と未来をもつことは過去が現在をもつことではないのかね。」

 甲「そうだ。釈迦の言葉の中に歎異抄や正法眼蔵がふくまれていたと言い得るし、聖 書は辯証法的神学を孕んでいたと言い得るんだ。而しそれは親鸞や道元が著はして あったんだ。彼等の苦節に於いてあったんだ。その意味に於いて最初に言葉があった 時に、既に現在の言葉の海があったと言い得るし、地上に初めて生命が現われた時に、既に現在の我々があったと言い得るんだ。生命ははかり知る事の出来ない深さだ。」

 乙「それは神の深さなのかね。」

 甲「そうだ、我々が知るとは自己が自己を見ることだ。無限の時間は我々の時間とし て、我々の身体であるが故に今我々は言葉に出し得たのだ。而し言葉となり得た自己は解っている。言葉を出している自己は永遠の謎だ。そのはかるべからざる謎に於いて我々は神の前に立つのだ。」

 乙「神が永遠の謎であれば、神のみちびきというのは何処から来るのか。」

 甲「それは交し合う言葉の中から出てくるのだ。今こうして君と話している、話しているうちに疑問が生まれ、解答が生まれる。ここにみちびきがあるのだ。そして深大なるものへの問い、根源への問いに於いて神の存在を知るのだ。神の声を聞くのだ。神の声を聞くことによって、全てが神のみちびきであったと知るのだ。」

 乙「君は前に個の否定を内にもつことによって神は自己を創造すると言っていただろう。そうとするとキリストの原罪というのはおかしいのではないのか。」

 甲「いや、その故に我々は罪をもつのだ。神が自己の内にもたない否定だったらどう して罪になるだろう。内なるが故に神を否定するものを、神は否定するのだ。個は救 済を求めるものだ、今の自己を真実ならざるものとして、奥底に真実の声を聞かんと するものだ。奥底に聞くとは、この我が死んで生きることだ、罪とは真実ならざることだ。自己否定をなさなければならないことだ。我々は言葉をもった時に罪人として神の前に立つのだ。そこに一切我今皆懺悔があるのだ。悔い改めがあるのだ。そして神の前に立つと知ることによって甦るのだ。言葉としての神は、言葉によって我々を救済するのだ。我々が知るということは神の救済なのだ。」

 乙「僕が絶対を何故求めるかということが解ったような気がするよ。まだいろいろ聞 きたいような気がするけれども、何を聞くか判らないのだ、今日はどうも有難う。」

 甲「僕もいろいろ言い足りないように思うのだが、何を言っていいのか判らないのだ。 亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念、随想・小論集」

無について

 日本文化が問われるとき、常に出てくるのが無ということである。それは幾百年間問い直され、答え直された問題のようである。而して現在も尚、書店の棚に無を問う文字が背を並べている。私はそのことは無は西洋的な概念的定義をもち得ないことに由るのではないかと思う。

 無を問うということは、それ自身が矛盾である。無が単に無いということならば、そこ から問いの生れてくる所以があり得ない。問いが生れてくるのはそれが相反するものを含むが故である。有が無であり、無が有である、そこに無への問いが生れてくるのである。無が有であり、有が無であるとは、有も無も無いということである。併し有も無も無いところには有が無であり、無が有であるということは出来ない。あくまで有は現前するものであり、現前するものは無としての現前でなければならない。而してそれが人間生命のこの我の存在のしかたであるところに問いが生れるのである。

 生命は内外相互転換的である。生きているとは、外を内とし、内を外とすることによっ て形作ってゆくことである。斯る内と外とが転換的に純一であるということが、生命が内外相互転換的であるということである。動物は外として食物的環境をもち、内として身体機能をもつ、それは相互否定的である。動物は労力を費して食物を求めなければならない、それは苦である。併し動物はその特にすぐれていると言われる嗅覚に於て食物的環境と一体である。

 犬を散歩に連れて行っていると、突然草むらの中にかくれて何かを咥えてくることがある。どうして探したのであろうと思う。そこには犬とそのものの間に特殊な関りがなければならないと思う。咥えて来たものが、犬の嗅覚をとおして呼ぶということがなければならないとおもう。求められるものと求めるものが、誘い誘われる関係としてあるのである。私の家の裏庭の、コンクリートの裂目に咲いた二、三輪の小さな花に、密蜂の来ているのを見たことがある。花と言えばそれのみである。しかも家に囲まれているのである。そこには我々の思考を超えた生命空間とでも言うべきものがあると思わざるを得ない。それは花のにおいを介して、蜂と蜜が一なる動的空間である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、自己を外に形に表わすことである。外に形に表わすことによって我々は自己を見るのである。外に形に表わすとは、内外相互転換としての動的一なる生命が、内的なるものと外的なるものに分れることである。それは外なるものを物として、内なるものをはたらくものとして、技術的製作的となることである。自覚的生命とは、技術をもって物を作ることによって自己を実現してゆく生命である。我々の自己とははたらく自己である。

 我々の自己がはたらく自己であり、外に物を作るとは、内と外とが分れることである。 分れることは対立することである。対立するとは相互否定的としてあるということである。動物に於ても内外相互転換的に一であるとは、相互否定的に一であるということであった。それが自覚に於て否定面が露はとなったのである。

 物を作るとは、外としての我ならざるものを、我の表われとすることである。外を否定 することである。それは同時に、物を作るとは我を外とすることである。この我が物に 化すことであり自己を否定することである。物に自己が表われることは生であり、自己が物に化すことは死である。斯くして表現的世界は生即死、死即生として無限の動転である。我の表われたものは我の化したものとして、外に我に対立するものとなるのである。我々は我の表現物を外として、更にその底に我を表はすべく努力するのである。外として死として迫ってくる物を生ずべく努力するのである。我々日常の営みとはる無限の経緯である。

 我と物が対峙するということは、生が死に対峙することであり、それは苦痛である。生 即死として外より自己が否定されるとき、そこに我々は自己を見る。死する自己、有限なる自己として我々は自己に目覚めるのである。斯る自己が死即生としての、有限なるものを超克せんとする、内よりのはたらきに自己を写すとき、無限の苦悩となるのである。死即生の方向に永遠なるものを見て、己れの生命の朝露のはかなさに悶えるのである。

 自覚的生命とは製作的表現的に自己を見てゆく生命であり、製作とは物を作ってゆくことである。物は内外相互転換の形相的実現として、何処迄も変転してゆくものである。我々が製作的生命として物を作ってゆくとは、物に自己を表わすことであり、物に自己を映すことである。何処迄も物に自己を映してゆくのが自覚的生命に生きることである。それは変転し生死しゆく有限相対の世界である。自己が物に即して自己を見る限り離れることの出来ない世界である。生きるとは苦悩に生きるのである。

 併し分れたものは一つのものが分れたのであり、対立するものはそれを包摂するものに於て対立するのである。苦悩は克服すべく我々に努力を強いるのである。そこに無の問わるべき所以がある。有限として変転し、生死するものの否定を問わなければならないのである。有の否定は無である。

 ここに如何に否定すべきかの問題がある。我々は生きるものとして、それはあく迄生命の営為に即して否定されるのでなければならない。自覚的生命の内外相互転換に即して否定されるのでなければならない。物は我の表われとして、自己を見るとは物に着すること である。物に着するとは、見出でた我に着することである。物に執し、自己に執するところに物と我とは相対し、有限として相互否定的となるのである。私は純一なる内外相互転換の自覚として見出でた物と我は、再び純一なる転換にかえるのでなければならないとおもう。否定したものによって否定されるのである。

 自覚的生命としての内外相互転換は製作であった、製作に於ては最早原始的生命の如く内と外と感官的に一であることは出来ない。物と我の対立するものが一なのである。人格的に一である。製作するとは、物と我とが行為に於てそこに消えるのである。消えて現われるのである。そこに有の否定がある。それは創造的否定である。我と物が無くなるのではない。我と物の根底に、我と物の消えゆく更に大なる生命の流れを見、我も物も断る 大なる生命の影と見るのである。

 ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言ったとき、そこには自己も物もない 唯実現してゆく彫像あるのみである。発明家は寝食を忘れる。寝食を忘れるとは自己がそこに没することである。自己が没するとは無我であることであり、我のないところに物もない。そこに製作的生命の内外相互転換の純一がある。有限として相対するものはここに否定されるのである。而してここより物も我も生れるのである。無となるところより生れるのである。

 併しここよりまだ無への問いは生れない。製作的自己としての無我は、大なる流れの中にあるというのみである。無への問いとは斯る自己を無とならしむる大なる生命を真の自己として、その消息を問わんとすることである。行為するのではなくして、行為の根底を言葉によって捉えんとすることである。見られた自己を見るのではなくして、見る自己自身を見るのを真の自覚とせんとすることである。

 それによって我と物のある世界とは、物でもなければ我でもない世界でなければならない、その世界は物によって見られるのでなければ、我によって見ることの出来ない世界でなければならない。それは物と我とに自己を露わとしつゝ、否定的転換的に露わにするものとして見ることの出来ないものでなければならない。 我と物が否定転換的に露わとなることが、自己を露わとするものとして、私はそこに生命の初めと終りを結ぶものを見ることが出来るとおもう。

 初めと終りを結ぶ生命が内外相互転換的であるとは、創造的であるということである。創造的とは技術的に自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に見られた自己として、内外相互転換的に露わとなった自己が、初めと終りを結ぶ生命の表れとして、始めと終りを結ぶ生命に触れるとき、製作的自己を無我ならしめた絶対の無に接するのである。それは自己の中に自己を見るものとして、無限の活動であるとともに、見られたものは自己の中に見られたものとして無限の静止である。相互転換的に自己を限定するものとして、常に現前すると共に、一瞬も捉えることの出来ないものである。

 禅家に大死一番という言葉がある。見ることが出来ないということは、知見によって捉 えることが出来ないということである。物を捨て、自己を捨てて唯現前そのままとなるところに見られるものである。現前そのままとなることは原始的生に還ることではない。あく迄も製作的努力に生きるところである。製作的生命が真の自覚をもつのである。製作的努力の過程を経ずして至り得ない世界である。我と物なくして、我と物を捨てることはあり得ない。自覚的生命として、自己の中に自己を見るとは死して生きる道である。我と物がそこに死ぬとは、我と物が始めと終りを結ぶ永遠なるものの風景となることである。そこに我と物の真の姿が現前するのである。そこは我と物の相対的知見を捨て切ったところに見られるものとして絶対の無である。そこは全てのものがそこより生れるところとして絶対の有である。

 私は日々是好日と言った如きに斯る風景を求めたいと思う。これは我や物を介在させてもつことの出来ない世界である。知見によって捉えることの出来ない世界である。それは唯在る一日一日である。併しこれは大力量の士によってのみもち得る日々である。一瞬一瞬を常に大死出来るもののみが維持出来る日々である。悲しみ痛みを永遠なるものの影とし得るもののみがもち得る風景である。

 始めと終りを結ぶものが、自己の中に自己を見ることによって我と物があるとは、我と 物は始めと終りを結ぶものであることである。そこに無が自己の奥底への参見である所以がある。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

死について

 甲「やあよく来たね、今此の間の話をした神についての歴史的現在の側面として、死について考えていたところなんだ」

 乙「是非聞きたいね、昔からの最も大きな問題だからね。それでよく肉体は死ぬが霊 魂は不滅だと言われるが君はそれを何う思うかね」

 甲「うんそれはこの間も言ったように、初めて死を知った時に見出した不死なるものの相だね。時間を超越したものとして、兇時の根源としての巨大な力として、原始社会が見出したものだね。僕はそれは原始社会のトーテム意識に対応して生まれたもの だと思うんだ。近代の因果律は最早それを受け入れる事は出来ないと思うんだ。考え て見給え、頭を一寸打っただけで言葉に障害が起こり、脳内の血管が一本切れただけで記憶を失う人間が、肉体が全然腐乱して尚地下や天上に我々と同じ生活を続けると言う事がどうしてあり得るかね」

 乙 「それでは霊媒者なんかは何うなるんかね」

 甲「僕は霊媒なんか信じないが、若しあったとしてもそれは霊媒者の能力であって、 向こうが直接語りかけて来ない限り同じ生活をしているとは考えられないんだ」

 乙「それでは霊魂と言うのは他愛ない想像の産物と言う事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。何うして他愛ない想像が人類幾千年の行動を規定し、支 配する事が出来るかね。人間はそれ程馬鹿ではないよ。僕は人間は自覚的として、存在するものは全て存在の自己限定としてあると思うんだ。不滅の霊魂は、人間は本来永遠なるものであり、人間の本質の具現であったが故によく現実社会を支配する事が出来たと思うんだ」

 乙 「それでは霊魂を認める事ではないのか」

 甲「うん唯肉体を離れて霊魂があり得ないと言うのだ。霊魂が永遠なるものの別名で あれば霊魂こそ人間存在の根源的なものだよ。唯肉体が死したる後に遊離して地下や天上にあると言う事はないと言うのだ」

 乙「それではよく言われるエネルギー恒存律とか、物質不滅とかの如く一分子に霊魂 が宿り、生死は波の高低の如きものと言うのかね」

 甲「いやそうじゃないんだ。我々は一つの統一体として其の瓦解が死なのだ。一分子 に瓦解して、感覚も思考も持たないものが何うして自己を限定する事が出来るだろう。自己限定のないところに如何なる霊魂があると言うのだ。永遠と言うのは統一体それ自身が永遠でなければならないのだ」

 乙「それでは遺伝因子によって親から子へ、子から孫へと連続してゆく事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。遺伝因子による連続は草や虫にもあるからね。それは自 然現象として、自然の流転の変化の相に外ならないのだ。勿論草は枯れ、虫は死ぬ。併しそれはまだ本当の死ではないのだ。少なくとも今我々が一大事として問題にする死ではないのだ」

 乙「それでは本当の死と言うのは何ういうものかね」

 甲「それは不死なるものを見たものが自己の死に面した死なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「それは自己が自己を知ったものの死なのだ。自己が自己を知るとは対象形成的に外に自分を投げ出し、外に自分を見出してゆく事なのだ。たとえば鏡に映して初めて自分の顔を知るようなものだ。世界を創ってゆくのだ。丁度鏡に映してより美しい自 分を創ってゆくように、世界を創る事によってより大きな自分を創っていくのだ。その事は世界の中にある我々は逆に世界を自分の中に持つと言う事なのだ。自然の連鎖 を断ち切って個的人格として個的人格が生まれる事なのだ。この我が成立する事なのだ。そしてこの前「神について」に言ったように世界は超越的として永遠の相を持つ のだ」

 乙「その個的人格の死が本当の死なのかね」

 甲「そうだ。自然現象を超えてこの我この君となった時、死は単なる流転を超えて絶 対の死となるのだ。我々は死を知るのだ。最早帰らないこの僕そして君として死ぬの だ。自然的なものが種と個が即自的なのに対して、我々は世界と個我として分離する ことによって死は絶対となるのだ」

 乙「それでは自覚以前は人間でも本当の死ではないのかね」

 甲「そうだ。今でも呪術社会以前の未開人がいるそうだが、生死に対して如何なる感 情も如何なる儀式も持たないそうだ。死を知らない処に本当の死はないのだ。現在で も植物人間と言われる人には本当の死はないのだ」

 乙「君はいつも呪術社会は人間の自覚の原初の状態だと言っているが、死んでから地下に生活すると言う考えも絶対の死と言い得るのかね」

 甲「うんその自覚の深さに対応して種々の現象が見られると思うんだ。その意味で呪 術社会はまだ本当の個的人格の自覚が生まれていないと思うんだ。真の自覚は種族的であり、家族、氏族的であり、其の対応として悪霊であり、祖霊であると思うんだ。 而し其の中にすでに絶対の死の影はあると思うんだ。君考えて見給え、霊魂が分れて地下は天上に同じ生活をすると言う事は、我々は本来の永遠の生活に入る事であり望ましい生活ではないのかね。それを何故に悪霊として恐怖の対象にしたのか。それに絶対の力を付与して、地上の制約者としたのか。それは絶対の死の背景なくして考えられないのではないのかね。」

 乙「うんそのとおりだと思うよ。而し君の言う事にはもっと深い矛盾があると思うよ。 君は人間は本来永遠なるものであると言っていたね。そして死は絶対の死と言うのは 何ういう事なのかね」

 甲「前にも言ったように我々は自覚的として対象形成的に世界を創っていく。我々が 人生のはかなきを思い、無常を嘆くのはこの世界を限りなきものとして、其の中に自己の泡沫を見るが故なのだ。其処に絶対の死があるのだ。我々が有限なるものとして無限なるものへ持つ憧憬と希求の無限は数学的な連続ではなくしてこの世界なのだ。神についてに於いて言ったように悪霊、祖霊を始祖とする神は世界の内容なのだ。其処に恐怖と祈祷があった。而し今我々が面している世界は人間の相互限定として内在的なものなのだ。人間の自己創造として歴史的なものなのだ。我々が内に真に人格になる事によって外に歴史的となったと言い得るのだ。そして歴史的世界こそ真に永遠なるものの相を現わすと思うのだ。西田先生がこれ迄の哲学の中心問題は神であった。これからは歴史となるであろうと言われた所以は此処にあると思うんだ。そして我我は尚素朴な連続性の残滓を持つ「死して護国の鬼とならん」と言った霊魂から解き放たれて絶対の死となるのだ」

 乙「そうすると我々は古代人が怖れた絶対の死の実現者としていよいよ不幸になったのではないのかね」

 甲「そうだ。我々は虚無と絶望の魂の放浪の旅へ出るべく余儀なくされたのだ」

 乙「而し古代人が祈りに於いて絶対への帰一をなしたように、我々が自己を他に見た ものが世界であるならば、何処かで世界と自己の一体が見られそうなものだと思うが ね」

 甲「うん相即的なるものは常に唯一者の自己限定でなければならないんだ。内と外は 一つでなければならないんだ。その意味で我々はこのまま救済されていなければなら ないんだ。而し我々は自覚的存在としてこれを知らなければならないとする時、この 乖離は無限の距離を持って来るのだ」

 乙「それについて君はどう言うふうなものを考えているのかね」

 甲「深い宗教的体験を持たない僕は此処迄は進んで来てもこの超越者と自己について本当に確信を持って語る事は出来ないのだ。唯僕は僕なりに考えていることがあるので語ってみよう。自覚について最も深く考えた一人と言われるアウグスチヌスの神の現前の唯一局面としての永遠の今の如きものを考えているのだ。唯一局面としての歴史的現前を永遠の今として捉えたいと思うのだ。無限の過去を含み、未来をはぐくんでゆく歴史的現在を、この僕、そして君、数多くの彼の創造として捉えたいと思うのだ。歴史は常に生きている人間が創っていくものとして、現在より現在へ動いてゆく ものとして、歴史的現在は全存在の意味を持つものとして、永遠の顕現として捉えた いと思うのだ。前にも言ったように我々は自覚的として対象限定的であり、世界形成 的である。世界の中の一微塵にすぎない我々は、其の形成者として世界を内にもつのだ。世界は逆に我々の胸底にあるが故に我々は世界を見る事が出来るのだ。斯る意味に於いて我々は全存在に直接するのだ。」

 乙「そうとすると絶対の死の意味がなくなるのではないだろうか」

 甲「うん世界の面より見ればあるものは全て永遠の風景なのだ。而し見るものと見ら れるものが分れる時、死は絶対として我々は限りない悲しみとあきらめをもつのだ」

 乙「而見るものと見られたものに分れたものが世界に直に一つなのだろう」

 甲「うんその意味で生命は矛盾であり、自覚は絶対の矛盾の自覚だと思うんだ。而し 生命は一つだ、絶対の矛盾は絶対の一でなければならないんだ。世界に永遠を見ると言う事は本来永遠なるもの自己顕現でなければならないんだ。そうとすると絶対の死 そのものが永遠でなければならないん だ」

 乙「それは何ういう事かね」

 甲「僕は其処にキリストの復活とか、禅家の死の断崖に身を絶して絶後に蘇ると言っ たものに深い意味があると思うのだ。 刹那生滅、心身脱落、脱落心身だね。唯僕は観 念としてそう思うだけで言った通り深い体験を持たないので心地の風光につい語る事 が出来ないのだ」

 乙 「そうかね」

 甲「うん、西田先生が無人島へ行くならば歎異抄と臨済録を持って行くと言っておら れるので臨済録を読んだが一行もわからなかったよ」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

客観的世界

 生命は身体的であり、身体の維持発展は内外相互転換的である。外を食物として、摂取 した食物を身体と化し、無用となったものを排泄して、外となすのが身体の営みである。身体が内外相互転換的に自己を維持してゆくとは、身体は内的なるものを内包とし、外的なるものを外延とする、内外の統一としてあるのでなければならない。 求心的方向に意志をもち、遠心的方向に世界に生きるものでなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己が自己を知る生命である。自己を知るとは、自己が自己の中に自己を見るのである。内外相互転換としての生命が、内外相互転換を見るのである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬を包む一瞬となるのである。

 外が内になり、内が外になる。物が身体となり、身体が物となる。それは技術的という ことである。内外相互転換は技術的であり、身体は構成的である。一瞬を包む一瞬とは、現在が斯る技術的構成的な一瞬を包むものとなることである。現在は一瞬より一瞬へと移ってゆく、移ってゆく現在が移るものを蓄積してゆく、そこに自己の中に自己を見る自覚があるのである。現在が時の初めと終りをもつものとなるのである。我々は永遠に映した刹那として自己を知るのである。

 技術的構成的としての一瞬が一瞬を包むとは如何なることであるか、現在の相互転換に以前の相互転換が働くのである。それは前の相互転換の記憶によって、現在の相互転換の無駄が省かれるということである。合目的的となり、合理的となることである。構成的としての身体が愈々機能的となることである。投げつけた石によって偶然に胡桃の殻が割れたとする。次は殻を割るために石にてたたくのである。一瞬が一瞬を包むとは斯る生命となることである。胡桃を割るという現在の行為の中に、過去を重ねることによって偶然を必然に転換さすのである。私は物の製作を偶然の必然への無限の転換に求めたいとおもう。自覚的生命とは外に物を作ることによって、物に自己を見てゆく生命である。技術的製作的生命である。自己が自己を表わしてゆく生命である。

 内外相互転換が自覚の内容となることは、内と外とに分れることである。生命が内外相互転換的であるとは、内と外とが一であることである。若し馬に等質等量の餌を左右等距離に置いたとする。その馬は何方も食うことが出来ず、遂に飢死しなければならないということを何時か読んだことがある。馬の欲求は餌の誘いでもあるのである。 欲求と餌が感覚に於て一なのである。馬は嗅覚に誘われて行動を起すのである。内外相互転換に於て、内外はなるところに行動があるのである。自覚的生命に於ては過ぎ去ったものが現在として、現在の相互転換を限定してくるのである。現在は過去の相互転換と、現在の相互転換を包むものとなるのである。自覚とは高次なる現在をもつことである。過去と現在の対立を包むということが思考することである。ここに与えられたものを外として、欲求するものを内として内外相分れるのである。内外相分つことによって、馬なれば飢死するところを自由に撰択することが出来るのである。

 無限の内外相互転換を内包しつつ、現在の相互転換としての唯一生命を決定する。それは現在の唯一生命は無限に構成的であるということである。外としての物を構成することが技術的ということであり、技術によって唯一現在を決定することが製作する事である。内外相分れるとは、分れたものが一に回帰することによって現在の唯一形相を実現するものとなることである。一に回帰するとは、分れたものは何処迄も対立するものでなければならない。対立するものでなければ、それは単なる一であって、一に回帰すると言うこ とは出来ない。

 対立するとは各々が内面的発展をもつことである。外は外自身の自己構成をもち、内は内自身の自己構成をもつことである。物は物自身の構成として体系的発展をもち、内は身体的欲求を離れて創造的自由人格となることである。

 対立するものが一であるとは相互媒介的となることである。相互媒介的とは、内と外は絶対に対立しつゝ外は内によってあり、内は外によってあることである。物は人によってあり、人は物によってあることである。物は自由人格の創造によって構成をもち、人は物の内面的必然を見ることによって愈々自由な人格となるのである。物は人の中に消えゆくことによって、新たな物となり、人は物の中に消えゆくことによって新たな人となるのである。自覚的生命の内外相互転換は、物と人がそこに消えて新たに生れる刹那として製作的である。製作は過去がここに消え、未来がここに生れる行為的現在であり、過去は死して生れるものとしてここに働き、未来は形を呼ぶものとしてここに働くのである。対立する外と内、物と我が一となることが製作することである。

 対立するものは相互否定として対立するのである。物と我が分れるとは、否定し合うものとして分れるのである。物はわれを否定してくるものとして外である。否定とは生きるものとしての我に死をもって迫ってくることである。もともと内外相互転換が相互否定的であった。食物がないということは我の死として無に帰することであり、物を食うということは物が無に帰することである。物を得物を否定する我が力をもち、否定的転換に於て形相を実現するものとして、内容をもつものである如く、我を否定する物も、自己の形相を実現するものとして力をもつものでなければならない。斯る力によって我々は殺されると共に、生かされるのである。

 外は我を殺すものとしてはかり知ることの出来ない力である。それを我を生かす力として転ぜめるためには、物と我と相分れた自覚的生命に於ては、何処迄も物の中に消え、物となってはたらかなければならない所以がある。而して物となってはたらくことが、物を生むところに相互転換としての生命の営為があるのである。

 物に消え、物になって働くとは如何なることであろうか。生命は何処迄も内外相互転換 的一である。内が外を作り、外が内を作るのである。内は外を作るものとして内であり、外は内を作るものとして外である。 生命が風土的、歴史的に把握される所以である。自覚的生命に於て物と我が絶対の懸絶であるとは死することによって生きることである。それが転換に於て一なることである。

 我ははたらくものとして我であり、物は形あるものとして物である。物に消え、物とな ってはたらくとは形に実現してゆくことである。はたらくものは露はとなると共に、はた くものは消えてゆくのである。意志は遂行と共に消えるのである。而して形造られたも のの呼び声から、新たな決意が生れてくるのである。物ははたらくものに新たな決意を呼ぶと共に滅びゆくものとなるのである。そこに技術の発展があると共に、自覚的生命の内外相互転換があるのである。

 私は客観的世界をこの自覚的生命の内外相互転換的一に求めたいと思う。それは生命が物の中に没し、物が生命の中に没してゆく世界であると共に、物が形より形へとしてそれ自身の内面的発展をもち、生命は世界を形造るものとして絶対の自由を自覚するものである。物は何処迄も物でありつゝ、生命の翳を宿すことによって物であり、生命は何処迄も自由でありつつ、物に見出すことによって生命である。それは無限に動的である。

 私は斯る世界を歴史的世界に求めたいとおもう。無限に動的とは、現在より現在へと自己を形成することである。技術的とは時間を内包するものとして、歴史的時に於て技術はあるのである。伝統なくして技術はあり得ないと言われる所以である。歴史的世界とは生れ働いて死んでゆく世界である。無数の人が生れ、相対し死んでゆく世界である。我々がこの我というのも、この世界にあることによって言い得るのであり、物はこの世界に於て作られるのである。無限の過去より無限の未来へ流れつつ、無限の過去と無限の未来を現在とする世界である。

 客観的世界はそれに於てあるものとして、於てあるものの価値の決定者である。価値とは世界を実現しているということである。斯るものとして私は価値の決定者は歴史的現在に求めたいとおもう。人も物も世界形成に如何に働いているかによって決定されるとおもう。宝の持ち腐れという言葉がある。世界形成に参加し得るものが参加していないという ことである。

 自覚的生命の内外相互転換として、歴史は無限の推移である。歴史的現在は内包する外と内との矛盾によって、現在より現在へと移ってゆくのである。矛盾によって動くとは否定することである。動くものは相反する方向に動くと言われる如く、価値は絶えず変遷してゆくのである。昨日迄大なる人類の意志であったものが、明日は忘れられたる者となるのである人の魂を魅了した蓄音器は、今は古物商の店頭に見るのみである。

 併しそれは単に否定されたのではない、新しいものを産むことによって死んでいったのである。産むものとして永遠の底にひびきゆくのである。製作に於て無限の過去と未来が現在であるとは、形の変遷を超えてはたらくものとして一であるということである。我々の根底には全人類一なるものがあるのである。無数の過去の人、現在の人、未来の人が一なるものがあるのである。それは恰も大古の波も現在の波も同一の海の水のはたらきによるが如きものである。自覚的生命としての製作はここに見られるのである。私は仏教の弥陀の本願とか、キリスト教の最後の審判は斯る地盤に成立するものであり、歴史的現在は深く斯かるものをもつことによって、過去、現在、未来を包み得るのであるとおもう。いわば歴史的現在は一瞬一瞬に弥陀の本願をもち、最後の審判をもつのである。

 私は斯かるものの端的な表れが言葉であるとおもう。言葉を作った人はないと言われる。しかも言葉は常に語る人の言葉である。私達は言葉を解することによって、六千年前のスメル人の心や行動を知ることが出来るのである。言葉は現在によって生かされる。道元の言葉は我等に生かされてのみ言葉である。併し道元の言葉はこの我の中に消えるのではない。奪うべからざる道元の言葉として、我々に対するのである。対話するのである。我等に生かされるとは、我等を生かすものである。私は言葉は太初と終末を結ぶ生命の表れであると思う。意識の最深なるものは、言葉が太初と終末を結ぶことを知ることであるとおもう。

 初めと終りを結ぶとは、初めと終りがあるとゆうことである。一とは多ということであ る。大なる生命は我々を内に包みつつ、それ自身の動転をもつのである。我々はこの大なる生命の中に自己を消すことによって生かされるのである。私は客観的世界とは、はたらくものとしてのこの我が、我がその中にあり、それによって生かされるものとしての大なる世界に対し、大なる世界を見ることであるとおもう。

 対するとは否定することである。反逆することである。単なる内容は何ものでもない、対することによって偉大を知り、反逆することによって深淵を知るのである。内外相互転換するのはこの身体であり、製作するものはこの我であり、汝である。この我は逆に世界を包み、世界を作るものである。唯一世界といっても単なる唯一は何ものでもない。動転は否定するものによって動転するのである。

 我々が物を作るとは個性を媒介として、新たなものを作ることである。新たな状況を創 り出すことである。世界を否定して新たな世界を作ることである。世界の内容であるものが世界を内容とする。そこに客観に対する主観があるのである。そしてそこに小主観とか論理学に主語不当拡大と言われる、主観の誤謬が生れるのである。永遠に動転するものの前に生死するものは全て誤謬である。そこに我々の自己を死して生れさせなければならない所以があるのである。自覚的生命としての内外相互転換は常に努力である客観的世界は我々の主観がそこに成立するものとして、根源的主観の意味をもつものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

おのずからとみずから

 坂田書店の本棚で『「無」の思想・老荘思想の系譜』という本を見出した。私は漢字の中に育ちながら中国思想に弱い。それなら何に強いかと言われると困るが、隣国であり乍ら殆んど知らないと言ってよい。特に老荘は何だか反文化的な感じがして拒絶反応というたものをもっていたようにおもう。所謂日進月歩とか、未来への展望とかいったものが欠除しているように思って、路傍の石として見ていたように思う。併し最近時間が成立するには時間を包むものがなければならないということ、即ち文化が発展し、未来への展望をもつには、初めと終りを結ぶものがなければならないということに考えが及んで、無の問題は非常に重大な意味をもって来た。私は一つは老荘、ひいては中国が自己の根底として見出した思想を学ぶためと、一つは私の思考の中から必然的に現われた、無の問題の検証と明確化のためにその書を買った。併しここに書くのは無についてではない。その上部構造としての自然についてである。老荘は知られる如く世界の大本を自然に見た人である。私は彼等を尋ねることによって私自身の自然を見たいとおもう。

 本書は最初に自然は「自」が主格であり「然」は助辞にすぎないと書いて、「自」には オノズカラとミズカラの二つの意味があると書いている。そしてミズカラのほうは、自分 で手を下して何ごとかをする場合に使う。これに対してオノズカラは、自分が手を下さないでも、そのことが自動的に運ぶ場合に用いられる。もう少し詳しくいえば、ミズカラには意識や努力がともなうのに対して、オノズカラはそうした意識や努力を必要としないことをさす。もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる。ところが、この自はミズカラかオノズカラかという質問を中国人にすると、いくら日本語のうまいものでも、何のことやらさっぱりわからないのが普通である。つまり中国人はそのような区別をしていないのである。いや、中国人でなくても、少し広く漢文をよんでいると、ミズカラとよんでも具合が悪く、オノズカラとよんでも具合の悪いような「自」に出会うのである。つまりそれはミズカラでもなく、オノズカラでもないわけである。

 それでは「白」の本来の意味は、どのようなものであるのか。いちばん手っ取り早いの は、その反対語である「他」という言葉をおいてみることである。つまり自とは「他者で はない」ということである。もう少し親切にいえば、自とは「他者の力を借りないで、そ れ自身に内在する働きによること」であるはずである。これが自の第一義にほかならない。ひるがえって、さきのミズカラとオノズカラを、この自の第一義から見るとどうなるか、実はミズカラオノズカラも、自の第一義を共通の地盤としているのである。唯異なるのはミズカラでは自身に内在する働きがあらわれるときに意識や努力が伴い、オノズカラでは同じことが意識や努力を伴わないのである。もし意識や努力の有無ということを除外するならば、両者の区別はなくなってしまう。漢語の 「自」というのは、本来このような意味 のものである。 中略

 しかしここにあげた自然の第一義だけで、実際に使用されている自然という語の意味を完全に説明出来るかと言えば、それはそうではない。実は「他者の力を借りないで」というが、その他者が具体的に何であるかは、その場その場で異なっている。したがって自然の具体的な内容は、何を他者としておくかによって決定され、他者が変れば、自然の内容もそれにしたがって変わる。自然が多義であるのは、実はこれに対応する他者が動くためである。と書いてその多義として、無為自然と有為自然をあげ、各々其の中に見出でた諸家のさまざまの意見をあげている。

 私は読み乍ら、第一義があるのにその中に包摂出来ないというのは何うゆうことであろうかと思った。派生したものを統一することが出来ないのは第一義ではない。第一義は多義をして関聯あらしめ、それを結合してこそ第一義である。第一義は多義に対して根本義の意味を有するのでなければならない。私は第一義によって、多義が説明出来ないということは、第一義への徹底的な追求に欠けているのではないかとおもう。斯る観点から第一義を掘り下げることによって、無為自然と有為自然、オノズカラとミズカラの接点を求めてみたいとおもう。

 「他者の力を借りないで、それ自身に内在するはたらきによること」とは如何なること であろうか、はたらくとは形作ることである。形に実現してゆくことがはたらくことである。オノズカラもミズカラも形に出するということでなければならない。形に出するのに ミズカラとオノズカラとがあるのである。即ちオノズカラとミズカラは、形に出ずるあり 方が異っているということでなければならない。

 自身に内在するものによって、自己の展開をもつものは生命である。はたらくとは、生 命が自己の形を作ってゆくことである。ミズカラのはたらきが意識や努力をともない、オノズカラのはたらきが意識や努力をともなわないということは、ミズカラとしてはたらくものは、意識や意志をもつ生命であり、オノズカラとしてはたらく生命は、意識や意志をもたない生命でなければならない。

 生命が形作るとは時間的である。時間とは操作の形式であるといわれる。形作るとは無限の否定と肯定である。生命が育つとは一瞬も止むことのない摂取と排泄である。否定と肯定に於て生命は自己を形作ってゆくのである。生命形成が時間的であるとき、生命の形は時に於て現われるのでなければならない。ミズカラがオノズカラに対して、意識と努力をもつというとき、ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後であらわれたということでなければならない。そこで私は先ず生命形成に於てオノズカラとは如何なるものであるか究明したいとおもう。

 生命は内外相互転換的である。動物に於て環境は、食物的環境であるといわれる如く、外を内とし、内を外とすることに自己を形作ってゆくのである。外を内とすることは物を身体とすることである。自己ならざるものを自己とすることである。変化せしめることである。変化せしめるということは、技術的ということである。技術的なるものが内在的であるとは、身体は機構的である。生命が形作るとは、機構的身体として形作るのである。機構的身体に於て、外と相互否定的に結びつくのである。環境と相互転換的に結びつくのである。

 動物の生態の本を読むと、動物と環境の結びつきは驚異的である。その動的なるものに於て、環境は動物の外であり、動物は環境の内である。私はそこにオノズカラがあるとおもう。環境が主体を作り、主体が環境を作る。そこに寸分のすきを見ることも出来ない。それ自身に内在するはたらきとは、身体がそれ自身機構的として、外を内に変化せしめ、自己を維持する営為をもつことである。オノズカラとは、生命形成に於て環境と主体の相互転換が純粋持続として、直に一なるものとしてあることであるとおもう。

 ミズカラが意識や努力をもつとは、生命形成の直に一なる転換が内と外に相分れることである。内と外とが対立するものとなるのである。直に一なるものがオノズカラであるとすれば、それはオノズカラの否定である。本書の最初にも「もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる」と書いている。意識とは外を写すことであり、努力とは意識が写した外を、力の表出に於て変ぜんとすることである。直に一なるところに意識はない。内外相分れるとは、内外を相分つのである。それはオノズカラとしてはたらく生命に新しい生命が加わったのである。ミズカラは新しい生命の誕生としてオノズカラとしての生命のあり方を否定したのである。

 内外相対立するとは、純一なる内外相互転換の流れを断ち切ることである。断ち切るとは否定をもって相距てることである。外は主体を否定するものとして物となり、内は外を否定するものとして生命となるのである。物は生命の否定として、死として迫ってくるものとなり、生命は物の否定として、死を生に転ずるものとなるのである。そこに意識と努力が生れる。即ちミズカラとなる。

 物が我々に死として迫ってくるものであり、主体が物を否定して、死を生に転ずるとは 製作的生命となることである。物が死として迫ってくるとは、純一なる流れが断たれて固定することであり、死を生に転ずるとは、固定としての物を、新たな物を産む物として流動化せしめることである。そこに物の製作があるのである。生命とは内外相互転換としての、形成作用の純一なる流れであり、物とは外としての純一なる流れの停止の形相である。絶対否定を媒介しての流動をもつところにミズカラがあるのである。ミズカラとは外を製作としてもつことである。

 それでは製作とは如何なるものであろうか。製作とは技術によって、外を生命の内容に変革することである。斯る技術は何処から来たのであろうか。私は前に生命は内外相互転換的であり、外を内に転ずるのは技術的であるといった、技術的として身体は機構的であるといった。断る機構的なるものが、対立として、否定的として迫ってくる外に向ふとき道具となるのである。手は摑むもの、打つものとして、外の物を媒介するとき、延長として斧を見出し、槌を見出すのである。稲はそこにあったものではなく、水を引き、草を除いて作られるものとなったのである。斯くしてミズカラとしての生命は、転換としての外を飛躍的に大ならしめ、内を豊潤化していったのである。

 動くとは相反するものの方向に動くのであり、否定は相反するものとなることである。 オノズカラとミズカラとは正反対である。併し見て来た如くミズカラは、オノズカラより 出で来ったものである。出で来ったとは、出で来る前のものではないことであり、否定として正反対のものである。而して否定をもつとはその根底に深い同一をもつことである。ミズカラがオノズカラから出で来ったとは、ミズカラはオノズカラの否定であると共に、ミズカラはオノズカラの自己否定として出で来ったのである。即ち形成的飛躍として出で来ったのである。

 ミズカラはオノズカラの否定として、オノズカラが自然であるとき、ミズカラは自然であるということは出来ない。オノズカラは成るのであり、ミズカラは作るのである。そこには異った形成的系譜が成立する。オノズカラは生れ来ったものとしての身体に形成をもち、ミズカラは道具によって変革してゆく物に形成をもつのである。オノズカラは内在的なるものの発展であり、ミズカラは対象的として、世界形成的である。

 而してミズカラはオノズカラより出で来ったものとして、何処迄もオノズカラに即してあるのであり、オノズカラは、ミズカラが自己の内在的なるものより出で来ったものとし て、ミズカラを己れの飛躍的展開として、ミズカラを自己のより明らかな形相として、 ズカラより展望されるものとしてあるのである。それは動的生命の展開であり、形成としての否定が肯定であり、肯定が否定としてあるものである。そこに自然の多義性があり、多義性を摂取する一義性があるとおもう。

 非連続の連続である。非連続の連続とは生命が個体的であるということである。生命は生れることによって連続する。生れたものは親と異なったものである。それは其の中より生れたものとして同一でありつつ、それ自身の行動をもつものとして異なったものである。生命が自己形成的であるとは進化をもつことであり、進化は斯かる異なった個体を生むことによってもつことが出来たのである。その極限に成る生命より、作る生命があらわれたのである。多義性とは、否定が肯定であり、肯定が否定である否定の肯定の何処に視点をおくかにあると思う。

 ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後に現れたものとして、形成的進化に於て優 越をもつものである。それなれば老子は何故に無為自然を唱えたのであろうか。その理由として老子の生きた殺伐たる千才の時代が言われる。それなれば何故その時代が過ぎ、平和を謳う時代が来ても読まれ続けたのであろうか、私はそこに単なる時代を越えた、人生の深奥への問いがあったとおもわざるを得ない。普遍なるものへの問いがあってこそ何時迄も読みつがれ、問い直されることが出来るのである。

 ミズカラとして、人為としての製作の世界は対立の世界である。ミズカラとは個体とし てのこの我である。個体が個性として技術をもつところに製作があるのである。技術は伝統に於て成立するものである。我々は何かの技術をもつ、その技術は師匠、教師亦は親より伝承したものである。師匠はその師匠その師匠へと無限にさかのぼるものであるそれは究めつくすことの出来ないものである。私がオノズカラとしての生命が技術的であり、構造的として、ミズカラの技術はそこより生れ来ったと言う所以である。ミズカラが製作的生命であるとは、斯る無限なるものによってある生命であることである。

 技術が無限なるものであるのに対して、技術をもつものとしての個体は生来ったもの である。それは死を対極に有する、死すべく生れ来ったものである。技術を有するものとして、無限なるものによって存在するミズカラは、露の生命として死んでゆく有限なるものである。即ち製作的生命としてのこの我は、我ならざるものとしての我なのである。矛盾として、苦悩としての生命なのである。それはこの我によって突破することの出来ない矛盾である。キェルケゴールの虚無や絶望につながるものである。

 私はそこにオノズカラの否定としてのミズカラが、ミズカラを否定しなければならない 所以があるとおもう。老子は斯る否定をふたたびオノズカラに帰ることに求めたのであると思う。ミズカラの有限性に対して、オノズカラ成るものは無窮の時間の上にある。否無為にして化すものは時なきものである。無為なるが故に、変じつつ変ぜざるものである。時の初めと終りをつつむものである。初めと終りをつつむものとして、永遠なるものである。而して前にも述べた如くオノズカラ成ったものは、環境と主体の寸分のすきもない一体としてあるものであった。そこにはオノズカラ成るとか、無為にして化すものに対する厚い信頼があったとおもう。文明の未だ幼稚なる時代に於ては、人間の製作の如きは、自然の大なる力の前に笑うべき一煩事であったであろう。

 併し老子の回帰した自然とは如何なるものであったであろうか。生命が形成的なる限りあるものは全て技術的にあるのである。オノズカラ成るも、無為にして化すも自然の技術である。人間が言葉をもち、手をもつのは物を製作すべく生れて来たのである。私は老子の無為にして化すという言葉も、人間の製作的生命を自然に投影したところより生れたものであると思わざるを得ない。そこに見出された無窮なるものも、製作としての操作的時を媒介として見出されたと思わざるを得ない。私は物を製作すべく生れて来たものが製作を放棄するのは真に生きる所以でないとおもう。オノズカラ成るものも、外を変革して内を形成するのである。製作がオノズカラなるものをミズカラに転じたとすれば、ミズカラはオノズカラの完成の意味をもつのでなければならない。製作する生命が額に汗して働かなければならなないのであれば、我々は惜しみなく汗を流すべきであるし、思考に沈面して苦悩しなければならないのであれば、我々は夜深く頭を抱えて机に呻吟すべきであるとおもう。そこからのみ新たな世界の光輝は生れてくるのである。

 私の言わんとするが如きは、老子は百も承知であろう。私は老子の無為自然の思想が、忽然として天に掛るが如く生れて来たとおもうことは出来ない。それ相当の苦悩と鍛練を経て来たものであるとおもう。そしてその結論であるとおもう。ミズカラとしての言語と思考の上に打樹てたものであるとおもう。ミズカラの個の相対性と有限性を、ミズカラの底に超えたのであるとおもう。唯私はミズカラを超えんがために、ミズカラとしての作為を捨ててかえり見ないところに釈然としないものをもつのである。オノズカラを超えたミズカラはオノズカラを踏まえてある。ミズカラを超えたオノズカラは、ミズカラを踏まえてあるべきだとおもうのである。

 我々は何処迄も生命としてある。親より生れたことによってあり、子を生んでゆくものである。製作的生命といっても生命を製作するのではない。生れた生命が物を作る生命であるのである。我々が製作として道具をもち機械をもつというも、生れ来った身体の機能を外としたのである。我々は時計をもつ、併し時計を、身体が時計を内にもち、内にもつ時計を外としたものである。斯る意味に於てオノズカラはミズカラを包むものである。併し時計を外とすることによってより正確なものとなるのである。オノズカラとしての身体が時計をもつことを知るのも、ミズカラとしての身体が時計を外につくることによってである。斯る意味に於てミズカラはオノズカラを包むということが出来る。

 オノズカラはミズカラの個としての相対性と有限性を包み、ミズカラはオノズカラの形 成作用に愈々明らかな形を与える。併しオノズカラによるミズカラの包摂は、ミズカラが製作する個性として、相対性と有限性をもつことによってあるのであり、ミズカラが愈々明らかな形を得るのは、オノズカラの始めと終りを包む無窮の形成作用に負うのである。老子の無為自然も言語による表現である限り、それは意識の内容でなければならない。それは自己の生としての自然を愈々明らかな形に於て捉えたものである。本書の中に無為自然と有為自然というのがある。恐らく人為の加わったというは、製作的生命の立場から見たとおもうが、真に対立したものとしてとらえず、オノズカラに摂取された人為としてとらえられている。そこに思考の甘さがあったとおもう。ともあれ正反対にあるとは否定的にあることであり、否定的にあることは相互媒介的にあることであり、相互媒介的にあるとは対者によってあることである。オノズカラはその底にミズカラに転じ、ミズカラはその底にオノズカラに転ずるのである。

 オノズカラがミズカラに転じ、ミズカラがオノズカラに転じるとは、元のオノズカラとなり、ミズカラとなることではない。オノズカラはミズカラの形相に生き、ミズカラはオノズカラの形相に生きることである。オノズカラがミズカラの形相に生きるとは、製作した物を生命の形象とすることである。生れて生むオノズカラなる生命のあらわれとする のである。物が情を宿すものとなるのである。ミズカラがオノズカラの形相に生きるとは始めも終りもなくして、始めと終りを包むものとなることである。始めも終りもなくして とは、無限に形成的であることであり、始めと終りを結ぶとは、第一義のそれ自身のはたらきによることである。それはミズカラとしての自己に、永遠を現前せしめんとすることである。

 私達はミズカラとしての自己であるとき、永遠なるものを愛して止まない。私はそれ はミズカラの基底にオノズカラがあり、それは絶対しつゝ相互媒介的にあるが故であるとおもう。相互媒介的にあるとは対立するもの動的に一であることである。形成的であることである。私はオノズカラがミズカラに転ずるときにこの我があり、ミズカラがオノズカラに転ずるとき、摂取するものとしての神が見られるとおもう。そしてそれは形成的尖端 に見られるのである。私達はミズカラとして、製作的生命として限りない努力をするところに、背後としての、転じるものとしての神が現われるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

永遠について

 乙「何時であったか君は全てあるものは永遠に於いてあると言っていたね。僕にとっ て永遠はそれこそ永遠の謎なのだ。我々は死んでいくものとして、うたかたの生命で あり、この世の過客である思いを何うする事も出来ないのだ。全てあるものが永遠であるとすれば、僕も永遠の存在でなければならない筈だ。露と置き露と消えていく僕が何うして永遠なのかという事を聞かしてもらいたいと思って今日は出て来たのだ」

 甲「そう改まって言われると実は僕も困るんだ。そして僕の答えが果たして君に満足 してもらえるかと言うと全く自信がないんだ。唯僕の考えが至りつかねばならなかっ たものとして考えた跡を話して見よう。期待はしないで呉れ。僕の考えの基礎になっ ているのは生命それ自信に於いて完結していると言う事なのだ。例えば鯖を買って来 て置いていると何時の間にか猫が寄って来ている。それ迄見かけなかったのに何うして来たか不思議な位だ。臭覚を通じて猫が寄ったとも言い得る。鯖に誘われたとも言 い得る。動きと言うのは此処にあるのだ。猫と鯖、それはその時の一つの生命圏とし 完結するものと思うのだ。生命がそれを維持してゆく形相として一つの相と思うのだ。僕は本能と言うのはそうゆうものだと思っている。猫が動くのでもなければ鯖が動かすのでもない。主体と食物が一つの圏をなす時自ら動くのだ。樹と土もそうだ。根を張って成長要素を吸収し、不要となった枝葉を落として栄養として土壌に蓄積してゆく。それを吸収して更に成長してゆく。それは一つの圏を作ってゆくものとして完結を持つ事だ。そして具体的な生命とはこの全体の相だと思うのだ。この圏の形成にあると思うのだ。これによって生命は内外転換し、生々発展する事が出来るのだと思うのだ」

 乙「而し猫は死に、樹は枯れていく。何れも流転の相に外ならないではないか」

 甲「まあ聞いて呉れ。唯人間だけは違うのだ。内と外が相対すのだ。僕達は死を知る。知ると言う事は有限者であると言う事だ。そしてこの死は何うする事も出来ないのだ。有限者として無限の時間の前に唯嗟嘆の声を上げるのみなのだ。人は唯命もつ事を悲しむのみなのだ。

而し僕は思う。死を知る悲しみそれ自身が一つの完結ではないのかと」

 乙「僕はまだよく判らないのだ。其の完結と言うのが永遠と何う結びつくのかね」

 甲「人間は自覚的生命として、内外相分かれる事により、自己を有限として、世界を 無限とするのだ。自己を露命とし、世界を無始無終とするのだ。永遠とはこれの統一だ。有限なるものは無限なるものであり、無限なるものは有限なるものの相だ。そしてそれはより高次なるものとして生命の相でなければならないのだ。永遠は神の内容と言われる所以であり、神は生命の深奥であるのだ。即ち永遠とはこの内外相分れたものが一つとしてそれ自身の完結を持つ事なのだ」

 乙「而し君の説く所は唯問題を堂々巡りしているだけではないのか。有限なるものが 無限なるものであると言う事はこの僕が何時迄も生きていくと言う事ではないのかね。僕は何時かは死ぬのだ」

 甲「そうだ。我々は永遠であると言っても、真にあるのは人間一般ではなくして君で あり、この僕であるのだ。この君、この僕が直に永遠でなければ真に永遠であると言 事は出来ないのだ。全時間、全存在がこの僕、この君の中になければならないのだ」

 乙「その僕が有限であり、死ぬと言う処に問題の発端はあったのだ」

 甲「勿論僕達は死ぬ。而しも一度問題を問い直さなければならないと思うのだ。猫や 樹も有限であり、死に或は枯れる。それならば彼等は有限を問い、死に悩むかね」

 乙 「そりゃ問いも悩みもしないよ」

 甲「それは何故かね」

 乙「彼等に死はあっても死を知らないじゃないか」

 甲「そうすると有限も無限も、死も永遠も知る事の中にある訳だね」

 乙「そうだね。僕達も幼児の頃はこんな問題を持たなかった事を思えば知る事によっ て生まれたと言う外はないね」

 甲「人間は道具を持つ事によって知識を持ったと言われる如く、何等か外に自己を表わす事によって知るのだ。今こうして君と対話しているのも一つの表現だ。こうして僕達は愈々自分を明らかに知るのだ。そうしてこの対話が僕達の影である如く、外に 見ると言う事は内の現われと思うのだ。僕達は語り合う事によってより深い自分を見 ようとしている如く、外はより深い自己として外なのだ」

 乙「永遠は我々が求めるものとして或いは我々の深奥を外に見たものかも知れない。 而し我々の対話と永遠とは大変異なっているように思うのだが」

 甲「我々は今永遠を問うているのだから同じである筈がないよ。ついでだから永遠へ の問いと言うものを問うて見よう。僕達は今有限者の苦悩の下に永遠を探求しようと している。而しこの問いは僕達の発見ではなくして古今東西の全人類の問いであった 訳だ。今の僕達の苦悩は全人類の負うて来た苦悩として苦悩である訳だ。そして永遠は全人類的生命の外化なのだ。個々人を超えた全人類の深奥なのだ」

 乙「問題を元に戻そう。永遠が我々の内なるものの表出であり、外化であれば、永遠 は即自己として僕達の悩みの来る所はないのではないか」

 甲「僕は『神について』に於いて死を外に見る所に霊魂があり、神霊は我々を死とし 絶対に否定して来るものとして、其の絶対力を前に慴伏すると言ったね」

 乙「ああ覚えているよ」

 甲「生命は生きているものが死ぬものとして自己矛盾的なんだ。死と言うのは徹底的 否定として絶対矛盾なのだ。神霊が超越者として絶対の外であった如く、外は我々を 否定して来るものとして、超越的として絶対の外なのだ」

 乙「一寸待って呉れ給え。僕達は生命の外化として衣服や住宅を持つ。何れも我々を 保護しこそすれ否定して来るとは思えないが」

 甲「衣服は破れ建物は壊れる。外は否定として我々に迫って来るのだ。そして僕達は 働く事によって新しいものを生み出してゆくのだ。働く事は内なるものを外とし、外なるものを内とする無限の創造なのだ。働く時代に対す外としての物は生々として、我なく物なき唯一生命の相を現わすのだ。真に働く者に於いて我は世界の形相であり、世界は我の示現なのだ。新しいものを生み出すものとして形相より形相へなのだ。この我に於いて前の形が新しい形を決定して来るのだ。其の意味に於いて啓示的であり 示現的なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「我々が対き合っている外と言うのは、長い過去に於いて人類が形造って来たもの なのだ。そしてそれは死を持つ生が死を克服しようとして作って来たものなのだ。矛 盾の自覚として見出されたものなのだ。外の形が複雑になるにつれて内の構造も複雑になっていくのだ。そして外の崩壊は生の崩壊につながるのだ。僕達は働く事によってこの崩壊を新しいより大なる生へ転じていくのだ。其の時外はより大なる形相に転ぜられるものとして生々たる生命の形相をもって来るのだ。その転換の行為者として我々は逆に全世界を我の胸底に見る事が出来るのだ。其処に自覚的生命は唯一の純なる流れとなるのだ」

 乙「そうとするとそれは我々の創造となるのであって、示現的、啓示的ではないではないか」

 甲「その創造的なるものが啓示的なものなのだ。外としての形がこの我々の生命を媒 介として新しい形を含んでいるのだ。生の外在としてのその形によってしか我々は次 の形を見出せないのだ。生命はその意味に於いて無にして働くものなのだ。その昔仏 像を刻んだ者は一刀三拝して慈顔の顕現を祈ったと言うし、印度のヴェーダの詩は霊感の作品だと言われている。発明と言うものもそういうものだと思うんだ。偉大な発 明家は狂人に似ているのも何かの力に動かされたからではないのかね。その力と言うのは巨大なる外の力としての歴史的創造の流れではないのかね。アイデアが浮かぶと言うのも何か啓かれたものだと思うんだ。よくあの人は感覚が優れていると言うのも対象に入り得る純粋度だと思うんだ。農家が其の年の天候によって種子を蒔くのも先祖代々の農作業の中に会得したものとして、其の全体像の直観としてあると思うのだ。この我が無となる事によって啓けて来るもの、この大きなるものが僕は最初に言った世界であり、無限とか無始無終と言うのは斯る世界の抽象としての時間的形象であり、有限とか露命とするのも無とする主体的方向の抽象としての時間的形象であると思うのだ。その統一として働く事があるのだ。この啓けて来るものの時間的形相が永遠なのだ。我々を超え我々に自己を顕現するものが永遠なのだ。僕達の日々の働きは其の奥底に於いて歴史的創造的にこの啓けて来るものにつながるのだ。そしてその事が我々が自己を見出していく事なのだ。僕が言った全てあるものは永遠に於いてあると言うのはそのような意味なのだ」

 乙「それならば僕達は働く時に永遠に結合している意識を持つ筈ではないのかね」

  甲「そうじゃないんだ。僕達は世界の内容として働く個として目覚めるのだ。世界は我々の全体として、絶対に懸絶するのだ。永遠は世界の形相として願望に於いて見るのだ」

 乙「よく判らなくなって来たよ」

 甲「そうだろう。言っている僕すら手さぐりで話しているのだから」

 乙「而し僕はおかしいと思うのだ。絶対の懸絶として至り得ないものならばどうして願望を持つ事が出来るのであろうか。啓示として我々は我々自身を見る事が出来るのであれば、啓示は即自己として何等かの意味でつながらなければならないと思うのだ。絶対の懸絶ならば願望すら持ち得ないのではないのだろうか」

 甲「その通りだ。而し働くものは世界を逆に自己の中に見る事によって働くのだ。即 ち個的人格の成立として働くのだ。而して個は世界の中に於いて働くのだ。個が個で ある故に世界は世界なのだ。而して個が個である限り世界は外として永遠は絶対の懸絶となるのだ。永遠に際会する為に僕達は自己を絶対に否定しなければならないのだ」

 乙「自覚以前に還る事ではないのか」

 甲「そうだ。前にも言ったように、其処には自己も世界も永遠もない。自覚的として見出てでた自己がさらに次の自覚として自己を消してゆくのだ。宗教と言うのはそのようなのだと思うのだ。キリスト教の神の前にと言うのも、佛教の空と言うのも、この絶対自己否定であると思うのだ。君が最初に言っていたね。「僕が永遠でなければならない」と。その事は君が不死である事を望んでいるのではなくして、全存在との一体を望んでいるのだと思うのだ。自覚的として外に自己を投げ出した自己が再び内へと還るのだ。啓示と言うものもそうだ。外に投げ出した自己が自己に還る事なのだ。此処に全人類は唯一の生命となるのだ。私達の魂はこの全人類唯一なるものの中に安らうのだ」

 乙「・・・・・・・・」

 甲「唯僕は佛の悟りを持った事もなければ、キリストの神を見た事もない。尚魂はさ すらい続けなければならないようだ」

 乙「分かったような分からないような気持ちだ。まだ疑問が一杯あるような気がする が、此処等で帰って一度整理するよ、有難う」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自然

 私は幼児の頃の思い出を殆んどもたないようである。目を閉じるとブリキで作って、色 を塗った太鼓を持って、坐っている自分の幼ない姿が模糊としてうかんで来る。余程長い間持っていたのか、大切なものであったのであろう。勿論年令も分らない。

 母の語ってくれたところによると、私は大変喋べりであったらしい。絶えず母に「これ は何」と言って聞いたらしい。余りうるさいので「黙っとり」と母が言うと、「うん」と 肯いておとなしくなるが、暫くすると「お母さんこれ何」と言ったらしい。

 近所のおじさんの話によると、毎日近くの小溝の石橋の下を覗きに行っていたそうで ある。「何をしとんのんどい」と尋ねると、「どんこ、どんこ」と答えたそうである。何でも少し前にその橋の下でどんこをみつけて取ってもらったらしい。勿論毎日といっても、 十日か長くて十五日位だろうと思うが、記憶にないので何とも言いようがない。

 私の村は田舎の例にもれず、四方が山で囲まれている。私が今でも明らかに覚えているのは、その見ゆる範囲内が世界であると信じていたことである。山の向うに親類があって叔父さんが居られると言われても、その有様を想像することが出来なかった。併し時々訪ねて来られる叔父さんの存在はすこしも疑っていなかったのである。唯その叔父さんも寝起きをし、耕すところが必要だということなどを思いもしなかったのである。山の向うにも家があって、人が住んでいると判ったのは、大分大きくなって連れて行ってもらってからである。そしてその村を囲んでいる山を見て、ああ彼処迄が世界かと思ったように憶い出す。併し我が家に帰ってくると、我が家から見える範囲が矢張り世界であって、叔父さんの家から見た世界は夢のようであった。それでも歩いて行って、帰って来た疲れがなまなましい間は実感が残っていた。日が経つにつれて淡くなってゆくのであった。在るものは感覚の事実であって、思惟の内容ではなかった。

 まえにも書いた如く、私は雑魚取りが天性好きだったようである。学校から帰ると、鞄を 放るのももどかしく、まえがきという網をもち出して近くの溝へと急いだ。そして草蔭や木の根の垂れ下った処などをすくった。獲れるのは三回に一回位であった。それでも鱗が銀色に光って跳ねるのを見ると、小踊りする心臓を覚えるのであった。あの頃よく替取りというのをやった。水をせき止めて替干しにして獲るのである。それはその中の魚を残らず獲れるということに於て、すこぶる満足すべきものであった。併しそれは水を替る、泥をかき分けてゆくという労力が必要であった。二時間もすると、幼ない腰が伸びない位であった。それでも泥の中で摑える、泥鰌や鮒の動く感触は私達を何時迄も飽きさせなかった。斯くして学校から帰ってから、暗くなる迄夢中になったものである。

 亦よく山の斜面になった所へ辷りに行ったものである。そこは丁度県道に面した所であった。土が崩れ落ちない対策であろうか、斜面は四十五度位な勾配になり、水の流れ落ちる浅い谷が幾筋かつけてあった。その谷の上から、尻に藁の束をあてがって辷り落ちるのである。その頃の綿布は弱かった。私達はたえずズボンの尻を破っていたようである。

 育ち盛りの少年にとって、自然とは躍動感を充足させてくれるところであったように思う。筋肉覚、関節覚に於て最も深く自然に関っていたように思う。幼少時の自然との交渉は楽しい思い出ばかりである。

 その頃小学校には毎学期遠足というのがあった。低学年は近くの寺へ行ったり、四K程離れた駅へ汽車を見に行ったりであったが、三年生、四年生になると、三木の城跡や、朝光寺に行き、高学年になると清水寺辺りへ行ったものである。いつの頃からであるか判らないが、山で囲まれている範囲が世界であるという観念は消えていた。それのみでなく、高い山から海の涯しないものを眺めた時に起る無限なるものへの思慕が生れていた。

 感覚だけではなく、地理などで教えられた世界なども、実在するのだという確信が生れて来ていた。それはコロンブスや、マゼラン等の冒険物語を読んだ、血の躍動が根源にあったように思う。血の躍動が知識を呼び、知識が血の躍動を呼んで、私の想念は果しなくふくらんでゆくのであった。

 それと同じ頃であったか。それより少しおくれた頃であったであろうか、太陽が落ち、 夕闇が草木を沈めてゆくのを見ると、言いようのないさびしさに襲われた。併し私は好んでと言えば語弊があるが、夕方になるとその寂寥に襲わるるべく、門前に出でて西の空を眺めた。その頃から私の心は哲学や宗教へと急速に傾斜して行った。私はこの寂寥の奥底に、天地を司る真理の予感をもっていたのである。

 亦自然科学は、自然が整正たる秩序をもつことを教えてくれた。雑然たるこの自然の動きが、全て厳密なる運動の法則によることを教えてくれた。併し私は物力の法則にあまり関心をもつことが出来なかった。私は唯一者を、生命の永遠を求めたのである。

 私は今自然とは何かを問おうとしている。私にとって自然は、与えられたものでも作ら れたものでもなかった。私の行動がそこにあるものであった。血が湧き、足が歩み出る身体の外延としてあった。そこにあるのは純一なる生命の流れである。

 人間とは斯る純一なる生命の流れの、初めと終りを結ぶ生命である。流れるとは矛盾をもつことによって流れ、行動とは矛盾に於て行動するのである。生命が矛盾であるとは、内外相互転換的であることである。動物に於ては、外に食物を摂ることによって、内に身体を養うことである。生命は内外相互転換的として、食物的環境と身体は動的一である。感官は身体が環境を内包するところにあり、環境が身体の外延であるところに成立する機能である。感官にとって環境とは呼ぶものであり、輝くものである。

 初めと終りを結ぶ生命とは、内外相互転換を節目として、流れを一々に断ち切り、断ち切った一々を蓄積することによって、より大なる形相を実現してゆく生命である。分断し蓄積してゆくのが理性であり、理性を実現するものは言葉である。より大なる形相とは製作的生命となることである。

 ここに於て生命は作るものと作られたものとの二重構造となる。人間は瞬間的なるものが永遠なるものとして、歴史的形成的となるのである。歴史的形成の世界に於て、与えられたものとして、質料として文化に対する自然が出現するのである。自然から文化が生れたのではない、純一なる生命の流れを分断されることによって、分断されたものの方向に自然が見られ、分断するものの方向に文化が見られるのである。自然とは自覚的生命の内容として見られるのである。

 私は前著に於て、自然とは経験の露わなものであると言った。経験とは一瞬一瞬の内外相互転換を、永遠なるものに映す行為である。内外相互転換的に行為する生命が、一瞬一瞬を永遠に映すのが経験である。自覚的生命が二重構造的であるとは、自覚的生命は相反する二つの自己限定の方向をもつということである。一つは理性の方向であり、一つは内外相互転換としての本能の方向である。一つは言葉の秩序による混沌の把握であり、一つは混沌の中よりの言葉の創出である。秩序の創出である。経験とは身体による理念の創出への行為である。

 内外相互転換としての生命の純一な流れは理性の光りに照して混沌の世界である。併し内外相互転換の世界は単に混沌ではない。外を内に転ずるというのは、機能的であり、造的であるということでなければならない。我々の身体は構造的機能的であるが故に食物を血肉化することが出来るのである。

 私は自然とは、山や川や草や木というのみではなく、深くこの我の身体というものがあると思う。内外相互転換としての生命の純一な流れは、この我の身体がもつのである。自覚的生命とは、身体が本能と理性の二つの相反する二つの方向をもつということである。本能が構造的機能的であるが故に、我々は自覚としての構想力をもち得るのである。

 身体は生れ出ずるものである。私はそこに自然の最も深い姿を見ることが出来るとおもう。生れ来ったものは生きようとする。身体を維持しようとする。本能とは身体維持の意志である。驚異すべき自然の精緻なる構造が理性にとって混沌であるのは、理性は他者と我の関りの秩序であるのに対して、本能は個維持の構造なるが故である。

 混沌は活力である。生きんとする力と力の表出が混沌である。よく駅のポスターなどで 『自然を求めて田舎へ』、『文化を求めて都会へ』と書いてあるのを見る。私は都会の人々が自然に求めるものは、生れ出で育ちゆくものの中に漬り、自己の生命の原型に触れる ことによって、新たな活力を呼び戻したいが為であると思う。自己の手や足によって、木の枝を掴み、岩の道を走った古代人のあらあらしい血を呼び戻したいがためであるとおもう。

 生命の流れとは矛盾に於て流れるのである。全て動きゆくものは否定をもつことによって動きゆくのである。併し単なる否定があるのではない。否定は常に肯定に転ぜられるものとして否定である。そこに内外相互転換としての生命がある。外は内の否定であり、内は外の否定である。内は外を内ならしめんとして内であり、外は内を外ならしめんとして外である。純一なる流れとは、生命が内外相互転換的として、内外相互転換的に一なることである。それが自覚的生命として内外相分つとき、外と内とは何処迄も否定し合うものとなるのである。

 自然の暴威という言葉がある。それは仮借なく生命を奪い去る、自然の絶大なる力に与えた言葉である。純一なる生命の流れが、自覚に於て自他相分ち、内が外に面したとき、外とは斯る絶大なる否定する力であったのである。暑熱、酷寒、暴風雨、大火、猛獣、細菌等の取巻く外界であったのである。縄文人は穴に難を避け、石や木をもってこれ等に対したのである。囲繞する鬼神・悪魔に対して呪文をもって対したのである。

 斯かる限りない死に対面しつつ生の営みを持ちつづけたのが我々の身体である。死に面して獲得して来た機能が創造的生命の内容である。我々の生命は一度獲得した能力を保持する性能をもつ、無限の生死の繰り返しの内に獲得し、蓄積して来た能力の集積が形相である。外が内の形を作るのである。我々の身体の形は、囲繞する外界の力の形である。身体の形は風土の投影である。生命発生以来幾十億年の否定と肯定と、死と生の闘争の中に獲得した機能の集積として、囲繞する世界を外の自然とし、身体を内なる自然として、内外相動転するのが自然である。

 機能とは否定を肯定に転ずる力である。肯定に転ずるとは死を媒介として、より大なる生を見出すことである。死として迫ってくる外的世界を力の表出に於て、内なる身体の秩序に変えてゆくことである。機能とは外を内なるものに変えてゆく生体の構造である。外的世界の投影である身体は、投影であることによって、外的世界を身体に馴化せしめるのである。内外相互転換とは内と外の力の相互転換として無限の動的緊張である。此処に内の身体に対して外は環境となる。

 私は自然という言葉が何時出来たか知らない。恐らく穴に住み、石を持って外敵に向った縄文時代にはなかったとおもう。自然とは人工とか文化の対概念である。人工の対概念であるとすれば、文化が余程進み、文化に疲弊症状が現れた時に、文化の基底として問われた言葉ではないかと思う。人工とは内による外の限定が製作的となったことである。製作は余剰価値という対象の肥大を招く、この肥大が文化として人間の優越であると共に、余剰によりかかることによって内と外の生命の対抗緊張を失わしめる。製作するとは、製作する生命として生れて来たということである。生れて来た生命とは幾十億年の内外相互転換を内にもつものとして生れてきたのである。時を背負う創造力として生れてきたのである。

 対立概念とは否定的に一なることである。自然は文化を否定し、文化は自然を否定してあることである。それが一なるとは文化は自然によってあり、自然は文化によってあるということである。

 文化とは自覚的表現的生命の形相である。表現とは何ものかが形となって表われることである。製作は身体によってなされる。私は身体によってなされるとは、身体の外化の意味をもつものであると思う。身体の外化とは幾十億年に亘って形成し来った、身体の秩序に於て構成することである。内なる自然が外の自然を変革することである。道具は手の延長であると言われる。道具は身体より見て外なるものである。それが手の延長となるとは、道具によって作られるものは、身体の外延となるものでなければならない。製作するとは、内外相互転換として相互否定としての外を、身体の秩序に随わしめることによって、内によって転じてゆくことである。

 併し作る身体を作ることは出来ない。身体は生れるものである。それは意志を超えた自然の延長としてある。而して身体の外化とは、自然の時間の蓄積して来た身体の構造機能の外化である。斯る観点からは製作も亦自然の内面的発展であると言い得る。自然は克服されたものではなくして、斯る深さに於て自然である。生れたものが作るものであるところに我々の身体がある。而して生れ来ったものが包蔵するところのものを表現するのである。斯る観点からは製作としての歴史的形成も、自然の生命創造の延長線上にあるということが出来る。

 身体が自然と歴史の交叉としてあるということは、歴史的形成は生命の自己形成として歴史の根底に何処迄も自然があることであり、世界は歴史的自然としてあるということである。私は自然という言葉が生れたのは、この歴史の根底としての自然の把握によるのではないかと思う。

 三輪神社の御神体は三輪山であるといわれる。山が御神体である時、山は自然なのであるか、私はそこに異次元に於て捉えられている山を見ざるを得ない。歴史は内面的必然をもつことによって歴史である。歴史的自然とは斯る内面的必然の目によって見られた自然である。それは自然が歴史の中に没し去ったということではない。自然が真に自然になったということである。自然が自己の中に内面的発展をもつということが、自然が歴史的自然となったということである。自然が内面的発展をもつということは、身体の外化を呼ぶものとなるということである。神体としての山が異次元と考えられるのは、それが内なるものの外化を呼ばないが故であると思う。

 内外相互転換としての生命が、主体的方向に機能的構造的であるとは、客体的方向にそれに対応するものをもつということである。それは法則的である。逆に言えば客体的方向が法則的なるものをもつが故に、主体的方向が機能的構造的であることが出来たのである。内外相互転換は対応的である。生れたものが作るものである自覚的生命に於ては、生れたものと作るものが対立する。作るものは生れたものを否定することによって作るものであり、生れたものは作るものを否定することによって生れたものである。その否定が内面的必然である。否定を介して歴史は歴史となり、自然は自然となるのである。神体としての山は、歴史と自然の未分以前としてあり、形相は歴史と自然の混融としてあるのであるとおもう。

 ふるさとの山にむかひて言ふことなしふるさとの山は有難きかなと詠われた山、清冽な流れのひびく小川、たたなわる峯、そこは超越者としての神の住み給うところではない。我々の身体と連り、情感の交うところである。私は斯る自然は、自然が無限の内面的発展をもつことによって見られたものであるとおもう。即ち一方に作るものとしての、歴史の内面的を、生れ生むものとしての自然が宿すところに見られたものと思う。山や川は生むものとしての大地である。もし生命を生むという意味がなかったならば、どうして我々は情感を交すことが出来るであろうか。茸が生え、わらびが生え、小鳥や兎が繁殖する山にして初めて我々は有難き哉と言い得るのである。そこは我々のいのちを養うところである。いのちはいのちあるものを資として生きる。大地は生むものとして、植物の生えるものとして、我々は植物によって生きるものとして、母なる大地である。自然の本源はそこにある。

 内面的発展とは自覚的生命となることであり、外を対象化することである。作られたも の、見られたものが逆にこの我を作るものとして包むものとなることである。無限に純一 なる流動を断ち切って、内外を対立せしめることである。内が外を作り、外が内を作るのである。私達は山や川を、我々の生死を超えた無限の時間の相に於て見る。私は斯る自然観の根底に、自覚的生命の無限の歴史的形成があり、歴史的形成の反極として見るのであるとおもう。祖先の無限の創造的努力があるのである。私達は深い山に静寂を見る、この静寂を見る目は、祖先の無限の生命創造の目を、この我の目が宿すことによって見ることが出来るのである。

 生れたものが作るものであるとは、作るとは与えられたものの否定であると共に、何処迄も与えられたものの底深く入ってゆくということでなければならない。作るものは、生れたものの根底に還ってゆくのであり、歴史は自然が自己の根底に還るということにあるのでなければならない。作るとは自己を外に見ることである。自己を模してゆくのである。作られたものを内として、外に表わしてゆくのである。それは身体的に創造し来った生命が自己をより露わとすることである。

 歴史的世界とは製作的であり、製作とは過去と未来が現在に於てあることである。過ぎ去ったものが現在として形相を実現してゆくことである。内外相互転換としての、無限の行為の蓄積が、現在の内外相互転換に働くのが製作である。無限の過去と未来が現在にあるものとして、永遠なるものが働くところに物は作られるのである。

 併し形あるものは壊れるという言葉のある如く、物は永遠なるものではない。物に映さ れた歴史の世界は何処迄も変遷の世界である。死の深淵に参会する世界である。物に於ては過ぎ去ったものが働くということがない。壊れた機械が働くには、今一度人間の脳髄の中を通って来なければならない。

 自然の世界は繰り返す世界である。日々歳々を繰り返り、生命は生死を繰り返す世界である。そこは初めなく、終りなき世界であると共に、初めが終りである世界である。私は永遠とは斯る世界が物を浮べるところにあると思う。斯る世界の自覚として、自己を外に見たものであるとおもう。内外相互転換の集積は繰り返す生命なくしてあり得ないものである。永遠の今とは変化が常に同一であるということである。それは行為的現在がくり返しの上にあるということでなければならない。自然が自己自身を見、製作的行為的に自己自身を見るのが歴史であると思う。歴史は初めなく終りなきところより出で、初めなく終りなきところに帰るときに救済をもつのである。一瞬の過去にも帰ることの出来ない時間の流れは、初めと終りを結ぶものに於て成立するのである。そこに歴史の奥底としての自然があるのである。

 あるものは相互媒介的にある。歴史の奥底に自然があるとは、自然の究極に歴史があることである。自然の上に歴史があるとは、自然は歴史によって現われることである。歴史が自然によって救済されるとは、自然は歴史によって永遠を露わとすることである。相互媒介的とは否定を媒介することである。かって「死について」に於て言った如く、永遠は絶対の死をもつことによって永遠である。 永遠とは無限の時間ということではない。流れて止まない歴史的時間が、日々の行持に実現されていることである。日々の行時は自然のもつ生命の反覆に於てあるのである。禅家に日々是好日という言葉がある。それは歴史を透過した自然の深い自覚としてあるものと思う。絶対死の底に見出した深い生命であるとおもう。

 文明が行き詰ると、自然に還れという声が何処からか起って来る。それは生れたものが作るものである必然の推移であるとおもう。生命としての自然は、作るものとなることによって何処迄も自己を深めてゆくものである。生れ来ったものを内として、外に表現してゆくものとして、生命に何処迄も深大なるものを見てゆくものである。作られるものの転換は作るものに求めてゆかなければならないのである。内外相互転換の原型に還らなければならないのである。

 それは最早自然ではないと言い得るであろう。歴史を否定する自然は、歴史によって否定されたる自然である。併しそれによって自然は純なる自然となるのである。歴史的自然として、自覚的生命に於て自然と歴史は対立する。対立するものは否定し合うものである。対立するものを否定するにはいよいよその本性が明らかにならなければならない。女性が男性に対することによって、いよいよ女性となる如きものである。

 我々があの山、この河として、踏破し水浴するのは最も表層的な自然に外ならない。 それ以前に薪する山、渇して水を飲む川があったのであり、以後に自然科学へと発展すべき自然があったのである。生存に即する自然があったのである。生存に即する自然が製作の内容へと発展し、歴史的自然となったのである。私は老子の大道すたれて仁義ありといった自然の如きも、歴史的自然に立脚点をもち乍ら、その歴史的方向を捨象したところに見られたものであるとおもう。

 本文の最初に私は経験として見出した自然を叙述した。自覚的生命に於ての内外相互転換は歴史的形成的である。併しその形成は何処迄も身体を媒介するのである。それは経験的である。内外相互転換は身体なくしてあり得ないものである。生れたものとしての自然の上になり立つのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

根源への問いを問う

 哲学は根源への問いであると言われる。この根源が問われると言うのは如何なるこ となのであろうか。根源と言う以上全てのものがそこから出て来た筈である。而し問われるものである以上、それは未だ有り得ないものであり、求められるものでなければならない。根源への問いである以上その解答は終わりとしての全解答でなければな らない。根源への問いは、全てのものがそこより出で来ったものとしてすでにありつ つ、問われるものとして未だあり得ないものである。根源は根源として一つでなけれ ばならない。根源が二つあれば根源ではない。而し問うということは問うものと問わ れるものに距離がある事である。私はここに人間の自覚的生命を見る事が出来ると思う。

 ありつつあり得ないものとは、自己の中に自己を見ていくものである。自己の中に自己を見るものに於いて、問いは根源への、始めへの問いである。始めへの問いが問 い自身の中に深まりゆくことが自己自身を見ることである。根源が自己自身を明かし ゆくのである。根源は何故に自己自身を明かさんとするのであるか。私は矛盾として の人間生命の存在形態なるが故であると思う。

 根源的なるものは、始めなく終わりなきものとして自己を見るのではない。始めが終わりであるとは、始めと終わりが一つでありつつ、既に始めと終わりを分かつのである。根源を問うものは根源ならざるものでなければならない。根源ならざるものが根源を問う事が、根源が根源自身を問う事でなければならない。根源を問うものは個としてのこの我であり汝である。この我は、無数の人々の中の一人として、宇宙の一微塵である。生死するものとして無限の時間の中の一泡沫である。

 而して我があるとは、一微塵として、一泡沫としてあるのではない。問うのは言葉をもってする。生きるのは技術によって物を作ることによってする。言葉、技術は一微塵、一泡沫を超えたものである。この超えたものへの問いが根源への問いである。根源が自己自身を問うとは、根源ならざるものが根源を問うことである。根源が自己自身を見るとは、生死するものが普遍的一者を見る事である。勿論根源でないものが根源を見る事は出来ない。根源的なるものが自己自身を見ることが、根源ならざるものが見るということは出来ない。そこには相互媒介的なるものがなければならない。相互媒介的とは、根源によって、根源ならざるものはあり、根源ならざるものによって、根源はあると言うことである。一者によってこの我はあり、この我によって一者はあると言うことである。そこに自覚がある。自覚はこの我の自覚である。而してこの我の自覚が根源が自己自身を見ると言うことである。

 古来幾多の哲学が語られて来た。今も多くの人々によって語られている。各々が完 結しつつ、各々が内容を異にして、これからも多くの人々によって語られ問われる根源は一者である。而しそれは多くの人々によって異なった内容に於いて語られるのである。

 全ての人は個性としてある。それは世界が矛盾的に自己自身を作ってゆくものとして、唯一のものとして現前する。この我は過去にあった事も、未来に現われる事もな いものである。斯る個に於いて根源への問いをもち得るのである。個としての人間は 生まれて死んでゆく、この唯一なるものの死が根源を求めるのである。生まれ来った 新しい個は、新しい状況の下で唯一の個を形成してゆく。この新しい個の根源への問 いが新しい哲学のスタイルである。哲学は個がその一々に於いて根源を問うのである。個の全への終わりなき問いである。そしてそれが始めに終わりがあり、終わりに始めがあるものの形態である。

 問いが根源の自己自身の問いであり、問うものが個としてこの我であるとき、永遠は常に現在にあるのでなければならない。而してそれは無数の個を包むものとして、 無限の過去と未来を包むものでなければならない。無限の過去、未来の一瞬一瞬を現在として、この我と対話さすものでなければならない。生者必滅の悲しみに於いて、 永遠に対面しつつ、私達は滅んでゆくのであると思う。而して無限の未来に於いての 現在として、語り続けるのであると思う。其処に根源を問う所以があると思う。全ては唯一者に於いてあるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

生死

 近頃は熟れた稲田の畦を歩いても、風が流れてさらさらと穂波を立てるのみである。 私達の小さい頃は、秋の稲田と言えば無数の虫の棲家であった。雑魚取りなんかで、畦にはみ出た穂を分け乍ら行くと、蝗やよこばいが縦横に跳び散ったものである。その中に混って少数乍らかまきりがゐた。あのやせたかまきりが大きな斧をふりかざして、果敢に迫ってくると、悪童どももたじろいだものであった。

 秋も終りに近くなり、稲を刈る頃になるとそのかまきりの、雄が雌に食われるさまがし ばしば見られたものである。雄かまきりの大きな腹が半分程なくなって、そのなくなった処より、雌かまきりの口が続いており、雄かまきりは苦痛に耐えているのであろうか、背を反らせるだけ反らして動かずにいるのを見ると、性を同じくするものとして、悲痛の感なくして見得なかったのを思い出す。

 食は個に関り、性は種に関ると言われる。生命は個的、種的である。個的方向と、種的方向をもつことによって生命は自己を維持してゆくのである。併してこの両方向は決して和平的な結合をもつのではないらしい。食われるかまきりや鈴虫がそうである。亦おたまじゃくしや蜘蛛の子は無数に生れる。それは全部が生きようと思えば、全部が死ななければならない数らしい。即ち彼等は殆んどが死んで、幾何かが残るべく生れて来たのである。種は斯る残酷をもつことによって生命を維持してゆくのである。

 生きているとは自己矛盾としてあることである。生きているものは死ぬ。生は死の対極をもつことによって生である。死の対極をもつことによって生であるとは、生は死すべく生れ来ったということである。生けるものは全て、生れ来った時より死への道を急ぐ旅人である。而しそれは滅亡への道ではない。種の形相を実現したものは、新たな環境適応をもつ生命に、種の形相実現を負託して死にゆくのである。個的種的なる生命は、個の生命が死ぬことによって種の生命を維持してゆくのである。

 私は自覚する生命として人間を捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己を知ることである。自己が自己を見るとは如何にして可能であるか。私は自己が自己を見るとは、自己を外に表わす事であると思う。我々は形に表わすことによって自己を見るのである。形に表わすとは物を作ることである。自己を物となすことによって我々は自己を見るのである。外部知覚の内容は形成的物でなければならない。物を作ることによって、内外相互転換としての食物的世界は外部知覚的となり、製作するものとしてのこの我は内部知覚的となるのである。

 それは技術的である。技術的であるとは、長い歴史の集積であるということである。技術とは死を生に転ぜんとする本能の行為を、集積し、整理して現在の環境との対決に、生の形相を打ち樹てる力だと思う。それは始めが働き、終りが働くことである。人間はそれを言葉によってもつのである。私は人間が他の動物と異るところは、初めと終りを結ぶ力を有することであると思う。我々が今斯くあり、斯く働くということは、全人類の無限の経験の、言葉をもつことによる蓄積と整理によるのである。

 湯川秀樹博士が物理学は視覚と関節覚の発展であると言われた如く、外に見るとは、身体的なるものを物に表わすことである。身体は物に自己を表わすものとして、何処迄も内なるものである。而して物に表われるものとして何処迄も外なるものである。

 生命とは身体をもつことによって生命であり、身体は内外相互転換として身体である。禅宗でよく、生命は呼吸の刹那にあると言われるそうであるが、呼吸とは内を外とし、外を内とすることである。摂食と排泄も外を内とし、内を外とすることである。

 内外相互転換的とは、生命は常に死に面しているということである。摂食に於て食物の欠乏は死である。呼吸に於て酸素の欠乏は死である。生命は危機としてあり、危機の克服として生きるのである。危機の克服の蓄積と構成が技術であり、製作である。

 言葉をもち、物を製作する人間は、動物が食物的環境としてもつものを世界として形成する。それは最早食物としてのみの意味を有するものではない。言葉が言葉自身の展開をもち、物が物自身の発展をもつのである。それが世界を形成するということである。人間は動物が、生得的に与えられた所に生きるのに対して、瞬々環境と自己を改造するのである。創造に生きるのである。

 私は此処で自覚というものに一歩立入って考察を加えなければならない。自覚とは内外相互転換の自然の流れより、人間が初めと終りを結ぶ力をもつものとして、言葉に写すことによって内と外を分ち、自己を分たれた内と外の統一者とすることである。内部知覚と外部知覚の相即者として無限に動的となることである。自然としての、所与としての内外相互転換が立体的構成的となることである。製作的表現的であるとは、何処迄も身体を離れると共に、何処迄も身体を基盤にもつのである。自覚とは空中に楼閣を見るのではない。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われる如く、表現は身体の発展である、日々の行為の上に成立するのである。

 内部知覚即外部知覚・外部知覚即内部知覚とは、生物的生命としての食物的な内外相互転換の発展として、常に死と背中合せにあり、自覚は亦危機の自覚として発展するのである。危機も亦自己形成的となるのである。

 初めに生命は個的種的であると言った。自覚とは斯る個的種的なる生命が無限に自己創造的となることである。創造とは、世界形成的に自己を見てゆくことである。技術的、言表的である。而して技術的言表的であるとは、この個としての自己を越えたものである。言葉も技術も生死するこの個を超えて、無限の祖先より継承し来ったものであり、子孫に達してゆくものである。言葉と技術は個を超えて世界として自己を見してゆくものである。生命に於て個を超えるものは種としての生命であった。私は自覚とは種の発展であり、世界とは歴史的形成的世界であると思う。

 生命は死をもつものであり、生物が死ぬとは種の中に死ぬのであった。種は個の生死 於て自己の連続をもつのであり、個は斯る連鎖の一環として、種の中に生れ、種の中に死ぬのである。連鎖の一環として死ぬということは、種に生きるということである。

 人間に於てはこの世界の中に生れ、この世界の中に死んでゆくのである。生物が生れて種の形相を実現してゆく如く、我々が生きるとは、よりよき社会を作ってゆく事である。より豊富な言葉と、より多様な技術をもつ社会を作ってゆくことである。

 生物に於て種は個に対して、残酷をもつことによって自己を維持してゆくと言ったごと く、人間に於ても世界と個は矛盾をもって対立する。個人は恣意を否定することによってのみ世界を実現するのである。世界は個人の恣意を抹消しようとするのである。 世界は法として個人にその従属を強制するのである。而して個的生命は恣意を否定してのみ、真の自己となることが出来るのである。生死する生物的生命を超えて、初めと終りを結ぶ世界に触れることが出来るのである。世界実現的として恣意は意志となるのである。斯るものとして克己を伴うことなくして、意志の実現はあり得ないと言い得るのである。

 雄かまきりが雌に食われてゆくのを見ると悲痛の感を持たざるを得ない。併しそれが種に生きる道である。人間は創造的生命となることによって世界を見る。そこには私は雄かまきりにも似た捨身がなければならないと思う。死して生きなければならないと思う。勿論自覚的生命としての人間は、生物の如く身体を殺すのではない。世界形成として、生死を超えた技術・言語に純一となるのである。本能的欲求を殺して、展けゆく世界そのものとなるのである。

附記

 先生から難しいことを書くなと言われた。それで私の文章の基礎となるものを記したい と思う。私は人間は生れて言葉を覚え、技術を習い、働いて物を作って、食って生きてゆき、そして死ぬ存在だと思っている。私はそれを究明しているだけである。唯それが如何なるものかと求めた時はかることの出来ない深さとなってゆくのである。残る生命を賭けて究め得るだけ究めたいと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

情としての日本的形成

 古い本を引張り出して、ごろりと寝転んで読んでいると、こういう下りがあった。江戸 の或る豪商の家より出火した。折からの風に煽られて、火は見る見る内に街並へと拡がって行った。当主が茫然として火の行手を見ているところへ、息子が駆け寄って来て、「お父さん御安心下さい、土蔵の全ては完全に塞ぎました、これで大丈夫です。と言った。すると主人は、「馬鹿!!」と怒鳴って走り行き、土蔵のを全部開け放ち、塞いだ窓を尽く壊した。そして火の消え去った後、一物も残らず焼けた我家を眺めて、「これで世間様も許して下さるだろう。」と呟いた。というのである。

 世間様も許して下さるだろうとは、如何なることなのであろうか。私は世間とは、所謂 社会とは異なっているように思う。社会は我々を超えて、我々と対立する意味をもつのに対して、人と人とのつながり、関り合いの意味が大変濃いように思う。今此処に我と汝が関り合って生活をしているのである。世間知らずというのは、我と汝の関り合いを、上手に処理なし得ないものである。世間が狭いというのは、関り合う人が限られて少いということであり、理解してくれる人が少ないということである。私達は社会が許してくれるとか、社会が狭いという言葉をもたない。そのことは世間とは人と人との生活空間の意味をもつと思う。

 許してくれるとは、私は、それによってあるものがそれに背き、再びそれの中に容れら れることであると思う。この場合出火によって、多くの家を類焼せしめ、人々を困窮せしめたのが、世間をはみ出たことになるのであろう。そして着のみ着のままになったことによって惻隠の情をもち、怒りを少なくしてくれるであろうということであろう。

 世間を世間様というのは如何なることなのか。通常前にも書いた如く、世間知らずとか、世間が狭いとか、世間という言葉で表わされる。自分も其の中の一人である以 上当然の事である。而し世間様というのは自分と一線を画した言葉である。そしてそれは許して下さるにつながる言葉である。私は世間様というのは、其処に自分の存在の根元を見た言葉であると思う。世間は我と汝の無数の関り合いである。関り合いは我を超えて、無限の過去に遡り、未来に流れてゆく。我々はその中に生き、それによって生きる。其処に法が生れ、神や仏の出で来る地盤がある。併し世間様は神や法ではない。何処迄も人と人である。我と汝である。

 私は斯るものとして、世間とは心情的に形成せられた社会であるとおもう。心情と心情の結合から、新たな心情が生れる。そこに自ら全体的なものが生れる。全体とは秩序である。それは成文化されたものではない。お互いの心に流れ合うものであり、それによって我が生き汝が生きる心情のおのずからなる承認である。私は世間様とは、我々の心情の奥に出来た社会的心情とでも言うべきものではないかと思う。

 私が鎌の販売をしていた頃、出張先の宮崎市に吉田喜五郎商店というのがあった。その当主は古来の慣習を頑固に守り続ける人であった。他の人から聞いた話であるが、その主人はいつも、飯を食っている所を人に見せてはならない、もし見られてお客さんより美味いものを食っていたら、お客さんにすまない、と言っていたそうである。事実私も二、三度饗ばれたことがあるが、夏の暑い日でも障子が閉め切ってあった。この家は市内でも一、二を争う資産家として、当時の市長の娘を嫁に貰った程である。かくれて食う位ならどんな美味いものを御馳走して下さるのかと思ったら、味噌汁一椀に干魚の焼いたのが一匹であった。それを手拭片手に、汗を拭き乍ら食べるのである。私は戴き乍ら、資産をもつという意味を疑ったものである。

 併し彼は決して吝嗇ではなかった。寄附なんかは惜まず出していた。勿論まずいものを食うのが好みではなかったであろう。私は其処に情のつながりといったようなものが見られるのではないかと思う。客もその店に無ければ兎も角、他の店で買うことはしなかったようである。品物を通じての結合が一体感をもたらし、一体感が同一への欲求をもたらしたのではないかと思う。客よりうまいものを食っていてはいけないということも、この同一の欲求から来るのではないかと思う。

 世間知らずといわれる言葉も、この同一の感覚の欠除を言っているように思う。他者の気持をおしはかり、自己と他者の間に一つの状態を作り得ないものをいうように思う。あの人はまだ苦労が足らんと言われるのも、苦難の経験をもたないということでなくして、人との関り合いに圭角があるということのようである。

 私の住む田舎では、今では大分薄れてきたが裾分けという習慣がある。何か美味しいもの、珍しい食物が手に入ると近所隣へ少しずつ配るのである。貰った者は亦近所や知人に配るのである。私はそこに味覚に於て自己と他者の同一を実現しようとする、日本的あり方を見ることが出来るように思う。それは身体的であると共に、我の身体を超えて、我と汝の身体の同一をもとうとするのである。私は心情とは身体と身体が関り合う波動であるとおもう。

 一つ釜の飯を食ったという言葉がある。それは人と人との最も強い結合を表わす言葉である。私は日本人の結合は理念による結合ではなくして、より多く斯る身体的なものに根底を有するのではないかと思う。

 私達の若い頃、村には講というのがたくさんあった。伊勢講、お日待講、念仏講等である。それは多く血縁を基礎としているようであった。年に何回か講員が廻り持ちに講元となり、形式的な儀礼の後多くの時間を飲食に費していた。村には幾つもの講のグループがあり、大てい四、五人から七、八人位で構成されており、飲食はその紐帯を確めるものであった。盃のやりとりがはじまり、酔うて唄い、全員が体をゆすり乍ら唱和して、一同は満足して帰宅するのであった。

 私は日本の生命形成の根底に断るものがあるように思う。それは同一の体験亦は官能充足によって身体的一を実現するのである。伊勢講の行事として、四年目に一回のお伊勢参りがあった。私はその帰りを浄谷の浄土寺迄迎えに行った経験しかないのであるが、寺より村迄の間、酒を煽り、声張り上げて唄い、右に左に練って歩くのであった。それは多くの人ではなくて一つの波であった。おのずから波動が形造られてゆくのであった。

                                                                                                                                               波動とは多が動的に一ということである。この夏テレビで阿波踊りというのを見た。そ れは全く波であった。人の波というのではない。それは波を演出するのである。多数の人々が単純な動作を繰り返し繰り返し押し寄せて来るのである。人々は波の演出の中に陶酔してゆくのである。歌の囃しというのも斯かる波動を構成する一つの要素であった。祭りの太鼓なども波を描いて練られたようにおもう。そして私達もその練られることに興奮を覚えたものであった。

 汝は我に非ざるものであり、我は汝に非ざるものである。若しも我が汝であり、汝が我であるなれば我と汝というものはない。併し我と汝は人類として、他の動物と距てる同一をもつのでなければならない。人類は同一の生命機能をもつのである。斯かる同一に於て集団をもち得るのである。私は日本人は形相形成を自他分別の方向ではなく、同一の方向に見出して行ったのではないかと思う。自他分別の理性に於て世界を築くのではなく、汝が行為を介して身体的に繋がる方向に世界を見出して行ったのである。情念的な結合である。

 私は世間というのは斯るものに基盤を有するとおもう。世間様がゆるして下さるとは、 斯る結合の中に容れてもらえるということであると思う。昔私の村落でも村八分という制裁があったらしい。それは如何なる体罰でもなくて、結合の拒否だったのである。而してそれが最も苦痛を与える制裁であったということは、日本の社会構造が斯る結合の上に成り立っていたが故であると思う。世間とは斯る構造の拡散されたものであり、日本社会の特性は多く身体的結合の親縁性によるとおもう。

 身体は情緒的表出をもつ、身体的結合とは情緒的結合である。情緒的結合が強固であるためには、会食に於ては声が届き合い、盃を交す手が届き合い、鉢物への箸が届き合うところでなければならない。即ち講に見られた如く、五人乃至十人の小人数でなければならない。私はそこにおのずから世間の論理がはたらいているように思う。江戸時代に社会組織の下部構成として五人組が作られたというのも斯かるものに所以するとおもう。

 世間としての社会に最も尚ばれるものは当然人情であった。世間情がなきやなり立たぬと唄われ、人は情の下に棲むと言われ、情深い人は最も尊敬される人であった。逆に鋭い分別をもち、物事を組織づけてゆく人は冷たい人として敬遠された。冷たい、温いという身体感覚は、日本人にとって重要なる価値規準となったのである。私はここにも身体的なるものに基盤を有する日本的形としての、世間として展開して行ったものを見ることが出来るとおもう。

 南博氏はその著日本的自我(岩波新書)に於て、日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」の存在ということを考えて来た。と書かれている。併し私は自我不確実感という言葉そのものが、西洋的自我の思考の上に立つものであって、日本的生命の形成の場に立って考えられたものではないと思う。そこには西洋的意味に於ける自我の不確実というのは避けることは出来ない。併し人間は自覚的生命として内面的発展をもつ、私は日本的自我を論ずる場合にも、日本人が形成し来ったものとの動的関係に於て捉えなければならないと思う。内面的発展はそれ自身一つの積極的意味をもつ、それは西洋的自我を逆に包み補完する意味をもったものである。全てあるものは一つの完結性をもつ。日本的形相は一つの完結をもつのであり、西洋的なるものの欠落としてあるのではない。日本的なるものが或る意味に於て、西洋的なるものの欠落としてあるのであれば、西洋的なるものは或る意味に於て日本的なるものの欠落としてあるのでなければならない。西洋的なるものが日本の停滞の救済であるのであれば、日本的なるものは、西洋の没落の救済でなければならない。交流は興隆である。

 情に於ての我とは他者との一体感である。自己があって他者と結びつくのではない。自他一なる中に自己があるのである。理性としての自己は、自己の中に世界をもつ、一体感に於ては世界の中の自己としてある。我と汝は対立するのではない。間柄として一つである。親の子、兄の弟、遊んでもらう人、教えてもらう人として一つである。理性に於ける我と汝は人格として対立する。それは一つの世界を形造るものとして対立する。それに対して結合として生命形成をもつ個我は無力である。而して一体感としての結合の燃焼は大である。そこが自己の存在根拠なるが故に身命を捨てゆくものをもつのである。私は近代日本の発展の底に斯る精神のはたらきがあったと共に、親分子分といった小さなやくざ的結合をもち易いものがあったと思う。

 西洋文化の論理的構成的であるに対して、日本は独自の文化を形成して来たと思う。それは何処迄も身体的一体感の方向に深めていったと思う。身体を物に表わす方向ではない、物の中に消してゆく方向である。与えられた身体の精妙を、物との動的な関りの中に見出すのである。物を外に見るのではない。いのちの現れ、いのちの関りとして動的な身体的生命に於て見るのである。馬術に於て鞍上人なく鞍下馬なしと言われた如く、剣術に於て無想剣と言われる如く、道具として離れたものが動きに於て一つとなるのである。自他不二として見られる心地の風景が神といわれるものであり、それに至る過程が道である。日本文化は道の文化であったということが出来るとおもう。それは作る文化ではなくして、修めておのずから成る文化である。

 東洋殊に日本に於ては飄逸とか無我ということを非常に重要視する。無我とか飄逸ということは、自我を捨て作為を捨てるということである。大きな宇宙的生命の中の一個として、その運びのままに生きるということである。勿論それは何も為さないということではない。我々の情熱努力も亦大なる生命の運びの中にあると観ずるのである。その実現の為に身を捨てるのである。飄逸とか無我とは遊離することではない。道の底に死するところにあるのである。死して生きたところが飄逸であり、無我である。我々の祖先は西洋的自我を小我として、相対立するものに地獄を見、解脱に極楽を見た。極楽は無我の風光である。無我は大我への参見であり、身体的一体的なるもの究極である。

 近代社会は個性として、自由意志としての西洋的自我を生んだ。それは新しい生産手段の発展に伴う必然の自覚であったということが出来る。個は個に対する、それは相互否定的である。相互否定的とは無限に動的であるということである。社会は否定の変革によって動いてゆくのである。個が個に対立するとは物を媒介とするということである。物の生産に於て我々は自由意志であり、物の所有、生産技術の所有に於て個は個に対する。私はそこに西洋文明が物質文明といわれた所以があると思う。而して人間は外に自己を物として表わしたものである。物の生産なくして社会はない。社会の発展とは物の生産の発展である。発展のサイクルに入った社会はその展開を止めようがない。近代社会は我々に西洋的自我への転生を要求するのである。個性と自由意志に立脚点を求めるのである。南博氏の自我不確実感とは、波動として、一体感として形成し来った日本的形成として生命が西洋的自我に転生せんとする軌りであるとおもう。我々は新たな社会構造の主体として生きねばないのである。西洋的自我を透過しなければならないのである。自我不在感としての軌りをもつということは、西洋的自我に生きねばならないということである。

 生命は永遠なるものが瞬間的なるものであり、瞬間的なるものが永遠なるものであり、全体的なるものが個的なるものであり、個的なるものが全体的なるものとして絶対の矛盾としてある。絶対の矛盾として一つの形相は行き詰らなければならない。全体的な形相はその極個的なるものを失なうことによって崩壊し、個的なる形相はその極全体的なるものを失うことによって崩壊するのである。前者に於ては無気力となり、後者に於ては無目的となるのである。物に媒介される個性として、自由意志としての西洋的自我は、自由の故に無目的的となるのである。物に対するものは身体的欲求である。そこに最大多数の最大快楽が人生の目的の如き考えが生れてくる。併し快楽は官能的瞬間的のものであり、人性の本源を見失わせるものである。瞬間的なるものは永遠に映すことによって瞬間である。永遠を見るなき瞬間は瞬間の喪失である。そこに退廃がある。私は近代社会の抱える問題とは斯る退廃であるとおもう。

 私は日本的一体感の中に断るものを救済する原理があるように思う。勿論それは伊勢講の如きものを復活させよというのではない。一体感は対立矛盾の否定である。前にも述べた如くそこには発展や変革はない。情的結合の社会は停滞社会である。我々が近代としての国際社会に生きるには、どうしても西洋的自我を獲得しなければならない。併し西洋的自我は今見た如く既に終末的である。単に西洋的自我の中に入ってゆく限り、我々は徒に崩壊の中に入ってゆくことになりかねない。私達が西洋的自我を獲得するとは、日本的形成の中に西洋的自我を宿すことでなければならない。そこに新しい世界創造の原理が生れるのである。歴史は常に一つの精神が発展し完成することによって崩壊し、それを継承した新たな精神が発展し完成する繰り返しであった。今や日本は新たなる精神に於て世界を発展さすべき使命を有すと言わなければならない。

 この頃よく人間性の回復とか研究とかという本が書店に見られ、絆とか出会いを大切にしようという標語が方々に掲げられている。出会いというのは刹那の交情である。我と汝の一体感の把握である。それは私達にとって忘れたものの呼び返しである。身体を直接与えられたものとして、身体と身体の関り合いに生活の基盤を据えようとするのである。そこにあるのは触れ合うぬくもりであり、情の結合の一体である。併し一度び西洋的自我の洗礼を受けた現代日本は最早再び旧に還ることは出来ない。私達はその形相の如何なるものかを知ることは出来ない。形相は世界が自己矛盾とその救済として世界自身が決定するものである。

附 記

 いつであったか新聞で校内暴力の座談会があった。そのとき学生は小グループに於ては強い結束をもつが、現在の学校の大組織には白けム-ドであると書かれていた。私は今これを書き乍ら日本人には抜くべからざる情的結合の習性があるように思う。これを如何に普遍社会に結合するかに解決があるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

散り葉を見ながら

 折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。

 葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。

 生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。

 生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。

 併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。

 全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。

 限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。

 人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。

 人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。

 自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。

 我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。

 葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。

 葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

福山国際音楽祭2023

 先日、福山で国際音楽祭が行われました。作田忠司リーデンローズ館長のご尽力により、指揮者準メルケルや尾高忠明など世界でも屈指の音楽家を呼んでこられ素晴らしい音楽祭でした。ホールの席もゆったりとしており、私が聴いた中では竹澤恭子バイオリンと江口玲ピアノの、特にアンコールで弾かれたビバルディ「四季(一部)」が分厚い響きで、あれほど感銘を受けた演奏も久しく無かったです。

(2023.6)

Chat GPT

 私もいつもの拙い原稿を書く際に取り入れたいものですが、頭の中で浮かび上がるイメージについて自分でいろいろ調べ考えて文章を構成し最初の1文字から最後の文まで、一貫したストーリーを完成させるという人間の持つ「創造することの楽しさ」を、今や非生物であるAIごときに奪われてたまるか、と思う気持ちです。

(2023.6)

唯川恵「テテイスの逆鱗」

 以前のドイツ人や日本人のような勤勉な集団においては、ひとつの方向に向くときは全体に大きな利益を生むことが、今回の日本における「コロナ禍での社会情勢」から勉強、再確認できました。このことは、私にとっては大きな収穫となりました。例えば流行するファッション。洋服やバッグ、髪型など(私はセンスが無いのでついていっていないですが)。雑誌やHPなどで「今年の流行は!!」と出ていたら、興味を持つ方は多いでしょう。デパートの店員さんにはこう言われます。「皆さんこの色を選らばれていますよ」。

唯川恵は小説「テテイスの逆鱗」で、美に対するあくなき欲求を抑えられずに、自分の身体のあらゆる部分を「美容整形する」4人の女性が描かれていますが、このような極端な例ではなくても、医療面においてはサプリメントや薬などを勧める時にこういうと納得される方は多いようです。「皆さんこのサプリを飲んでおられますよ!」「皆さんこの〇〇を飲んで元気になったと喜んでおられますよ!!」

(2023.6)

同調行動

 5月8日から新型コロナ感染症は「2類」から「5類感染症」に法律上変更されました。これは新型コロナウイルスがいなくなったわけでも、感染力が無くなったわけでもなく、例えば担悪性腫瘍患者、免疫抑制状態にある移植後患者など、ウイルスへの易感染者が多い病棟や高齢者収容施設などでは、引き続きマスク着用や手洗いなどが推奨されています。ただ、感染した場合の重症化するリスクがかなり低下し、これまでのように社会生活を犠牲にするほど徹底的な予防は必要でない一般的な病気と同じように扱って良くなったということです。しかしながら、いまだに街中ではかなりの人がマスクをしており、街頭インタビューなどを聞くと「とりあえず今まで通りにして、周りの人の動向を見ながら徐々に外すことを検討します」という意見が多いような気がします。また以前のように「自粛警察」など他人には厳しく攻撃するような人に忠告するとの意図もあり「個人の責任にゆだねる」ようになったと思われます。

 以前、このような「同調行動」は「マーマレーション(周囲の仲間の目印やシグナルを受け取ってまとまった集団行動をすること)」と呼ぶと言いました。これは我々人間を含む動物や細胞や遺伝子など、生命現象を司るものに備わっている原始的な行動形態で「コロナ感染におけるマスク非着用者に対する自粛警察」「SNSで広がる誹謗中傷」さらに「ナチスや軍事政権」など、大きな悲劇につながる可能性があるなどと言及したことで、かなりネガティブな印象を持たれたことと思います。また作田忠司リーデンローズ館長が哲学者「ハンナ・アーレント」のことを述べておられ、私も矢野久美子著の伝記を読みましたが、彼女は何故ドイツでナチスのような全体主義が台頭したかについて、詳しく分析されています。つまり「客観的な敵」を規定することが「全体主義」の本質であるとし「客観的な敵は自然や歴史の法則によって体制側の政策のみによって規定され、これらは効果的に人間の自由を奪う」としています。一旦「客観的な敵」が規定されると「望ましからぬもの」「生きる資格の無いもの」という新しい概念、グループが出来上がり、「客観的な敵」に属さない「大多数の人々」はこれに賛同し、また「同調圧力」が加わり「大虐殺」に至ったとしています。「大多数の人々」がこのような「均一性」を自覚することが最も根源的な問題と思われますが、これを阻止するためには個々人の特性を認め多様性を受け入れれることが重要と思われます。

(2023.6)

散り葉を見ながら

 折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。

 葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。

 生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。

 生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。

 併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。

 全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。

 限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。

 人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。

 人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。

 自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。

 我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。

 葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。

 葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

知的抒情について

 先日大熊さんが来られて、片岡さんからと言って合同歌集を戴いた。その中で氏は 「珠」の短歌理念である「知的抒情」には到底及び難くと書いておられる。知的抒情とは一体如何なるものなのであろうか。

 知は分別である。それに対して情は常に純一である。知が求めるものは普遍妥当性であり、古今を通貫し、東西に敷延するものである。不変のものである。情は純一なるものと無限の流動である。喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないといわれる。生きゆく生命の直接の現れである。斯る意味に於て知と情は、相反するものと言わなければならない。

 併し知も情も我々のもつものである。我々はこの相反するものをもつことによって、人 間として行動し、生命を維持してゆくのである。

 生命は唯一生命として生命である。斯る唯一なる生命が内に相反するものをもつということは、生命は矛盾として生命であり、相反するものは相互媒介的にあるということでなければならない。知は情を媒介することによって自己を愈々明らかにするのであり、情は知を媒介とすることによって自己を深めてゆくのである。

 知は何によって対象を辨別するのであるか、私はそこに刹那刹那ということがなければならないと思う。大なる時間の中に刹那刹那を見てゆくのが辨別であると思う。普遍妥当性ということも、大なる時間を満たす刹那でなければならないと思う。スピノーザは知的愛を言っている。それは勿論知を愛することをもって至上の生とすることであるが、それは亦愛によって知があることでなければならないと思う。愛は情の至純なるものである。

 情が知を媒介するというのは如何なることであろうか。知は普遍妥当性の要求者として刹那を越えたものである。私は刹那的なるものが普遍的なるものをもつとき、そこに永遠を見ると思う。達することの出来ない深淵をもつのである。そこに情の深まりがあると思う。生来的な喜怒哀楽に生きるのではない。不安と絶望への戦いとして生きるのである。不安の暗黒、見出でた歓喜、人間の情念はそこに形象をもつ、知的抒情とは日常の事象を借りて生死の深淵に降りてゆくことであると思う。

 相互媒介としての日々の行履に於て知と情は一つである。而してその知が情を包む方向に散文があり、情が知を包む方向に詩があると言い得るであろう。知的抒情はそれが抒情である限り、情の中に知を消化しなければならないであろう。

 以下片岡さんの作品を二、三例にとり乍ら具体的に追及したいと思う。

切り岸に踵を返すまひるまの海の曠野を眺めつくして

 海の曠野とは何なのであろうか、私はそこに限りない生の渾沌の前に立つ作者を思うことが出来ると思う。その前に作者は無力である。五句作者のあり方を表わして遺憾ない。知的抒情の成功作である。

額あげて生きねばならぬ容赦なく朱の散剤を喉(のみど)にこぼす

 生の修羅を捉えて上手い作品。併し前作より深さに於て劣ると思う。

みひらきて他人の顔のわれがゐる夜の鏡の不意におそろし

 自己の中にある他者、実存的なるものに挑んだ作者の深さを思う。併し五句更に他者への突込みがないと一首として成功していると言い難いと思う。

天までも昇りつめれば雲雀子の声は堕ちくるまっさかさまに

 全体が観念であり、知が露呈している。抒情の方向を逆行するものであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

作歌に見る芸術の本質

 歌は感動であると言われる。私はこれは全ての芸術に言い得ることであるとおもう。 画も感動であり、音楽も感動であるとおもう。感動は字の如く感じが動くのである。動くものは物に即して動く。この動くものが感情であり、動きそのものがリズムである。喜び悲しみが生れ消えゆくのである。歌が感動であるとは、この生れ消えゆく喜び悲しみを言語によって把握し、把握することによって、次いで来る喜び悲しみにより多様の陰翳を与えることである。

 私達は喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らない。喜ばんとして喜べるものではなく、悲しまんとして悲しめるものでもない。或る状況の中から思わずほゝえみの湧き来り、涙の溢れ出るのである。我が喜び悲しみをもつのでもなければ、物が喜び悲しみをもつのでもない。喜び悲しみの中から我と対象が生れてくるのである。

 作歌に於て嫌われるのが観念の露出である。何故に観念の露出が嫌われるのであろうか。私はそれは我がそこから生れてくるという、生命の真実が失われるが故に外ならないとおもう。観念の露出とは一首を観念の内容とすることである。対象をして一つの観念を語らしめる道具とすることである。そのためにはその観念は既成の観念であるということが出来る。既に我の内容となったものである。既に我の内容となったものを対象に被せても、新しい我の生れる道理がない。新しい我が生れ、新しい感情が生れる為には、対象によって我が否定されなければならない。対象によって砕かれる所以のものがなければならない。感情はそこに動くのである。否定を媒介としての結合が動くということである。

 観念露出と共に嫌われるのは、事実に着くとか、対象に着くとか言われることである。 事実に着くとは事柄のみを述べる事である。事柄のみを述べるのは何故に嫌われるのであろうか。私は観念の露出が真にとの我を見る所以でなかった如く、事実に着くことは、真に事実を明らかにする所以ではないのに因ると思う。事実とは何か、最も直接なる事実はこの我が生きている事実である。生命の事実である。我々は自己の行為によって、事実を決るのである。見えている山は幻覚かも知れない、震気楼かも知れない。私達はそれを足で踏み、手で摑むことによって事実とするのである。事実は今私達が働くことによって物に対するところに事実があるのである。百五十億光年先の星を事実とするのは、それを我々は操作によって捉えるが故である。主体と対象の行為的転換に於て、生きている現在を決定してゆくのが事実である。事実につくとか、事柄につくというのは、主体的行為の失われた形象のみとなることである。そのことは動きゆく力の失われた事物ということである。そこからは喜び悲しみの生れよう筈はない。

 生命は主体的客体的である。 主体的方向に観念があり、客体的方向に事物がある。而して観念からも、事柄からも真に感情の生れるところを持たないということは、感情は主体と客体の交叉より生れるということでなければならない。主体は客体ではない。客体は主体ではない。それは一ならざるものである。一ならざるものが一なるところに感情は生れるのである。一が分離であり、分離が一であるところに喜び悲しみはあるのである。

 一ならざるものが一であるとは、否定するものが結合するものであることである。否定 が肯定であり、肯定が否定であることである。それは世界形成的であることである。個と個の対立と相互否定が、世界が世界自身を形成することである。何処迄も個が世界を媒介し、世界が個を媒介するのである。そこに何処迄も否定より脱することの出来ない悲しみ と、世界を成就した喜びがあるのである。喜びは悲しみを媒介し、悲しみは喜びを媒介することによって、深き喜び、深き悲しみを我々はもつのである。それは亦個の深まりであり、世界の深化である。私は芸術としての感動は此処に求めなければならないと思う。単に喜びより悲しみへ、悲しみより喜びへと移るのでなくして、大なる喜び悲しみへと移るのである。そこに自己発見の感情が生れ、世界創造への感情が生れる。表現意欲はここに発するとおもう。

 個が相互否定としてあり、相互否定が世界の自己形成であるとは、個は有限なるものとしてあり、世界は個を超えたものとしてあることである。有限としての生命が相互否定的に対するとは、生死に於て対するのである。否定されることが死であり、否定することが生である。而して世界はこれを超えたものとして、世界の形相は永遠である。生死に於て対立するものは永遠に於て結合するのである。仏教にも言える如く生死即涅槃である。生死即永遠である。生死即永遠とは永遠の相下に生きんとするには何処迄も生死するものでなければならないことである。永遠に写して生死はあり、生死に投影して永遠はあるのである。この一でありつつ絶対の懸絶をもつところに苦悩はあり、喜び悲しみの出で来る深淵はここにあるのである。前出の観念露出とか、 事実に着くというのは、個に執した永遠の喪失による感情の枯瘦によるとおもう。

 個が世界であり、世界が個であるとは、個が世界を内にもち、世界は個を内にもつことである。而して個が世界を内にもつとは、人格となるということである。生死を超えて時を包むものとなることである。私達は言葉をもつことによって時を包む。言葉は私達の身体を超えて、過去を伝承し未来へ伝達するのである。

 言葉は対話によって言葉である。対話によって言葉であるとは、対するものも人格で あるということである。人格が人格に対するとは互がその内包する世界を打樹てようとすることである。形成的世界に於て競うことである。世界に於て相互に否定せんとするのである。而して個と個が相互に否定する処に出現するのが世界である。この出現した世界によって否定された個は新たなる個として甦るのである。新たなる世界を内包する個として、世界は新たなる個を内包する世界として、自己を形成するのである。

 斯る世界と個の、否定と肯定の持続が歴史である。歴史の本質は無限に動的な生命の自己限定である。それは世界と個、否定と肯定に於て動きゆくのである。過去は過ぎ去ったものではなくして、現在を限定し、現在に否定さるるものとして新たな粧いに生きるのである。未来は現在の相互否定が投げた肯定の影である。歴史は歴史的現在に於て歴史であり、歴史的現在に於て世界が生れ、我が生れるのであり、過去は現在がもつ過去であり、未来は現在がもつ未来として、時は現在より創まるのである。

 何処より来り、何処へ去るか知らないと言われる喜び悲しみは、私は歴史的現在として無限に動的な生命の直截な現われであるとおもう。感情は常に今として、身体の動きとして現われる。而して涙は直にギリシャ悲劇に繋がり、西王母に繋がるのである。静御前の流した涙は直ちに私達の頬を流れるのである。感情の時は認識的時を超えて包み、知識が過去とするものも、感情に於ては今である。

 私はそこに真に具体的な深大な生命があると思う。知識はこれを反省することによって知識である。

 私は美とは斯る歴史的現在として、新たなる世界が生れ、新たなる自己が生れる感情の意識であるとおもう。人格と人格の相互否定が、世界形成の結合である意識とおもう。言葉をもつ人格として、新しい言葉が新しい世界を生み、新しい世界が新しい言葉を生むのである。私は短歌の表現は此処にあるとおもう。対象は新たなる自己を寓す対象であり、自己は新たなる粧いを対象にもたらす自己を謳わなければならないと思う。

 斯かるものとして、人格と人格の否定的結合としての社会生活が表現すべき課題の核心となるとおもう。否定的結合とは、対立するものは何処迄も対立するものであり、対立そのものが結合であり形成であるということである。対立は苦痛である。而しそれは反面に結合をもつものとして、喜びの翳を宿す苦痛である。其処より私達は全人生に対する声をもつ、その声が詩であると思う。夕日に挙げる讃嘆の声も勿論美しい。而し手にペンを持たしめて、表現せんとする意欲をもたしめるものは、矛盾に見出た大なる生命である。

 最後に花の美しさについて少し書いて見たいと思う。私は花が美しいと言い得るには、花が私達を限定してくる意味がなければならないと思う。画家は私達の見えない色を見ていると言われる。描くことによって種々な色が見えてくると言われる。赤の中に赤を見、青の中に青を分つのである。私は色が美しいというのはその微妙の感情であるとおもう。夕日の美しさもその瞬々の移りゆく茜の微妙にあると思う。そこに我々の視覚は無限の色を見るのである。私は花の美しさもこの様な視覚の発展がなければならないとおもう。花の美しさは百花撩乱にある。そこに木蓮の白、つつじの緋、藤の紫を分つのである。そして花の一つ一つの細胞が宿す色の微妙に打たれるのである。天空に映える木蓮の白さに心打たれる時、私は私の目の背後に無限の色の体系があり、視覚の自己創造があると思う。純白に讃嘆の声を挙げる背後に我々は灰白の影像をもつのであるとおもう。私は物を見て美しいと思う時、我々も亦画家の目をもって見ているのであると思う。

 短歌は勿論花の美しさをうたう。而しより多く花にうたうのは、開いて散りゆく命の姿 である。どうすることも出来ない生命の、生死への共感である。花のいのちを我に宿し、我のいのちを花に宿すのである。私はこの視覚と生命の流れの、二つの異なった動きは乖離するものではないと思う。一つは空間的方向として、一つは時間的方向として補完し合うものと思う。花の美しきが故に散りゆくものは一層あわれであり、散りゆくもののあわれの故に、花の色は愈々冴え勝ってくるのであると思う。最近の技術の向上は、花よりも美しい造花を出現せしめている。而しての感情の増幅作用をもたないものは低評価されているようである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

時間としての歴史の本質

 歴史は時間の学と言われる。時間の本質は歴史の本質と言い得ると思う。以下時 間の形相を考えそれと歴史の関聯を考えたいと思う。

 通常時間は無限の過去より、無限の未来へ流れると考えられている。而し少し立ち 入って考えて見れば斯る考えの如何に素朴なるものであるかを知るであろう。過去は 流れるとき、過去は過ぎ去ったものとして無いものである。未来はまだ来らざるもの として無いものである。現在は今と言った時すでに過ぎ去ったもので掴むべからざる ものである。斯るところに時間は見ることが出来ない。時間があり得るには過去、現 在、未来を包んだものがなければならない。時間は何ものかの時間であることによっ て時間である。過去、現在、未来を自己限定として、内にもつものによって時間は成 り立つのである。日本歴史というとき、日本は時間を超えて自己の中に過去、現在、未来を内にもつものでなければならない。小野市史というとき、小野市の自己限定とし過去、現在、未来を内包するのでなければならない。

 過去、現在、未来を内にもつとは個性的ということである。故に動物が親より生まれて、子を作って死ぬということは眞に時間をもったということは出来ない。過去、現在、未来をもつということは、過去を否定して新たな現在をもつということでなければならない。新しいものを作ることによって、有るものを過去とすることである。生まれて、子を生んで死んでいくというのは、既に自然のプログラムに組込まれているということである。過去を否定して新しい現在をもつとは、新しい物を作ることである。それは技術的である。環境を作り、環境に作られたものとして、今此処に物を作る処に個性はあるのである。

 エジプトが暦を作ったことによって、人間は時間を捉えたと言われる。それによって我我は時間をもったのである。それ以前に時間をもっていなかったのか。私は此処で有名な言葉を引例したいと思う。光りの中に七色はあったのか、あった。而しそれは分光器に解像されることによってあったのである。時間をもっていた。暦に表されることによって持っていたのである。そして暦に表されたものは時間の内容である。時間は暦に表された如き内容をもつことによって時間である。私は此処で暦について少し考察を加えてみたいと思う。

 私は経験の蓄積ということが暦が生まれるために必要であったと思う。経験とは生 命が内外相互転換的として生命圏を作っていくことである。生命は食物を外より攝っ て肉と化し、排泄して外と化す、此処に生命の原型がある。人間は自覚的、人格的と して無限に複雑である。而し何処迄も内外相互転換的に生命を形成していくのである。内外相互転換は刹那に現れ、刹那に消えていくものである。而し刹那に現れ、刹那に消えゆく処に暦はない。刹那、刹那を止めるものがなければならない。それが経験の蓄積である。刹那を永遠に映すのである。人間はそれを言葉にもち、文字に表すと思う。

 私は人間を自覚的生命と考える者である。自覚的生命とは内を外に表して、自己を見るものである。私は人間が暦をもつためには、身体がすでに時間的構造をもっていなければならなかったと思う。天工は人間を時間的形態に創り上げたのであると思う。構造の外化、自覚が暦であり、時計であると思う。内外相互転換としての身体は、暦や時計に表れた如き構造で時間をもっていたのであると思う。即ち瞬間としての行動と、行動を統一する身体である。

 人間は身体を外化することによって、生命圏を拡大するものとして、自覚的、技術的である。物を製作する生命である。製作とは刹那の内外相互転換を蓄積し、保持す ることによって、欲する時に同じ事象を出現せしめることである。暦とは身体の時間、 自然のプログラムに対して、自覚的、技術的なる時間、製作のプログラムである。エジプトの暦とは上述の自覚的生命の上に立った。エジプトの気象、ナイルの怒りと、恵み、植物、種族的特製の総計である。

 内外相互転換は常に刹那的である。自覚的生命の内外相互転換として、製作は常に今製作するのである。而し製作は単に刹那によってあるのではない。今見て来た如く刹那的なるものが永遠なるものを宿す、永遠なるものが刹那的なるものをもつところに製作があるのである。暦とは過去を負うものである。そして現在に働くものである。 そして来年も規定せんとするものである。時が消え、時が働き、時が生まれつつ全てのものがそこにある。そこに製作の今はあるのである。私は以降刹那としての現在 と斯る自覚的現在を分つために、便宜上後者を絶対現在と名付けたいと思う。

 歴史は常に斯る絶対現在が自己自身を見ていくところに成立するのである。農作業 が高度化すれば暦はいくつもの付け加えを必要としたであろう。その為に更に過去を 尋ねなければならなかったであろう。斯る意味に於いて我々は過去も亦作っていくの である。過去は過ぎ去ったものとして無いものでありつつ、絶対現在の自己限定とし 現在より作られるのである。私達は戦前と戦後の史的叙述の変化に瞠目する。勿論 そこには資料の充実といった事のあることを見逃すことは出来ない。而し資料の整備 は歴史的意味を変えることは出来ない。大なる変化の要素は絶対現在としてのイデオロギーの変化である。同じ資料を駆使しても、米国とソ連の歴史叙述はその構成を大いに異にしている。米国は米國の絶対現在より、ソ連はソ連の絶対現在より過去を作るのである。生命が内外相互転換的であるとは、生命は常に危機としてあるということである。危機としてあるということは、突破すべき課題をもつということである。斯る課題に於いて我々は過去をもつのである。突破すべき生命が世界を構成する過去 の方向に見たものが歴史である。歴史は常に書き換えられることによって歴史である。大東亜戦争は最近の事である。而して戦争の意味するものについて、戦中に書かれたものと、戦後に書かれたものを見れば変化は一目瞭然であろう。そこに歴史があるのである。

 勿論絶対現在が過去を作ると言っても、任意に過去が作れるのではない。任意に作 られるものは歴史ではない。過去、未来を内包するとは、永遠なるものが働くことで ある。永遠の形相をもつということである。物を作るということは、流れるものは此処に止まり、生命は完結をもつということである。物は一つの完結をもつたものである。それは生命の一々の時の完結を映すのである。一々が時の完結として、過去の一々絶対現在としての完結をもつのである。そこに歴史的事実が成立するのである。瞬間が永遠なるものが歴史的事実である。製作として物と人とが交叉するところに事実があるのである。歴史は事実より事実へとして、その一々が完結をもつのである。貞観佛、平安佛、鎌倉佛と言われる彫刻は各々他に代える事の出来ない個性として完結をもっており、室町時代の墨絵、大和絵はそれぞれ完結をもっており、刀剣は正宗に完成され、俳句は芭蕉に完成されたと思う。芸術品のみに非ず、日常使う碗類なども、縄文弥生の昔にさかのぼって、一々が完結していたと思う。一々が完結しているということは一々が変遷したということである。一々は個性的として動かすべからざるものである。

 過去は一々が完結する事実として、我々に対立し、今の我々の事実を否定してくる ものである。芭蕉は現在詩人の前に立ちはだかり、ミケランジェロは現在芸術家を叱 咤するものとして過去はあるのである。而して過去は斯るものとして現在より作られ るのである。もし過去が単に現在への過程であるならば我々は歴史を尋ねる必要をもたないであろう。対立するものに於いて対話し得るのである。否定し来るものに於い て肯定に転ずることが出来るのである。過去、現在、未来を内包するとは力をもつと いうことである。物とは力をもつことよって物である。力とは時間に於いて自己自身を維持することである。今物を作るとは既にある物を否定することである。そこに闘いがある。価値に於いて争うのである。我々はミケランジェロを超えと欲する。そのときミケランジェロは深淵の力をもつ、我々はその深淵を覗いて自己の深淵を知る。そこに対話があるのである。否定を介して対話はあるのである。絶対現在に於いて、否定されるものとして、逆に否定として迫ってくる、此処に対話があり、完結せる個性として過去は生きつづけるのである。私は歴史は絶対現在の自問的自己限定として、深く対話としてあるものであると思う。米国は米国の課題に於いて、ソ連はソ連の課題に於いて自己の過去を問う、そこに米国の史的叙述ソ連の史的叙述はあったと思う。私は歴史的にあるものは個性的であるといった。個性的にあるとは過去、現在、未来を内包し、それ自身に於いて完結するものであると言った。それ自身にあるとは連続を拒否するものでなければならない。而し時間は純なる流れであり、歴史は大なる生命の流れでなければならない。初めに書いた如く、日本史というとき、日本は過去、現在、未来を内にもつのでなければならない。日本的一者として、時に自己を限定するものでなければならない。而してその内容は一々が完結するものとして連続を拒否するものである。そのことは歴史とは完結するものは流れるものであり、流れるものは完結するものであるということである。斯るものは如何にして考えられるであろうか。

 私は斯るものを表現せられたものに対する表現するものの方向に求めたいと思う。 歴史は表現されたものを見ていく、而し表現されたものは歴史ではない。表現された ものを見ることは、表現するものが自己自身を見ることであるところに歴史はあるの である。歴史は主体の学であると言われる所以である。

 表現するものは身体としての生命である。身体は製作するものであると同時に生ま れ来ったものである。生まれ、大きくなり、子を生むものである。それは根源的生態である。我々が物を作るとは製作的身体として生まれたのである。何処迄も生まれた ものとして生命である。生命の自己限定として物を作るのである。私は物の個性と独 立は製作としての表現的方向に於いて、流れとしての連続は生まれるものとしての自 然的方向に於いて見られるのであると思う。生まれるものは同じ形相の反覆である。 作られるものは内外相互転換的として常に新たである。而して反覆として生まれ来っ た者は作るものとして常に新たなものである。作られたものは生まれ来ったものの表 現として反覆である。人生は日に新たにして、日々に新たでありつつ、日々は繰り返 しである。此処に完結せるものは流れるものであり、流れるものは完結する所以があ ると思う。次元を異にしつつ一つである。無限に動的である。

 歴史が身体的であるとは経験の蓄積は身体がもつということである。一瞬一瞬を身 体の持続に於いて蓄するのである。身体は種的、個的である。個的方向に内外相互転換があり、種的方面に蓄積があるのである。斯るものが一つなるところに製作があるのである。歴史は身体によってあるものとして飛躍的である。一つの身体が内包し、死して亦一つの身体が内包するのである。それを蓄積としての言葉によって繋ぐのである。非連続の連続である。時間とは流れるのではなくして非連続の連続として我々は時をもつのである。

 身体が種的、個的であり、刹那としての内外相互転換が永遠なるものの働きとして の、経験の蓄積によって物の製作があるということは、歴史とは個を包括するものよ り初まったということでなければならない。私は種族的、民族的なるものより表現としての製作は初まったと思う。全体が先ず自己を露はとしていくのである。個は物の蓄積、生産手段の発展の中より分化されて来たのであると思う。勿論最初より個がは たらくことなくして製作はあり得ないし、分化もあり得ない。而し最初の自覚に於いては個的契機を内包したという迄で、個の自覚は持ち得なかったと思う。民族の自覚として個はあったと思う。現在の我々の自覚も何処迄も永遠なるものに映すことによってあるのである。歴史の発展は外に物と生産手段の発展であると同時に、内に無限に分化と個の確立である。

 歴史に於いてあるものが個として完結するものであるということは、歴史的時とは流れるのではなくして変遷していくのでなければならない。それを流れると見るのは永遠に生滅を映すが故であると思う。歴史は人間生命の総合的時として時代より時代へと変遷していくのである。時代とは如何なるものであろうか。

 歴史は身体的として、外に物が蓄積され、生産手段が発展するということは、内に生産と配分の体制をもつということである。それは体制が生産手段をもつと共に、生産手段が体制を規定するものとして相互限定的である。斯る体制が社会組織である。 体制は常に種としての統一的方向と個としての拡散的方向をもつ、何処迄も我々の身体のあり方に於いてあるのである。而してその統一的方向に言葉としての知的なるものが成立し、個的方向に肉体としての労働が成立するのである。社会に於いて大衆とは肉体をもって生産するもののことである。生産手段が高度化し、複雑化して、従来の体制をもって最早対しきれなくなった時が時代の遷移である。生産手段はそれ自身の内面的発展をもつ、新しい言葉は管理する者ではなく生産するものが担うのである。それに伴って富の転移が行われ、大衆の中から新しい言葉をもって、新しい体制を組織する支配者が生まれるのである。時代は生成、爛熟、退廃を繰り返すという、私はそれは以上述べた如きものの人間的投影であると思うものである。

 大歴史家ランケは保守と革新の対立により時代は動くと言っている。対立により動くとは両者共に力をもつものが否定し合うことである。過去は単に過ぎ去ったものとして過去ではない、過去はその蓄積に於いて過去である。記憶とは蓄積の投影に外ならない。蓄積は力である。現在を限定せんとする力である。革新は動的なる生命の、 物と人とに内在する矛盾に於いて既存の体制を否定せんとする力である。一方は物の方向に、一方は力の方向に生きる者が否定として激突する処に時代は動くのである。生きる者が否定し合うとは戦うことである。時代は流血によって遷移したのである。単に時代が流血によって遷移したと言うのみではなく、私は歴史は生きる人間の舞台として、血と汗を流した痕跡であると思う。時間の最も具体的なるものとしてその 根底に歴史的時があると言われるとき、時間とは血と汗の上に築かれた金字塔であると思う。

 戦は万物の父であると言われる。我々はそこから世界を作ったのである。血風はより大なる中心へと歩を進める代償である。より大なる世界はそこから生まれるのである。より美しいもの、より善いもの、より眞なるものはこのより大なる世界への形象である。我々がもつ幾多の価値は全て過去の幾多の人が血涙をもって購ったものであ る。我々は価値の中に生まれて価値を作っていくのである。斯る意味に於いて歴史は 我々の存在の根源であり、歴史を知ることは自己の根源を知る事である。我々は自覚するものとして、歴史的創造的に永遠より生まれ、永遠の中に死にいくのである。物を作るとは永遠なるものとして働くことである。

 物の製作に於いて過去、現在、未来はあり、この我が物を製作するものであるとき、 この我は絶対現在としてあるのでなければならない。無限の過去を孕み、未来を哺む ものとしてあるのでなければならない。一人一人が絶対現在として働くところに世界 の絶対現在はあるのでなければならない。この一人一人が生死すところに世界は絶対現在より、絶対現在へと働いていくのである。我々は世界の絶対現在を映して絶対現在をもつものとして、永遠に映して自己を知るのである。而して永遠は無限に歴史的動的である。矛盾として、苦悩として我々は永遠に目見えるのである。永遠として歴 史の自己顯現である。眞の時間は神の内の内容である。神は血の犠を求める事によって我々の前に現れるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

歴史と身体について

 人間のみが歴史をもつ、他のものは歴史をもたないと言えば、或は鳥には鳥の歴史 があり、馬は馬の歴史をもつ、唯我々の窺い知ることが出来ないのみであると言う人 があるかも知れない。而し歴史は人間のみがもつのである。これを明らかにする為に 先ず歴史とは何かを問わなければならない。

 私は歴史とは生命が自覚的であることであると思う。自覚的とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自己が自己を見、自己が自己を知るとは、自己の形相を外に打樹てることである。外に打樹てることによって自己が自己を見、自己が自己を知ることが出来るのである。外に打樹てるとは物を作ることである。製作的生命となることである。内外相互転換的としての生命は常に欲求的である。物を作るとは欲求的生命が自己を外とすることである。外を内、内を外とする生命が、内を外として自己を見るのが物を作るということである。物に映すことによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 歴史とは斯る人類の生産と配分、生産物の所有と争奪の交叉である。生命は常に矛 盾的として生命である。生きているものは常に死を学んでいる。自己の内に自己を否 定するものをもつのが生命である。内を外とすることは外を自己の否定的要素とする ことである。外を内とすることはこの否定的要素を更に否定して自己とすることである。生産物の増加による人口の増加は自然の暴威を倍加せしめ、常に人間を危機の下に置かしめる。危機の克服へのより大なる力の結集の必要が主権者と服従者をうむ。内外相互転換はその無限なる幅輳の間に自然への対立と、人間と人間の対立をうんでいくのである。危機は生活圏と生活圏の闘争を生む。而して戦いは万物の父である。戦いの中からより大なるもの、美しいものが生まれて来る。それは戦いが生命の自覚の上にあるが故である。犬の喧嘩は歴史ではない。始と終を結び、より大なる世界への歩みをもつものとしてのみ戦いが歴史なのである。人類の闘争は常に何等かの意味に於いてるものをもつが故に歴史なのである。歴史的時は過去より未来へ流れるのではない。自己の奥底に深化していくのである。

 人間のみが歴史的であるということは、人間のみが自覚的であるということである。 而して我々は自己の身体を介して物を製作する、身体を介して物を製作するというこ とは、身体は自己自身を見る身体であるということでなければならない。自覚的身体 とは如何なるものであるか、以下斯るものを考えることによって歴史の内的なるもの 幾らかでも明らかにしたいと思う。

 私をして斯る考えを觸発せしめたものは祖父江孝男氏の「文化人類学入門」という本であった。以下少々長くなるが必要な処を引用させて戴いてその上に私の考えを展 開していきたいと思う。氏は第二章、人間は文化をもつに於いて斯く書かれている。

 人間を他の動物に比べてみたとき、其の特色は何んな点にあるのだろうか?ふつう、 まずあげられるのは二本アシによる直立歩行が可能になったということだ。この為に 人間は両手を自由に使えるようになり、その結果、種々の道具を作ったり使ったりす ることが出来るようになったのだ。ところがこの点については、いろいろな学者から批判が出た。類人猿の場合、とくに古くから研究の行われて来たチンパンジーの場合、 天井からつり下っている手の届かないところにある餌をみつけると、いくつかの箱を つみ重ねて台とし、その上にのぼってなんなく手に入れる。あるいはまた床にころがっ ている、いくつかの短い竿をつなぎあわせて長い棒を作り、これではたき落す、これ などひじょうに原始的な段階であるとはいえ、道具の製作、道具の使用に外ならない わけで、こうした能力は人間だけのものではない事がわかるのだ。中略

 そこで両者をはっきり分ける、もっと根本的で、まさに質的な相違点を探して見れば、それは人間の大脳における言語中枢(あるいは言語領域)の発生なのである。中 略、類人猿の中のチンパンジーに於いてはその萌芽的なものがみとめられるようだが、而しまだ言語中枢とまではいかず、これは矢張り人間特有のものだということになる。中略

 それでは人間の言語の発生の結果として、人間の社会にはどんな変化がもたらされ ることになったのか?、人間に於ける言語の発生ということをなぜそれ程重視せなけ ればならないのだろうか?

 この点をよく示してくれるのが、アメリカの心理学者クロウフォードが行ったチンパンジーについての実験だ。チンパンジーを二匹オリの中に入れ、その外に餌をのせた台をおいてロープを結びつけ、その端をチンパンジーの手の届くところにおいてやる。而しこの台は一匹では引けない位の重さにして、二匹が協力して引っぱらなければ食物が手に入らないよう台の重さを調節したのである。

 ところがこの二匹は協力して引っぱることにはなかなか気がつかない。各自が自分だけで餌をとろうとして、めいめい勝手に引っぱって見るばかりだ。そのうちに二匹の引く瞬間が偶然に一致することがあり、このときは餌が手もとに引き寄せられる。こうしたことをくり返すうちに、はじめてチンパンジーも互に協力することをおぼえるにいたるのだ。この訓練がさらに進んで来ると、台の上に餌がおかれるや、一方のチンパンジーは鳴き声やジェスチュアを使ってもう一匹に合図するのであって、二匹のあいだのコミュニケーションは完全に成立することになる。

 ところが次にこの二匹のうち一匹を外に出し、他の全く新しい別のチンパンジーと入れ換えてしまうとどうなるだろう?、餌が台の上に置かれると、前からいたほうのチンパンジーはいろいろと合図や身ぶりを使って、なんとか相手の注意をひき、自分といっしょにロープを引かせようとするのだが、新入りの方は少しもその意味を解さないので、協力はいっこうに行われず、食物も手に入らない。新入りの方は相棒の合図にはおかまいなしに、なんとか自分だけで餌を手に入れようとして単独でロープを引くことを何十回となくくり返す。こうしてたまたま二匹の引く瞬間が再び偶然にも一致したときに食物が手に入ることになり、ここではじめて協力ということに気がつき、食物の獲得が可能となるのである。

 しかしこの実験に於いてチンパンジーのかわりに主役が二人の人間であればどういう ことになるだろう?人間の場合に於いてはなにしろ言語がある。その為に前からいる 者は新入りに事情を口で説明することができるので、二人はただちに協力してロープ を引くことが出来る。かくて食物のほうも、次の瞬間からなんなく手に入れることができるにいたるのだ。

 つまりこの簡単な実験からわかるのは、人間の場合には言語があるため、新しい工 夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るとい うこと、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くない。そのすぐ次の段階から出発すればよいわけだ。言いかえれば人間の場合には世代を重ねれば重ねるほど知識はどんどん蓄積されていく。文字通り加速度的に蓄積されていくのである。歴史をずっとさかのぼって、旧石器時代の人間のもつ知識や技術はきわめて乏しく、動物のそれとあまり大きく変ってもいなかった。而し人間の場合は言葉がある為、現代にいたるまでのあいだに大きく知識を増大した。それに対して動物の方は旧石器時代と比べて見ても、その知識はほとんど変わらない。人間が動物をはるかに追いぬくにいたったのは、ひとつにはこのためである。中略

 而し言語の発生の結果、生まれたものとして、ある意味ではもっと重要なのが、記憶とそしてさまざまにものを考える思考能力の著しい発達なのだ。ここでもチンパンジーの実験がヒントを与えてくれるのだが、アメリカの動物心理学者として有名なヤーキースらによって研究されたものである。チンパンジーの背丈ほどに作られた機械仕掛の箱に窓が小さくついており、そこに赤か緑の枝が不規則な順序であらわれるようになっているが、赤の板が出たときにそばのレバーを押すと彩色板は消え、一定時間がたってから餌が出てくるが、緑の板が出た時にレバーを押しても彩色板が消えるだけで、いつになっても餌は出てこないのである。

 この装置の前にチンパンジーをおいてみると、彩色板が消えてから餌が出て来るまでの時間を四~五秒以内であるように調節しておくと、チンパンジーは何回かの試行錯誤のあとで容易にこの仕組みをおぼえてしまい、楽に餌を手に入れるようになる。ところが餌の出て来る時間をこれより遅くすると、何回くり返しても決しておぼえられないのだ。というのは、彩色板が消えてから四秒以上たってしまうと、其処に出ていたのは何色であったか、チンパンジーは完全に忘れてしまうからなのである。

 この場合でももし主人公が人間だったらどうだろう。この際においても人間なら言語があるため、彩色板に出てきた色彩を「アオ」とか「ミドリ」とかのコトバに直し頭の中におぼえておくので、相当の長期にわたって記憶を保持することが出来る。もしかりに時間がひじょうに長くなった場合には、それこそ文字に直してメモにしておくのであろうが、短時間の場合には文学に書かないだけの違いで、当人はまったく意識していなくても、コトバに直して頭のなかにメモに書きつけているのである。

 以上の説はすこぶる興味深く、示唆されること多大であった。言語があるため、新しい工夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るということ、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くないということは、言葉は自己と他者、前と後を超えたものであり、自己と他者、前と後を内容とするということでなければならない。内容とするということは言葉が働くことによって、自己と他者、前と後があるということでなければならない。我々が言葉をもつということは、我々を超えたものとしての言葉が働くことであり、我々を超えたものによって我々は物を作る者として製作的自己となるのである。勿論言葉が物を作ることは出来ない。生命が言葉をもつことによって物を作るのである。

 而して言葉が自己と他者を超えて言葉の内容として、個としての自己と他者を包むということは、言葉をもつこの我は自己の中に自己を超えたものをもつということでなければならない。我々は自己の中に自己を超えた言葉をもつことによって、前の者の発明や発見をはじめからやり直すことなく行為し、其処を出発として其処より新しい発明や発見へと進むことが出来るのである。超えたものによって自己を見るとは超えたものが働くことによって自己があることである、我々が製作的自己となり、製作生命に於いて歴史があるとすれば、我々を超えて働くものは歴史的世界でなければならない。私は人間が言葉をもつことによって歴史をもち、我々は言葉をもつ身体であることによって歴史を担うことが出来るのであると思う。

 記憶ということも、「アオ」とか「ミドリ」とかの言葉に直して色彩を長期に保存することが出来るということは、動物的感官を超えることであり、それを内容とすることでなければならない。更に言葉が自己と他者を超えて包むという意味に於いて、単にこの我の体験を記憶するというのではなく、この我を超えた全人類の過去を記憶するのでなければならない。私は過去として記憶するのみでなく、言葉によって過去を掘り起こし、過去を創造すらするのであると思う。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉は常に語る者其の人の言葉であると いわれる。人は自分以外の者の言葉を語ることは出来ない。そのことは、この我とは 自分も知らない深い底をもち、深い底よりの限定としてあることであると思う。言葉を言葉を作った人はないと同時に、言葉は人の作ったものである。それは個々の人間を超えた無限の関り合いの中に作られたものである。我々も亦言葉の中に生まれたのである。言葉の中に生まれ乍ら、私の言葉は私以外の何ものでもないということは、私は私を超えた無限の関り合いの中にあり乍ら逆に無限の関り合いを自己の内にもつということでなければならない。無始無終なる宇宙時間を内にもつということでなければならない。対話は世界を内にもつものが世界の中にいるものとして出合うということである。

 言葉が個々の人間を超えるということは、言葉が世界として世界自身を創っていくということである。言葉の蓄積が加速度的に増大していくということは、言葉が言葉自身の内面的発展をもつことである。言葉が言葉自身の展開をもつのである。売言葉に買言葉という俗諺がある。言葉が言葉を呼ぶのである。斯るものとして私達が言葉 をもつということは言葉の内面的発展に運ばれることであり、言葉が内面的発展をも つということは私達が言葉をもつということである。

 自覚は生命が内に超越的なるものをもつことである。生命は自己矛盾的である。生きるものは死をもつ、生死するものが永遠なるところに自覚がある。斯る自覚は言葉 によって成り立つのである。言葉によって成り立つ製作的生命は個々を超え、個々を うむものとして永遠である。私達の身体は言われる如く手をもつものとして技術的製 作的である。それは個々の生命の生死を超えて無限の過去より承け継ぎ、未来へと伝えゆくものである。有限なるものが無限なるものであり、生死するものが永遠なるも のとして我々の身体は自己自身を知るのである。有限なるものは無限なるものではない。生死するものは永遠なるものではない。言葉が世界として世界自身の内面的発展をもつということは、個々としてのこの我を否定して来ることである。それが一つであるとは個としての生命は無限なる努力であるということである。無限なる自己否定 として身体より汗と血を流さなければならないということである。

 歴史の流れは単に直線的ではない。自然としての過去より未来への流れと、自覚的 意志としての未来より過去への流れの交叉として現在より現在へである。製作に於い 過去は与えられたものである。未来は実現すべきものである。過去も未来も製作行為が担うのである。行為的現在が担うのである。現在は過去よりと未来よりの流れが軋轢するところとして現在である。戦うところとして現在である。軋轢することによって現在より現在へと転じていくのが歴史である。

 歴史が直線的な流れではなくして、現在より現在へであるということは、歴史的時間は始めと終りを結ぶものがなければならないということである。全時間が一つの意味をもたなければならないということである。私は言葉が斯る永遠の意味を担うと思う。時間は変ずるが故に時間である。それが一つとは自己撞着も甚しい。而し斯るものなくして我々は歴史をもつということは出来ない。言葉をもつ生命が製作的として無限に蓄積的であるといわれる。蓄積の多様化が生産の変転である。歴史は其の上にあるのである。

 個々の人間が世界の部分であるところに歴史はない。この我も汝も言葉をもつもの である。言葉をもつとは個の中に世界をもつことである。個の中に世界をもつとは個 を介して世界が自己自身を実現することである。個々の人間が世界たらんとすることである。天下人たらんとすることである。中国に中原に覇を争うという言葉がある。自己が世界たらんとする人々が相競うのが歴史である。

 言葉は内面的発展をもち、我々を超えて自己の世界を展開する。而し言葉をもつものはこの我である。言語中枢は一人一人がもつ、私はこのことは一人一人の人に現れ、一人一人の形相は歴史の形相であると思う。歴史的現在が過去と未来を含むということも、この我、汝としての個々の人々が記憶と理想をもつことであると思う。我々 を一微塵として翻弄しつくす歴史の流れははかるべからざる深淵である。而しかえり みるときこの五尺の身体に潜む限りなさに畏敬の念をもたざるを得ない。品川嘉也教 授は、人間の脳髄は宇宙の自己認識であると言われる。この我が知ることは宇宙が宇宙自身を知ることであると言われるのである。私は歴史の無限の錯綜は斯る統一の上に立つと思わざるを得ない。初めに終わりがあり、終わりに初めがある最も端的なるものはこの身体である。我々の内なる声は歴史の底より聞こえるのである。歴史の声は流れる歴史より聞こえるのではない、永遠の円環より聞こえるのである。永遠に女性的なるものわれを誘うとゲーテの言った誘いを歴史も亦其の奥底にもつのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」