自己があるということ

 物理学は筋肉覚、関節覚の無限な自覚的発展であると言はれる。科学の発展は巨大なる一人の人間の成長に例える事が出来ると言った人がいる。人間は世界を創っていく、それは内的なるものの外他として、人間に擬えて作っていくという事が出来る。世界とは人間の自己像であるという事が出来る。

 而し物理的法則に随う事なくして一塵をも動かす事が出来ないといわれる如く、我々は恣意によって世界を創る事は出来ない。内的なるものの外他として、筋肉覚、関節覚が自覚的発展をもつとは、我々が筋肉覚、関節覚を媒介として世界の奥深く入っ てゆく事である。この自己を否定して世界自身となる事によって我々は物理学をもつ のである。無限の自覚的発展とは自己の恣意を否定して世界そのものとなる事である。

 単一なる自己とゆうものは何ものでもない。例えば一人の生まれたすぐの子を無人島に捨てたとする、其処に如何なる自己があり得るであろうか、唯走り、唸る一つの動物があるのみであろう、食欲と性欲をもち、眠っては醒めるのみであろう。私達が今此処にこの如くあるとゆうのは限りない過去を背負うのである。無数の人々と関り合うとゆうことである。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉によって我々は関り合い、自己となるのである。斯る言葉は何処から来たのであろうか、私は其処に生命の外他としての 物の生産があると思う。外に物を作るとゆう事は内に技術的となるとゆうことである。言葉は単なる音声ではない、表現的なるものである。意味を補うものである。その為 には言葉をもつものは創造的なるものでなければならない。価値の創出者でなければならない。価値の創出ということは、生命の外他ということである。物を作るという 事である。関り合うものには何かの媒介がなければならない。私達は物を介し、物を 作るものとして呼び、答えるのであると思う。

 斯るものとして言葉がその肇まる所を知らないとゆう事は、技術もはじまるところを知らないといわなければならない。はじまるところを知らないとゆうことは、我々は我々の知らない生命の具現としてあるとゆうことである。はじめを知るところに創造はない、知らざる生命の深さが自己を具現してゆくところに限りない創造はあるのである。無限の過去がよく、無限の未来を生むのである。

 何日であったか、人間の胎児の最初は幾つかの点があらわれている。それは人間が 大古水中で生活した頃の鰓の痕跡であると書いてあったのを読んだ事がある。そして 胎児の成長は両棲類に似、哺乳動物の姿となり、生まれて来た時は猿に似ている。歩き初めは類人猿に似、やがて人間の姿を完成するとあったと記憶する。私達は成長過程に於いて人類の全歴史を繰り返すのである。人間は無始、無終なるものを内蔵すると共に、個体も亦無始、無終なるものを内蔵するのである。人間は宇宙的生命の創造的発展の結実である共に、その結実は個体に於いて実現するのである。

 私達は生まれ働いて死んでゆく、せいぜい七十年か八十年の生命である。而しこの 生、死、する身体は無限なるものを蔵する身体として生死するのである。そして私は 我々の技術はこの無始無終なる生命の創造的発展の自覚としてあるのであると思う。斯るものとして我々の自覚も与えられたものである。作られたものである。作るものとして作られたのである。

 私は鎌を商うものであるが、この鎌を作る為には先ず熟練工の下に弟子入をしなけ ればならない。そして幾年間かの技術習得の後に一つの製品を作る事が出来るようになるのである。それを幾世代も繰り返して来たのである。技術をもつという事は私達 の生死を超えたものを自己の内容とするという事である。それによって私達は世界に関り、自己となるのである。生死を超えたものを内容とするということは世界を内にもつという事である。全時間がこの我の胸底を流れるということである。私達はこの全存在を内容としてもつ直覚が動かす事の出来ない自己の確信となるのである。

 世界は我々が其の中に生まれ、働き、死んでいく処である。何処迄もこの我を超えたものとして世界である。我々が其の中にあるものとして世界である。私達は世界の中にある事によって、逆に世界を内に持つ事が出来るのである。我々を超え、我々が其の中にあって技術的展開を持つという事は、技術は世界の自己創造としてあるということでなければならない。我々が技術的に世界を作っていく事は世界が世界自身を作っていくということでなければならない。誰も言葉を作った者はない、而して言葉によって我とは自己を見、世界を見ていくのは斯る世界が自己創造的としてあるが故に外ならないと思う。それなれば我々が世界を作っていく事が世界が世界自身を創っていく事であるとは如何なることであろうか。

 単なる世界というものはない。世界は我々が働く事によって世界である。私は前に個体は無始、無終なる宇宙的生命を宿すと言った。我々の働く事が世界の自己実現であるとは個体の斯る面が自己実現的であるのでなければならないと思う。個体の一々が無始、無終なるものをもつものでありつつ現在の対立、矛盾に於いて形相を実現していくのである。一々が時を生み、時が消えいくものをもちつつ自己が其の中に生まれ、消えていくのである。一人、一人が全宇宙的なるものを内包する、其処に一々が働く事が世界が働く事があり、世界が一つである所以があるのである。

 時を包み、其の中に時が生まれ、消えゆくものは永遠なるものである。形相は斯る永遠なるものが自己矛盾的であるところにあらわれる。矛盾とは個が全であるという事である。個が全であるとは個と個が対立するということである。これを言いかえれば個が対立することは個が全を担う事である。斯るものとして形相は常に永遠なるものの自己顕現であるということである。個が全を担うということは表現的であるということである。斯るものとして時は単に流れるものではない。一々が永遠として現在より現在へ動いていくのである。過去と未来を包むものとして、一瞬一瞬が完結をもつのである。

 矛盾するものとは闘うものである。対立するものは否定し合うものである。個物的なるものが全存在的なるものを内包するということは、我々は内に闘うものをもつということである。個が全を見るということは表現的ということである。私達は表現的世界に生きた人々が凄惨な霊肉闘争を体験したのを知る。技術的ということは世界形成的ということであり、世界が働く事によってこの我が見られる時、ある我は、あるべき我に否まれなければならない。我々は今ある我を否定することによって自己を見出していくのである。物を作る自己として、技術をもつ自己として我々はある。それは世界実現的として無限の自己否定である。其処に我々は生まれる。否定の肯定である。自己否定なくして自覚はない。瞬々の否定によってのみ、瞬々に新たな肯定は生まれる。無限に動的なるものとして世界が働くのである。この我より見れば否定は苦悩であり、否定の肯定は努力である。自己を忘じて我々は眞個の自己となる。永遠として具現するのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

作歌の根底にあるもの

 歌を作るとは対象を、五七五七七の定型文字に捉えることである。定型によって見るということである。併し対象は三十一文字の定型としてあるのではない。若し対象が定型としてあるのであれば、自由詩や散文はあり得ないことになるし、同じく見られたものとしての絵画的表現は不可能である。

 私達短歌を作るものは、歌を作ることによって対象を明らかにし、対象に深く入ってゆ くと感じ考えている。作ることによって対象を明らかにしてゆくとは、対象は言葉に構成せられることによってあるという意味がなければならない。言葉の構成が対象の自己構成の意味がなければならない。対象が明らかになるとは、対象はそれ自身の自己明化をもち、展開をもつのである。斯る自己明化が言葉に拠るところに、我々の作歌があり、対象を明らかにする所以があるとおもう。

 私達は歌を作るとき多く目をもって見、見たものを言葉にする。断る目をもって見ると いうことは如何なることであろうか。犬や猫は同じく目をもって見る。併し歌を作ること は出来ない。犬や猫の見るものは多く餌と敵に関るものである。原始人は歌を作る。併し文明人の如く複雑な心の動きを宿すことが出来ない。目は深く主体の生命形成の表出としてあるのである。目の構造は同じである。併しそのはたらきは犬は犬の、烏は鳥の生命 成によるのである。

 他の動物になくて、人間だけにあるもの、それは言語中枢であると言われる。私達は言葉をもつことによって、壮大なる人類の文化の殿堂を打ち樹てることが出来たのである。多くの古文書に過去を見る如く、言葉は個々の生死を超えて、個々を包むものである。個々を包むとは、人類の初めと終りを結ぶものである。初めと終りを結ぶとは、無数の個々の営為がその中に蓄積されているということである。私は言葉によって人間が人間となったということは、言葉がはたらくことによって、我々は我々の目をもったということが出来るとおもう。言葉が見るということが出来るとおもう。

 言葉を作った人はないと言われるごとく、私達は言葉が何時初まったかを知らない。私というとき既に私は言葉の中にあるのである。淵源を求めるとき、それは生命の初まりと共にあったと思わざるを得ない。生命が機能的構造的であり、形成的であるとき既に言葉がはたらいていると考えざるを得ない。聖書に言える如く、太初に言葉があったのである。人間のみが言語中枢をもつとは、別の生命が現われたのではない。斯る生命が自覚的表現的となったのである。はたらいていたものが、働き自身を具現するものとなったのである。働きを具現することが製作することであり、製作は言葉が働くことによってあるのである。聖書は更に、「この言葉は太初に神とともにあり、萬の物これによりて成り、成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし。」と言う。言葉とは無限に動的なる生命の初めと終りを結ぶものである。全て生命は初めが終りを あり、人間はそれが自覚的である。

 我々が今もつ言葉とは、人類初まって以来無数の人々が、怒り悲しみ喜びつつ対話したものの綜合である。物は名をもつと言われる。名とは人間が製作物につけた符号である。言葉によって見出したもの、変革したものである。言葉が作り、作ったものに言葉が作られる。客体的方向に物があり、主体的方向に喜び悲しみがある。形成的世界の現在として我々は今の言葉をもつのである。言葉が見るというのは、斯る形成的生命の目として見るということである。

 私達はバラの花を美しいと見る。併し手にとっては唯食えるか食えないかを分るのみであろう。自覚的とは自己構成的ということである。バラの花の中にバラの花を見るのである。髪に挿し、胸に飾り、限りない人々の嘆賞に培われて美しいのである。詩人が唄い、画家が描いたものをとおして、美しいのである。此の間生花展を見に行った。私は踏み捨てていた野草の美しさに目を瞠らされた。その美しさは生花という構成によって見出され生命の美しさである。単に我々が見る目に無限に重ねられた野の草のいのちの形である。先人の表現したものが我の目となってはたらく、生花展に見たものが我の目となって野の草を見る。そこに自覚的生命としての人間の目があるのである。生花を習うとは斯る視覚の無限の創造的世界に入ることである。

 この表現されたものが自己の目となってはたらくときに言葉が生れるのである。新しい目となって、新しいものが見られるときに言葉が生れ、次の者にその目を伝えるときに言葉が生れるのである。それは単に目のみではなくして、全ての製作にはたらくものである。製作は無数の人々の交叉より生れる。交叉とは無数の人々が一なることである。無数の異なる人々を一ならしむるものが言葉であり、言葉をあらしめるものが物を作るということである。それは言葉が物を作り、物が言葉を作ってゆくことによって、人と人が限りない交叉をもつ世界である。斯るものとして私達がものを見るのは働く言葉が見るのである。はたらく言葉の目として見るのである。

 短歌を作るとは見たもの触れたものを言葉によって構成するということである。言葉に よって構成するとは、言葉によって見ることである。そのことは既に対象が言葉をもったものでなければならない。言葉によって構成される対象は名をもったものである。名をもったものとは、作られたものとして言葉によって見られたものである。言葉によって見られたものとして、対象は言葉をもつものである。対象が言葉をもつものであるとは、我々に呼びかけるものであることである。我々が春の野の光りを歌に作る時、春の野の光りが我々に呼びかける反面があるのでなければならない。我々は呼び応えるものとして表現をもつのである。

 言語中枢は人のみが言われる如く、言葉は人のみがもつものである。対象が言葉をもつとは、対象は無数の人々の呼び交しを担うものとしてあるということでなければならない。古今東西の人々が、それによって呼び交しを持つものでなければならない。私達は桜の花を見るとき、幾多詩人の喜び哀しみを見、幾多画人の色と形を見るのである。画人の目、詩人の情が我々に憑依するのである。我々の歌はそこから生れる。対象が呼ぶとは斯る無限の人々の声を宿すことによってである。私達は斯る呼び声によって、無限の形を見、無限の色彩を見るのである。対象の中に対象を見る。そこに我々の自己の底に触れた美意識が生れるのである。

 短歌作品の批評が行われるとき、よく観念的であるとか、物につき過ぎていると言われる。観念的とは言葉が物を作るはたらきを失なっているということであり、物につくとは物が言葉を生む力をもっていないということである。それは何方も真に生命を表現していないということである。生命は無限に動的である。動きを失なうことは死である。何方も真でないとは生命の自己限定力が失われているということである。言葉が物を作り、物が言葉を生むところは、言葉と物が其処に消えて新たな言葉と物がそこより生れるところである。この我が見るのではない。新たな物が見られるところは、新たなこの我の生れるところである。新たな言葉が見る目の自己となるのである。勿論新たなものが生れると言っても突然空中に楼閣が現われるのではない。新たな状況を介して、過去の無数の人々の呼び声にこの我が応答するのである。あるものは生命の自覚的営為であり、言葉と物はその両極に現われた形である。

 生命は形成作用であり、形に自己を見てゆくものである。その両極に言葉と物があるということは、形成作用とは言葉と物がはたらくということでなければならない。両極とは相反するものである。相反するものがはたらくとは相互媒介的ということでなければならない。私は斯るものとして作歌するものは、物か言葉か、何れか一つの形の立脚をもたなければならないとおもう。無数の先人の努力は言葉亦は物として結晶しているのである。この形がはたらくことが新たな製作である。我々が作るとはその形がはたらくことである。それは相互媒介的として一つのものである。而して相互媒介的にはたらくとは両者がせめぎ合うことである。私は短歌表現に於て物が言葉を介する方向に写生があり、言葉が物を介する方向に象徴があるとおもう。リアリズムとロマンチズムである。それは相互媒介的として、何方も世界を表現する。而しそれは一方は写生が象徴を哺むものとし、一方は象徴が写生を包むものとして何処迄も相対立するのである。何方も世界の自己表現としてありつつ、相否定し合うものである。斯る否定に於て表現は愈々多様となり、言葉は愈々豊潤となって、世界は自己自身を創造するのである。

 争うとは優劣を決することである。ロマンチズムとリアリズムは、何方かの優勢として 時は流れる。而して一方の優勢は相互媒介の喪失である。相互媒介の喪失は、自覚的生命の自己喪失であり、創造の衰退である。其処に自覚的生命は劣者の反逆を起す。ここに世界は革(あらた)まり、劣勢なるものは優勢となるのである。言葉が物を含み、物が言葉を含む具体的生命は、自己の中に無限に否定し合うものをもつことによって自己を実現してゆくのである。而してそこに実現するのは常に無限に動的な自覚的生命としての人間の形相である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

日常の言表としての短歌について

クロバーの茂れる堤釣る人の踏みたる跡の一すじ低し

 ながい間御無沙汰していたけるかも会に、先日たまたま行った私の作品である。このときの井上氏の評と、私の動機に食い違いがあるので少し述べて見たいと思う。

 井上氏によれば踏まれた草は低くなってゆくのは当然である。このように当り前のこと を表現したのはつまらない。もっと作者の目が働かなければならないとのことであった。尤もである。当り前のことは初歩的な意識であり、表現として価値の低いものである。併し私にとって踏まれた草が低くなってゆくのは当り前ではなかったのである。例えば茂ったクロバーを、わらび採りなんかで人が踏み初めると、踏まれた草は莖が曲り葉は萎えて伏す。そして次に出て来る草丈は低くなり、茎や葉は表皮を厚くして踏まれることへの耐性をもつ。それが繰り返されると遂に地にへばりつく。私はこの次に出てくる葉が低くなることに、生命のはかり知ることの出来ない微妙を感ぜざるを得ないのである。単に変化ということがある筈がない。それはいのちのはたらきである。いのちのはたらきには機能がなければならない。その機能はどのような組成をもち、どれほどの年月を経たのであろうか、私はそこに気の遠くなるような思いを抱かざるを得ないのである。

 私達の日常の世界は当り前の世界である。この当り前の世界とは如何なる世界であろうか、そこに奇異なるものはない。併し私はそこに深大なるものがないのではないと思う。日々の繰り返しの中に意識が埋没し、当然として深大なるものを安易ならしめているのであるとおもう。ニュートンはリンゴの落ちるのを見て、宇宙を統括する大なる力の体系を見出した。人の呼び声に人が答える。それは当り前のことである。併し人類の壮大なる文化の世界はその上に樹立されているのである。我々の日常は日々の繰り返しである。その繰り返しは如何にして可能であるか、私達は繰り返する為に昨日と今日、去年と今年、親と子、祖先と我を結ぶものを持たなければならない。無限の過去と未来を結ぶものがなければならない。日常とは永遠の今としてあるということである。

 泰西文芸はその究極に崇高なるものの表現をもつと言われる。そこに悲劇の尚ばれる所以があるといわれる。そこにあるのは強大なる英雄の精神である。それに対して短歌の見出すものは日常であり、常民の営為である。ありなれた心の流れである。併し私はそれだからと言って、西洋詩より短歌が劣ると思うことは出来ない。

 詩の価値は如何に深く存在の根底を言表し得るかにあるのでなければならない。在るものとは個が全体であり、全体が個であり、瞬間が永遠であり、永遠が瞬間としてある。全体より個を見るところに、法則や公理としての理性があり、瞬間が永遠を孕むところに、芸術としての美がある。詩の評価は一瞬より一瞬への具象の流れの中に、如何に深く永遠を宿すかにあるのであるとおもう。

 永遠なるものは如何にして表現出来るのであろうか、私はそこに言表があるとおもう。我々の行々歩々は無限の過去と未来をもつことによってあるのである。現在の我を言葉によって捕捉するということは、斯る無限の時を捉えるということである。言葉は斯るものの表現手段として我々を超えたものである。日常を言表するとは、一瞬一瞬の生れて消えるものを捉えるのではなくして、一瞬一瞬を見るものとして、時を統括するものとして、永遠を捉えることである。私は短歌とは、存在の根底に至らんとする表現の日本的方向であるとおもう。日常を言表するとは、日常の根底に至ることである。

 斯く言うことは頭書の私の歌が佳い歌であるということではない。と言うよりは表現の 未熟の故に、意図に反して内藤先生、小紫博子さん等の集中砲火を浴びた作品である。唯私は日常の奥底にあるものを言いたいのである。けるかも会の諸氏は未練がましいと思われずに諒とされたい。

 尚禅家に日々是好日という言葉がある。私はこれは永遠の目によって捉えられた日々であるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

名刺(神の存在の証明)

 歌会の後で雑談に耽っていると、一老婦人より突然「貴方は神があると思われます か。」と尋ねられた。私は「神は我々があるとかないとか言うものではなく、私達がそれによつてあるものです。」と答えた。そして後日私の考へを明にすると約束した。一体私達があるというのは何うゆうことであろうか。私達は初対面の人に自己紹介をする時に大い名刺を差出す。その名刺には住所、氏名、職業が記載されているのが通常である。この住所、氏名、職業とは如何なるものであろうか。住所とは私達の祖先が汗を流して拓いた土地である。そして住居を作った処である。氏名とは、はるかな過去より血の神秘に於いて連綿として一統を維持し来ったものである。限り無き栄辱を潜めるものである。職業は技術として、人間を人間ならしめたものとして、無限の過去より承継し来ったものである。私は鎌を商うものであるが、鎌は収穫器として石器時代以前より木の股になった処をうすくして、木や草の実などを採取したところに初まるであろうと言われている。私達が今手にもつ鎌は、幾万年の技術の承継と発展の成果である。

 私達が名刺を受け取って読むとき、はかり知れない時間の上に作られた一人の生命 を見ているのである。自己とはこの生死する身体としての生命を超えたものとして、無限の過去を孕むものとしてあるのである。この感情的自己を絶対に超えるものとして自己なのである。勿論この生死する身体なくして生命はない、生命なきところに自己はない。而して自己とは生死する身体を超えたものであるとは、生死するこの身体が生死するものを超えた無限なる時間を内にもつと考えられなければならない。永遠なるものを宿すと考えられなければならない。名刺は生死するこの我の名刺である。而してこの我を生死を超えたものとして呈示するのである。斯るものは如何なるものであろうか。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。生命は能く知られている如く、種的なるものと個的なるものとの綜合として成立する。種とは個を超えて個によって形相を維持してゆく力である。個とは種の要素として種の形相を実現してゆくものである。故に個は個に対するものとして集団し、出産、死亡によって連続する。人間は斯る生命の自覚として、種の方向に世界が形成され、個の方向にこの我があるのである。

 種と個とは単に共存するのではない。生死するものは永遠なるものではない、永遠なるものは生死するものではない。我々の身体は一つである。この一つの身体に於いて、生死するものと永遠なるものは各々の形相を実現せんとするのである。それは否 定し合うものである。私達の小さい頃、よく秋の稲田で雌に食われる雄かまきりを見たものである。背を反らして耐え乍ら、それでも抵抗することなく腹の半ば迄食われ た姿をみると、悲傷の思いに耐えられなかったものである。種が種を維持する為には、個への斯る惨虐を内包するのである。蜘蛛は無数の子を産む、それは殆んどを死なしめることによって、幾匹かを残すべく産むのである。それは死としての環境と闘い来った生命の摂理である。

 人間とは斯る生命の自覚的なるものである。世界とは常に我々に否定として迫って くるものである。而して斯る否定をとうして我々は生きるのである。我々は世界を作 ることによって生きるのである。世界を作るには努力しなければならない。努力する とは今の自己を否定してゆくことである。動物に於いても個の死が種属の生であった。我々は世界を作る為に官能的欲求を超えなければならないのである。暖衣飽食は人間の敵である。世界を作るとは身体的欲求的自己を殺すことによって、より大なる生命に生きることである。私は名刺に記載する自己とは斯かる自己であるとおもう。

 自覚とは自己が自己を見てゆくことである。種は個を超えて個を包むものとして、種の自覚とは人類の初めと終りを結ぶものでなければならない。私は言葉とは斯るものをもったものであると思う。私達は言葉によって自己を知る。それと共にスメル文字を解読することによって六千年前の人の生き態を知るのである。そこには全人類一なるものがあるのでなければならない。無限の過去と未来を包むものがあるのでなければならない。我々が種的、個的としてあるということは、斯るものとしてあるのでなければならない。名刺は永遠の上に記された文字としてこの我なのである。

 全人類一にして、我々に死を命じ、死を介して我々を甦らせるもの、その上にのみこの我があるもの、私はこれを神とするものである。眞、善、美とは永遠を実現したこの我に外ならないと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

集団行動

 先日夕方病院近くを歩いていると、鳥の群れが束になってうねるように移動しているのをみかけました。季節的に「渡り鳥」の移動かと思われましたが、「ヌー」という草食動物が食料となる草原を求めて大きな群れを作って集団で大移動をすることや、シマウマやイワシ、ペンギン、アリなどの小動物まで集団移動をすることはご存じのことでしょう。この現象を「マーマレーション」と呼ばれており、リーダーシップをとるものがいなくても周囲の生物の行動を仲間の目印やフェロモン、時には超音波などのシグナルを受け取ってまとまった集団行動を行うものとされています。集団で行動をすることにより捕食者から自分たちを防衛することが一番大きい目的のようです。

移動する鳥の群れ(無料イラストより)

 さらに驚くことに、生物だけでなく、細胞の分化や器官の発生、細胞間の相互作用など、遺伝子や細胞レベルでも、隣の遺伝子や細胞からシグナルを受け取ってこのような集団行動を行っているのです。例えば腸管の蠕動を司る神経節細胞などは胎生期に神経堤というところから食道へまず遊走しその後腸管の壁内を下方へ直腸を目指して一斉に細胞が集団行動を起こすわけです。一説によるとSNSで広がる誹謗中傷もこのような集団行動の1つとされており、同じ種の集団では利益となるひとつの方向に向くときには良いのですが、大回遊するニシンは一気に捕獲され我々の食料になるように、扇動されやすい人間の集団は間違った方向に行くと第二次世界大戦の日独伊三国のように大きな悲劇につながるのです。純粋で真面目な集団ほど同調圧力に左右されやすいので気を付けないといけないかも知れません。

(2023.5)

腸管神経前駆細胞が食道から胃を通り、小腸、大腸に移動する(Nature Neuroscience 2012より)

 「ブラームスはお好き?」

これはフランソワーズ・サガンの小説の題名ですが、皆さまご存知ですか?多分、読まれたことはなくてもフレーズくらいは聞いたという方は多いと思います。「さよならをもう一度」というイングリッド・バーグマンとイブ・モンタン主演で映画化されており、自立した女性ポール(バーグマン)がお互いを束縛しないという中年男性ロジェ(モンタン)と純粋で一途な青年フィリップ(原作はシモンでアンソニー・パーキンス演)との間で揺れ動く女性が主人公の物語です。私は中学2年生の時に友人と見に行きましたが、内容(特にポールの気持ちなど)は全く理解できませんでした。唯、全体に流れるブラームス交響曲3番の3楽章が様々に変化する甘美なメロディーのみ頭に残っています。

 

ブラームスはベートーヴェンの正統派の後継者として絶対音楽を守ってきた作曲家で、チャラいオペラなどの作品は無いのですが交響曲を4曲書いています。「ベートーヴェンの幻影が背後から行進して来るのを感じる」ためなかなか交響曲を作ることができず、最初の第1番を書くのに約20年かかった話は有名です。先日大阪フェスティバルホールでこの交響曲全曲をそれぞれ関西在籍の交響楽団とその専属指揮者が演奏するという、「関西人らしいどぎつい」企画が催されました。順番は交響曲3番→4番→2番→1番となり、1曲ごとに指揮者は勿論楽団全員が入れ替わるので大変ですが、写真撮影OKでマスク着用要請やブラボー禁止令は無く、かなり客へのサービスが行き届いていました。ただ、トータルの演奏時間は4時間を超え、どの曲も美しいけど重苦しいため、終わった時には「雷に打たれた」ようにどっと疲れが押し寄せしばらく放心状態が続きました。上記の「ブラームスはお好きですか?」というのは、サガンの原作小説では若く一途なシモンがポールとの最初のデートにさりげなく誘う手紙の一文にあります。舞台はパリの「サル・プレイエルホール(パリ管弦楽団などの本拠地)」というお洒落なコンサートホールで正装をしたカップルが美しい曲を聴くのですが、これを大阪フェスティバルホールにあてはめてみると4時間近く重苦しい交響曲を4つというどぎつい関西人の毒気に中てられて、果たして最初のデートがうまく行くのでしょうか。皆さんはどう思われますか? 

(普通 4つの交響曲連ちゃんには誘わないかと!!笑笑)

(2023.5)

ブラームス交響曲第2番を演奏する指揮者飯守泰次郎氏と関西フィルハーモニー管弦楽団

言葉が整うということ

 先日天神の方へ行った序に湖内さんの見舞に寄った。顔の腫みは大分引いたようなので 「この頃歌の方は何うです」と聞くと、「ヘヘヘ」と笑っておられた。傍から奥さんが、「食欲の方は出て来たようですが、何もする気が無いんです」と言われた。氏は笑っておられた。「脳の意欲の座が冒されられたのでしょうか」と言うと、「お医者さんもそう言われるのです」との事であった。私はあの静かな中に潜められた、激しい表現意欲は何処へ行ったのであろうかと思った。

 二十数年前にもなろうか、私は湖内さんを訪ねては呑み且つ談じたものである。それは哲学、宗教にも亘ったが、概ね短歌に関するものであった。私が取材角度、発想を最も重要なる核心としたに対して、氏は文章が整っているということを重要視された。常に「言葉がちゃんとしていたら、それでよろしいやないかいな」と言われた。私は私の主張を今も捨てる気はない。併し今二部の撰評をしながら氏の言われたことの重要さを熟々と思っている。

 言葉は我と汝が交すものである。湖内さんとでもそうであったが、初めから何かを言おうとしたのではない。偶然にも似た話題の発端から、お互いの応答によって言葉が生れてくるのである。何かを言おうとして行った場合でも、一方的に自分の言葉があるのではない。相手の言葉によって自分に新たな言葉が生れるべく交すのである。我と汝が交すということは、我と汝によって言葉があるとともに、言葉によって我と汝があるということである。私の言葉は何処迄も私の言葉であると共に、この我を超えて、そこにこの我を映すことによってこの我があるものである。言葉はその秩序に於て、我と汝をあらしめるものである。

 我々は言葉によって無限の過去を伝承し、無限の過去へ伝達する。言葉とは生命が初めと終りを結ぶものとして、自己自身を表現するものである。初めと終りを結ぶとは、言葉をもつものが一であることである。言葉は一人一人がもつ。それは交すことによってあるものとして無数の人がもつ。言葉が一つであるとはこの無数の人が一であることである。時間は人の営為であり、初めと終りを結ぶとは、無数の人々が一であるとゆうことである。多くのものが一であるということが秩序があるということである。

 多が一として我々が対話することは、初めと終りを結ぶものの内容となることである。 初めと終りを結ぶものを実現してゆくことである。初めと終りを結ぶものが、はたらくも のとして自己を実現してゆくことである。無数の人々が一なるところが世界であり、我々は世界の自己実現の内容となることによって自己を見出してゆくのである。斯る世界の自己実現が言葉によって成就するのである。

 我々が世界の内容として自己があり、世界が言葉によって実現するとは、言葉の構成は我々の自己構成であり、言葉の秩序は自己の秩序であるということである。そこに私は言葉が整うということの重要さがあると思う。表現とは自己を外に見ることである。それが整っていないことは、自覚としての自己が破綻していることである。

 整っているとは、全文字が一つの主題、一つの感動を構成していることである。如何に長大な文章と雖一つの核がなければならない。その構成のあり方が表現の密度である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」