霊魂について

 何時であったか竹内ひさゑ氏より「霊魂はあると思うか」と聞かれた事がある。私が霊魂とはどんなものかと聞き返すと、それは分からないとの事であった。スナック「カ」のママは「誰がなんと言おうとも私は霊魂の存在を信じる」と言った。よく聞くと霊魂とは死後の存在であり、死後の現世のままの生活であるらしい。

 昨日迄多くの人々を叱咤した人が、一本の脳血管が切れたが為に言葉も碌に言えず、食物を口に運んでもらい乍ら、唯寝ているといった姿をよく見かける。唯一本の血管が切れただけだそうである。まして死して全身が腐敗し、唯骨のみ地中に残って現世の感性生活をもつことのあり得ない事は論を俟たないと思う。而し我々が日々の生活に於いて欲望をおさえ、苦痛に耐えて業務に励むのは単にこの生命が死によって終るところよりは考えられないと思う。我々は限りない過去と、限りない未来を知る。生命は深く生死を超えたものであり、生死するこの我が直に生死を超えたものとして、我の存在を無限なるものの働きとする自覚を霊魂とするならば、私は霊魂はありと断ずるものである。

 自己があるとは世界の中に生まれたこの我が逆に世界を内にもつことである。世界 とは生産と、生産物を媒介として人間が関り合う相の展開である。世界を内にもつと は我々が技術を習得することである。技術を習得することは物を作ることであり、も のを作ることは世界を作ることである。私達はそれによって他者と関り、世界と関る のである。そして他者と関り、世界と関る事によって我々は自己となるのである。

 私達は最初に石を割って道具を作った人の誰なるかを知らない。火を目的的に生活 の手段としたのを何時よりかを知らない。測る事の出来ない時間の上に我々の技術はあるのである。測る事の出来ない時間の上に立つということは、我々は測ることの出来ない時間によってあることであり、測ることの出来ない時間を内にもつことによっ てあるということである。而して私達が物を作るとは単に過去を負うことによってのみあるのではない。かくありたい、赤は斯くあるべきであるという未来の先取りによってあるのである。未来よりの過去の否定が物を作ることであり、技術の進歩ということである。未来よりの過去の否定は、過去よりの未来の否定である。出来上った形は形の流動化を拒否するのである。現在は努力に於いてある。努力によって過去を未来に転ずるのである。転ずるとは無くなることではない。過去を内深く包むことである。このことは逆に過去が未来を孕んでいたということでなければならない。歴史としての動きは、動き自身の内に自己否定をもつのである。それなくして動きはあり得ない。過去は未来を孕むと共に、未来は過去を含むのである。それを転じていくのが我との努力なのである。我々が今働いているということは無限の過去と、無限の未来を内にもつということである。創造に於いて時間は無限の過去より、無限の未来に流れるのではない。努力によって現在を過去と未来に延展さすのである。現在の奥行きとするのである。其処に真の時間がある。現在は過去より未来へと、未来より過去への時間を包むものとして永遠の意味をもつのである。

 しかし永遠なるものは働くものではない。働くものは何処迄も矛盾的なものでなければならない。生きるものは死をもつものであり、死をもつものが死を克服せんとするのが働きである。克服すべき外をもつものとして働くということがあるのである。克服するとは外を内とすることである。外を内として新たな生命を見出す時に以前の自己はすでに自己に非ざるものとして外となる。外を内とすることは内を外とすることである。この外を内とし、内を外とするのが技術的ということである。我々が働くとは生死するものが永遠なるところにあるのである。我々が物を作り自己を知るのは、生死するこの我が永遠なる生命であることによってあるのである。

 自覚とは外に生命を見出でていくことである。自己を対象化することである。外に見るとは技術的として無限の過去と、無限の未来を内にもつことである。私達は働くものとして無限の過去と、無限の未来を内にもつ、無限の過去と未来を内にもつとは創造的として新たなものを作るということである。全ての人は個性的として独自のものを作る。過去と未来の転換は一人、一人に於いて成就するのである。それは常に独自なるものである。私達は世界を作る。そしてこの世界に於いて自己はあるのである。斯く自己の内に世界を見るものとしてあるということは、この我の死は絶対の死であるということである。眞に個としての生命をもたない犬は死への不安をもたない。其処に種的連続の一環としての犬の生命があると思う。無限の過去と無限の未来を内にもち、内外相互転換的なる自覚的、表現的生命としての人間に於いて死は絶対である。人間の不安は其処より来る。永遠なるが故に我々の死は絶対であり、絶対の死をもつ ものとして我々は永遠である。それは絶対の矛盾である。永遠は滅せざるものであり、 死するものは永遠ならざるものである。人間は斯る二律背反に於いて生きるのである。私は斯る二律背反の永遠の方向に霊魂と言わるべきものがあると思う。生死するものが永遠なるものを内にもつ、其処に自己があるのに対して、永遠なるものが生死するものを内に、其処に霊魂があるのであるとおもう。二律背反として絶対矛盾的にあるということは、働くということである。永遠なるものが働くものでないのと同じく、生死するものも働くものではない。生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものであるのが働くものである。働くとはこの矛盾の同一である。生死 するものが働くとは永遠なるものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである。而してこの二者は何処迄も相反するものとして各々自己の方向 をもつのである。永遠の方向に我々は霊魂をみるのである。

 私は先に死は人間に於いて絶対の死であると言った。死は働きを失なったものであ る。自己を見出すことの出来ないものである。而し生死するものが働くとは永遠なる ものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである時、永遠 なるものが働くとは我々を超えて働くのでなければならない。霊魂は働くものであり、 生死を超えて働くものでなければならない。斯るものは如何にしてあり得るのであろ うか。

 我々は我々の一々が無限の過去を孕み、無限の未来を望むのである。一人、一人が 全時間をもつのである。一々が個性的として自己の世界を創造しつつ、創造は世界の創造として全世界を内にもつのである。私はこの一々の全世界に於いて、我々は絶対に死にながら他者につながり、無限の未来に響きゆくのであると思う。歴史的社会に於いて、表現的世界に於いてつながるのである。例えば言葉は一人、一人の言う人の言葉である。私の言葉は私以外の如何なるものの言葉でもない。而し言葉を作った人はないと言われる如く、言葉は言葉をもつもの全てのものの内容である。我々は言葉をもつと同時に、言葉の働きによって自己を知るのである。そして知ることによって新たなものを生みゆくのである。一々の対話は世界の展開であり、貴き言葉は貴き世界の創造である。ゲーテは死した、而しゲーテの言葉はその包む世界の深さに於いて、我々の心底を動かして止まないのである。ゲーテを読むとはゲーテ其の人となることではない、私が私ならんとして読むのである。其処に世界があり、絶対の断絶と連続があるのである。一々を介して世界が働くのであり、言葉が働くのである。昔の人は言霊と言った。それは言葉の一面を深く捉えたものであるとおもう。勿論言葉は霊魂ではない。一人一人の働きが言葉の働きであり、一々が言葉によって露はとなる時に言葉は霊魂となるのである。言葉は人を活かしも殺しもすると言われる、この活かし自覚的生命は技術的表現的として無限の過去と未来をもつ、この過去、未来とは直線的な一つの流れを言うのではない。無数の過ぎ去った人々、無数の生れ来るべき人々をいうのである。一人、一人が生まれ、働き、死んで行った人々をいうのである。各々が喜び、悲しみをもつ数限りない人々をいうのである。我々が無限の過去と未来をもつとは、この我は斯る無数の人々の呼び声によってあるということである。永遠とはこの声を満たした世界としての一である。多の一の声である。私は霊魂はありと断ずるのは斯るものが我々の根底にあり、斯るものによって我々があると断ずるが故に外ならない。

 霊魂が語られる時に多く呪詛について語られる。呪詛とは何か、死に去った人々の 一々が過去と未来を内にもったものであり、歓びと悲しみをもったものであると言った。そして過去は未来を孕み、未来は過去を含むといった。人は各々夢をもち、夢を 実現せんとする。この夢の実現が人々相対する現実に於いて他者に砕かれた者の声である。活力と活力がぶっかって砕けたものの声である。永遠なるものが生死するものを包むとは斯るものを包むことである。もとより呪詛も霊魂の一面であるというのであって、霊魂は呪詛であるということではない。男子外に七人の敵ありと言われる如く、生死するものは矛盾的にあった。生きているものが死をもつこと自身が矛盾であるのみならず、面々相対するとは争いを内包するが故に相対するのである。而して争いの中から最も美しいものが生まれると言われる如く、争いは争いをなさしめるものがあり、争うことによって争いをなさしめるものが姿をあらわにするのである。

 対立は対立を包むものに於いて対立する。包むものが永遠である。眞、善、美は価 値として永遠なるものの姿である。永遠なるものが生死するものを包むものとして霊 魂は無限に価値実現的である。而して生死するものが働くものとして、価値は裏面に 争いをもって実現するのである。善、美は一面に呪詛の暗黒をもつことによって動的となるのである。永遠は生死するものを媒介として自己を実現する。この力が霊魂である。眞、善、美は顕れた霊魂の光であり、呪詛は顕はれざりし暗黒の声である。呪咀も亦生命が世界を形成せんとする自覚に於いてあるのである。顕はれざりし声の 故に顕はれんとする声は強い、其処に呪詛の多く語られる所以があると思う。顕はれ るものは少なく、顕はれざりしものは多い。顕はれし人は少なく、顕れざりし人は多い。其処に多くの人が呪詛への共感をもつ所以があると思う。呪詛の語られる深さが あるとおもう。而して呪詛は多く死者の声として語られる。私は前に死者は感性とし ての生をもたないと言った。感性としての生をもたないことは声をもたないことであ る。死者は声を発し得ないものである。呪詛が自覚的生命の一面としてある時、死者 は絶対の死であるはずである。それならば死者の声とは如何なるものであろうか。

 人間は手をもつことによって人間になったといわれる。私達の身体は蛙や犬と形態 を異にする。技術をもつとは身体が技術的なのである。外に見るとは表現的身体なの である。言葉をもつとは脳構造が言語的なのである。技術が無限の過去と未来をもつ というのは、身体が無限の過去と未来をもつのである。斯る身体の無限なるものが自 己を外に見出したものが歴史的世界である。我々が社会として実現するものである。

 世界は我々が生まれ、働き、死んでいくところである。而して斯る世界は我々がものをつくることによってつくっていくのである。世界は生産としてのものを介しての人と人との関り合いである。我々がものをつくるとは、逆に世界が我の内容となり、この我に包まれることである。この身体は全時間を内にもつものとして、働く身体であり、世界を作っていくのである、生まれ、働き、死んでいくところは我々を包むものとして絶対の外でなければならない。我々の身体はこの絶対の外を内にもつものとして、身体は身体自身の内に絶対の外をもつのでなければならない。我々は自己の中に生まれ、働き、死んでいくのである。私は死者の声は此処より聞え来るのであると思う。絶対の外に於いて出会うものは他者である。我々は世界に於いて他者として出会うのである。生死を超えた無限の過去と未来は絶対の外として我々に迫って来るのである。それが表現的世界として、この我が表現的生命としてこの我の内となるのである。死者の声は絶対の外として、この我の表現的生命に於いて我々に呼びかけるのであると思う。

 よく祖霊の声ということがいわれる。この祖霊の声とは何処から聞こえて来るのであろうか、私は祖霊の声が聞こえて来る為には、例えばこの私がこの我の歴史的形成としての我が家の繁栄を希う心がなければならないと思う。栄えゆく時に喜びの声が聞こえ、衰えゆく時に詛いの声が聞こえるのである。それは祖霊の情念ではなくして我の情念である。而し家というものを介在さす時にそれは祖霊の情念である。家は歴 史的表現的物として我の中に祖霊を生かし、祖霊の中に我を生かすのである。我々が働くとは斯るものとして働くのである。私は若し我々が歴史的表現的形成としての働きを捨てた時は、祖霊の声を聞く事が出来ないと思う。痴呆となり、或は自暴自棄となった者に祖霊の声はあり得ないと思う。

 それはひとりこの我、我が家というのみではなく、大和魂といわれるものもあるのであると思う。この国士実現的として、日本の国の興隆を希い働く人々がこの国に死んだ無数の人々、生まれ来る無数の人々と呼び交わすのが大和魂であると思う。ともあれ永遠なるが故に絶対に死する者、絶対に死するが故に永遠なるものとして我々は霊的生命であると思う。消えつつ歴史的表現的世界としての永遠の底に響きゆくの である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自他平等

 この間近くの家のお通夜に行った。私の地方では習慣として、西国三十三ヶ所の詠歌を上げる。そして其の後でお経らしきものを唱える。それは忍耐を必要とする退屈極まりないものである。私はそのお経らしきものの中に、「自他平等」とあるのを耳に挟んだ。平等というのは、今年の巨勢五号に「人権について」を寄稿し、自由と平等についてを論じたばかりである。私は平等についてを考えていった。

 このお経らしきものが出来たのは何年程前のことであろうか。兎に角斯く言われたということは、当時は自他平等の時代ではなかったということであるとおもう。自他平等でなければならないということであるとおもう。自他平等とは、自己と他者は同一の世界にあるものとして、等しく権利をもち、義務を背負うということであろう。当時は斯る等しくということがなかったのであるとおもう。

 最近読んだ本に、猿はボスが代ると、先代のボスによって生れた幼児を全部殺してしまうと書かれていた。生命は種族保存、個体保存の意志をもつのではなく、自己の遺伝子を維持しようとすると書かれていた。私は読み乍ら源平の争いに思いを馳せていた。源氏は常盤御前の美貌によって助かったが、源氏の平氏への追討は徹底したものであったらしい。今でも平氏のかくれ里と言えば人跡絶えたる所を想像する。日本では血族ということを非常に重要視した。血族を重要視するとは、自己の血族を隆盛ならしめて、他の血族を制圧することである。 「藤原氏にあらずんば人にあらず」とか、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉がある。それは自己の一族の繁昌に努めて、他をかえり見ないことである。私はそこには、生物の遺伝子維持の本能が強くはたらいているようにおもう。生命は自己が大ならんと欲するのであり、決して自他平等をその本来とするものではないようにおもう。果してそうであるならば何故に自他平等でなければならないという要請が生れたのであろうか。

 私はそれを人間の自覚に求めたいと思う。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは言葉による。言葉は我と汝の重々無尽の人と人との関りの中より生れて 来たものである。言葉を作った人はないと言われる。言葉は呼び応ふるものであり、面々相対するところにあるものである。自己を知るとは、我と汝の出会うところとしての、世界形成の社会に於て知るのである。人間が自覚的生命であるとは、本能としての生物的生命に生きることではなくして、自己が形造って来た生命としての社会に生きるということである。我々は生れたというのみによって我があるのではない。社会の中にあって習い学ぶことによって我となるのである。

 我々は身体をもつことによって我である。身体は生れ来ったものとして何処迄も生物的である。而して身体は言葉をもつものとして、自覚的身体である。面々相対し、我と汝の関りに於て自己があるとは、世界が一なるものとして我があるということである。そこに平等の要請がある。身体が生物的、自覚的であるとは生物的なるものの上に自覚的なるものを打樹ててゆくことである。それは利己的なるものの上に自他同一を打樹ててゆくことである。自他平等は自覚的生命の要請として、努力によって打樹てるべきものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

文化について

 「砂漠の文化」という本を読み乍ら私は、オアシスとは砂漠に与えられた天恵の濕地帯ではなくして、人が砂との戦いに築き上げた歴史的産物である事を知った。用水溝を掘り、貯水池を作り、降雨の殆んど無い地域に於いての撓まざる利水への努力が 人間の生活を可能ならしめるのである。天山山脈の氷雪の融け水が河となって流れ、果てしない砂の乾きの中に消えてしまう迄の間の、利水の努力がシルクロードのオアシスとして点在したのであると言われる。

 人は手を持つ事によって人間となったと言われる。手とは物を作っていくものである。物を作るとは、欲求としての生命が外に自己を露はとする事によって自己を充足していく事である。物とは生命の外在の形相であり、物質の概念も近代的自覚の所産であるという事が出来る。

 物を作るという事は技術的となるという事である。我々が人類の特長とする、知るということも其処から生まれてくるのである。例えば水利の為の溝を作るとする、それがより大なる水の力の為に決壊する。すると前の技術を参考として新たな技術を案出する。技術は新しい状況の前に新しい技術が生まれて来る。技術は次の技術を呼ぶの である。それが技術の内面的発展であり、知るという事は斯る内面的発展を宿すとい うことである。前の技術と、現在の技術と、未来へ展開すべき可能としての技術を内 に持つということである。

 此処に文明の発端がある。文明とは環境として我々に与えられたものを、我々の欲求の秩序に再編する事である。欲求の外化としての商品の氾濫は文明の爛熟である。物として外化する事によって我々に新たなる欲求が生まれ、新たな欲求によって新たな物が生まれる。文明は斯る無限の進行である。

 而して外化はまた内化である。外に物を見るという事は内に自己を見るという事である。言葉を作ったものがないと言われる如く、技術は内外交換としての生命が人間に於いて自覚的であるところより生まれたものと思う。時間は操作の形式であると言われる如く、それは世界形成的として時間をも内に包むものであるという事が出来る。 時間を内に包むものとしてそれは伝統的である。技術的なるものは伝統的なるもので あり、伝統的なるものは技術的なるものである。それは世界形成的として歴史的なる ものである。私達は斯る世界に生まれ、技術を習得して自己となるのである。生産亦 は其の結果としての物に関る事によって世界に関り、世界に関る事によってこの我が あるのである。

 伝統はこの我を超えたものであることによって伝統である。技術は其の淵源するところを知らない。強いて求むれば人間生命が自覚的であるという以外にないように思 う。我々を超えた過去からあり、我々がそれによってあり、我々を超えた未来を生み ゆくこの歴史的世界、我々がつくりつつ我々を超えてその内面的必然を持つものでな ければならないと思う。それ自身の内面的必然をもつという事は歴史的世界は我々によってつくられつつ、逆に我々を歴史的世界の自己顕現の内容とする事である。時代の流れに勝てないとよく言われる。世界は世界自身の自己限定をもつのである。我々は世界の自己顕現の内容として、我々が自己を有限として過去、現在、未来を見るのは世界本来の内容となるものでなければならないと思う、世界は過去、現在、未来を内に包むのとして自己を限定していくのである。世界の中に時は生まれ、時は消えつつ世界として一つなのである。伝統は斯るものの上に初めて成立するという事が出来る。

 永遠とは過去、現在、未来を内に包み、其の中より時が生まれ、時が消えいくところである。静止しつつ無限に動きゆく永遠の形相は世界の自己限であるという事が出 来る。我々が伝統的技術的であるという事である。私は前に技術とは欲求としての生 命が外に自己をあらわにし、物を作っていく事であるといった。技術は斯る欲求的な るものに永遠なるものが働くということである。欲求的なるものが永遠の内容となり、 逆に永遠なるものを内にもつということである。時間は過去より未来への流れに対して、未来より過去への逆限定に於いて成立すると言われる。このことは永遠が働くも のであり、永遠が働くということである。

 生命は形相具現的である。私は前に欲求的生命の形相的具現としての物の生産が文明であると言った。そして斯る生産の根底には技術としての世界の自己創造があると言った。生命は形相具現的であるという時、生命はこの欲求的生命よりの方向と世界よりの方向の具現をもつ事によって自己の具体的な形相を顕現していくのである。私は欲求的生命よりの方向が文明であるに対して、世界よりの方向に文化が見られると思う。文化は文明の上に咲いた仇花ではなくして同時発生的である。生命の自覚の両面である。

 生命の自覚の欲求よりの方向と世界よりの方向というのは相反するものである。欲求は充足と共に消滅し、次の欲求が生まれてくるものである。物はその欲求を充たすと不用となり、次の欲求を充たすべき物が作られるのである。それに対して世界は時を包むものである。文化は時を超え、時を包む永遠の形相を志向するのである。物は技術的生産物として瞬間性と永遠性を有する。それが欲求的方向を志向する時実用 品として日々の生活を充たすものとなるのであり、世界顕現的なる時、永遠の形象と して精神を充たすものとなるのである。

 相反するものは単に対立するのではない。対立するものは否定し合うものである。 文化は文明の否定の上に成立するといわれる。物としての形相の日常性を否定して、永遠性の純なる造型を求めるのである。物は欲求充足の実現として形をもつ、その形をして形相実現の根底へと還らしめるのである。根底に還るとは日常性の否定でなければならない。哲学も詩も言葉に於いて日常性を超えるのである。色彩に於いても何かの目印は生活の必要である。而し絵画は日常生活の必要を超えたものである。

 日常性の否定と言えば、何か日常的なものが先ずあってそれを否定するものが現れ たと考えられるかも知れない。そうではないのである。其処からは否定の発生という ものを考える事は出来ない。物の出現という事がこの両面をもつことによってあるの である。自覚としての技術的製作は相反するものを内包することによってあるのである。物は矛盾的なる事によって形相をもつのである。その一つの方向を志向するのである。一つの方向の志向は他の方向を否定するのでなければならない。物は有限なるもの、相対的なるものとして物である。而しその具現は永遠なるもの形を超えたものが働くのである。そして形は生命の自覚的実現としてこの両面を持つのである。故に日用品も永遠の一面をもち、芸術品も商品の一面をもつ、唯その志向に於いて否定し合うのである。闘うのである。我々は日常として生活する。文明的展開に於いて生活する。文化は斯るものの否定として価値の転倒である。

 文化の創造を担うものはその無関心性がよく言われる。無関心とは何事にも関心を 持たないと言う事ではなくして、通常、日常生活に於いて持つ関心を持たないという 意味である。

 美衣、美食、名誉、権威等に無関心であるということである。永遠を見つめるものにとって平氏の栄華も槿花一朝の夢に外ならない。百万石も笹の露である。結ぶ草庵こそが安住の家である。価値は有るものにあるのではなくして、有るものの内深く見えて来るものである。日常生活者にとってそれは一つの狂者に外ならない。世界は日常的、有限的自己の達すべからざる深さである。世界が世界自身を限定するところに世界があるのである。この達すべからざる深さが現れる処に文化があるのである。故に文化の世界は啓示的であり、霊感的である。作ろうと思って作るのではない、現われるのである。創作は常に永遠の女神に呼ばれ招かれるのである。招かれて我々は知らざるところにいくのである。其処に世界は自己自身をあらわす、それが文化の内容である。斯る声を聞き、斯る御手を見た者が天才である。天才は努力すると言われる。而しそれは努力ではなくして斯る声、斯る御手の中にある自己が眞の自己として行かざるを得ないのである。ミケルアンジェロには鑿の先に目があると言ったという、一打が次の一打を呼ぶのである。形が次の形を見ていくのである。世界が永遠の形相を開顕していくのである。其処に何等この私を挟むものがない。絢爛たる文化の形象は斯る天才によって見出されたものである。

 文化は個的、世界的としてのこの我の世界的方向に見られる。而してこの我の世界的方向に見られるということが世界が世界自身を創るということである。我々の脳髄 の働きは宇宙の自己認識であると言われる如く、我があるということは全存在に於い てあるのである。個的、世界的ということは全人類的ということである。唯一生命に 於いてあるということである。ロダンが道を行く少女を指さし乍ら「あそこに全フラ ンスがある」と言った如く、全てあるものは全存在に於いてある。

 眞理を証するものは世界である。それは眞理が世界の展開なるが故に外ならない。 内なる良心の声は世界より聞こえて来る。エチオピアの飢餓より、東南アジアの虐殺より我々を呼ぶのである。美も亦我々の視覚の楽しみでなくして深く世界を表すと ころにある。我々は其処に文化を見るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

見るということ

 病院に行くと友人が、「孫が出来たから見てくれ。と言う。しばらく廊下を歩くとカーテンを開けた窓があり、窓の向うに箱が並んでいる。その箱の一つ一つに赤い肉の塊を包んだようなものが入っている。その一つを指して友人が、「あれだ目を開けている。と言った。成程小さい目が開いているがその目は動こうともしない。聞くとまだ目が見えないのだそうである。

 私は聞き乍ら不思議に思った。目を開いている以上、網膜にはちゃんと外の現象が映っている筈である。人間は生れてから死ぬ迄脳細胞の数は変らないという。そうすると脳の視覚領は活動している筈である。私はこの赤ん坊は見ているんだと思った。何日かすると見えてくるというのは、まだ眼筋を動かす程の結像を持っていないのであり、その結像を準備する為に視覚は猛烈な活動をしているのだと思った。

 そうとすると、見るということは単に外を映すのではなくして、内が外をもち、外を内 の秩序によって構成するということがなければならない。結像とはそのようなものでありその構成されたものが見るのでなければならないと思う。

 生命は創造的である。創造とは作られたものが作るものであり、見られたものが見るものであることである。そこに無限の展開をもつことである。私達は見たものを集積し、その集積に於て見るのである。

 鯛は深海に於て人間の五千倍の明らかさで物が見えるそうである。併しその見えるのは餌と、襲ってくるものだけだそうである。禿鷹は三千米の高さから、地上がありありと見えるそうである。併し見るのは野鼠だけだそうである。結像は対象に随うのではなくして生存に随うのである。

 目は身体の堀割であると言われる。生命は内外相互転換的である。動物は外を食物とし、食物を摂ることによって生きてゆくのである。食物を獲る為に生命の切り拓いた世界が視覚の内容である。視覚は視覚として独立するものではない。行動する全生命が自己を実現するものとしてあるのである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。人間は動物が外に捜す食物を、作る物とすることによって、自己を見ることが出来たのである。物を作ることによって外を世界とし、世界を内にもつものとして人格となったのである。私は人間が見るとは、人格的製作的生命として見るのであると思う。

 製作とは変革することである。与えられたものとして自然を、人間生命の秩序に再生することである。生産とは人間の秩序に構成することである。発明の目となるのである。それは目自身をも変革するのである。外へ望遠鏡、顕微鏡、レントゲン写真、赤外線写真へ視界を拡大し、内に優しさ、威厳、卑屈、軽薄等、人格の深さを見る目となるのである。

 私は芸術に於て言われる純粋視覚も、斯る製作的生命から見られるのであるとおもう。作られたものが作るものえとして、世界は無限の推移である。製作的生命の目とは斯る推移を見る目でなければならない。一々の瞬間に歴史的現在を捉える目が、世界が自己を見るということである。そこに純粋視覚があり、芸術的表現があるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

九月号一首抄

 一首抄をとの電話があって、改めて句々に目を通した。目に止まった作品は石井文子さん二首目、小寺き志江さん七首目、小紫博子さん二首目、田尻みや子さん三首目、前田清子さん一首目、藤木千恵子さん五首目等であった。他に意欲作として中北明子さん二首目、藤井みどりさん六首目は論評したい衝動に駆られる作品であった。 それぞれの持味があるがこの内石井文子さんを取り上げたいとおもう。

花火殻踏み消すさへも踊るがにをさなの遊ぶ戦争(いくさ)よあるな

 この間半どんという兵庫県の文芸誌を読んでいると、上野晴夫氏が、作者が意図したものより深い内容を、読まれた方が見出して下さるのは大変嬉しいといったような事を書いておられた。私は文字という普遍的なものによる表現は、作者の見たもの感じたものの底に無限の延展をもつと思う。例えば鎌倉仏の中に鎌倉時代の心を見るが如きである。私はよい作品とは大なる延展を潜めた作品であると思う。よく歌会などで作者に聞いてみようなどと言われるのは全く無意味であると思う。

 この作品は戦争ごっこをして楽しんでいるをさなの心の昂揚の中に、作者は人間の危さを感じているのである。生命が多くの個物としてあるということは、争うものとしてあるということである。ヘラクレイトスが戦いは万物の父であり、美しいものは全て争いより生れたという如く、全てあるものは競争の中より生れたのであり、闘いは生物の本性である。全て英雄譚は戦争の強者である。テレビでも視聴率の高いのは闘争ものである。平和を愛するイギリス人も、アルゼンチンとの戦勝に於て、全国民が陶酔の表情を示したものであった。クエートを占領したイラク国民が、歓呼の声を挙げたのはテレビに新しい。

 近代は新しい精神の創出に於て、平和への建設に努力している。平和は世界の合言葉となっている。併し私達は前述の如く地下にマグマをもつのである。私は三句の「踊るがに」に斯る潜在への延展を見ることが出来るとおもう。五句の祈りはそこから生れきたものとおもう。

 尚一首目も内容ある作品であった。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

般若心経私観

 何時であったか、ライオン藤本に般若心経について問われた事がある。また、ライオン林幸男が般若心経の本を取り出して、何時か解釈をしてくれと言われた事がある。書店の本棚にも最近心経の本がたくさん並んでいるように思う。並ぶと言う事は売れるという事であり、そこに一つの現代の要請があると言う証拠であると思う。もとより私は佛教について全くの門外漢である。而し佛教といえども人生如何に生くべきかの問より出でたものに外ならないと思う。以下私は私の立場から心経を考えて見たいと思う。

 手を持ち、物を作る事によって人間が誕生したと言われる如く私達は働くものである。働く事によって自分を見出してゆくものである。私は刃物を商う者であるが、刃物を作るには先ず鍛冶工に入門し、技術を取得しなければならない。その技術と言うのは数百年、祖先が研鑽し伝え来ったものである。即ち世界を自分の内容とする事によって我々は働くものとなるのである。そして鉄の性質に随って切るという目的にいそしむのである。私達はここで生命が一つの不思議な相を現すのに気付くであろう。昔職人気質と言うのがあった。何よりも自分の技術を自慢するのである。悪い品が出来た時或いは出来そうな時は仕事をしないのである。食う米がなくてもしないのである。よい品を作るには鉄と火に自己を忘れなくてはならない。無心にならなければならない。そしてそれが自慢となるのである。自己を忘れ無心となる所に、他人に示すべき確固たる自己が現れるのである。発明家とか芸術家とかはこの極限に見られると言い得るであろう。彼等は寝食を忘れて自己をあらわとするのである。確信は単なる自己にあるのではなくして、世界にあるのである。世界を自己の内容とする事によって、自己が世界を持つ事によって私達は他者に自己を示す事が出来るのである。今は職人気質と言うのは消えて仕舞った、しかしよい腕前が生きる自信となり、世間の尊敬を受けるのに変わりはない。

 睡眠欲、食欲、性欲は三大本能であると言われる。生命が自己を維持していく本源的欲求である。寝食を忘れると言う事はそれを否定する事であり、本源的欲求を超え た欲求を我々が持つと言う事である。そしてそれは人間が自分の世界を作ろうとする 欲求である。それはひとり芸術家、発明家にとどまらず、商人が早朝に仕入れに行き、役員が深夜に及ぶ会議を持つのも全てその現れである。シュバイツバー博士がアフリカの辺地へ行ったのも、僧が食を断って樹下石上に結跏趺坐を組むのもその現れである。

 心経に色即是空と言う。私は色とは本能を基体とするこの個的身体であり、空とは我々がその中に生き、それを実現すべき世界であると考えるものである。それは相反 するものである。芸術家、発明家に端的に示される如く、世界は自己の実現の為に固 体の徹底的な否定を要求するものである。仮借なく私心を排撃するものである。而し固体は斯る世界の否定の要求を退けて自分が世界を制覇し、世界の王者とならんと するものである。自己が世界の全てであろうとする者である。色と空は絶対に相反す るのである。而して自己であろうとするのも自己であり、世界であろうとするのも自己である。人間はその両端に神とけものを持つと言われる所以である。私達の生とは 斯る相反するものの対抗緊張をもつものとして生きるのである。それは単に私達は世 界に面してそのように生きねばならないと言うのみではない、私達の身体が相反する ものを内包するのである。細胞がそうなのである。身体が矛盾的である故に人間は働 くのである。苦しみと悩みはあるのである。即と言うのはこの相反するものが一つで あると言う事である。而し相反するものは一つならざる事によって相反するものであ る。これが一つであるとは如何なる事であろうか。

 自己が世界であろうとするこの我を根底より砕くものは死である。死は一切の栄華を露の命のはかなさとするものである。諸行無常と言う言葉がある。無限の世界の前に、死す身のはかなさを嘆いたものである。而し私達はパスカルも言う如く死を知るものである。私は前に我々はこの我を否定して世界に生きようとするものであると言った。世界に生きるとは既に述べた如く数百年の技術的過去を自己の内容とする事である。その技術的過去は亦限り無い技術的過去を持つのである。自然の生成をも技 術とすればそれは宇宙創成の始めまでさかのぼるのであろう。そしてそれは亦無限の未来へ伝えいくものである。世界に生きるとは永遠の一点として、永遠を内に持つと言う事である。知る事は働く事によって知る。かって日本経済新聞に品川嘉也教授が 「我々の脳髄は宇宙の自己認識である」と書いていた。私はその卓れた見解に感嘆したものである。知るとは永遠の鏡に映して見る事である。世界が世界を映すが故に我々は見た事もない豊臣秀吉の実在を信ずるのである。死を知るとは永遠の我が有限の我を映す事である。私は前に自己であろうとする我と、世界であろうとする我の矛盾的統一がこの我であると言った。世界であろうとする我に自己であろうとする我を映すのである。それを自己であろうとする我より見る時、それは悲嘆であるのである。而し我を永遠の一点とする時永遠は我々を超えたものでなければならない。達すべからざる深さでなければならない。而してこの達すべからざる深さが働く事によってこの我があるのである。其処に私達の回心が生まれるのである。色身としてのこの我を断じて世界としての空身に摂取されるのである。もとより色身を断ずると言っても色身がなくなるのではない。回心と言ってもこの我が消えるのではない。この我なくして世界はない。この我の苦しみ悩みが永遠の相として、世界の働きと悟る事である。世界となって働く事である。色即是空、空即是色とは諦観の論理ではなくして身を断じて働く創造の論理である。

 真理と言うも世界に証されて真理である。正義の声と言うも世界の底から聞こえて来るのである。エチオピアの飢餓から、東南亜細亜の虐殺から聞こえて来るのである。美も世界を見る事から生まれるのである。通常世界は我々の外にあると思われている。近代科学は物とし世界を示現した。物によって外と世界は引き離された。而し世界は深くモーゼがエホバの声を聞いた如き、佛師が一刀三拝した如きものの働きがあるのである。永遠の過去より永遠の未来へ唯一のものが働くのである。我の来る所は永遠であり、帰る所は永遠である。それを現するのは身の働きである。それは不生不滅である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

剝落の美

 この度はじめて、歴史を知る会の旅行に参加させていただいた。生憎の雨であったが、顔見知りの方も四、五人居られ、殊に歌友の藤井早苗子さん、山本礼子さんも一緒であったことは、何となく気持を明るくさせてくれるものがあった。

 確か秋篠寺であったと思う。山本さんに「歌が出来ましたか」とたずねると、「仏像の 塗りの剥落した美しさに感動して、歌を作ったのですが、この剥落が自然に出来たものではなくて、このように作ったものであると聞いてがっかりしました。とのことであった。私は古物店などに並べてある、剥落した新作の仏像を思い浮べ乍ら、このような権威ある寺にもそのようなことがあるのだろうかと、ちらと思い乍ら聞き流した。

 それから一週間程経って、司馬遼太郎の『歴史を考える』という本を読んでいると、そ れに関連した記事が出ていたので、あらためて剥落の美について考えた。以下少々ながくなるが、要点のみを引用したいと思う。氏は言う。「中国や中国文化の影響下にあった国へ行きますと、よく寺院や道教の観、或は何とか廟といったものがありますね。そうゆうお寺の装飾性にびっくりさせられてしまうんです。よくもこんな下手な仏像や神像をつくり、建物に青や赤を塗りたくってと思うてしまう。 中略  日本の場合もむろん、はじめに入ってくるのは「青丹よし」のお寺で金ピカの仏像なんですね。ところがそれが剥落していっても、そのままにしておくでしょう。法隆寺だって 薬師寺だって唐招提寺だって、実に清々しくなって、とても絵具ではあらわせないようないい色になっている。剥落の美しさ、これこそが美なんだということを、誰いうとなしに古いころから知っていて、ついには桂離宮のように最初からああいう感じで作るようになる。朝鮮でも中国でもそうですが、お寺の建物の塗りが剥落してくると、必ず亦青丹を塗り替える。」と。日本の美を代表すると言われる桂離宮は、其の基底に剥落の感覚をもつの であり、既に意図されて建造されたということは、如何に我々の心の奥深く住むものであるかを証せられたものと思う。山本さんの感動は、日本の美意識の奥底の波動として表出したものであるということが出来る。

 剥落とは古りである。それは時間に於ける喪失としての変容である。喪われたものは如何なるものであろうか。塗り替えるとは一つの形を維持してゆくことである。時の変容を超えた形の維持である。私はそこに理念の超越を見ることが出来ると思う。そこにあるのは超越者の像であると思う。時に於て変容をもつとは、時に於てあるということである。時に於てあるとは生命的であるということである。内在的であるということである。私は剥落とは、理念としての超越の剥落であると思う。超越者としての絶対の懸絶が、この我と同じ息吹の通いをもつのである。時の内にあるものとして、我々は自己の哀歓の底に見るのである。そこにあるのは親愛の情であり、体温の通いである。剥落に見るのは古りゆくものの悲哀である。超越者に悲哀はない。我々は自己のいのちの投げた影を見るのである。

 生命は超越的なるものが内在的なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものとして無限に動的である。私は断るものとして、文化の発展には二つ方向があると思う。一つは永遠なるものよりであり、一つは瞬間的なるものよりである。一つは理念として超越的方向に展開する知的文化であり、一つは生命として内在的方向に展開する情的文化である。一つは分別的方向であり、一つは共感的方向である。一つは客体的方向であり、一つは主体的方向である。

 仏像は之、永遠なる表象の具現としてあるものである。それは理念としての超越者である。金剛不壊の形相である。併し私達は、時の中に壊れゆくものとして、より深い形を見る。より深い形を見るとは、より深い自己の内部を見るということである。

 我々は永遠を見るが故に死の悲しみをもつ。永遠を見ること愈々深くして、悲しみは愈々深い。悲哀は悲哀の故に表現さるべく美しいのではない。背後に宿す永遠の故に表現さるべく美しいのである。滅びの美しさというのもそこにある。どうしようもない運命を介在させて持続してゆく人間の生命、運命を知ることによって、運命を超える覚悟のしずけさ、そこに滅びの美しさがあるのである。

 時に古るとは一つの滅びである。私は剥落を介在さすことによって、日本人はよい深い永遠を見出したのであると思う。時の推移を宿すことによって、我々に対立する永遠の理念ではなく、情が映す永遠になったと思う。情が永遠を映すとは、一瞬一濃が永遠の影となることである。生命が永遠なるものが瞬間的なものであり、瞬間的なものが永遠なるものである時、理念として知に映された永遠より、情に映された永遠の方が深いと言わなければならない。私は日本の心の底にふかく断るものがあり、剥落の美とはふかく斯る心がはたらいているのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

みかしほの現況

 文明の発生は、都市の発生と共にあり、都市の発展は文明の発展であり、文明は文明と表裏一体の関係にあると思う私は、地方文化の存在の否定者である。勿論私は地方に文化がないというのではない。唯私は、それは中央文化の波及して来たものであり、独自の発展体系をもったものではないと思うのである。地方独自の文化のスタイルは、派及してきた文化が、その地方の風土に相を現わしたものであり、その発展は常に中央よりの刺戟によると思うのである。そして波及してきた文化は情念の中に沈澱し、習性化して維持して来たと思うのである。私はその典型を祭りとその行事に見ることが出来るとおもう。神の言葉は型式化して、そこには飲食と放歌の陶酔があった。アポロ的ではなくしてディオニソス的である。

 短歌が生存の声の表白であるとすれば、それは生きる場所を抜きにあり得ないということが出来る。みかしほはその多くを旧加東郡の人々によって構成されている。旧加東郡は兵庫県の中央部の山間にある小都市の集合地帯である。国際化も未だ及ばず、家族の核分裂化も未だ充分でない。農と零細企業を主体とする家が殆んどである。

 斯かる状況の必然として、謳われている多くは親子、夫婦、祖父母と孫の関り合いの情緒であり、土、亦は手工業に生きる喜びと苦しみである。それは既に封建的感情として、中央に於て克服されたものであると思う。克服されたものとして、うたいつくされた抒情の質であり、発想の類型は否むことが出来ないと思う。私は地方の歌人は殆んど同じ宿命を負うのではないかとおもう。

 生きるとは状況的である。私は封建的残滓を有する社会構造、家族構成からは、血縁、地縁のもつ愛憎から抜け出ることは出来ないと思う。言葉はそこに交され、喜び悲しみはそこに生れるのである。その上に立つことが生きている真実である。そこに自己がある。私は短歌とは自己発見の詩であるとおもうものである。そこに短歌が悟性でなく、理念でなくして、日常生活に地盤を有する所以があるとおもうものである。私達は類型化された世界に執念く対し、言表してゆかなければならないのである。

 人間は言葉をもつ動物である。それによって我々は他の動物を超えたということが出来る。言葉に表わすことは動物的生命よりの、人間の新生である。一極に動物的本能を有し、一極に神的理念を有するものとして、言葉に自己を見ることは慰藉であり、救済である。みかしほは今下部組織として幾つかの小集団をもつ。そしてみかしほは勿論各々月に一回の歌会をもつ。それは勿論作歌修練の場であり、感性陶冶の場であると共に、小地域に生きる共通の情況を確かめ、相互の結合を認め合う場である。それはそのことが封建的であると言い得るであろう。併し私はそれでよいと思っている。それが我々のあり方の露呈なのだからである。私達はそれによって慰藉と救済をもち、五百号出版の偉業をもち得たのである。

 以上述べた所はみかしほの主潮である。而して時代の波は浸々呼々として寄せてくる。新しい感性の芽が幾人かによって萌しつつあるのは頼もしい限りである。それは例えば個を孤独として捉えず、個性として捉えようとする発想である。孤独には世界を失なってゆくものの悲哀と静寂がある。個性には世界に対し、世界を創ってゆく苦しみと歓びがある。併しそれがみかしほを変えるかというと、私は悲観的である。それは中央よりの流入の模倣であって、我々の生活基盤より生れたものではないからである。幾人かが洗練された感性によって、誌面に清新の風を吹かせてくれて、新しい視野を楽しませてくれたらよいと思っている。

 現況を一言で言えば、一小雑誌を囲んでお互いが相手に存在確認を求める場と言い得るであろうか。そして強烈と言えない迄も特異な個性をもった者が幾人か居り、人の目を魅いていると言った所か、それも大枠を出てないように思う。但し取材角度とか発想の清新を外にして、表現的技巧を言えば多士済々である。東京の大短歌集団に対して一歩も引けをとらないと思う。

 一々氏名を挙げ、例を挙げたら所論は更に明確になったと思うが長くなるので省略し た。ともあれ日本歌壇の周辺としての平均的一集団であると思う。

 以上大雑把すぎて現況というのに相応しくないかもしれない。私は報告文を書くのに不適当な人間なのである。私は私の粗文を恥じる。而し指名された方も、自分の不明の責を多少感じて諒とされたい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

コーヒーを飲みながら

 坂田書店の主人が珍らしくコーヒーを飲みましょうかと言われた。近くのコーヒー店に 行って、氏の郷土の中世史の膨大なる資料をまとめることが出来ない嘆きなどを聞いていると、御父君の坂田三郎氏が入って来られ、私の顔を見られて近寄って来られ、「長谷川さん貴方の短歌をよく拝見しています」との事であった。私が「この頃短歌から少し離れたいと思っているのですが、何分この夏は暑かったので読書を止めて、八月に六百首ばかり作りました」と言うと、「ほうそれは大変な数ですなあ、私も年に一、二首作るのですがどうしてそんなに作れるのですか」と言われた。私は「物を見て言葉にするというのは、言葉が物を見ているのです。ですから物に触れて出て来た言葉を、歌の形式に紡いでゆくのです」と言った。それから暫く描いておられる洋画のことなど話されて帰られた。私はコーヒーを飲み乍ら、言ったことの如何に説明不充分であるかに気がついた。そして如何に説明すべきであったかを考えた。

 コーヒーを飲んでいるのは舌のよろこびである。全て食物は身体を養うために食べる。その感覚として身体は味覚をもつ。舌のよろこびは味覚の充足である。人間は自然に与えられたものを食べるのではなくして調理して食べる。調理は材料を人間の身体に適合さすと共に、美味なるものの追究である。舌は更なるよろこびを求めて味覚の陰翳を無限に作り出す。全てものがあるとは自然として、与えられたものとしてあるのではない。作られたものとして、よろこびの陰翳をもつものとしてあるのである。コーヒー豆はコーヒーの材料として物なのである。坂田三郎氏は洋画を描かれる。そのとき色彩は目のよろこびである。私達はこのいのちのよろこびに導かれて、限りなく深い世界に歩みを入れてゆくのである。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間のみが言葉をもつのである。言葉は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。初めと終りを結ぶ生命に於て言葉はある。言葉によって人間は人間となったのである。言葉は言語中枢のよろこびである。言語中枢のよろこびに導かれて、言葉は無限に自己を構築してゆくのである。斯るよろこびは何処から来るのであろうか。

 味覚のよろこびを作る調理人は自分の食物を作るのではない。他人のよろこびを作るのである。今は亡き母などもよく「食べてくれる者がいるから美味しいものを作るが、自分一人だったら何ででもすます」と食事作りの事を言っていた。病人の為に殿様のために昔の人は美味しいものを作って来たのである。舌のよろこびとは人と人との関り合いの翳を宿すことによって生れて来たものである。絵画が目のよろこびであるのも同様であるとおもう。若し見る人がなかったら、無限の他者に繋ることがなかったなら、描く意欲は何処から湧いて来るであろうか。而して描くということは、過去の画家の目を自己の目とすることによってあり得るものである。

 言葉は直に他者との関りに於てあるものである。言葉の本来は対話である。一瞬一瞬の関りが永遠の翳を宿すのである。人間が作るよろこびは全て永遠なるものが自己自身を見てゆくより生れるのである。料理も絵画も人類の内容として無限の展開をもつのであり、作るよろこび、出来たよろこびがあるのである。言葉は直に他者に関り、永遠の顕現として全てのよろこびの根底にあるということが出来る。言語中枢が人間のみにあるとは、全て人間的なるものは言語を媒介としてあるということである。料理も絵画も言葉によって見出されたものを写す意味があるのであるとおもう。

 作るとは無限の過去と未来が現在として一つであることであり、瞬間的なるものが永遠なるものであることである。瞬間的なるものが永遠なるものであるとは、言葉によって表わされたものであるということである。前にも書いた如く物は作られたものとして物であり、作られたものは名をもったものである。我々は言葉をもつことによって技術をもち、製作的自己となったのである。作られたものとは我々の生命を宿すものであり、生命を宿すものとして物は無限の発展を孕むのである。斯る生命がはたらく言葉である。はたらく生命がそこに自己を見るとき、物は物となるのである。

 既に書いた如く物は我と汝の関りより生れる。はたらくとは無数の人々のかかわりである。無数の人々の関りとして物を作ることは世界を作ることである。世界を作るものとしそれは歴史的形成である。全て技術は時の蓄積として、物は時の影を宿すことによって物である。無数の人の関りとして、物は歴史の内容として物である。而して人と人との関りあらしめるものが言葉である。

 人間生命の表れとして、言葉によって見出され物はその内包する言葉によって、更に大なる生命の表れへの呼びかけをもつ。物が無限の発展をもつとは、言葉を宿すものとして、主体への呼びかけをもつということである。そこに主体と客体、物と人間が分れる。人間が物を作ると共に、物は人間に作るべく命令し来るのである。物と言葉は乖離するとともに、物は既に言葉を宿すものとして次の言葉を拒否するものとなる。人間は関り合いの対立と否定からより大なる言葉を実現せんとする。斯る対抗緊張の中に於て物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくのである。ここに世界は個々の生命を翻弄する自己自身の発展をもつと共に、我々の自己は真の自己となり、物は真の物となるのである。

 短歌とは斯る対立として対抗緊張する世界を言葉の方向に突抜けて、一の相下に表わさんとしたものである。物が言葉を宿すことによって物となるとは、言葉は物を宿すことによって言葉となるということである。言葉が物を宿すとは、我と汝の関り合いの中に物を宿すことである。物をよろこびかなしみの襞に於て見ることである。物は生命を宿すことによって物でありつつ、宿すものとして逆に生命に対立する。それを純一なる生命に捉え直すのが短歌の表現である。よろこびかなしみは生命の純なる表れである。

 物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくとは物と言葉が混融することではない。物は愈々物となり、言葉は愈々言葉を明らかにしてゆくことである。物は物の内面的発展をもち、言葉は言葉の内面的発展をもつものとなるのである。斯るものの一つの表れとして情感による言葉の内面的発展が短歌の表現である。内面的発展とは一つの情感による言語的表現が、次の言語的表現を生んでゆくことである。物を宿すものとしての言語の情感的発展である。物を宿すものとしてそれは世界の言表である。

 言葉は対話である。短歌を作るということも亦、無数の歌人の創作との対話である。歌を作るものはうるしの紅葉を見るとき、先人のうたった感動に於て見るのである。その感動に於て見るとき、紅葉はいよいよ赤いのである。私はそれを言葉が見るというのである。言葉がいよいよ明らかとなり、物がいよいよ明らかとなるという所以である。

 他者の言葉は私の言葉ではない。他者の作った短歌は私の短歌ではない。言葉によって見るとは、他者の感動がはたらきつつ今この我が当面する事実を如何に言表するかということである。他者の呼び声と我の応えはこの異なった状況を介して成立するのである。異なった状況は、異った言葉とスタイルを要求する。他者の作品の言葉とスタイルから、その状況に応じた言葉とスタイルを見出すのが対話であり創作である。他者の無数の作品を自分の目として、言葉とスタイルを設定するのが直観である。それは物が宿す言葉と、言葉が宿す物との対話である。

 興に乗るという言葉がある。創造的直観が自由にはたらき出したということである。短 歌に於ては行往坐臥、言葉が物となり、物が言葉になるということである。あるもの全てが言葉の相をもち、ものに触れて言葉が表われることである。故に私は多く作ったから内容が悪いと思っていない。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

晩年作

 先日古美術商を営む某が、関雪の晩年作だと言って掛軸をもってきた。その話を沢近食堂で酒を呑み乍ら、主人の蕩翁と三人でしている裡に晩年作とは何かということ になった。晩年とは老境だ。死ぬ前だなぞ言い合った末、青くささのとれた円熟した境地だということに落ち着いた。

 私は別れてから青くささがとれるとは何ういうことかと考えた。たしか武者小路実篤氏も、鉄斎の六十才の頃の作品は見られない、而し八十頃の作品は驚く作りである、といったような事を書いておられたように思う。その円熟とは何ういうことなのであろうか。

 私達は目によって物の形を見る。而し目によって物の形があるのではない。物の形は目を超えたものである。私達は見る前から物があったと信ずる。目と物の形は相互に超越的である。而して物の形は目で見られる事によってあるのであり、目は物の形に対して働くのである。このことは目と物の形が更に高次なるものの内容としてあると言うことでなければならない。目を一方の極とし、物の形を一方の極として自己自身を創造してゆくものの内容としてあることでなければならない。私は断るものを我々の歴史的形成に求める事が出来ると思う。

 アンデスの山深く、今も原始的生活を営む人々は、白く輝く雪嶺を見ても、悪魔の棲家として恐怖の表情をもつそうである。我々はそれを壮麗と見る。この相違は何処から来るのであろうか。目に映るものは同じである。私はこの相違は、その背負う歴史の相違であると思う。私達の目は鳥羽僧上の目が、雪州の目が、応挙の目が、池大 雅の目が潜んで働くのである。私達の言葉には人麿の言葉が、紫式部の言葉が、芭蕉の言葉が潜んで働くのである。郷土が、祖国が創って来たものが働くのである。

 高次なるものとは、我々を超えたものであり乍ら、我々の目として働くこの生命であると思う。この生命が働くことによってこの私はあり、私の目はあり、そして物の形はある。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った如く、我々は作ることによって物の形を見てゆくのである。目と物の形が対立するのはこの限り無い歴史的時間より、生死するこの我を抽象して見るが故に外ならないと思う。物の形は人類的生命の見出でた形として、この我の目を超えるのである。而して目の奥底に還ることによって唯一生命に結び付くのである。生死するこの我を超えて、形が形を作ってゆく大なる生命の流れが真に働くものであり、大なる生命そのものとなることによって真個の自己はあるのである。

 形が形を作る大なる生命と言っても、生命一般というものがあるのではない。働くものはあく迄も個としてのこの我であり、汝である。私は青くさいとは、この我が自己の中に世界を見ようとする意志にあると思う。芭蕉が世界を見出だした如く、この我が世界を見ることなくして世界はない。而し自己は世界ではない。其処に創造者の苦闘はある。真に光を見んとする者程闇は深い。物の形をこの目で見なければならない。だがこの目は物の形ではない。而しこの苦闘は大なる生命が自己自身を実現せんとする意志である。深き生命の自己純化である。そして或る日、生命は自己純化を成し遂げ、この目は深大なるもの自身の目となるのである。私は晩年作はこの転換の日より としたいと思う。故に晩年作は人によって異なる。鉄斎は八十にして晩年作である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心経私観補遺

 何時であったか、長野県の旅館に泊まった時に、箸袋に色即是空、空即是色と印刷 してあり、その横にこの世界は仮の世であり、苦しみや悩みは迷いに過ぎないと書い てあった。よく空や無という時に世界は無常であり、生まれては消えていくものであり、本来無いものであると言われる。

 果たしてこの世は仮のものであり、私達は本来無いものであろうか。本来無いものならば今この文字を書いている私の存在を如何に説明するのであろうか。仮の世に生きて本来無いものに何処から苦しみや悩みが来るのであろうか。心経にも五蘊皆空(ごおんかいくう)なりと照見して一切苦厄をし給うと書いてある。本来無いものならば皆空なりと照見する事はない筈である。五蘊はあるものであり、あるものは矛盾的にあり、苦を内包するが故に空と照見して苦厄を済したというのである。五蘊はあるものであり、空と照見する事によって自己自身を超越するものでなければならないと言い得ると思う。

 苦とは何か、それは有るものが無くなる事であり、かく有りたいと思う事が実現しない事である。生者必滅、会者定離であり、病、老、死である。生命は常に死と対面しているものである。斯る死を生に転換するのが私達の働きである。例えば稲に水をやらなかったら稲は枯死する。稲の枯死は亦農作者の死である。池を掘り、溝を作り、水を導入するのは生への転換である。生命が死を内包する事は矛盾であり、働く事は苦である。限り無い生死の転換は苦の海である。後の世であり、本来無いものであるならばこのように苦しむ必要はないであろう。

 斯る苦を救済するものは生命の永遠の自証でなければならない。私の苦しみは不死 であると知る事によって済度(さいど)されるのである。老、病は死の淡き影であり、亦然りである。働く事の苦も限り無い生死の転換としてではなく、永遠なるものの現れとなる時に歓びとなるのである。五蘊の無常の苦を度す空とは斯る永遠の形相を持つものでなければならないと思う。

 生死するものは永遠なるものではない。永遠なるものは生死するものではない。それは相反するものである。相反するが故に苦悩はあるのである。而し相反し、対立する処に救いはない。皆空なりと照見して一切苦厄をし給うには、生死するものが永遠なるものと一つとならなければならない。対立したものが寄り合うと言うのではなく、直に一つであるのでなければならない。色即是空である。この色と空は私達が日常使う身と心という言葉を使ってもよいと思う。身即心、心即身である。心は身に現れ、身は心を現わすのである。この言葉によっても明らかな如く、この相反するものが一つであるとは空が色を摂取する事によって一つとなるのである。それは捨身行に於いて一つとなるのである。佛陀五年の苦行によって人類はこれを得る事が出来たのである。

 私観に於いて言った如く永遠は世界として自己自身を実現する。而して世界は自己自身の動きを持つ、時代の流れという言葉がある如く世界の動転は我々を微塵の微少とするものである。無限の過去を含み、無限の未来を孕んで、この過去と未来の激突によって動いていくものである。而して無限の過去と未来を持つが故に世界史的現在として、永遠の今を実現するのである。歴史の本質は過去より未来へではなくして現在より現在へであると言われる所以である。捨身行とはこの我がこの永遠の今の具現者となる事である。私達は自分の中に永遠の過去、永遠の未来を照見して救われるのである。

 世界は全存在の具現者として世界である。それならばなぜ空というのであろうか。世界は自身形を持たない、色としてのこの我や汝が世界を作っていくのである。レーガンや中曽根は何処までも世界の流れに随う。而し中曽根、レーガン会談は世界を作っていくのである。リーダーは世界の目となる事によってリーダーである。リーダーの みではない、全ての人は世界の目となり、世界の身体となる事によって自己を持ち生きていく事が出来るのである。世界が自己を具現していくとは斯く具現していくのである。形なくして形を実現していく故に空と言うのである。形なくして形を実現していくが故に全存在たる事が出来るのである。

 心経の冒頭に観自在菩薩と書いてある。私達が宇宙の一微塵とも言うべき身に永遠 の全存在を持つ事が出来るのはこの観に於いてであると思う。人生観、世界観、宇宙 観、観に於いて私達は雑多なる世界を唯一者の相下に見る事が出来るのである。そしこの観とは無常なるものが永遠なるものを内に持つ処に成立するものである。迷い なくして悟りはない。迷いはまだ世界となっていないこの身が世界となろうとする陣痛である。

 もとより永遠を見る者も死ななければならない。生きる限り槿花一朝の悲しみを持たざるを得ない。而してこの悲しみが常に永遠への回心を呼ぶのである。色即是空、 空即是色の最も深い意味を私はここに見る事が出来ると思う。其処にあるのは哀歓を超えた静かな微笑である。ともあれ私は人間生命の深さ、不思議さに驚嘆の念を禁じ得ないものである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

般若心経について

 この間、内藤先生から、正法眼蔵を読むから来いと言われて二、三回お邪魔した。その前にも歎異抄や般若心経に招かれた事がある。私はその題目を聞いて意欲の凄まじさに驚いたものである。勿論史上稀有の大天才が全生涯を賭けたものばかりである。三月や半年の輪読位で解ける筈がない。而しその無謀と言える挑戦に敬意を表せざるを得ないと思う。

 宗教は存在の根源への生命の要求である。三者その表現が異なると言ってもその帰 する所は一つでなければならないと思う。歎異抄は他力と言っても悪人正機に於いて 自力の媒介を説き、眼蔵は現成公案に於いて、「自己をはこびて、万法を修証するは迷なり」と言っている。その根源と言えるものを心経によって私の尋ねた跡を少し述べて古来心経の要諦は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うに尽きると言われ ている。このことは心経の眼目は苦厄済度に外ならないと言い得ると思う。苦とは生 命が自己の否定に面することである。四苦と言われる生死老病が釈迦出家の契機と なったことは人の知る処である。生は他者の否定に面することであり死老病は生きて いることへの否定である。生まれて来たものは逃れる事の出来ない宿命として背負っ ているのである。その中で死が要約される最大の苦であると思う。死によって一切の 自己が無に帰するのである。五蘊とは必竟斯る苦をもつ身体の内容に外ならないと思う。これを皆空なりと照見して済度したと言うのである。

 人はよく全て形あるものは壊れる。生命あるものは死ぬと観念することによって救われると言う。而し生命あるものは死ぬというのは如何なる救済であるのか、それは救済ではなくして放棄であると言わざるを得ない否定が苦であればその救済は肯定で ある。死の救済は不死であり永遠の生でなければならない。一切が無に帰するのが苦であれば、その救済は一切有でなければならない。照見された空とは一切有として生命の不滅の形相でなければならない。そしてそれは死もそれによってある底のもの でなければならない。私はこれを解明するために自己は如何にあるかを把握しなければならないと思う。

 巨勢二号にも書いた如く私達はこの社会の中に言葉をもち技術をもって、人に交わ り物を作って生きていくものである。そして言葉も技術もこの我を超えた無限の過去 より、無数の人によって作られ、蓄積され、伝承されて来たものである。そして我々は未来へと伝達するのである。私達は言葉や技術の始まるところを知らない。言葉は過去を孕み未来を哺むものである。そして我々がそれによってあるものとして永遠の形相であると思う。そして私は前にも書いた如く、この形相を実現するものは全人類としての人間の種の生命であると思う。人類は世界として自己を実現するのである。私は色即是空とは斯る世界が世界自身を形造ってゆく論理であると思う。般若とは論理の意である。

 即とは相反するものが一である事である。相反するものが一であるとは相互媒介的 であることである。色即是空という時、色は空によってあり、空は色によってある事である。私は今言葉や技術をもつことによって自己があると言った。そして言葉や技術は世界の形相であると言った。この事は世界の中にある我々は逆に世界を内にもつ ことによって自己があることである。而してこのことは逆にこの我によって世界があるということである。誰の言葉でもない言葉はない。言葉は誰かの言葉である。相対する色身の苦しみ喜びが言葉となるのである。技術もまたこの腕の覚によって技術である。生死の関頭に立って、死を生に転ずるのが技術である。我々を超えたものは何処迄も我々の内容となることによって我々を超えるのである。それは矛盾である。而しこの矛盾的自己同一に於いて生命は無限に自己を創造してゆくのである。

 苦悩はまたここより生まれるのである。我々の苦悩は無窮の世界の前の朝露のはか なさにある。而してこの無窮の世界とは、超越として言葉や技術の歴史的形成を介し て見たものである。このことは死への苦悩は人間のみがもつことによってもあきらかである。而し今見た如く超越としての永遠はこの我の苦悩に於いてあるのである。空 とは超越者は自己の形相をもつのではなく、この生死する色身にのみ形相を表わし得るが故に空である。五蘊皆空とは生死するものが生死するままに永遠であるということでなければならない。この知見が救済なのである。

 私達は言葉を習い、技術を修めるのに努力する。この努力するということは世界が働くことである。それによって世界が世界自身を形成してゆくことである。それは常に我々に課題として迫って来るのである。世界は自身を形成する働くものとして世界である。時の流れとは世界が自己自身を見出してゆく相である。時の流れを自己の相とするものは時を超えたものである。それは過去現在未来を統一する絶対的一者でな ければならない。それは始めに終わりをあらしめ、終わりに始めをあらしめるものでなければならない。言葉と技術の無限の蓄積は斯る絶対的一者に於いて初めて可能で あると思う。絶対的一者に於いて全ての人生の価値は生まれて来るのである。我々の努力とはこの唯一者の声に呼ばれてあるのである。其処に全人類の生命がある。

 身体なくして生命はない。この我があるとは何処迄も知覚的として色身としてあるのである。斯る色身が世界を内にもつことによって自己を自覚する。永遠を見るものとなる。而し身体的である限り生死する生命である。有限なる生命である。世界の中の一人として宇宙の一微塵としての生命である。唯一者によりてありつつ唯一者たり得ないのは勿論、唯一者を見ることさえも出来ないのである。而して唯一者によりてのみ救済される、私は此処にこの我と唯一者の関係があると思う。この我の生きる姿勢が問われる根拠があると思う。

 無限なるものの内容として有限なるものはある。而し有限なるものより無限なるものに至る道はない。存在が無限と有限の綜合である時、無限への道は有限の放棄のみである。道元は、佛道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己 をわするるなり、自己をわするるというは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるいうは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなりと言っている。心身を放棄して萬法としての存在そのものに純一になれと言うのである。親鸞は阿弥陀の名を唱えて全てを任せよと言う。任せてたとえ地獄に連れて行かれても気にかけるな と言う。其処に生死の救済としての永遠はあるというのである。私は五蘊皆空の至り つくところはここではないかとおもう。而し色身なくして生命はない。この時色身は如何にあるのであろうか。ルターは斯く言っているそうである。信仰は、人々がこれをもって信仰だと思うような、人間的な妄想や夢幻ではない。寧ろ信仰は、我々の内に働き給う神の業であり、我々を更えて新しく神から生まれらせ、古いアダムを殺し、我々を全く他の人となし、更に聖霊を伴い来らすことであると。禅家に於いても死の断崖に身を絶するとか、大死一番ということが言われる。脱落した心身は世界の呼び声に甦るのであると思う。官能の欲求を抹殺するのである。言葉と技術の導きに違うのである。救済とは本来の相の具現であり、色即是空は此処に完結すると思う。色即是空の世界は自己形成的であり、無限に動的である。日日是好日とは斯る心地の風景 である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

不安について

 心電計のかた、かた、かた、かたと言う音が聞こえて来る。手や、足や、胸なぞに貼りつけられている蛸の吸盤のようなものが信号を送り、それを受けて作動しているらしい。

 俺の心臓に何か異状があるのではなかろうかと思う、あれば仕方がないと思う。心臓麻痺、心筋梗塞の可能性も聞いて置こうと思う。

 やがて吸盤のようなものが外される。起き上がって機械の方を見ると、紙の上に波のようなものが描かれている。「どうですか」と聞くともう一度目をとおしてにっこり笑いながら「先生に読んでもらって下さい」と言って渡される。身体は私其のものである。而し私達はその身体について何も分かっていないのを今更のように思う。身体だけではない。商売についても、人の心についても私達は何も分かっていないように思う。

 不安は人間のみが持つと言われている。生命をもつと言っても植物や、外の動物は 不安を持たない。動物も死をもつ、而して死に直面して恐怖する。而し健康な時に不 安をもつ事はない。私はそれは植物や、動物が生命として一つの完結をもつが故であると思う。

 植物は芽生え、成長、開花、結実の循環が必然である。動物の生命も種族的である。種族保存として本能的である。種族的として固体の行動は生得的である。生死は種族の自己維持の循環としてある。自己完結を持つ、其処に生の不安はあり得ないと思う。それに対して人間は自覚するものとしての意識をもつ、意識を持つとは世界の中にあるものが逆に世界を自己の内容とする事である。生命が外に、対象的に自己を作っていく事である。世界として我と汝が相見え、相対する個的生命として、自己の個性の尖端に世界を作って行く、それが何処迄も表現的世界に於いて、歴史的表現的なるものを媒介するが故に世界の自己実現となるところに我々の意識が成立する。自覚とはこの働くもの、行為的表現的主体としての自己把握である。我々の自己とは、この働く事によって得た世界を内包するものとして自己である。私達は自己紹介をする時に、住所氏名と共に業務地位を言う。前者の自然的、所与的なのに対して、後者は世界に於いて、働く事によって如何に世界を内包せるかを示すものである。自己を明確に示すものはこの職業、地位であり、我々が通常自己と言う場合後者の立場に於いて言うのであると思う。而して斯る自己が生まれるのは表現としての歴史的世界である。ここに於いては子も親から生まれるのではない。各々が伝統的技術の中から生まれるのである。而しこの事は我々が身体的なるものから離れる事ではない。否それは何処迄も身体的なものである。手を持つ事によって人間が生まれたと言われる如く身体的なるものを外に表出するのが、働く事であり意識を持つ事がある。この個としての身体の表出によって自己がある。自己の中に世界を見るものとして我々の死は、動物 的、種的連続の意味を超えて絶対の断絶である。我々は無に帰しいくのである。其処は限り無く深い暗黒である。

 相対するものは相互否定的として相対するのである。物と我、汝と我は否定し合うものとして物と我、汝と我である。田園を耕さなかったら忽ち飢餓として我々に死を迫って来る、牧歌的として歌われる田園は決して我々に友好的ではない。汗の代償として我々に穀物を恵むのである。日々の新聞はあらゆる事業界の激烈な闘いを報ずる。 繁栄の裏には喰うか喰われるかの争いがある。それが現実の相である。そこは羨望と、嫉妬と、怨恨の渦巻く所である。我と汝は笑顔によってのみ相見えるのではない。ひきつる顔が常にかくされているのである。

 私は先に自己の意識は世界の自己実現の内容となる処にあると言った。この自己と しての個的生命は歴史的表現的なるものを媒介としてのみ自己を実現する事が出来るのである。この事はこの我が何処迄も自己実現的である事は、歴史的世界が自己実現的である事でなければならない。而して海に棲む魚が海を知らない如く、我々にとって歴史的世界の動きは知るべからざる深淵である。内容にとって形式は不可知者である。単なるこの我と言うのはない。我はあく迄汝に対する事によって我である。而してこの我は個の尖端に見出でた世界に於いてこの我である。この事は亦汝は汝の個の尖端に見出でた世界に於いて汝でなければならない。斯く各々の世界を持つ事にあるものとして、我と汝は絶対の深淵を距てるのである。唯歴史的表現的世界に於いて出合うものとして知る事が出来るのである。而して世界は無数の個的生命を内包するものとして、それ自身の限定を有するのである。

 喜怒哀楽を内包しつつ、喜怒哀楽を超えて動転するのである。この中に我々は無に 帰するのである。表現的世界に於いて限りなく深い暗黒があると言ったのは斯る歴史 の世界である。表現的なるものは歴史的なるものであり、歴史的なるものは表現的な るものである。而して斯く自己を超えたものの内容として、我々の存在は運命的である。物と我、汝と我の出会いも運命である。運命は自覚的表現的世界の底に見られるものであり、それは底知れぬ暗黒を潜めるものである。我々は運命的存在として日々の行行、歩歩は不安である。斯るものとして我々がこの我として歴史的世界に遭遇する時、唯虚無と絶望の鉄壁があるのみである。歴史的表現的世界に於いて、生は限りなき喜びであり、死は限りなき悲しみである。

 而し歴史は暗黒に於いてのみ歴史であるのではない。暗黒は明白に於いて見られる。表現的世界は展かれゆく光輝の世界である。不安は神に至る道であり、無常は涅槃に入りゆく道である。真にあるものは今この字を書ける我であり、語りいる汝であり、人間一般と言うのは何処にも有り得ない如く、世界も亦個的生命なくしてあり得ないものである。この我、かの汝が歴史的形成的として有する無限の底が、歴史の無限の底となるのである。限り無い暗黒は我の死である。我の死なくして歴史の深淵はあり得ない。而してこの我が伝統的技術の中に生まれ、其の上に新たな技術を展き、次代に伝える歴史的創造者となる時、人格としての生命は身体的生死を超えた所になり立つものとして、永遠の意味を持つのである。我々はこの永遠の目に於いて、生死する自己を有限と見るのである。自己が自己を見るのである。而して自己の中に見られた自己が自己である時、我々は絶望の淵に逢着せざるを得ないのである。目は目自身を見る事が出来ないと言われる如く、見るものは形象的に無である。而して見られるものとしてではなく、見るものとしてこの我はある。真個の我は見る我である。自覚的、表現的に自己があると言う事は歴史的形成の目として見ると言う事である。

 我々が自己自身を知るのは単にこの我が知るのではないと思う。我々は自己を知る ものとして生まれ来ったのである。人類の一人として、人間として知るのである。我を超えたものの内容として知る。この我が知ると言う時この我は我を超えたものとして知る事が出来るのである。この我を超えた我の見るはたらきが歴史的形成なのであ る。我々が真実の自己を求めるのはこの歴史的世界に於いてであり、真実の自己が重々無盡なのは自己を超えたものの内容としての自己が超越的根底に還らんとするが故に外ならないと思う。全歴史は自覚の内容であると言う事が出来る。我々は自覚するものとして、何等かの意味に於いて歴史は我の裡にあるのでなければならないと思う。歴史の内なるこの我の胸底に全歴史は流れるのである。斯るものなくして自覚的、表現的としての歴史的形成はあり得ないと思う。超越者としての永遠の目によって我々は自己を知る事が出来るのである。

 而し超越的無なるものは何処にも存在する事が出来ない。存在する自己は生死し、喜怒哀楽を持つこの我である。この我が生存せんとして働くのである。この身体の表 出として見るのである。この事は絶対の矛盾である。この身より出ずるものがこの身 ならぬものである。此処に我々の存在は無限の不安と迷妄となる。而し絶対の矛盾なるが故に廻心があるのである。其処に無明はそのままに生の完結を持つものとなるのである。知るものとして、身体的有としての我が、直に無として超越的自己としてある。世界の中の一人が、世界の底より働くものである時、そこに自覚的生命は初めと終わりを結ぶのであると思う。

 しかしこの事は言うは易くして、行うは難い。直に無となる事は、生きつつ死ぬ事で なければならない。佛教で言う大死する事でなければならない。有りつつ無くなる事 でなければならない。其は生の究極の世界である。

 世界の底より働くものとしての宗教の世界である。此処にあるものとあるべきものとが一つとなるのである。我々の不安は、ある我があるべき我でない処にあった。動物に於いて個体が直に種的生命である処に本能的欲求的生の完結がある如く、此処に 自覚的生の完結があると思う。見るもの働くものとして、この我が無となる時、外としての世界が我となるのである。そこに廻心がある。草木瓦礫悉皆成佛となるのであ る。世界は我を呑み込む処ではなく、我の内となり、深淵の暗黒は我の形相として無 限の光輝となるのである。

 完結を持つ動物に不安のあり得ない如く、我々は此処に不安なき生命を持つ事が出 来るのであると思う。種的生命として動物の個体が完結する如く、全人類として我々 の生は完結するのである。唯、「死の断崖に身を絶して絶後に蘇る、」と言った深大な 体験を持たない私は、その間の消息を語る資格を持たない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自覚的表現としての力

 小野短歌会の歌会に中央公民館に行くと、書道展が小ホールであったので覗いた。墨書というと年末の年賀状や、文化祭に色紙を出展する位の私には、どれがどれ程上手なのかさっぱり判らない。併し構築された線の力の統一を見ることは楽しいことである。私達にはとてもああゆう線が引けるものではない。一つの字がまあまあ書けたなあと思うと、次の字がひ弱くなったり、跳ねすぎたりしている。筆力の違いというものであろう。このような力はおそらく天性と修練の賜であろう。私は見ながら力というものを考えた。

 ベルグソンは物を軽く摘むとき、指の第一関節のみが働いており、更に強い力が要求されるときは第二関節、第三関節が働くのであって、第一関節の働きは変らないという。手首の関節、肘の関節、肩の関節と働いて、最も強い力は全身の関節を動かすという。指の第一関節は、全身の関節覚が集中することによって強い力をもち得るのである。事実私達が親指と人差指で紐を摘んで引っ張り合いをすると、上記の過程を経てには腰を引き足を奮張る。

 物事を軽蔑するのに小手先の業という言葉がある。小手先というのは何の部分かはっきり知らないが、剣道で小手というのは手首のことらしいから、おそらく手首から先ということであろう。それはまだ僅かな力しか働いていないということであり、全身の力を働かすことが出来ないということであろう。

 私は修練とは力を養うことであり、力を養うとは身体の部分の力より初まって、全身の 力を使い得るようになることであると思う。墨書するときに手先の力で書いていたのが腕の力となり、腰を据えた力となることであると思う。昔の剣客の本を読むと、木剣にかくれて姿が見えないというようなことが書かれている。あの小さな木剣に姿が見えないということは物理的にあり得ないことである。それは恐らく木剣に潜められた干の変化が、外のものに目を移す余裕を与えないということであろう。そのとき木剣をもつ身体の、何処一つにもゆるみがあってはいけないと思う。それは毛髪迄が自在に動く力の張りがなければならないと思う。表わす形の尖端に全身の力が凝縮する、その一点に集中する、それは修練することによって養われるのであり、修練するとはこの力を養うことであると思う。ミケランジェロは「私の眼はのみの先にある」と言っている。それは小手先の業によってあるものではなく、全身の力が流れ出てのみの先に凝縮し、大理石に視覚の形相を刻んでゆくのであると思う。力とは内面的なるものを、外に形に実現してゆく働きである。

 考えるということは頭を使うことである。併しそれも力の表出なくしてあり得ない。ロダンの名作「考える人」は、筋骨逞しい男が体を二つに折曲げ、両手で頭を抱えている。それは全身的な苦悶である。松尾さんはよく「斉藤茂吉は、半日北上川の畔に頭を抱えこんで歌一首を作った」と言われる。力は通常動くものである。併し私はこの時半日動かなかったのも力であると思う。思考の働きが全身を縛ったのである。ゲーテは「初めに行為ありき」と言った。その当否は兎も角人間生命は自覚的表現的としてあり、表現は無限に動的として力の表出をもつ、斯かる力は無限に深まりゆく力として修練によって養われるのであり、修練とは部分より全身の力を凝縮し得る営為であると思う。

 表現とは物に自己を表わすことである。外に表わすことによって自己を見ることである。物に表わすとは自己が物になることである。墨書に表現するとき、手が毛筆となり、腕が毛筆となり、全身毛筆となるのである。手が毛筆となるとは、手が手を無にすることであり、全身が毛筆となるとは、全身が無となることである。無となるとは墨書に表われることである。自覚的表現とは死して生きる道である。

 表現は技術的製作的である。技術は世界が世界を限定する形式であり、それは歴史的形成的である。無数の人々が、無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するものである。その内容は世界の形相である。私達は技術をもつことによって世界の一員となるのである。物を作ることは世界を作ることであり、私達は作った世界の中に生きるのである。技術は世界の中に生きるものが世界を作るのである。世界の中に生きるものが、世界を作るものとしてそれは全身的である。世界の中に全身を投げこんでゆかねばならないものである。全身を投げ込んでゆくとは自己が無となることであり、世界が現われてくることである。世界が現れてくるとは、この如く個的生命の尖端に自己を露にしてくるのである。

 全身無となり、動きが全て世界の形相を露にするものであるとき、我々は自由とか、自在の感覚をもつのである。そこに真個の生命に接するのである。我々の生命は愛憎する五尺の生命に尽きるのではなくして、全存在の自己実現としてあることを知るのである。修練の道は自己を無にして道であり、それは苦しい道である。併し一たびその道に入ったものは、苦しみを乗り超えて進むべき心の要請をもつ、斯る要請は永遠なる全存在としての真個の自己の呼び声である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

苦悩について

 生、病、老、死は苦ではない。鯉は背に庖丁を入れられても騒がない。犬は老いの 不安を持たない。かまきりの雄は雌に食われて死ぬのを当然とする。生物にとって生・老・死は形相維持の循環であって本然の姿である。其処に苦悩のあるべき余地はない。それが苦悩であるのは永遠の鏡に映して有限なるが故である。何故に永遠に映す事によって苦悩があるか、それは自己の来所が永遠であり、永遠は自己本来の面目なるが故である。苦悩とは自己か自己ならざる事である。努力とは自己が自己であろうとする事である。苦悩は生、死、老、病にあるのではなくして我々が自覚的自己である処によるのである。私達はよく脳溢血となって中風になり、生の意欲も死の恐怖もなく、よだれを垂らして唯其の日、其の日を生きているのを見る、自覚の喪失は赤苦悩の喪失である。

 しかし永遠が永遠である処も苦悩はない。苦悩は何処迄も生、病、老、死にかかわる のである。生、病、老、死なくして我々の苦悩はあり得ないと言っても過言ではない。槿花一朝の嘆きは文芸の素材となり、老醜無惨は老いゆくものの悲しみである。我々 は生、病、老、死をもつものとして苦悩するのである。壮健不死ならんと欲してならざるが故に苦悩するのである。

 自己が自己ならざる事が苦悩である時、苦悩をもつとは自己矛盾的にあると言う事 でなければならない。私が苦悩すると言う時、私は生死する生命と永遠なる生命とし ての相反するものの統一としてあるのでなければならない。それは二つの生命が合 さって一つとなったのではない。直に一つである。永遠なるものが生死し、生死する ものが永遠なるものである。生死を見るのは永遠より見るのである。永遠は生死する ものが見るのである。其処に自己が自己ならざる苦悩が生まれるのである。自己の中に絶対の懸絶を持つのである。我々の自覚は其処より生まれるのである。自覚に於いては、見るものが見られるものであり、見られるものが見るものである。自覚は単に知るのではなくして相反する自己が限定し合うのである。自覚は苦悩より生まれ来るのである。

 自己とは世界の中にあるこの我が逆に世界を自己の内容とする事である。世界とは この我が生まれ働き死んでゆく処である。それは我々が現れ来り、消え去る処として この我を絶対に超えたところである。斯る世界に於いて我々は働くものとして自己と なるのである。私達は名刺を刷る時に住所、氏名と共に職業、地位を記入する。其処 に私達の具体的な自己はあるのである。私達は職業に於いて限り無く関り会う、其処 に社会があるのである。そして社会は限り無い過去と未来を負う、それが世界である。私は鎌を商うものであるが、その淵源は遠く鉄の発見に遡り、更に石器、木器と遡らなければならないであろう。私は其の無限の時間を内容とする事によって私なのである。今商っているのはこの無限の時間を負う事によってあるのである。今此処に住むのも氏名を持つのも重々無盡の過去を持つのである。私が鎌を商うと言うのはこの無限の過去を内に持つと言う事である。そして現在に於いて働き、未来を望むと言う事である。

 我らの自己は斯く生死する生命を超えた処に成立するのである。生死する生命は斯 る世界に映す事によって生死はあるのである。若し私が生まれて直ぐに野犬の中に 育ったとすれば、私は私の死を知らないであろう。生物本然の死をもつのみであろう。 無限の時間に映して我々は無常の嘆きを持つのである。而して無限の時間とは全宇宙が、そして全宇宙の尖端として全人類が行為的に創造し来ったものである。世界は全人類の内容として、この我を超えたものとして無限に自己創造的である。時代の流れには勝てないという言葉がある。世界は個人を超えるのである。

 しかし亦個人なくして世界はない。あるものはこの我、汝として個々の人々である。個々の人々に背負はれる事によって世界はあるのである。個人とは身体的に行為するものである。世界の自己創造と言うも身体的行為な してはあり得ない。この事は身 体が無限の過去、現在、未来を内容として持つとゆう事でなければならない。身体は 生、死する身体である。生死する身体が無限の過去、現在、未来を持つのである。それは相反するものである。而して身体は一つである。相反するものが一つであるとは 身体に於いて一つであると言う事である。細胞そのものが自己矛盾的であるところに 無限に動的な生命があるのであり、我々の自己があるのである。身体の中に時間が生まれ、時間の消えゆく全存在があるのである。

 私達は世界の中にありつつ世界を内に持つものとして自分が世界であろうとする。全能と永生と自由を望んでそれを実現せんと欲する。而し生死するものとして我々は何処迄も有限である。あろうとする我とある我とは深淵を距てて乖離する。自己が自己ならざるとはこの乖離である。あろうとする我は世界よりの声として実現を迫るのである。自己の所在として実現を迫るのである。苦悩は此処に生まれるのである。人間にとって肉体的な死よりも社会的な死こそ真の死である。よく社会に参与し得ざるものが自殺するのはこれに因由すると思う。犬が死の不安を持たず、人間が不安をもつのは世界の実現として無限なるべきものが死によって絶たれるが故に外ならないと 思う。我々は苦悩を離脱せんと欲する、而し有限的、無限的としての矛盾的存在である限りそれは不可能である。離脱せんと欲する事愈々深くして、苦悩は愈々深まるば かりである。キエルケゴールの死に至る病は此処にあると言えるであろう。

 しかし翻って考へれば苦悩こそが永遠であると言う事が出来る。永遠は現前に於い 永遠である。形なきものは何ものでもない。生命に於いて現前するとは一瞬一瞬に 消えつつ現れる事である。單に個とゆうものはない。單に世界とゆうものはない。あるものは個と世界の矛盾としてあるのである。この事は世界の自己創造は刹那現成的 にある事である。生死するものに現前する事である。個と世界の矛盾の中に苦悩はあった。それは離脱せんとして離脱する事の出来ないものであった。而し斯る矛盾の中に世界は現前するのである。世界が現前する事は、世界を内にもつ事によってある自己も亦現前する事である。私達は自己が苦悩をもつのではなく。苦悩の中より現前し来るのである。唯現前し来った自己が世界を内包するものとして苦悩はあるのである。絶望は有限に於ける無限の喪失と、無限に於ける有限の喪失の二つがあると言われる。苦悩とは抽象的立場に立つ事である。永遠とは無限なるものと有限なるものが相互限定的に一つになる事である。生命が生命として自己完結を持つ事である。

 私達の苦悩は自己が世界たらんとして世界となり得ない処にあった。而し苦悩に於いてこの我と世界が現前する時、この我は直に世界であり、世界は直にこの我でなければならない。この我と世界の出で来る処として、この我と世界を離れて苦悩に直接する時、苦悩は苦悩を離れて一大生命の具現となり、大歓喜えと転ずるのであると思う。苦悩は自己ならざる自己が自己であろうとする努力であった。而して斯る努力は超える事の出来ない断崖に面せざるを得なかった。而し努力自身が本来の相として、行きつくべきものとしてあったのである。苦悩の克服ははるか彼方にあるのではなく、苦悩自身を観る所にあったのである。

 この我に世界を見る事によって自己であろうとする努力は、世界がその内容としての個的生命に於いて世界自身を実現しようとする事であるという事が出来る。若し野犬の中に育ったならばこの我の意識をもたないであろうという事は、この我は世界を映す事によって自己となると言う事である。この我が世界を映すとは、世界は個的生命に於いて顕はとなる事である。苦悩は其の接点にあるのでる。生命は矛盾としてあり、矛盾は苦悩である。この我の苦悩は世界の自己実現の形相である。自己ならん と欲して自己ならざる苦悩は、直ちにそのまま世界の実現である。

 私達は何処迄もこの我として生きる。死の悲しみは逃れ得ぬ運命である。而しこの 悲しみは永遠が自己自身を見ている相である。苦悩は、苦悩が世界の自己形相とし て苦悩を離脱するのである。其処に最も深いよろこびが生まれる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

人権について

 鍼灸医の葛野さんに「巨勢五号の原稿依頼が来たでしょう、貴方は人権を書かれますか」 と言ったら、「人権は言い尽くされていますので書きません」との事であった。事実人権問題は言い尽くされている。何でこんなタイトルを出されたのであろうと思いながら、いざペンを執って見ると案外茫漠としているのに気が付いた。勿論それは私の不勉強による。やむなく傍の辞書を開いて見ると『人間が生れながらにもっている自由、平等の権利』と書いてあった。他に適当な文献もないので、これを基本においてペンを進めることにする。人間は果して生れながらに自由であり、平等なのであろうか。「人間何ぞ貴種あらんや」と言ったのは福沢諭吉である。明治迄は貴人は貴種より生れるというのが常識であった。貴種の血統は常民の覗い得ない尊いものであった。貴人が地方へ下向した時には、その足を洗った水を争って奪い合い、病気の患部に塗ったと伝えられている。その何処に自由と平等があるのであろうか。

 「君笑はれれば臣死す」 鍋島藩の葉隠れの言葉である。武士にあっては「君、君たらずとも臣、臣たるべし」であった。無法な手討であろうとも、家来は甘んじて受けた。君は手討したものの家族の悲嘆を思うことはなかった。それは「貴人に情なし」という言葉を生む程であった。併し君臣共にそのことを当然とした。それはひとり武士のみではない。武士と農夫、地主と農奴、その他使用人と被使用人の間にも全くの理不尽が通った。徳川幕府の階級制度の制度は、斯る人間関係の制度化であったということが出来る。私は明治時代迄辞書にあるような人権というのはなかったとおもう。意志の自由という言葉さえなかったのではなかろうか。

 それは外国に於ても変りはない。印度のカースト制、中国の苦力それは日本よりも甚 い、無人権的社会であったということが出来る。古代ローマに於ても、家族の生殺与奪の権は父親にあったと言われる。フランス大革命の前に王女に対して、「その様に浪費をされますと、国民はパンを食うこと出来ません」と言うと、王女が「パンが無ければケーキを食べさせなさい」と言ったのは有名な実話である。それは全ての権利が王室にあったことを物語るものである。

 日本は欧米より、人権、自由、平等の精神を輸入した。それは活字と講壇より獲得したものである。併しその何れも人間本来のものとして、種子の芽生えるごとく得られたものではなかったのである。イギリス人民が、議会政治制度獲得の為に如何に多くの流血の闘争を繰り返したか、人民の人民による政治獲得のために、大フランス革命以下幾度の戦いに、如何に多くの人々が死んでいったか、人権は闘い取られたものだったのである。それは幾多の挫折の後に人民のものとなったのである。私は人権とは、神権、王権に対し、それに打克つことによって得た言葉であるとおもう。

 斯る神権、王権を打倒する力は何処から来ったのであろうか。私はそれを産業革命に求めたいとおもう。産業革命とは生産手段の革命であった。人類は道具による生産より、機械による生産へと転じたのである。物は天恵より、人間の製作へと転じたのである。人々は生物のエネルギーのみではなく、宇宙のエネルギーを利用しだしたのである。生産は飛躍的に増大した。それを愈々増大さす為に、人々は分業のシステムを見出した。分業は適材適所を要求すると共に、働くものの方向に個性を目覚めさせた。分業の要求するものは個性の方向に可能性を追究し、実現してゆくことである。自由意志とは個性の方向に可能性を展開させんとする世界の必然的欲求である。人格とは個性が世界を内に包み、個性であることが世界を創造することである生命の自己形成である。個性であることによって世界を作るものとして、全ての人間は世界に於て平等である。私は人権とは人間の製作的生命の自覚であると思う。それは農耕、牧蓄、漁撈といった自然の生産に依拠する間はもつことが出来なかったとおもう。マルクスの言える如く思考は生産手段によって決定されるのである。人権は近代的工業生産社会が生み出した、世界の主体的自己形成であるとおもう。アメリカの奴隷解放は、北部の工業地帯と、南部の農業地帯の戦争であった。それは共に生産手段の精神の闘争だったのである。

 日本に於ては明治維新と共に自由、民権の声が澎湃(ほうはい)として起って来た。それは立ちおくれた欧米列強に比肩するには、資本主義国家となるより外ないとする危機感より出で来ったものであった。憲法を発布して、議会政治制度を作り、一応自由、平等は成文化されるに至った。併し依然として農業に経済の基盤をもつ我国に於ては、真に人権の意識の確立はなかったと思う。人権の意識は第二次大戦後に俟たなければならなかったと思う。

 戦争は当事国に膨大な物資の消耗を強要した。消耗を充足する為に、兵以外の働けるものは生産に従事せざるを得なかった。而して大なる生産は工業生産である。工場は拡張され、人々は徴用工として生産に従事せしめられた。その挙句の敗戦である。総力戦の敗戦は殆んどが廃墟として残った。私は当時零番地、零地帯、零メートルといった、零の文字が氾濫したのを覚えている。虚脱より漸く脱却したとき、生きる道は戦時の延長としての工業生産であった。人々は生きるために自己のもつ技術に頼らざるを得なかったのである。政治も多くの人を養うために、工業生産を指向せざるを得なかったのである。而して零よりの出発は、全てが新しきものの建設である。そこに最も合理化された設計と、能率的な人員配置をもつことが出来た。それは旧態依然たる欧米に対して、生産性に於て上廻ることが出来たのである。私は斯る工業化の成熟と共に、日本人の人権意識は骨肉化してきたとおもう。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚は歴史的形成的である。歴史は通常過去の叙述と考えられている。併しそこに歴史はない。歴史は常に歴史的現在の、過去への延展に於て歴史である。過去は生きているものとして未来と激突し、そこに新しい世界が生れる。そこに現在がある。歴史的現在とは無限の過去を蔵し、未来を孕んで過去と未来が動転するところである。そこに時が初まり、そこに時が終るところである。大歴史家ランケの言える如く現在は常に保守と革新の闘うところである。人間は自覚的生命として、我々の生れるところは斯る歴史的現在である。私は人間が生れながらにもつ権利とは、斯るところから捉えられなければならないと思

 我々は工業生産的社会にあるものとして、何処迄も個性の尖端に、技術を展いてゆくと ころに世界の進運をもつものである。それは主体的方向に自由と平等を、純化徹底してゆかなければならない道である。斯る世界に生れたものとして、我々は生れながらに人権をもつのである。人権尊重は歴史的現在の無条件命令の声であうとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

新聞を読みながら

 十日程前になるであろうか、新聞を読んでいると、「フセインはアラブ世界不世出の英 雄である」という記事があった。勿論イラクが報道したというのである。私は読みながら懐旧の思いににやりとした。思えば私達の少年時代は英雄伝記の氾濫であった。プルターク英雄伝は必読の書の中に数えられ、ナポレオンや豊臣秀吉などを、文字通り肉躍らせて読んだものである。

 いつ頃からであっただろうか、英雄とゆう言葉が私の意識より薄れ、隠れていったのは、思い出が模糊としているのは既に久しいようである。思えば最近は書店の本棚にも英雄の文字を見かけないようである。私は書店の本棚は時代を映す鏡であると思っている。時代が何を求め、何に苦悶しているかが最も明らかに現われる所であると思っている。そこから姿を消したということは、英雄は最早現代に於て求められる人間像ではないが故であるとおもう。私の意識のうすれも抹殺される世界の人間像を写したものであろう。私がフセインの英雄ににやりとしたのは、その時代錯誤的なナンセンスとでもいうべきものを感じたが故であるように思う。アラブとはそれを真直目に掲げる程後進的なのであろう。英雄が否まれるとは、世界が如何なる質的変化をもったということであろうか。

 英雄の評価は人を何人殺したかで定まるという言葉がある。英雄とは大量の殺人者である。その大量の人命は版図の拡大に費されたのである。ドストエフスキーの罪と罰は、この大量の殺人者が賞讃されて、一人を殺した者が何故罰せられるかということへの問いから初まった。何故に賞讃を受けるか、私は版図の拡大の中に人類の意志とでもいうべきものが見ることが出来ると思う。人類が一つのものとして凝結しようとする意志が働いているようにおもう。

 言葉をもつ人間は、言葉を交し意志を疎通することによって、密度高い世界を築き上げることが出来るのである。大なる疎通は大なる文明を築き上げることが出来るのである。私は英雄は止むに止まれぬ人類の意志によってはたらいたのであり、止むに止まれぬ人類の意志は、斯るより大なる世界の展望にあったのであるとおもう。流血は人間が生きるものとして、身体をもつものとしての一つならんとする軌みであったと思う。英雄の殺人は斯る人類の意志の具現者として賞讃されるのであると思う。

 私は英雄伝が書店の棚より消え、英雄の時代が過ぎ去ったということは、地球的規模に於て人類の意志の疎通が出来るべき基盤が出来たということであると思う。よく街の辻で「暴力を止めて話合おう」といった標語を見かける。それは世界が力による角遂の時代が終り、対話による構築の時代に入ったということであるとおもう。

 対話による構築とは、お互が内にもつ力を引き出し合うことである。競争がなくなるの ではない。競争がより大なるものを作り出し合う競争となるのである。抹殺し合う競争ではなくして、共存する競争である。尖端に立つものは英雄ではなくして、天才である。ロゴスによる密度高い世界を作ることである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自覚について 其の2

 よく私の書いたものが解らないといわれる。而しそう言われる人は生命が矛盾であることを考えられたことがあるのだろうか。矛盾とは相反するものが一つということである。般若心経に於いて色即是空という如く何処迄も相反するものが一つということである。

 よく人は俺は大工の腕は誰にも負けない、庖丁を使えば俺は誰にも負けないという。 そしてその腕前を自己の支点とする。彼の存在を支えるものはその腕前である。彼等 が俺はという技術とは如何なるものであろうか。

 彼等はその技術を師匠は先輩より習ったのである。その師匠、先輩はその師匠、先輩えとさかのぼるものである。其処に俺と言うべきものはない。無限なる技術形成者の影があるのみである。而しその故にこの俺はと言い得るのである。一人だけの技 術であればどうして誰にも負けないと言い得るであろうか。一人だけの技術はあり得 ないものであるし若しあっても価値のないものである。何故ならば人類が必要とする ものであればすでに歴史の初めに其の萌芽があった筈である。技術は技術の上に築かれるのである。

 我々はこの自己が技術をもち、知識をもち、意志として世界を実現しようとする。行為者として自己から全てを律しようとする。而し上に見た如く自己とは無限なる人間連鎖の中の一つの輪に外ならない。世界の中の自己として、自己の腕前を誇ろうと思えば逆に自己を捨て行かなければならない。料理の腕を誇ろうと思へば自分の今迄の技術を捨てて古往の秘伝を尋ね、東西の味覚を較べて其の上に技術を築かなければ ならない。更に評価は客が定めるのである。

 自覚という時通常はこの我が自己を知ると思う。勿論この我なくして自己を知るものはない。而しこの我が知るという背後には更に深大なる生命の働きがあるのである。技術に於いて見た如く、師匠、先輩えと限りなくさかのぼるということは人類が限り無い年月に技術を築いて来たということである。言葉にしてもそうである。神代人は今のように豊饒な言葉をもっていなかった。それは永い間の多くの人の関り合いの中から生まれて来たものである。

 自覚とは人間生命が自覚的生命であるということである。生物の生命には個体保存 種属保存の二つの本能があると言はれる。人間も亦生物である。自覚的とは斯る生 命が自覚的ということである。犬は犬より生まれて犬を生んでゆく、個を超えて個に 形相を維持してゆくのが種の生命である。人間は自覚者として個人を超えた技術や言葉を内にもつ世界を形造ってゆくのである。世界とは人間の種の自覚的形相である。我々の自覚は世界を形造るものとしてあるのである。それでは矛盾とは何か。

 我々の生命は身体的として生まれて死んでゆく。有限なるものである。それに対し世界は個人がそれによってあり、それによって成り立つものとして永遠なるものである。而してこの生まれ死んでゆく身体は手をもち、言語中枢をもつ、技術をもち、言語をもつ。技術、言語は前に見た如く世界の形相である。世界の形相を身体がもつとゆうことは、この身体に於いて世界を実現せんとすることである。人はこの自己をして世界たらしめんとするのである。王者となって一切を自己の意志の下に統率せんと欲し、永遠の生命を得んと欲するのである。自己が神たらんとするのである。

 而し技術は環境に対する事によってあり、言葉は隣人に対する事によってもち得る ものである。環境に相対し死を生に転ずるのが技術であり、隣人に相対し、喜び、悲 しみをもつ処より言葉は生まれるのである。而してそれは人間は生死するものなると ころより生まれるのである。世界であろうと欲し、永遠たらんと欲するのは生死する生命であるところよりあるのである。我と世界とは絶対の深淵をもって距てるのである。超えることの出来ない懸絶をもつのである。

 矛盾とは一つたらんとするものが相否定し合うものである事である。前にも書いた如く環境の否定を肯定に転ずるのが技術である。相対する隣人と一つたらんとするのが言葉である。生命は矛盾に於いて生命である。矛盾によって無限に動的となるのである。而して最大の矛盾はこの我と世界との懸絶である。自己と神とを距てる深淵である。それは我々がそれによってあり、それの実現としてありつつ、達すべからざる彼岸である。我々は永遠なるものの形相としてありつつ、何処迄も生死するもの、有限なるものである。

 この問題は関心をもたざる人にとっては単なる閑人の遊戯とも見えるであろう。而しこれこそは自覚的生命にとっての生死の問題なのである。我々の自己成立の根源の問題なのである。身体は生死するものでありつつ、言語中枢をもつものとして永遠なるものである。そのことは世界と我、神と我との絶対の懸絶を身体がもつということである。而して身体は一つである。身体が一つであるとはこの相反するものが各々の自己を主張することでなければならない。生死する身体はその官能の充足に於いて自己を維持せんとするのであり、永遠の生命はその形相の実現の為に寝食を忘れることを要求するのである。相剋とは一つが身体を統べんとすることである。

 人間生命が自覚的生命である限り斯る相剋は永遠が自己を実現せんとするものであ る。それが絶対の懸絶である限り生死する身体としての目や耳によっては見ることも聞くことも出来ないものでなければならない。斯る意味に於いてそれは何処迄も否定されなければならない。斯る否定の深さが自覚の深さである。その極限に全てを失う時、大死一番とか、百尺竿頭更に一歩を進めるとか言われるものがあるのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといわれる如く、そこに於いて目は永遠を見る目とな り耳は永遠を聞く耳となってよみがえるのである。そこに自覚は完成するのである。全ての自覚は斯る自覚を分有するのである。

 生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものである時その限定の形式は歴史的形成でなければならない。我々は歴史の流れの一点として、全時間 としての永遠に面するのである。絶対の懸絶は歴史的時間としての懸絶である。一微 塵としての存在が限りない過去を承け、限りない未来をはぐくむものとして、今、此処に働くものとして神に面するのである。技術、言葉に於いて絶対に接するのである。 私は自覚の最も深いものを日常底に置いた東洋の先覚者に深甚なる敬意をもたざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心敬「真実の歌道」

 「真実の歌道は大虚の如く、個々円成の上なり、もとより証は他を俟たず」 和辻哲郎の 続日本精神史を読んでいると、上記のような心敬という人の文言に出合った。私は昔の人達も、真剣に文字の表現をもったのだと思って嬉しくなった。和辻哲郎によると、心敬は三井寺の僧であり、連歌の名手で禅に参じたらしい。

 大虚とはおおぞらとも読まれ、万物がそこに有り、それぞれがそのところを得る場所である。そこに於て個々円成しなければならないというのである。個々円成とは如何なることであろうか。円は禅僧の好んで描く図形である。円は描くのに初めと終りを結ぶ空間である。私はそこに無数のものを包むと共に、時間としての存在の初めと終りを結ぶものを表わしたものであるとおもう。

 我々は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。それは技術的である。無数の過去の人々の努力の形象を自己の目として、自己の手として新たな形象を創造してゆくのが、自覚的としての人間の生命である。それは世界を作ってゆくことである。個々とはこの我である。天地間唯一個としてのこの我である。人類は唯一個としてのこの我を生んだ。そのことは唯一個としてのこの我は、逆に世界を内に包むものでなければならない。それでなければ唯一個の生れて来る所以があり得ない。ここに我々の目は無数の過去の目が自己の目となるのである。個々円成とは、この我の目は無限の過去のはたらきを宿し、この我の個性をとおして世界の新しい形が生れてくるということであるとおもう。限りない努力によって、自己を世界の自己実現の中に純化せしめることであるとおもう。

 他の証を俟たずとは、自己の中に見出でた自己の形象は、世界が世界自身に見出でた形象として確信をもてということであるとおもう。自己の目は世界の目であり、自己の底に展けてくる世界に生命の真実を見よということであるとおもう。それは他人に讃められてある世界でもなければ、けなされて無価値になる世界でもない。それは過去が我をとおして未来へ流れる生命である。それは作るときに自己を動かす強さによって、自己が把握出来るものである。展けてくる目が確信を与えるものである。内面的発展が信をもつのである。

 藤原彊氏が昔投稿歌人になるなと言われたことがある。私は氏の真意は展けてくる目への確信にあったと思う。個々円成にあったとおもう。勿論それは氏の如く深い歌境にはいり、内面的発展の目をもつ人に言い得る言葉であって、選者にとり上げられること喜びとし、作歌の励みとする初歩の人々は域を異にすると言わなければならないであろう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ある対話より、自己えの考察

 「あいつはじきに自分を失なうでのう。」「うん気の短い奴やさかいんのう。」「どない言うても堪えてくれへんねんやがい、困って仕舞うたがい。」聞くともなしに聞いていると、冗談に名前を呼び捨てにしたのを、怒ってからんで来て困った話らしい。私は聞き乍ら、自己という問題に対してこの話がもっている内容に興味をもった。怒りは言われる如く自己防衛の感情である。自己の一部は全てが奪われようとするときに現れる情緒である。恐らくその男が怒ったのは、呼び捨てにされることによって、自己の名誉が失われるのを感じたのであろう。相手が自分を同等以下に見ていると思い、猛然として同等の復元を要求したのであろう。

 私が此処で興味を感じたのは、この自己防衛が何故に、あいつはじき自己を失うでのうという自己喪失となるかということである。自己を保持しようとする行為が自己を失う行為であることは矛盾でなければならない。而してそのことが日常に於いて何の疑うこともなく対話されているのである。それはそのことが世の中に於いて自明の事として認められているということであると思う。血迷うといわれるのはそのような状態であり、怒りは常にこの様な状態を指向しているのであると思う。そうであるならば斯のような矛盾としての自己とは如何なるものであろうか。

 自己が自己であろうとすることが逆に自己を失うことであれば、自己が自己であるためには、自己であろうとする自己を捨てなければならない。何処え捨てるか、それは眞に自己であらしめてくれる処でなければならない。自己が自己の中に捨てるのである。自己ならしめるのも亦自己である。そのことは我々は自己の底により大なる自己をもつことでなければならない。このより大なる自己に映して、自己であろうとする自己は自己を失なった自己であり、血迷った自己なのであると思う。私達が読書するのも斯るものであると思う。読書するとは自己ならざるものの中に歩みを進めることによって自己を見出さんとするものである。歩みを進めるとは自己を否定して、自己をその中へ投げ込んでゆくことである。投げ込んでゆくところは我々を超えて、我々に否定を要求し、その呼び声によって、自己が露はとなり、眞個の自己となるのでなければならない。私は斯かるものを我々が生まれ働き死んでゆく全人類が形成し来った 歴史的世界に求めたいと思う。我々はこの世界に生きものとして、日常自己転換を行っているのである。この世界に生き、この世界を生かすべく我々の行為はあるのである。そこに自己を保持せんとすることが、自己を失うことの自明なる所以があると思う。我々は一人生きるのではない。全人類の連鎖の中に生きるのである。それが我々の平常底である。

 歌人は何処迄も歌の世界にこれを投げ入れて、他の歌人と面々相接することによって眞個の自己となるのである。全人類が作る世界とは個と個が相対する世界である。象徴主義と現実主義は相否定する。浪漫と写生は相争う。一つは未来よりの限定であり、一つは過去よりの限定である。而して争うことによって写生と浪漫は自己を明らかにするので瞬々止むことなき自己発展はここより生まれるのである。他者との相互否定を媒介とするのである。自己の停滞はマンネリ化として、自己の喪失である。自己をよしとするものは生ける屍である。而して相互否定を媒介として展開してゆくのが歴史的世界である。斯るものによって歴史は事実より事実へと転じてゆくのである。我々は歴史的世界の一要素として、各々が歴史的創造の創造的尖端に立つのである。それが否定を媒介するということである。我々は創造的尖端として世界を否定し、世界の一要素として世界に回帰するのである。私が写生の立場から浪漫を否定 することは、すでにある世の形を否定することであり、否定することによって写生を打ち樹てることは、新たな写生を見出すこととして世界を創造することである。斯くして世界は内に深まり、外に形を露はとするのである。否定と回帰は一つである。世界を否定することは努力である。相互媒介的として、否定することは否定されることであり、否定されることは苦痛である。世界に生きることは苦痛であり、努力である。我々は苦しむべく努力すべく生まれて来たのである。力の表出に於いてより大なる空間と時間をもつ。そこに我々は全人類と結合し、自己を見るのである。血迷うた自己は斯る自己から抽象された自己に外ならない。自己があるとは、他者の抵抗として、力の表出としてあるのである。私は今高遠な論理を語っているのではない。日常に於いて私がと言う時斯るものとしてあるのである。

 ロゴスとはこの自己に現れた世界の相に外ならない。世界は我々を超えた深さをもつ、我々を超えた深さに我々が生きるとは、我々は世界の呼び声に生きることである。ロゴスは我々に汝かくなせと命ずるのである。良心も真実も美もこの呼び声の中より生まれるのである。呼び声に生きるとは、眞個の自己は世界であるということである。そこに我々は回心をもつのである。平常底に翻るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」