抒情詩としての短歌の表現について

 動物の生命は行動的である。人間も動物として行動に於て生命を維持してゆくもので ある。斯る行動は何処からくるのであろうか、私はそこに生命の内外相互転換を見ることが出来るとおもう。内外相互転換とは内を外とし、外を内とすることである。それによって生命を維持するとは外を食物とし、内を身体とすることである。食物は身体ならざるものである。それを捕捉するために身体を動かすのが行動である。

 私は感覚と感情はここに生れるとおもう。我ならざるものを捕捉するために識別がはたらかなければならない。食物として適当なものと不適当なものの撰別がなければならない。感覚は識別作用であると言われる。感覚はそこに萌芽をもつのであるとおもう。食物を捕捉したときそこに身体は充足をもつ、その反対は空虚であり、奪われたときには反撃して取り返さんとする、そこによろこびかなしみ怒りの湧き来る根源があるとおもう。そこに感情があるのである。

 感覚と感情は行動の両端として行動に於て一である。行動に於て一であるとはこの両端を見ることが行動であるということである。感情は主体に即するものとして、感覚は対象に即するものとして相反するものである、相反するものが一つとして行動はあるということである。生命が行動に於て自己自身を維持するとき、行動は生命の具体でなければならない。行動に於て自己を実現してゆくのである。斯る行動がその一極に感覚をもち、反極に感情をもつということは、生命は感覚と感情に自己を見てゆくということである。感覚と感情が一なるところに生命の具体があるということである。

 行動に於て生命が自己を実現してゆくことは、行動は生命形成としての行動である。感覚と感情は生命形成としての両極となるのである。私はそこに感覚と感情の相即的な展開を見ることが出来るとおもう。相即的な展開とは、感覚は感情によって自己の展開をもち感情は感覚によって自己の展開をもつということである。内に感情がはたらくことが、外に多彩な感覚が生れることであり、外に多彩な感覚が生れることが、内に豊潤な感情が生れることである。それが行動に於て一なることが相即ということである。事実として感覚の識別作用は単に物に対するより起るのではない。例えば愛児が風邪に罹ったとき、わずかな力の衰えや、かすかな顔色の変化を識別するのである。われわれが畑を見ても種々な野菜があるなあと思うくらいである。併し栽培者は水や肥料の過不足、日照りや病害等をその葉や茎に見るのである。識別を動かすものは愛であり、愛はよろこびかなしみに現われるのである。よろこびかなしみが識別するのである。

 亦感情は感覚の識別の多様を内にもつことによってより深い自己の陰翳をもつことが出来るのである。画家は色彩の中に色彩を見ると言われる。画家はそれを描くことによって見てゆくのである。識別作用とは創造作用である。画家がチューリップを描こうとして新たな赤い色を見出したということは、視覚的生命をより大ならしめたことである。画家はそこにより大なるよろこびをもつのである。私達はその顕著なる例を陶工柿右衛門にもつ、椽側の板迄焚いたと言われる彼が、目差した色彩を実現したときそのよろこびは如何に大であったであろうか。そして私はその後の彼はこれ迄の感情生活を一変せしめる程の豊かなものをもったとおもうものである。それは勿論視覚に関るもののみではない、味覚に於てもより微妙な味わいを見出した料理人は、そこに言い知れない充足感をもつとおもう。私は豊かな人間とは、裡に何処迄も識別としての感覚を潜めた感情の持主であるとおもう。偉大なる人間とは大なる創作力をもった人間であり、大なる創作とは、大なる識別と統一であるとおもう。

 私は短歌を作るものであるが、短歌ではよく観念と具象が言われる。私はこの観念と具象に、感情と感覚の具体的な姿があるとおもう。観念とは主体の方に成立するものである。私はそこに感情に映された感覚を見ることが出来るとおもう。感情が感覚の陰翳を宿したところに成立するとおもう。識別の多に自己を見出してゆく主体的一の成立が観念であるとおもう。

 それに対して具象とは感覚の識別的多が感情的一を含んだところに成立するとおもう。具象とは一つの全体像である。例えば色彩がいくらあっても具象ではない。そこには意味による統一がなければならない。多の一々が全体の構成者として、全体を帯びるところに多があるのである。識別とは分けてゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことは、見られた一々、識別された一々は全体的一者の姿であるということである。私は識別された一々が全体が孕むところに具象があるとおもう。そこに識別としての感覚的多が感情的一を含むのである。斯るものとしての短歌表現は如何にあるべきであろうか。

 私は短歌は抒情詩として生命形成の主体的方向に成立するものであり、識別されたものの方向ではなくして、識別するものとしての観念の表現であるべきであるとおもう。観念が自己自身を見るところに抒情詩があるとおもう。而して観念の表現なるが故にその内容は何処迄も具象でなければならないとおもう。前にも書いた如く、感情的一は感覚的多をもつことによって感情的一である。そこに感情は陰翳の深さを増すのである。嬉しいという言葉は嬉しい事ではない、嬉しいことを内容として出る言葉である。嬉しいという事は病気の孫の頬に赤さが戻って来たといった事である。それ故にこの場合抒情的表現としては、臥せている孫の頰に赤さが戻って来ただけでよいのである、それで嬉しいということは表現されているのである。生命営むと言ってもそれは何も表わすものではない。春の若芽のかすかな緑の移りを言うとき、そこに生命の営みは語られているのである。

 それは感覚的な識別の方向に見出される物が、物理学的な法則としての一般概念に捉えられるのと対をなすとおもう。自然科学が一般が個を包むのに対して、芸術に於ては個が一般を包むのである。若芽の緑のかすかな移りを見る目は、人類が限りない哀歓の上に養なって来た目である。具象で捉える根底には時間の普遍があるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

自覚について

自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、見られたものものも亦見るものでなければならない。見られたものものも亦自己が自己を見るものであることによって自己が自己を見ると言い得るのであるとおもう。私達の自覚とは斯る無限の創造的形成の上に成立するのであるとおもう。

見られたものとは何か、それは森羅万象としてのわれわれを取り巻く環境である。草木瓦礫であり、虫類鳥獣であり、人類社会である。見られたものも亦自己が自己を見るものであるとは、斯るものの全てが自己が自己を見るものでなければならない。われわれ人間の自覚は斯るものの上に成立するのでなければならない。併し私達は瓦礫が自己を見るものであるとおもうことは出来ない。草木も亦意識をもつとおもうことは出来ない、意識なき処に自己が自己を見ることが出来るとおもうことは出来ない。而してそこには見られたものが見るものであるわれわれの自覚は成立することが出来ないと言わなければならない。見られたものが見るものであるとは如何にして成立するのであるか、草木瓦礫が自己を見るとは如何なることであるか。私はその為に深く自己の根源に還ってみなければならないとおもう。

生命は幾つかの元素の結合によって出来たと言われる。斯る元素は宇宙の爆発により、 最初素粒子が出来、素粒子から原子、原子から分子が出来たと言われるその分子であり、 その分子が集合して宇宙を構成すると言われるものである。 それによって宇宙が出来たとすれば、われわれの淵源も亦遠く此処に存すると言わなければならない。われわれも亦宇宙の一塵として、宇宙生成の一要素として、その内容としてあるのでなければない。即ち宇宙生成の中に人間生命の出現の胚種があったと言わなければならない。最初に全てが素粒子であったときに、素粒子は生命を胚胎すべきものをもっていたと言わなければならない。斯る素粒子が分子化の過程に於て気体となり液体となり、固体となり、岩石とな り、金属となり、空気となり、水となったのである。 それで生命も斯る中に生れたのである。斯る中に生れたとは宇宙生成の力動的関係の中に生れたということである。力動的関係の中に生れたとは、力として他者と相対立することである。他者と相対立するということは、他者によって否定されると共に、他者を否定せんとすることである。他者によっ て否定されるとは自己の消滅を意味すると共に、他者を否定するとは、自己が宇宙の全存在たらんとすることである。而して他者の否定として自己の肯定があるとき、全ての他者の消滅は否定すべきものの消滅として自己の消滅でなければならない。他者の消滅が自己の消滅であるとは、他者も亦消滅と全存在を両極としてもつものでなければならない。対立するとは消滅と全存在を両極にもつことによって対立し、そこに力動的関係が生れる のである。そして宇宙は自己の形を見出でてゆくのである。力動的関係とは宇宙の自己形成なるが故に、宇宙の一要素としてあるものは、否定の対象を失なうことは亦自己を失なうこととなるのである。力動的関係とは宇宙の生成運動である。生命は斯る宇宙生成の中より生れたものとして、常に対立が統一であり、統一が対立である。対立の方向に個の形成があり、統一の方向に宇宙の形成があるのである。

三菱化成生命化学研究所の柳川弘志氏は「生命は入れ物をもち、自己複製、自己増殖が出来、自己維持機能をもち、進化する能力をもつものである。すなわち細胞膜をもち、外界から自己を維持するのに必要な素材やエネルギーを取り込み、DNAの遺伝情報にしたがってタンパク質を合成し、その触媒作用によって種々の構成成分を合成、分解することの出来る進化する分子機械であるといえる」と言っておられる。入れ物をもつとは個体として成立するということであろう。細胞膜は必要とするものはどんどん取り入れ、いらなくなったものを外に排出するといわれる。それは外としての他者と対立するということであろう。取り入れるとは自己ならざるものでなければならない。他者を否定して自己となすことでなければならない。そしてそれは亦他者によって作られるものとして、他者によって作られるものである。自己複製が出来、自己増殖が出来るとは生命は形相実現的であるということであろう。形を高密度化することによって自己を見出してゆくということであろう。自己維持機能をもつとは生命が何等かの意味で不滅なるものを持つことであろう。維持機能をもつと言われるには、生命は滅するものであり、滅することを克服して生を保つものでなければならない。その根底には全体者が時間を超えて自己自身を見てゆくものがなければならないとおもう。進化するとは機能のより高い実現を目指しているということであろう。

生命の単位は細胞であるといわれる。無数にある細胞の一々が斯る生命の条件を具備するのである。細胞が無数にあってその各々が生存せんとすることは一々の細胞が他の無数の細胞に対するということである。恰も素粒子が他の素粒子に対する如きものである。それが細胞に於てはその特性に於て持続的形成的となり、はたらくものとその対象として主体と環境となるのである。生命の否定とは死である。対するとは相互否定的なることであり、相互否定的とは死をもって相対することである。環境とは生命にとって死をもって囲繞するものとして環境である。それは単に細胞が細胞に対するのみではない。細胞は細胞が出来った生命以前をも背負うのである。宇宙の力動的関係をも背負うのである。否細胞も亦力動的関係の宇宙の生成運動の中より出で来ったものとして、宇宙の生成の内容としてあるのである。斯るものとして私は環境の二重構造を見ることが出来るとおもう。一つは素粒子より生命出現迄の根元的な力である。一つは其の中より出で来った生命として生命が他の生命に対するものである。そして私は後者が環境としてより深大なるものをもつのであるとおもう。われわれは生命創造の尖端に立つのであり、単細胞動物より多細胞動物へ、水棲動物より両棲動物、更に爬虫類、哺乳類、霊長類、人類へと進化して来たものである。高度化したものは高度化したものに対するのである。 そして私は最も高度化したものとして人が人に対すところに最も高度なものがあるとおもう。環境として最も深大なるものは人間環境であり、社会環境であるとおもう。

生命が生命の環境となるとは、生命が食物連鎖としてあることであるとおもう。植物は 光合成に於て自己の必要とする物質やエネルギーを獲得する。併し動物に於ては植物が形成した細胞を獲得し、更にその動物を獲得することによって必要な物質やエネルギーを補給するのである。その世界は殺し合いの世界であり、弱肉強食の世界であり、自然陶汰の世界である。併し対立は形成であるところに世界形成はあるのである。対手を食べようとし、或は逃れようとするところより生命は様々の機能を創出するのである。桑原万寿太郎氏はその著「動物の本能」に於て驚異とも言うべき動物の本能の生態を紹介し、「本能行動の先生は自然陶汰であったようである」と言っておられる。以前にも書いたことがあるが、我々人間の祖先がまだ無顎類動物であった頃、同じ無顎類の巨大で獰猛なウミサソリに食われ続け、遂に背中に甲羅が出来てウミサソリが食うことが出来なくなって絶滅し、やがてその甲羅が身体の中に入って骨格となり、現在のわれわれの形体の基礎となってアメリカの著名な生物学者が「われわれはウミサソリに感謝しなければならない」と言ったというのを読んだことがある。同書には亦一億五千万年程前から六千五百万年程前の恐竜の時代に住んでいたわれわれの祖先が恐竜に食われ続け、それより逃れんが為に夜行性動物となり、脳量が他の動物と体積比四、五倍となり、同学者は「われわれは恐竜に感謝しなければならない」と言ったと書かれていた。食われることによって新たな機能と身体をもったのである。万の生命は食物連鎖であることによってより大なる能力を獲得したのである。生命はそこに自己創造をもつのである。人間は斯る自然陶の克服の上にあるのである。祖先の限りない闘争と死の上に今日のわれわれの生命をもつのである。

自然陶汰の世界は適者生存の世界である。適者生存とは環境を映し、環境に映されることである。環境を作り、環境に作られるのである。蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言われる。併しその甲羅は生棲の条件によって作られたのである。映し映されるものとして生命の形は常に環境の総和の意味をもつのである。水中に棲む魚が鱗をもち、泥中に棲む魚がぬめりをもつ如く、棲むために気温、地形に適応した身体とならなければならない。斯る形態に於て他者との生存競争をもつのである。生死に於て新たな形態を獲得するとは、より大きく環境を映し、環境に映されるものとして、身体の環境の総和の意をより明めるものである。生命は死をもつことによってより大なる自己を見出でてゆくのである。内に否定をもち否定を媒介することによってより明らかな自己を見出でてゆくのである。それは全生命としての宇宙的生命とでも言うべきものである。生命と生命が生死をもって対立するものを内にもつものとして自己を見てゆくものは生死するものではない。それはより大なる生命でなければならない。それは形に見てゆく形なき生命として全生命というより他なき生命である。

数万年前ネアンデルタール人が墳墓を作り、花を供えた時より人間は人間になったというのを何かで読んだことがある。私はその事に深い共感をもつものである。墳墓を作ったとは死者と我とをつなぐのをもったということである。過去によって現在があるということである。生命の営みは一瞬一瞬の内外相互転換である。外を内とし、内を外とする止まることなき流れである。死者とわれをつなぐものをもったということは一瞬一瞬を超えるものをもったということである。内外相互転換を内に包むものとなったということである。花を供えたということは、過去と現在をつなぐいのちが死者によって喪われということであり、喪われたものを死者とわれが共に愛したものによってつなぐということである。

人間のみにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。言葉とは何か、言葉を作った人はないと言われる。作った人がないとは、誰のものでもなくて誰のものでもあることである。呼び交すところにあり、応答の内容であることである。限りない人々が呼び交すところより生れ来たったのである。誰のものでもなくて誰のものでもあるとは全ての人を包むということである。昔わが国に語部というのが有って民族の伝承を語り継いだと言われる。語り継ぐとは過去を未来へ伝達することである。それは過去と未来が呼び交すことであると同時に、言葉が過去と未来を包むということである。また人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手とは物を製作的にはものである、製作するとは技術をもつことである。かかる技術は天より来たのでもなければ地から湧いたのでもない。環境と身体の闘いから出で来たったものである。而して単なる闘いから技術は出て来ない。そこに経験の蓄積がなければならない、無数の人々の無限の経験が行為的現在の一点に結合する時、新たな環境と身体の形が現われるのである。それが外の方向に物の製作であり、内の方向に技術である。技術の発展と言葉の発展は軌を一にすると言われる。私はそこに共に瞬間的な生命限定を超えてそれを包んだより大なる生命の自己限定が見られなければならないとおもう。私は人間が人間になったとはこの超越としてのより大なる生命の現れをもったことにあるとおもう。墳墓を作ることも、言葉をもつことも、技術をもつことも共に対立するものを超えたところに見られるものである。それは逆に言えばより大なる生命がそこに自己を露わにしたということである。より大なる生命とは何か、それは素粒子の対立を内容として宇宙が自己形成をもつ如き一者の成立である。勿論それは突然現われたのではない、初めからあったのである。それが対立の底に露わとなったのである。形成作用としての生命の底に翻ったのである。底から対立を写すもの、見るものとなったのである。私はそこにわれわれの自覚を見ることが出来るとおもう。自覚とは自己が自己を見ることである。この我が我を知るのが自覚である。併しての我から自己が何処より来たったかを知ることは出来ない。唯斯る自己があるというだけである。それは真に我の知的要求を満たす自己ではない、われわれの自己は自己を全人類に写し、全生命に写し、宇宙に写すことによってあるのである。無限の時間の中に高々百年未満で生死する生命はうたかた以外の何ものでもない。自分を馬鹿だと思っているものはないと言われる。斯る確信は自己を永遠に映すところよりくるのである。勿論永遠の自覚をもつというのではない。言葉をもち、技術的にはたらくとき、言葉や技術のもつ超時間性が意識下に生れるのである。真の自覚はこの意識下に現われたものが言葉に現われることである。旧約聖書の創世紀のはじめに神の霊水があったというのがある。太初に胚胎していた生命と物質に分れるべきものが、素粒子の中に分子を生み、分子の中に生命を生み、単細胞動物より多細胞動物、そして遂に言葉をもつ生命に達した時の深さがわれわれの確信を生むのである。道元は「此生、他生の最善最勝の生なり」という。宇宙形成の中核の感情より確信は生れるのである。

宇宙一なる生命がはたらくといっても、宇宙一なる生命があるのではない。あるのはこの我であり汝である。我と汝は個体として対い合うものである。それは動物の自然陶汰の流れを汲むものである。対立は相互否定であり、闘争である。われわれも亦相互否定と対立を失うものではない。動物の中より出で来ったものとして何処迄も闘争をもつのである。唯その闘争の意味が変質するのである。それは個体保存にのみ生きるのではない、われわれの身体が宇宙を写したものとして、写し返すものとなるのである。身体は宇宙が形成し 来った最後のものとして、身体より逆に宇宙を作るものとなるのである。そこに真に宇宙が宇宙を見るものとなろうとするのである、身体は創造的身体となるのである。技術をもっと斯る生命となることである。外に世界を作るということは、身体が内に世界をもつということである。身は外に物を作ることによって内に世界をもつものとなるのである。ここに生命は世界形成的となり、自己保存、種族保存本能は郷土愛となり、愛国心となり、人類愛となるのである。闘争は世界形成的自己の闘争となるのである。個体は世界を内にもつものとして個性となり、世界を内にもつものとして、己れの内なる世界を外に実現せんとするのである。人々はこれが世界の中心たらんとして争うのである。而して世界形成的に争うことは、世界が益々自己の形を露わにすることである。

かかる形成は何処迄も否定的形成である。世界を内にもつとは自己が世界になるということである。世界の中に消えてゆくことである。世界の中に死することによって世界を実現してゆくことである。そして斯る実現が世界を作ることである。而して世界を作ることは世界が我の中に消えることである。自己が世界を否定して自己が世界となることである。我が世界となることは世界が我となることであり、世界が我となることが我が世界となることである。この我が自己の中に見る世界を他にして世界があるのではない。併しての我は世界ではない。世界の中の一個物である。個物として個物と対立するものである。ということは無数の個物が自己の中に世界をもつものとして対立するということでなければならない。この我は無数の汝と対立するのである。斯る世界と世界が対立するところより言葉は生れるのである。而して対立は関り合うものとして一である。斯るより高次なる一が生れるのも我や汝の中である。我と汝が対立と統一の中から生れた新たな言葉をもち、対話するというのがより高い世界が出現したということである。われわれは人類として 無数の汝に対するのである。対するとは対話するのである。それは言葉に生きるものとし無限の過去と未来を結ぶものである。われわれが死ぬとは斯る中に死ぬのである。われは無数の中の一として、無数の人々の言葉の中に言葉をもつものとして、その言葉によってあらしめられるものとして、無数の他者によってあるものとして自己を殺すのである。自己を殺すとは無数の他者の言葉を自己の内容とすることである。自己によってあるのではなく、無数の他者によってあらしめられることである。而して無数の人々によってあり、その言葉を内にもつものとして、われわれは生死を超えて確固たる自己となるのである。

生死の問題は複雑である。それは我々が死を知るところより来るのである。死を知るとは死を自己の中にもつことである。死ぬ自己としてわれわれは死をもつと共に、死ぬ自己を知るものとして死を超えたものである。而して死ぬとは生死する自己が死んで死を知る自己が残るというものではない。死を知る自己が死ぬから死である。死を知る者にとって、死を知らないものの死は真の死ではない、死を知るものの死は絶対の死である。死を知るものはそれを生れたときよりもつ避くべからざる運命として知るのである、そこに不安と恐怖、死の限りなき悲しみがある。而してこの絶対の死こそが絶対の生へ転ぜしむるものなのである。限りない悲しみが己が存在の根源へと回帰せしめるのである。不安、恐怖、限りない悲しみは死を知るものの現在である。そこに言葉をもついのちに転ずるのである。転ずるとは言葉によってあらわれ、言葉によって生かされるわれとなるのである。無限の他者との対話が一なる中にあらわれ、そしてそれは無限の他者を自己の中にもつわれとして生きるものとなるのである。それは以前の生命が死して新たに生れることである。併しそれは生死がなくなったのではない、新たに生れたものとは以前の中より生れつつ以前のものを包むものとして新たなのである。死は依然として深いかなしみである。これを包むとは死へのかなしみをより大なる生へ転ずる契機と見ることである。生死のよろこび、かなしみを底深く湛えたものとなるのである。言葉は生死の中より生れたのである、それが逆に生死を包むものとなったのである。ここに宇宙的生命の開顕があるのである。宇宙的生命という特別のものがあるのではなくして、この我に即して開顕してゆくのである。対立が一として開顕してゆくのである。われわれの自己はそれによってあり、それによって生きるものとなるのである。自己がそれによってあり、それによって生きるのが客観的事実の世界である。われわれの自覚は客観的事実の形成としての自覚である。客観的事実とは宇宙の自己開顕である。

客観的世界は歴史的形成的である、その中に於てわれわれは対象を作り、対象に作られるものとなるのである。対象を作るとは、世界の中に作られたものが作るものとして世界に対し、世界を再構築せんとすることである。対象に作られるとは、われがあるとはどこも世界を写すことによってあるのであり、作った世界はわれの影を宿すものであり乍ら、世界としてわれわれはその中に生きるのであり、他者として外として対立し、否定し来るものとしてそれを自己の内容としてのみ生存をもち得るものとなることである。自己の内容とすることが写すことであり、作られることである。何処迄も写し写されるものとして形造ってゆくのである。作られた世界は写されて写すものとして更に密度の高い世界となるのである。作るものとしてのこの我は密度の高い世界を写すものとしてより大なる能力をもつものとなるのである。化学者ノーベルは対象の中から火薬という大なる力を人類の為にとり出した。併しその力はより大なる殺傷をもつものとして外として対立するものとなった。ものを作るとは自己の生存を対象に映すのであり、対象はより密度高い外としてより大なる危機として迫ってくるのである。縄文時代に入って大なる戦乱が多発したと言われるのも道具の発明に関るものとおもう。更に写し映され、作り作られるものとして、われわれは原子力機器を作り、化学製品を作り、電子機器を作った。それは飛躍的な生活の向上と共に、戦争として、環境破壊として人類滅亡の危機を孕むものである。私は歴史は常に危機と危機の救済としてあるとおもう。歴史的発展とは斯る危機の増大とその救済としての克服の無限の過程であるとおもう。生命は危機と救済として自己を形成してゆくのである。歴史とは斯る生命形成である。

作られたものが作るものになるとは、世界の中にあるものが世界に対立するものとなることである。対立するとは逆に世界を内にもつことによって、内の世界と外の世界が対立するのである。生命がその自己保存としての営為の経験を蓄積することである。自然の生命の流れを堰き止めて時の統一者として、自然の営為を自己の目的に構築することである。斯る蓄積を言葉によってもつのである。言葉とは語り合うものであり、それは無数の人々の間より出で来ったものである、即ち経験の蓄積は無数の人々によってあり、無数の人々によって担われるものである。実言葉は生産の発展、道具の増大と共に複雑化したと言われる。そのことは言葉によって道具の発展、生産の増大があったということである。経験の蓄積として歴史があり、無数の人々が対話するものとして蓄積を担うとは、対話をもつ無数の人々が歴史的主体となるということである。斯る歴史的主体が対象を作り、対象に作られるものとして危機を担うものである。危機は物と生命、主体と客体、我と汝の対立の中に必然的に潜むものであり、斯る対立を通じて世界が自己を形成するとは、世界は危機を媒介として自己を形成するものであり、危機は救済をもつということでなければ ならない。

世界が形成的世界として、対象がより大なる力を見出したということは物がより大なる言葉を孕んだということである。内と外に言葉の均衡が破れようとすることである。この救済は歴史的主体が新たな言葉を孕むことでなければならない。そしてそれはより大なる物の力の中より聞えてくるのである。われわれは危機としての呼び交しの中からその言葉 を聞き出すのである。それに従うものは生き、それに背くものは死ぬのである。そこに神の声がある。その声を聞くときわれわれは真個の自己となるのである。それは危機の世界よりの声を聞いたものとして大なる力であると共に、世界によってあるものとして絶対に無力である。世界が世界を運ぶ影として無なると共に、運ぶ世界を担うものとして絶対の有である。善も美もここより生れるのである。われわれは力の究極に神を置く、併し神とは外より大なる力がはたらくのではない、単に外にはたらく力は知りようがない。それはわれわれの根底としての我ならざるのである。無数の声の一が神の声であった如く、無数の力の一として、力の究極はあるのである。われも亦声をもつもの、力をもつものとして、われと汝の関りは深く神の大いなるものにつながるのである。神の中にあるわれは逆に自己の深奥に神をもつのである。超越的なるものは内在的なるものとなるのである。われわれはそこに大いなる言葉、大いなる力を得ると共に世界に運ばれるものとして、言葉が言葉を運び、力が力を運ぶものとして、それによってあるものとして絶対の無知無力となるのである。宇宙は言葉に満ち、力に満ちたものとなるのであり、われわれはそれによってあるものとして、それを返照するものとなるのである。

知るということもここからくるのである。田辺元博士はその著哲学通論に於て「肯定的 判断主観は自己に対立する否定者を予想し、自己の内に否定者としての汝を含む社会的な我としてのみ成立する。即ち直接なる肯定者としての個人的我に対し否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められたる社会我が判断の主観となり、其内に於て個人的なる我と汝が相対立すると言っていい。而して我は汝に対してのみ我があるから、直接なる概念の統一に対応する主観は我として具体化せられた主観ということは出来ない。判断に至って始めて我というものが現れる。」と言っておられる。個人的我に対して否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められるとは如何なることであろうか。低次なるものから高次に至る道はない、われわれは自己によって対立するものをもつことは出来ない、我と汝が対立するとは我と汝を包んだものの内容として対立するのでなければならない。即ち超個人的なるものに高められるとは、我と汝が対立することが我と汝を包んだ超個人的なるものが自己を露わにすることでなければならない。超個人的なるものに照されてわれわれは高められるのである。判断は超個人的なるものが自己を露わにしてゆく内容であり、判断に至って始めて我というものが現れるとは、超個人的なるものに照されて我は真の我となるのでなければならない。その我は判断の中より生れたものとして判断する我でなければならない。超個人的なるものが自己を露わにするとは、我と汝の対立が超個人的なるものに照らされたものとして照り返すことである。我をあらしめるものによって出で来る言葉に、我をあらしめるものを映し出すことである。そこに思惟があるのである。自覚として自己が自己を知るということもここより来るのである。」と書いておられる。博士も推論によって社会我が自覚せられると言っておられる。われわれが考えるとは世界が世界を運ぶ形としてわれわれにはたらくのである。われわれは考えることによって常にわれより出でて世界の中に入ってゆくのである。それは世界が世界を見る内容として世界が実現してゆくことである。

世界が自己の中に自己を見るとき見られたものは世界が実現したということでなければならない。そして実現した世界が更に自己の中に自己を見るところに世界がはたらくということがあるのでなければならない。私は歴史的形成というものも斯るはたらきとしてあるのであるとおもう。われわれの自己も亦歴史的世界に於て真にはたらく自己となるのである。以下私は歴史の様相を見ることによって自己を尋ねてみたいとおもう。前にも書いた如く歴史を成立せしめるものは主体と環境の相互転換を構成的ならしめる主体の技術の獲得であり、技術の具現としての道具の使用である。道具の使用によって内に転換すべき外としての物を飛躍的に増大せしめたのである。而してそのことは環境と主体の対立、我と汝の対立を解消せしめたのではない、否逆に飛躍的に増大せしめたのである。食糧の増産は人口の増大を招いた、人口の増大は生産の増大をもたらすと共に、凶作に於ける飢餓の増大をもたらすものである。生産が大となるに随って自然の暴威は大となるのである。治山治水に大なる労力を要求するのである。我と汝は生産物、生産手段の争奪をなすものとなるのである。伝えられる卑弥呼の項の天下大乱は斯る現れの第一段階であるとおもう。そこに強大なる力が要求される、その力は人間の結束であり、集団である。そしてその統率者は矛盾対立の増大につれて力を増してくるものとなるのであり、大王が出現するのである。大王の出現は亦奴隷の出現である。戦に敗れたものは単なる生産力として勝者に隷属 し、勝者の生活に奉仕するものとなるのである。戦乱は曽って経験しなかった酸鼻をもたらし、奴隷は勝者のあらゆる苦痛を押し付けられる悲惨の生涯をもつものとなったのである。集団のより大なる力への進展は組織が要求され、組織の進展はその頂点に立つ統率者を益々大ならしめて、遂には全ての力を統率者の所有とするのである。勿論統率者は個人として所有するのではない、全体表象として、集団の威厳として所有するのである。組織は組織の論理の要請をもつ、それは多数のものを一ならしめるものである。そこから新しい行為の基準が求められ倫理としての道徳が生れる。その内容は全体表象の状況によって決定されるのである。大王の統率の下に於ては統率者の仁慈と服従者の忠誠が要求されるのである。多数が一としての大なる力はその力の表象をもとうとする、それが表われるのは先ず衣食住である。衣は位階を表わすものとなるのであり、食は典礼の基礎となるのである。住は統率者の生涯を托するものなるが故に威厳を表わすものとなるのである。そこからは自己保存、種族保存を超えた形が要求せられる。斯る要求の中から生れた様々の形が芸術へと発展してゆくものである。併し衣食住は尚全体を表象するものではない、全体を表象するものは個々の生滅を超えたものでなければならない。先祖と現存する者と未来に生きるものを一ならしめるものでなければならない。それは例えば農耕生活に於て田や道具が祖先を負い、子孫を予測するものとしての必然である。そこに全てがそれによってあるものとしての超越者が要請される。それは最早感覚の対象としての形に於て見る べきものではない。言葉によって見るべきものである。併しそれには言葉を宣べる所が必要である。そこに神殿、仏閣、教堂の作られる所以があったとおもう。而してそれが形として現われた以上権威の表象とならなければならない必然をもつ、それは過去現在未来 を包む表象を要求するものとなるのである。そこに人類の栄光は打ち樹てられる。併し私がここで言いたいのは大なる栄光は常に大なる悲惨をまとうことによってあったということである。エヂプトのピラミッドは十万の奴隷が何十年かかかって作ったと言われる。私はその作業の間に牛馬以上に加えられた箸の数を思うものである。恐らく骨と皮に細った背に血を噴き乍ら石を運ぶ綱を引いたのであろう。我国の大仏殿も仏教に国家理念を見出した天皇が象徴として建立したと言われる。而してその失費は巨額を要し、ために苛斂誅求に苦しんだ民衆の路上に餓死するもの数知れず、強盗がはびこり、怨嗟の声国中に満ちたというのを読んだことがある。

歴史が対立が統一として矛盾的に動いてゆくとは対立が統一の中に解消することではない。対立即統一として矛盾が顕在化してゆくことである。対立が愈々対立することが統一がより大なる統一をもつことである。技術による生産の拡大と蓄積は人類の力の増大であると同時に、消費と安逸をもたらすものとして力を削減するものである。人は物の争奪に於て対立を尖鋭化し、消費に於て頽廃の淵に沈んでゆくのである。大なる文化の輝く都市はその裏面に悪徳の渦巻く都市である。われわれはホモ・サンピエスとして六十兆の細胞と百四十億の脳細胞をもつ有機体と言われる。この生命が生れては死に生れては死に乍ら環境を写し環境を形成してゆくのが歴史である。 生れてくるものは環境を映すものとして白紙として生れてくるのである。環境を映したものが生きてゆく事が環境を作るということである。争ひに生れたものは争ひを 育て、和に生れたものは和を育てるのである。光明に生れたものは光明を育て、闇に生れたものは闇を育てるのである。生れ来ったものは善を求め、或は悪を求めて生きるのではない、自己の生存を求めて生きるのである。生存は外を内とし、内を外とするものとして環境の中に生れ、環境を作るものとして生を営むのである。環境と生の相互限定として、悪にまれ、善にまれ一度生れた形は自己を肥大化させてゆくのである。斯くして世界は無数の個の対立としてある限り栄光と悲惨、善と悪の紋様を織りなして動転してゆくのである。われわれの自覚が歴史的形成的であるとは斯る構図の上に自己を見出してゆくことに外ならない。否定と肯定、対立の緊張の上に自覚はあるのである。

われわれは歴史を知るものである。歴史を知るとは、歴史の中にあるものが逆に歴史を内にもつことである。時の中にあるものが時を内にもつことである。無限の時間はこの我の中を流れるものとなるのである。而して時の中にあるものが時を内にもつとは矛盾である、そこに於て歴史を知るものとは生死に自己を露わにする永遠なるものでなければならない、ここに於て歴史を知るとは単に無限の経過去の知識をもつことではない。絶対の矛盾を絶対の同一として生死を永遠に包摂することである。併しそれは風呂敷が物を包む如 く包摂するのではない。生死するもの、対立するものが飜るのでなければならない。一々が世界の内容でありつつ、世界を構成するものとして対立するものが一なるものへと飜転するのである。私は断るものとして全ての人間が自覚の可能性を孕みつつ真の自覚をもつものは世界の底に宇宙的生命の声を聞いたもののみのであるとおもう。生死するものと永遠なるものの矛盾の葛藤に生きたわれわれはここに真の在処に参見するのである。歴史は常に危機と救済として動転する、而して救済は常にここより来るのである。

自覚者は宇宙的生命の実現者として、生死の淵に苦しむものの救済者として自覚者である。故にそれは善悪の審判者の世界ではない、全ては宇宙的生命の実現として「誰か罪なきものこの者を石もて打て」の世界である。「善人尚もて救わる、況んや悪人をや」の世界である、それ等の人の為にこそ涙を流すべき世界である。そこに善悪の価値判断が入るとき対立の世界へ堕するのである。それは我と汝の対立世界の判断であって真に自己の中に世界を見る所以であることは出来ない。

われわれは宇宙的生命の内容として、宇宙的生命の如何なるものかを知ることは出来ない、唯現れとしてあるのみである。それが対立の苦としてあり、一者の救済としてあるとき神の恩寵の世界、仏の大慈大悲の世界となるのである。われわれはその前に絶対の無となるのである。併しそれは世界がなくなることではない、否世界はそこより生れるのである。対立が統一として自己自身を見ゆく神は力の神であり、無限に創造する神である。われわれは無となることによって世界に現われるのである。無に生きるとは自己を捨てて世界に生きんとする無限の努力である。

長谷川利春「自覚的形成」

 

 

 

宇宙

 先日の新聞にローマ法皇がガリレオ・ガリレイの罪を赦免して、彼の肖像入りの切手を発行するという記事が載っていた。何を今更とおもう。多くの人は宗教のもつ体質に幻滅を感じたのではなかろうか、併し考えて見ればそれ迄の人類は天動説を不抜の真理と信じていたのである。斯る信は何処から来たのであろうか、亦最近の天体物理学によれば、宇宙は約二百億年前に爆発し、そのエネルギーは無限大であり、そのエネルギーによって膨張を続けていると言われる。それは果して誤りなき真実なのであろうか、仮説によって構成されたものとして、次の仮説によって修正されてゆくものなのであろうか、そうとすれば信ずべき宇宙というのはないのであろうか、信ずべき宇宙がないとすればわれわれは何故に宇宙への探求に駆り立てられるのであろうか、宇宙とは一体如何なるものであり、われわれは何を尋ねるのであろうか。広辞苑によれば「宇宙、(淮南子の斉俗訓によれば、「宇」は天地四方、「宙」は古往今来の意。一説に「宇」は天の覆ふ所、「宙」は地の由る所。すなわち天地の意) ①世界または天地間。万物を包容する空間。 風流志道軒伝「論語は第一の書②〔哲〕時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包む ひろがり。 ③〔理〕すべての時間と空間およびそこに含まれている物質とエネルギー。〔天〕すべての天体を含む空間。特に、地球の気圏の外。以下略」と記されている。通常私達が言う宇宙とは天文学的宇宙であり、宇宙とはそれ等を一分野として包む全存在であるということらしい。それでは宇宙とは如何なるものであろうか。

 宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、事物は時間・空間の内容であると共に、時間・空間は事物の形式であるということでなければならない。すなわち時間・空間としての全存在は事物の存在の様相でなければならない。空間とは形をもつものであり、時間とは形が変じてゆくものである。時間は過去、現在、未来をもつ、過去は現在ならざるものであり、未来は現在ならざるものである。時は一瞬の過去にも還り得ないと言われる如く、無限に変じてゆくものでなければならない。併し変じてゆくとは過去、現在、未来として変じてゆくのである。過去なくして現在はなく、現在なくして未来はない、そこに於て変化するものは一なるものでなければならない。変化を超えて不変なるものがなければならない。空間が形をもつとは形と形が対するということである。一つの形というのは何ものでもない、形というのは他と区別することによってあるのである。他と区別するものは対立するものである。対立するものとは否定し合うものである。否定し合うとは対立するものを変ぜんとすることである。相互否定の中から新しい形が生れる。前の形は否定された形として、新しい形は現在の形として形より形へ空間は自己を維持してゆくのである。時間が変化を超えた不変なるものがなければならないとは、時間は空間の中に消えてゆくのであり、空間の形が対立するものとして変化によって自己を維持してゆくとは 空間は時間の中に消えてゆくことである。そのことは時間・空間を超えて時間・空間的に 自己を限定してゆく一者があるということでなければならない。宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、宇宙は時間的・空間的に自己を限定してゆくということでなければならない。変ずるものが不変なるものであり、不変なるものが変ずものであるとは宇宙は時間・空間的に自己を形成してゆくということでなければならない。宇宙とは自己形成的であり、時間・空間は形成の両極としてあるのである。全てあるものは時間・空間的にあるのであり、あるものとは宇宙が自己の中に見出でた自己である、そこに宇宙とは時間・空間的に存在する事物の全体ということが出来るのである。われわれ人間も亦時空間的にある、即ち宇宙の内容として、宇宙が自己の中に自己を見たものとしてあるということである。私はそこに宇宙の現われとして、この我の中に深く入ることが宇宙と は何かを明らかにする所以であるとおもう。

 宇宙は無限大のエネルギーの爆発に初まり、初めは素粒子のみがあったと言われる。一斯かる素粒子がヘリウムと水素を作り、更にヘリウムと水素から種々の分子が出来、分子から生命が生れたと言われる。最初素粒子のみがあったとき、素粒子と宇宙の関りは如何なるものであったであろうか、私はそこに一々の素粒子が宇宙の本質を担うものであったということが出来るとおもう。本質を担うとは、一つの素粒子を知ることは全宇宙を知ることが出来ることである。素粒子が原子を作り、原子が分子を作ったということは、原子・分子の一々が宇宙を宿し宇宙を構成するものであるとおもう。一々が宇宙の構成要素であることが自己の中に世界を持つことである。生命はその中に生れた新しい形として更にそれを鮮明たらしめたものであるとおもう。生命は宇宙の更に鮮明な形としてあるのである。宇宙は生命として自己を明らかにするのである。

 生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とすることによって形作ってゆくものである。摂取と排出によって形相を転換してゆくのである。斯る転換が形成作用である。植物の光合成作用を基幹として、それが動物に於て食物連鎖となるのである。食物連鎖の世界は動物に於て自然陶汰の世界である。動物にとってそれは死との対面の世界である。食われるものは勿論死である、食うものもそれが獲得出来ないときは死である。そこに 生死をかけた闘争がある、而して動物はそこによりすぐれた新しい機能をもつ生命となるのである。如何にして遁れとし、如何にして捉えんとする所より、より大なる能力が生れるのである。生存として獲得したより大なる能力は遺伝にまれ、学習にまれ個体を超えて種族の内容として維持してゆくのである。より大なる能力を獲得するとは、より大なる時間と空間を自己の内容とすることである。より広く、より永く行動し得る身体となることである。宇宙が生命に於て自己を明らかにするとは身体に於て明らかにするのである。一々の身体はその内包に於て宇宙に対応するのである。この我の身体を除いてこの我の宇宙があるのではない、この我の宇宙なくして宇宙一般があるのではない。若しみみずに意識があると仮定してその宇宙像は如何なるものであろうか、みみずはそのもつ行動能力に従って宇宙像を描く以外にないであろう、それはわれわれと著しく異ったものと思わざるを得ない。ふくろうは目が殆んど見えず、遠近をわれわれよりはるかに優れた聴覚に於てもつと言われる、斯る感覚によって構成される宇宙像もわれわれより異っていると思わざるを得ない。併し私達は、宇宙が自己の身体に即するといっても私達の恣意によって宇宙があるとおもうことは出来ない。任意に作れるものは宇宙ではない、普遍妥当性として万人が肯わなければ宇宙ではない、われわれは宇宙の中に存在するものである。斯る宇宙は 如何にして考えられるのであろうか。

 私はそこに人間生命の自覚があるとおもう。生命は身体的形成として摂取と消耗の絶えざる転換である、一瞬一瞬の絶えざる動きである、自覚とは斯る転換が蓄積的となることである。動物として行動によって食物を求め、獲得することは技術的である。蓄積的であるとは斯る技術に於て以前と現在が結合することである。例えば昨日獲物が穴に落ちて動けなくなっているのを捉えたとする。すると今回は穴を作ってそこに追い込み動けなくして捕えるというごときである、昨日と今日が捕獲に於て結びつくのである。内外相互転換としての技術はここに製作的技術となるのである。前肢は手として外を変革するものとなるのである。作られたものとし生れ来った身体は作るものとなるのである。われわれは記憶によって過去をもつ、言葉によって蓄積し、手によって製作するのである。製作とは新しい形を生み出すことである。新しい形とは与えられた本能的なものによってはあり得ない形である。経験の蓄積によって死を生に転ずところより生れる形である、勿論本能的なものが無くなったのではない、それが構成的となったのである。無限の時点が現在の生死に於て新たな形として結びつくものとなったのである。

 製作はわれわれの身体の延長である。身体は宇宙の自己形成の内容として作られたものであった。宇宙の内容として作られたものが宇宙の形相として、逆に宇宙の形相を実現するのが製作である、そこに形を内にもつものとなるのである。斯る製作によって見出される形に空間はあるのであり、製作の力の表出に時間はあるのである。われわれは宇宙の一微塵として生れた、併し製作するものとして宇宙を内にもつものとなるのである。ここにわれわれは自己の自覚をもつのである。製作によって時間・空間があることは、時間・空間の中に存在する事物の全体とは、技術によって製作された事物でなければならない。作ることによって見られたものの外延と内包が宇宙でなければならない。内外相互転換の蓄積によって描かれてゆく世界が宇宙でなければならない。

 技術的・製作的世界は歴史的形成の世界である。人間が技術保持者として、歴史は何処迄も人間の生命形成である、手と言葉を有する製作的身体の表現として製作はあるのであり、人間は製作的身体として歴史的に自己を形成してゆくのである。併しその製作的身体は何処から来たか、如何なるものであることによって言葉をもち、手をもつことが出来たか、私達はここに私達を超えた生命を見ざるを得ない、知るべからざる深さの底に、われわれがそれによってあるものに触れざるを得ない。この我の現前を直証としてこの我に表われるものによらざるを得ない、私は製作もその根源をここに有するとおもうのである。経験の蓄積ということも断るものによってあることが出来るのである。蓄積が過去・現在・未来をもつということは無限の時をもつということである、存在の初めと終りを結ぶものをもつということである。初まる時を知らず終る時を知らないものが現在に現われているということである。私達は作ることによって見、見ることによって作るのである。その底には大なる生命の自己実現のはたらきがあるのである。人類が感覚に捉え得るものは全て斯る生命の表れである。私達が時間・空間の内に存在する事物の全体というとき、存在する事物は斯る生命の表れであるとおもう、私達はここに宇宙を見るのである。人間が歴史的形成的に自己を見でてゆくすがたは、宇宙が自己を見出てゆくすがたである。

 宇宙というとき私達は直に天体を含む無辺の空間に想到する、私は斯る空間とは上記の宇宙より空間的方向に抽象されたものであるとおもう。斯る空間も歴史的形成の内容としてあるのであるとおもう。先日の新聞にローマ法王廟ではガリレオ・ガリレイの罪を赦免した記念として切手を発行するということが報ぜられていた。これを読んだ多くの人は 恐らく失笑したことであろう、何を今更とおもう、併し古代に於て多くの人は太陽が地球をめぐると信じて疑わなかったのである。私も学ばなければ天動説を信じているであろう、そこに観測技術の進歩があったのである。内に数理論の発達があり、外に観測器具の発達があったのである。更に思いを及ぼせば人間が未だ猿の如く樹上生活を行っていた頃には、天体とは一体如何なるものであったであろうか。星座は放牧の民によって見出されたという、彼等はそこに自分の位置を知り、時刻を知り、行くべき方向を知ると同時に美しく統一された天の運行を知ったのである。 天体も、人間の生存の自覚的行為としての牧畜の中に見出されたのである。恐らく生存の自覚的行為としての技術をもたなかった樹上生活当時にとって天体は如何なるものでもなかったのであろう。天体としての宇宙の像は日進月歩とでも言うべき激しさで変化しているようである。私達の幼少時、天には十万個の恒性があると教えられた、それが今では一兆個の一兆倍と書かれている。宇宙は数多くの星が規則正しく運行する所と教えられた、それが今では発生と死滅を繰り返す、爆発に初まり、膨脹を続ける体系と書かれている。それらは全て観測器具と統一理論の技術発展のもつ展開である、斯る技術の発展は単に天体物理学の単独の発展にもつものではない、 歴史的形成の発展を分有するのである。望遠鏡の精度の向上には素材の発展から始まるのである。更に科学は仮説と実証によって成立すると言われる。私は仮説には人間の夢とでも言うべきものがなければならないとおもう。この我の内に、与えられた空間・時間より更に大なる時間・空間を構成する可能性と、意志をもつのでなければならないとおもう。この我が見ることが宇宙が宇宙を見ることであり、この我が見ることは宇宙が宇宙を超えて更に深大なるものを露わにしてゆくということである。私がわれわれが通常もつ宇宙の概念は宇宙の空間的方向に抽象されたものであるというのは斯る立場からであり、その根底に歴史的形成があり、宇宙の真の相をその根底に見んと欲するのである。

 私は宇宙的生命というのは何処迄も見るべからざる深さであるとおもう。自己の中に対立を含み、自己の中に自己を見るということは何処迄も見るべからざるものをもつということである。自己の中に自己を見るということは根底に還ってゆくことである、現在われわれに現前する世界の事物は人類が無限に自己の根底に還った表れである。斯る事物が見られたものとして、更に自己の根底に還ってゆくのが自覚的生命がはたらくということである。見るものが見られたものとして、見られたものが見るものとして、自己の中に自己を見てゆくのである。それは無限の形の現前である。私はそれを宇宙の現前とするのである。天体物理学に於ける仮説の如きも、それが仮説として真と言うべきものに非ざるものながら、宇宙が自己の中に見出でた自己として、現在の自己現前として真なるものでなければならない、自己の底に見出でた自覚的生命の実現としての実在性をもつのである。自己の中に自己を見てゆく無限の線の一点として、歴史的現在を構築するものとしての真である。天動説も、宇宙が宇宙を形成してゆく時の一点としての真実をもつのである。一点は自覚的形成の一点として無限の過去を担い、無限の未来を孕む一点である。太古牧童が天を仰いだ時より、未来に見出されるであろう天体像を内蔵する一点である。宇宙はわれわれの内にあるのでもなければ外にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのである。自己の中に自己を見てゆくとき如何なる時点も抽象された時点としては誤謬である、移りゆく一点として否定さるべき一点である、現在は否まれるべくあるのである。自己の中に自己を見るということが既に否むべく見るということである。併しそれは形成的全体を蔵するものとして真である。形成的全体は初めと終りを結ぶものである。一々の点は自己の中に自己を見るものとして初めと終りを蔵するのである。そこに於ては立 所皆真である、嘘言も真である。

 ホモ・ サピエンスとして現代の人類は全て六十兆の細胞と、百二十億の脳細胞をもつと言われる。私は全ての人が等しい構造をもつということは、一人一人の人が社会構成の特殊点を担うということではなくして、一人一人が世界を映すということであるとおもう。機械の部品の如きではなくして、必要に応じて部署に着くのである。一人一人が形成的に世界を映すものとして特殊点に立つのである。鍛冶工も、清掃婦も世界を形成するものとして工場の隅、病院の廊下にはたらくのである。それははたらく世界の一員であることを知るものである。世界を映すものとして一事に従事するのである。一に従事することは世界を形成することである。証上に万法をあらしめて出路に一如を行ずるのである。斯かる世界形成が、宇宙が自己の中に自己を見ることなのである。宇宙が自己の中に自己を見ることによってある人間が、自己形成的に自己の中に自己を見てゆくことがはたらくことである。われわれのはたらきの一々は宇宙的生命のはたらきとして宇宙に即するのである。形成作用として初めと終りを結ぶものに対応するのである。対応するとは映し合うことである。そこにわれわれは小宇宙となるのである。小宇宙となるとは形成的に参加することによって、われが宇宙を映し宇宙が我を映すことである。内としてもつ表象と外としても表象は常に等しいのである。そこに形成作用はあるのである、外として見る世界は脳細胞の中に宿されているのである、それは宇宙の自己形成として宿されているのである。対応するとは、対面する全宇宙を小宇宙として内的表象としてもつということである。形成ということは絶えず形を生み出してゆくことである、形を生み出すとは現在の形を破ってゆくことである。現在の形を破るということが新しい形が生れることである。現在の形を破ってゆくものはこの我であり、汝である。それは全宇宙を内にもつ小宇宙がはたらくことに よってあり得るのである。一々の小宇宙が、内が外を映し、外が内を映すというは内が外を破り、外が内を破る形成作用ということである。斯る形成作用を除いて宇宙というものがあるのではない、而して小宇宙として宇宙の形を破ってゆくとは宇宙の形成要素として破ってゆくことである。宇宙は自己の内容の一々が自己を超え、自己を包む要素として自己を形成してゆくということである。十億の人が居れば十億の内的宇宙像があるのである。宇宙像に於て人々は宇宙に即し、宇宙に対応するのである、人々は斯る宇宙像が過去の無数の人々の作り上げた宇宙像を受け、それを映し、それを破ると知るのである、即ち 無数の人々が作り破って行った宇宙像が現在として一の像をもち、斯る像を映し破ることがわれわれが宇宙に対応することと知るのである。われわれが内的表象として宇宙像をもつのも、斯る無限の時間の上に構築された宇宙像に依ると知るのである。人類はその人間的同一を以って同一像を見、個人的差異をもって差異像をもつのである、そして個人の生死に於て人類の同一像に牧斂されてゆくのである。

 私は歴史的形成と宇宙的形成を分つものはその時間的差異にあるとおもう。歴史とは人間が人間として物の製作を始めたときからであり、所有の葛藤の限りない変遷にあるようにおもう。それに対し宇宙的形成をいうとき、宇宙創世よりの問いであり、人類が出で来ったものを包まなければならないとおもう。歴史は対立するものの否定と肯定である。果てしない治乱興亡である。併し歴史が成立するには治乱興亡を俯瞰するものがなければならない。古代と現代を一つに於て見るものがなければならない。併しそれは既に歴史を逸脱するものである。私はそこに歴史的形成は宇宙的形成を背景にもたなければならないとおもう。時の統一が成立するには自己の中に自己を見るということがなければならない。存在が自己自身を見るということがなければならない。それは相対的軋轢としての歴史より見ることの出来ないものである。勿論歴史もそれが形成である限り自己の中に自己を見ることによって成立するものである。一つに於て見るものがなければならないとは、斯かるものによって成立するということである。そこに私は歴史は宇宙的形成の上に成り立つとおもうのである。歴史的身体として製作するわれわれは製作に於て絶対に触れる、この触れる絶対は初めと終りを結ぶものとしての宇宙的形成にあるのである。宇宙的生命を根底として、歴史的形成はそれ自身の完結をもつのである。

 禅家に「父母末生以前の己を問え」というのがあるそうである。この我の来所が問われているのである。われわれは父母によって生れた。併し考えて見ればこの我が生れたというも実に偶然である。父と母が結婚したというのも偶然である。若し母が妊娠の日に父が旅にでも出ておればこの我はなく、他日異った者が出生したとおもう。まして父母未生以前といえば無というの他なき我の所在である。斯く問うときこの我の所在は濃霧の中の如きものである。併しての我は出現したのである。六十兆の細胞と百四十億の脳細胞の見事な統一として、世界を映し、世界を形成するものとして現前したのである。更に世界形成的に無限の過去と未来を結ぶものを内にもつものとして、小宇宙として宇宙と映し合うものとして、はたらくものとして現前したのである。私は私の来所をここに求めたいとおもう。この我は宇宙が宇宙の形相を更に深く実現すべく、宇宙的意志とでも言うべきものによって生れたのである。われわれは自覚的として自己自身を知る生命である。併し斯る自己を知るということも生得である。言語中枢はこの我が作ったのではない、もって生れたのである。もって生れたということはこのわれを作ったものが自覚的であるということである。私は宇宙が自覚的であり、われわれは宇宙の自覚の体現として自覚的であるとおもう。宇宙は物質でも精神でもないのである、無限に自己の中に自己を見てゆくものなのである。自己の中に自己を見てゆくものとして生命があり、自覚があるのである。言語中枢は斯る限定の果に宇宙が見出した自己のすがたである。そうゆうことは宇宙は自己を知ることによって自己を形成してゆくものであるということである。言語中枢に自己を見出したものとして、われわれの意識に現われたものが宇宙の相である。知らざる我の来所は宇宙の形成はこの我の出現の如く形成するということである。於世出現としてわれわれの一々は宇 宙と対応するのである。われわれは宇宙の形成的要素として、其の中に生死するものとして宇宙は量り得ざるものである。併しそれに対応するものとしてわれわれの自己は量り知るべからざるものをもつのである。

長谷川利春 

宇宙論と現代短歌

 最近の宇宙論は面白い。宇宙は創生直後は千分の一ミリ径程であったという。現在の宇宙には百億以上の太陽系のようなものがあるらしい。中には角砂糖位の大きさで十屯車十万台で運ばなければならないような重さをもつ径十キロ米位な星が無数にあるらしい。涯がないと思われる宇宙の総質量が千分の一ミリ径の中にあったとは想像を絶する。想像も出来ないものがあったとは楽しい。併し今ここで私が結びつけようとする短歌との関連はそのような内容に関してではない。宇宙理論の発展と対比しようとするのである。

 結論から言えば物質や光りの正体や、新しい物質は理論から見出されているということである。普通は物があって、物の動きを秩序づけ、法則として捉える。併し天体には見えるものによって捉えることの出来ない様々の動きがあるらしい。それには見える物が従来の計測値によって捉えることの出来ない動きをもつものとして現われる。それを捕捉するために或る質量をもった見えない物質を仮定する。それが後に発見されるのである。理論は勿論物質ではない、宇宙の一塵とでも言うべき地球の、その又一塵とでも言うべき机上の理論が億光年向うの物質であるべき筈がない。併し億光年向うの物質は机上の理論値の如くあるのである。それによって我々は宇宙の真実に迫るのである。

 私はこの物質と理論は短歌の具体と観念にその質を等しくするようにおもう。私達は物を見るのに注意作用をもつ、その注意作用は生命の形成としての欲求より起るのである。私達歌人は斯る形成的欲求を言葉の構成に於てもつ。言葉の形成は私達の祖先が長い生活の中に築いてきたものである。物を見て言葉を発し、言葉を出すことによって物を見出て来たことである。私達は小さいときから親や先輩に、美しい花だ、優しい小父さんだと言って教えられて情感を養ってきた。言葉をもって見るということは単に今言葉を出しているということではない。無限の祖先等の経験の目をもって見ているということである。私達が感じるということは常に限り無い時間がはたらいているのである。美しい、優しいというのは、花や小父さんから受取った私達のこころの動きの言表である。観念とはこのようなこころの動きの言表であり、具体とは花や小父さんに即した言表である。

 表現とは今の自己の相を明らかにすることである。私達は自己を明らかにするためにこの観念と具体が必要である。花も小父さんも今私達が目の前にし、或は触れているものである。具体とは何等かの意味で今此処にあるものである。それに対して美しいも優しいも限り無い時間に於て人類が見出してきたものである。観念は価値として永遠の相をもつものである。

 歓び悲しみは来るところを知らず、去るところを知らないものである。今泣いていた子 が笑っとると言われる如く、それは一瞬より一瞬へと移ってゆくものである。短歌は抒情詩として斯る感情が言葉に形をもつものである。一瞬一瞬にあるものは個物としての具体である。ここに短歌表現の具体に即さなければならない所以がある。それでは個物を見るものは何か、それは注意作用に見た如く観念である。永遠に映すことによって、我々は無限の過去、無限の未来を孕む自己に接するのである。

 一瞬一瞬を永遠に映すとは、形として現れるものは一瞬より一瞬へと移りゆく個物である。併しはたらくものは映されたものではなくして映すものである。永遠がはたらくものとして自己自身を見てゆくところにはたらきがあるのである。具体は観念の表出としてのみわれわれは創作をもつのである。注意作用の根底にあるものが観念であり、観念が映すということは、具体は観念の翳を帯びることによって表現があるということである。例を上げれば

 月見れば千々にものこそかなしけれ我が身一つの秋にあらねど

 この世をばわが世とおもふ望月の欠けたることもなしとおもへば

 同じく月に面しながら、ここに表わされた月は異なった相をもっている。前者は冷たく冴えて光量というものを感じさせないのに対して、後者は光り輝く月を感じさせる。ここには未だ明確な固定観念というものはない。併し作者が抱いている観念は主観の内容として観念である。私達がこの歌を読んで本当にそうだと共感するとき、この歌の内容が月を見る時に私達の目となってはたらくのである。そして作歌者の目と自己の目を結ぶものを知性は哀愁とか充実として捉える。そこに固定観念が生れるのである。

 私達は唯漫然と月を見るより、哀愁の思いや充実の思いを投げかけて見る方がよりよく月を見ることが出来るのである。強い注意作用が凝視を生み、中の微細な陰翳を見ることが出来るのである。月の兎の話や、かぐや姫の物語も、暗黒を照らする光りへの長い間の憧憬の中より生れたということが出来る。そして斯る物語りをもつことによって、月はますます光り輝く存在となるのである。ますます光り輝くとは、新しい光りをもつものとなることである。

 明治は、新しい時代精神が写生の観念を生むことによって作歌としての対象の世界を一変した。自然の受用より、物の生産の世界へ目が移ったのである。その時代精神に於て、実相観入は生活詠への転移を必然的に内在せしめていたということが出来る。そこからさまざまな新しい物が生れた。新しい物が生れたとは、意識が新しい陰翳に於て捉えたということである。同じもの同じ行為に時代精神の陰翳を加えたということである。

 前にもいった如く作歌は何処迄も具体としての表現である。而してその具体は観念に於て具体となるのである。密度高い作品構成は観念の深まりに於て成り立つのである。そのことは亦具象がより具象として精緻な姿で捉えられることである。私は創造するものは常により大なる観念を持たなければならないとおもう。

 宇宙理論に於ては、理論値に合わない物質の動きから新しい物質が発見され、新しい物質の発見から新しい理論が生み出されているようである。表現も亦生産手段と生産物の発展は、従来の観念によって捕捉することの出来ないものとなってくるのである。そこから新しい観念が生れる。明治維新より戦前迄は西洋的生産手段の招来と共に、人格・自由・個性・平等等の観念を尊重した、それは生産手段と腹背をなして日本の歴史的発展の基礎となった。個性の自由なる発想より新しい物は生れたのである。短歌も亦個性的であることが要請されたのは耳新しい。

 短歌表現は具体的でなければならないものであり、具体は観念によってより明らかになるとは、観念は具体の中に消化されることによって自己を露わとするということである。 瞬間的なるものは永遠なるものに自己を映すことによって自己を見ると共に、永遠なるものは瞬間的なるものに自己を映すことによって自己を露わとするということである。来るところを知らず、去りゆくところを知らない一瞬一瞬のよろこびかなしみに永遠なるものが形を成してくるのが抒情詩である。物の真に迫ることが、永遠なるものが自己を明らかにすることであり、永遠なるものを明らかにすることが具体をいよいよ具体ならしめるのである。具象に捉えられる短歌の本質は観念の深化である。併しその現われるのはどこ迄も具体である。

 詩人は地球の自転の音を聞かなければならないと言った人がいる。観念の生れるのは歴史的時の動きである。私達は深く時代の動きに耳を澄まさなければならないとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

子午線より

 舌うちしてポケットベルを止めたりし男いっきに珂琲を飲む 野瀬昭二

 子午線を流し読みしていた私の目はこの一首に止まった。行動的な男性像が不意に浮んだのである。私は歌を読み返し乍ら映像を鮮明にして行った。ポケットベルが鳴ったということは何か急用が出来たのであろう。舌うちは束の間の偸安を奪われたことに対するものであろう。併しここで狼狽することなく、舌うちしたというのは一つ余裕である。余裕とは向後に対する確信である。即ち事態に対応出来る練達者であることである。いっきに珈琲を飲むとは行動を開始したということである。その間断なき動作には、如何にもきびきびとした動きが感ぜられる。前に行動的な男性像と言ったのは、壮年に差しかからんとする筋肉質な男の姿である。眼前の一つの動きを捉えて鮮かな人間像を表現し得た手腕は高く評価したい。

 この一首に触発されて短歌欄を最初から読み返してみた。嬉しかったのは竹内ひさゑさんの健詠であった。あの年老いた細い軀で自転車を漕ぎ、歌会にいつも遅れて、いつも出席していた氏を見なくなってから久しい。病気と聞いたことがあるので、床に呻吟しておられるのかと思っていたら驚いた。出詠されている三首共皆巧い。簡潔でありつつ、ふくらみがありみずみずしい。殊に末首

 土少し双葉に残し傾きて大豆みどりに皆揃ひ立つ

 は克明な写生に作る者の喜びが溢れている。末句、きそひ立つとか、こぞり立つとかの言葉を入れたいような気持がするが、作品の方が落ち着きがあって味わい深い。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

生命は本能的であり、本能は衝動的である。生命が衝動的であるとは如何なることであろうか、広辞苑によれば衝動とは人の心や感覚をつき動かすこと。反省や抑制なしに行動すること。また、その際の心の動き。と書いてある。生命は無限に動的である。私は生命が動的であるとは断るつき動かすものを内にもつことであるとおもう。つき動かすものはつき動かされるものを超えたものでなければならない。超えたものとは動かされるものは動かすものによってあるということである。生命は形作るものである、形作るとは生長としての変化をもつことである。変化をもつとは自己の中に否定を含んだものである、否定するものはより大なるものでなければならない。変化を超えて変化を自己の現れとするものでなければならない。即ちつき動かすものは、つき動かされるものを自己の現れとして生長と死滅に於て形作るものでなければならない。つき動かすものは生命を生長と死滅に於て形作るものとしてつきうごかすのである。

私達は個体として人類の如きが断るものを担うのではないかとおもう。併し人類も生命形成の中より現われたものである。生命形成の三十八億年の中の近々数百万年以前に現はれたものである。変化の中に現われたものであって変化を現わすものではない。私は更に深く根底に還らなければならないとおもう。宇宙は爆発によって初まったと言われ、最初は素粒子のみであったと言われる。それからヘリウムと水素が生じ、やがて分子が出来、分子から生命が発生したと言われる。斯る新たな形が次々と生れたということは宇宙は形成作用としてあるということであるとおもう。形成作用とは、素粒子は分子となるべきものをもち、それを実現していったということである。更に生命となるべきものを胚胎していたということである。それらは全て可能性としてあったものが実現したということである。内に見出したということである。自己の中に自己を見出したということである。

斯る自己の中に自己を見るということが新たな形が生れるとは如何なることであろうか、私はそこに対立と統一の矛盾関係を見ることが出来るとおもう。先に言った如くわれわれは個体としてある。個体としてあるとは個体と個体が対立するものとしてあるということ である。対立するとは相互否定的としてあるということである、相互否定的とは対立するものを変革するものである、そこは常に新たな形の生れるところである。併し個体は対立するものとして、対者によって変革されるものとして自己の中に自己を見るものではない、自己の中に自己を見るものは対立を包んで対立を自己とするものでなければならない。私は斯るものを宇宙的生命に求めたいとおもう。創成のときより自己の中に自己を見ることによって今日のこの我をあらしめたものに求めたいとおもう。私は衝動というものも斯る所にあるとおもう、宇宙の始めより宇宙の動き来った力がつき動かすのである。本能は斯る形成力としてわれの知らざるところよりわれを動かすのである。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは突然異質なる生命が出現することではない、衝動的、本能的に生を営む生命が自己を見、自己を知る生命となることである。自己が自己を見るとは見る自己と見られる自己に自己が分れることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう。生命は生死としてある、生死とは内外相互転換的に形成することである、外を食物としてこれを身体に転換することである。生命は食物的環境と身体の綜合としてあるのである。綜合として生れるとは、食物的環境の中に生れるのである。食物的環境を外としてこれを内に転換するとは労することである。斯かる労力を少なくせんとするのが経験の蓄積である、少くするとは同じ労力をもって多くのものを獲得することである。獲得は時空を異にするものとして一回一回手段を異にする。蓄積するとはそれを前回獲った手段を今回に応用することである。例えば川があった為に獲物が逃げられず捕えたとする、すると次回は川の方へ獲物を追い立てる如きである。木の枝で打ったら獲物が仆れたので次は棒をもって行く如きである。

それは時間を超えて時間を包むものとなることである、衝動は一瞬一瞬の内外相互転換としてはたらくのである。本能は現在の身体の欠乏と充足に於てはたらくのである。時間は一瞬より一瞬へと転じてゆく、時間を超えて時間を包むとは斯る一瞬を内容として統一するものとなることである。一瞬一瞬は衝動として、本能として生命形成的である。斯かる生命形成を外にして単なる時間があるのではない。統一するとは外を内によって変革し、内外によって変革することによってより密度高い内と外とすることである。棒をもつとは棒を手の延長とすることである、延長とすることによって身体の機能をより大ならしめることである。それと同時に木を身体の内容とすることは外を変革したことである。それは更に外を身体の延長として利用せんとすることであり、環境を身体化せんとすることである。ここに私は見る我と見られる我の生れるところがあるとおもう。時を統一するものが見るものとなり、一瞬一瞬の形成が見られるものとなるのである。私は人間の身体を斯るものに於て見たいと思う。人間は言語中枢と手をもつことによって人間になったと言われる。言語中枢をもつことによって一瞬一瞬の経過を蓄積し、過去として記憶をもち、未来として理想をもつのである。手によってそれを実現するのである。身体は個体として対立するものである。併しそれは形成するものである。私は言語中枢をもち手をもつということは本能衝動の個体保存的身体より世界形成的身体に転じたものであるとおもう。自他の対立が形成的統一に向う身体となったのである。それは否定が奥底にもっていた統一が自己を現わさんとすることである。否定と闘争を内に見るものとして世界形成的となることである。私はわれわれの自覚はそこより来るとおもう。世界形成的として世界を映し、世界に映されるところより来るとおもう。人間が自覚的生命として、私は愛も亦生命が自己自身を見るところにあるとおもう。対立的に相互否定し合う生より、統一に自己を現わさんとする生命になったということが愛をもつ生命になったのである。言葉をもち、手をもったということが愛する生命となったということである。身体が世界形成的に転じたということは、対立する我と汝が世界を内にもつものとして相対するということである。そして斯る対立が世界であるということである。我と汝は世界の中にあるものとして世界を自己の中にもつのである。それは我と汝が世界を内にもつものとして対立することが世界が世界を形成してゆくということである。世界を内にもつものとして我と汝が対立し、世界実現的に争うことが世界が形成をもつということである。世界が形成されるということは世界を内にもつものとして自己を形成してゆくことである。我と汝が対立し、汝によって我が否定されることが我が生かされるということなのである。その逆も真である、そこは他者の中に自己を見、自己の中に他者を見るところである。そこに愛があるのである。

情緒とは身体が形成的に衝動的であることである。斯る衝動は先にも書いた如く世界の自己形成より来るのである。身体は個体として出現する、そこに於て情緒は世界に対する個体保存的である。斯る身体はその形成に於て世界関連へと成熟してゆくのである。根源的なるものが現われてくるのである。言葉と手をもつ身体となるのである。形成の根源的なるものの内容となるのである。そこに自覚がある。愛とは世界へと転じた身体の根源的情緒である。身体的形成の根源としての世界形成の情緒である。それは根源的情緒として原始的情緒に新たな陰翳を与えるものである。喜怒哀楽の如く特有の表出があるのではなくして、それに世界形成の陰翳を与えるのである。身体の衝動的形成の深化として愛は更に深く衝動的である。愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのである。知らざる声に呼ばれるのである。それはわれわれがそれによってあるものの深さより聞こえてくるのである。愛は惜しみなく与えるという言葉がある。それは自己保存の欲求的自己より見れば百八十度の転換をもつものである。喜怒哀楽はそこより来る喜怒哀楽となるのである。喜びは与うる喜びであり、怒りは与えざりし自己への怒りである。哀しみは与うるものなき哀しみであり、楽しさは与え切ったものの楽しさである。そこに世界に生きる姿があるのである。そこに世界が現われるのである。惜しみなく与えるとは自己を滅して対象の中に生きることである。他者を明らかにすることである。他者と我との世界として、他者を明らかにすることは世界を明らかにすることであり、世界を明らかにすることは我を明らかにすることである。 愛は世界実現的である。

私は斯るものとして愛は人格的でなければならないとおもう。人格とは世界の中にあるものが逆に世界を内にもつことである。世界が自己の内容として自己を形成することは逆に内容が世界を現わすことである。われわれは世界形成の内容として世界を表現するのである。斯る人格は個性的でなければならない、全てのものが同一なるところに世界はない。異なったものが世界をもつものとして、自己の世界を実現せんとするところに対立があり、それが対話に於て一なるところに世界形成があるのである。対立が一であるとはわれわれは社会生活を営むものとして、社会の無限の分化によって生きているということである。衣を作るもの、食を作るものを作るものと特化し、それが更に無数に特化し、それによってこのわれは生を保っているということである。無数の人々との関連によって一人一人が生きているということである。個性とは斯る世界連関の中に自己の最も良く生き得る所をもつことである。われわれは職業をもつことによって人格となるのである。世界を内にもつとは製作物が流通連鎖によって世界に関ることである。製作するものとしてわれわれは世界を内にもつのである。前にも言った如く世界を内にもつとは世界がこのわれによって実現しているということである。われわれが職をもち、物を作るということは無限の過去と未来が現在に於て実現したということである。素粒子よりはじまり、無限の未来へ転じてゆく宇宙的生命の現在点としてわれわれは物を作るのである。永遠の実現として、無限の時間を内にもつものとして人格はあり、人格の尊厳はあるのである。禅家に平常底という言葉がある。平常とは日日の営みである、服を着け、飯を食うことである。伝票に記入することであり、野菜に肥料を与えることである。底とは、その根底に至ることである。日日のはたらきをあらしめるものを把握することである。言葉によって表現し、体現に於て行動することである。

世界とは人類の表現的空間である。世界を作るものは無数の我と汝である、斯るものとして私は愛が最も深く表われるは我と汝に於てであるとおもう。我と汝というのがそもそも一つの世界に於て見られるのである。形成的世界に於て対立が一として我と汝があるのである。斯る世界の自己実現として互に相対するものの個性を認め、互の世界を育て合うのが愛の実現である。私達は自己の生れ来った所以を知らない。斯く生れんとして生れたのでもなければ、親は斯の産まんとして産んだのでもない、言われる如く神の授りものと して生れたのである。それが斯る個性を以って生れたのである。そのことは神が自己の姿を顕わすものとして生れたのである。個性をもつとはその性格的方向に世界を表すべく行動するものということである。世界は個性に於て自己を露わにしてゆくのである。個性的に世界は自己を実現してゆくのである。

対立が統一の内容となるといっても対立が無くなるのではない、否統一を内にもつ対立 として、愈々大なる対立となるのである。 受験競争、開発競争、企業間競争は世界を内にもつもの、言葉を内にもつものとしての対立である、対立は質的転換をもつのである。そ れは絶えざる競争である。形成はどこ迄も対立の統一である。世界を内にもつということ は力である。単に本能に生きるより、自己を世界の中に消して新たな形を見出すことはよ 大なる力を必要とするのである。私はそこに祖母の孫に対する愛、亦は肉親愛と言わる るものの真の愛でない所以があるとおもう。男女、母子、祖母と孫の愛は完結的であり、閉鎖的である、それは外へ出でることを拒否するものである。独占を要求するものであるそれは言葉のもつ世界性と相反するものである。それは本能の残滓を濃くもつものである。勿論本能も宇宙的生命の自己形成の内容として出現したものである。併し自覚的生命はその上に自己を見出したものである。自己完結的なるものは欲求と充足としてある、そこにあるのは繰り返しである。言葉は創造的形成である。自覚的として言葉をもつ生命はその成長に伴って自己完結的世界に耐えられるものではない、ここに私は転換が要請されるとおもう。対抗と緊張によって形成する世界へと転ぜなければならないのである。世界形成は力であり、個性を打ち樹てるとは力の所有者となることである、世界を内にもつとは努力である。私はここよりわれわれの愛の形は来るとおもう。世界の自己形成の内容としての我と汝として、我は汝に、汝は我に何処迄も深く自己の中に世界を見ることを要請しなければならないのである。本能的欲求的残滓を捨てて内に獲得した世界を以って対話することを求めるのである。既成の安易を捨てて新たな展望への努力を求めるのである。「可愛い子には旅をさせ」という言葉があった。昔旅をさすということは他者の中に放り出 ことであった。庇護なき所に生きてゆくことであった、そこに生きることは世の中の体得であった。そしてそれを子を愛する真の道と教えたのである。私はここに自覚的生命の自己形成があるとおもう。旅に出すとは豺狼の中に入れるようなものであった。それは肉親の情として忍び難いものである。併しそれを超えて出すべく世界が要求するのである。一個の人間が世界の形成要素として、世界がより大なる自己の形相を見ようとするところより要求するのである、そしてそれに応えるのがその人の成長である。そこに愛は自己の深層を具現するのである。

私は前に愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのであると言った。そのことは愛せんとすることが空虚であるということではない、愛せんとするものの根底に愛せざるを得ないものがあるということである。世界を内にもつものとなるとは意志をもつものとなることである。意志をもつものとなるとは内にもつ世界を実現せんとするものとなることである、そこに自己がある、われわれは行為するものとなり意志決定者となるのである。そこに於て愛せざるを得ないものは愛するものとなるのである。宇宙的自覚がこの我に於て実現するとき、愛せざるを得ない衝動は愛することによって実現するのである。世界形成としての我と汝は何迄も対立するものである、対立するものは否定し合うものである。それは何処迄も憎しみである。愛は生命の自覚的出現として純一である、併しそれを実現する身体は形成的として過去を背負うものである。われわれが母の胎内に於て最初に現れるのは水棲動物の形態の残痕であると言われる。それから両棲類の形をもち、哺乳類の形となり、生れたときは類人猿に似ると言われる。生命発生より人類が辿ってきた発展の系譜を全部体現すると言われる。身体が斯る系譜を内蔵するとき、情動は無限の過去の熔炉としてあると言わなければならない。愛が自覚的形成の情緒であるとは、斯る混沌の光被として出現したということである。それは過去を内容として形相を転換することである。本能は理性に照して混沌である。本能を新たな光りに照し出すことなくして愛の内容はない、内容のないものは何ものでもない、実現する愛とは対立するもの、憎しみ合うものの形を転ずるものである。

生命は一々が完結的である、完結とは外と内とが対立しつつであるということであ る。蛙の形は内外相互転換的に見出して来た時空を包む形である。道元は魚を以水為命と言い、鳥を以空為命という。そこは生きるものの自らなし来ったものである、内外相互転換の生命の表出が情緒である、情緒は身体の営みの表れである、犬の情緒は犬の生の表れである。その表れをなくしたとき、犬は死せるものとして犬ではなくなっているのである。乳幼児が類人猿に似た形をもつということは乳幼児は尚類人猿に似た情緒に生きるということである、本能的ということである。乳幼児の生命の完結は肉親との関りということである、肉親の情緒に生きるのである人間のみがもつと言われる言語中枢は遺伝であろう、併し言語は遺伝ではない、学習である。成長するとは学ぶことである、学ぶとは個として生死するこの我を超えた形相を我の内容とすることである、理性的となることである、秩序を学ぶのである、技術的構成的となるのである。ここに自覚的形成が本能に対して光被となる所以があるのである、自覚的となるとは本能的なるものが秩序的構成的となることである、本能的行動をより大なる生命形相に組織するのが自覚的形成である。

学ぶことが技術的構成的であることは最早遺伝的伝達を超えたということである。学ぶ者に対して教えるものがあるということである。本能の本に築かれたものとして、言葉そのものが生の形態として最初それは肉親が担う、併しそれはやがて生産体系としての技術に長じた者が師とし教えるものとなるのである。そこに肉親を超えた社会人としての我の確立を見るのである。そこに師弟愛が生れる、それは技術に生きるものとして世界を内にもつものとしての意志実現であり、世界を介して結ぶ愛である。技術は世界の自己形成として無限に深い、それを学ぶことは努力であり、苦痛である。師の愛は習得せしめんが為に叱る愛となり、鞭打つ愛となるのである。学ぶものの愛は師の中に潜められた世界の深さへの尊敬の情となるのである。世界を内にもつものとして、人格として、意志として愛するものとなるのである。私はここにより大なる生命としての愛の発現があるとおもう、愛するものとしての愛の深化があるとおもう。人格愛に於て愛は本来の相を現わすのであ る。肉親の愛も人格愛となることによって愛を完成するのである。それは親の子、子の親 でありつつ世界を内にもつものとして世界形成的な対話をもつものとなるのである。

神は万物を愛によって創ったと言われる。愛によって創ったとは如何なることであろう か、私はそこに万物の一々が宇宙を映すことによってあるということが言えるとおもう。全てあるものは対立するものとしてあるのであり、対立するものは否定し合うものとしてあるのである、否定し合うとは対手の形を変革するものである。変革するとは新たな形が生れることである。新たな形が生れることが宇宙の形成作用である、対立するものが変革し合うことは、対立するものが互に相手を映し合うことである。互に他を自己の内容とすることによって密度高い形が生れるのである。密度高いとは秩序をもつということである。生命の世界に於ては生存競争による新たな機能の獲得をもつ、新たな機能をもつとはより大なる行動力をもつことである、そこにより大なる時間・空間が生れる。それが宇宙が自己の中に自己を見ることであり、宇宙の創造である。われわれは機能をもつもの、行動するものとして常に内と外はこの我に消え、この我より出ずるのである。そこに我は宇宙を映し、宇宙は我を映すのである。一瞬一瞬は我をあらしめるものと一体である。斯る生命がわれわれに於て自覚的である。それは宇宙的生命の自覚が我の自覚であり、我の自覚が宇宙的生命の自覚である、われわれはそこに宇宙の無限の時間に生きる自己を知るのである、そこに大きなる愛に抱かれた感情をもつのである。斯る感情は何処迄も我と汝の対立として作られたものとして、我は汝に感じ、汝は我に感じるのである。更に我と汝をあらしめたものとして全人類に感じ、人類をあらしめたものとして全生命に感じ、生命をあらしめたものとして全宇宙に感じるのである。

みみずの宇宙はその行動の及ぶところの、感覚の受容する範囲である。その感覚の受け取ったものが宇宙の様相である、それはわれわれ人間の多様より言えば言うに足りないも のである。併しそれによって他を変じ、自己を変じてゆくのは宇宙の自己形成としてあるのである。みみずの形態は宇宙の自己形成の一つの完結としてあるのである。それはわれわれの身体が宇宙の一つの完結であるのと同じである。みみずは勿論その解剖的結果から 押して愛の感情を持たないであろう、併しわれわれ人間は自己の中に大なる時間・空間の 完結に感じる神の愛より押して、みみずの持つ宇宙の完結に神の愛を見るのである。西洋の人は天なる星と、内なる道徳律という、天の整正と、我の整正、そこに万物を作った神の愛を知るのである。

我と汝の対立が一として宇宙的生命の自覚的形成があるとは、この我、汝の一々が宇宙に対応するということでなければならない。対応するとは全宇宙が自己に現れるということである。宇宙の自覚はこの我の自覚にあるということである、ここに自愛が生れる、われわれは宇宙的生命の表れとして自己を尊敬するのである。断る表れは対立するものとして、汝を我に映し、我を汝に映すことによってあるものとして、同時に汝を我の成立の根底として愛するということでなければならない。それは何処迄も宇宙が宇宙自身を見るものとして同時である、併し対立するものとしてこの我より見るとき、汝によって我を見るものとして汝への愛がより根底となるのでなければならない。道元は利他を先とすべしという。この我の生命の成立は宇宙が自己を見るところにあり、この我は宇宙的生命の内容として他者を根底にもつところに利他を先とすべしという命題は現れるのであるとおもう。利他を先にすべしとはこの我の利益が失われることではない。汝はこの我の利益を先とするのである、愛に於て相互が自己を捨てて自己の根底に還るのである、そこに世界が実現するのである、世界が世界を見るのである。宇宙的生命は人類に於て世界として実現するのである。われわれはそこに神の愛を知るのである。

長谷川利春 「自覚的形成」

想像

 私は自分を省るとき絶えず何かを想像しているのに気が付く。併し想像とは何かと問うとき、自明のものと思っていたのが意外に茫漠としているようである。広辞苑を開くと、そうぞう〔想像〕①〔韓非子解老編〕 実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること、「ーを逞しくする」②現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮べること。と書いてある。これだけでは説明として不十分な気がする。経験していないことをどうしてこうではないかとおしはかることが出来るのか、現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を如何にして心に浮べることが出来るか、更に岩波哲学辞典を開くと種々の学説を列記した上、ビントの考えが比較的正確に心理的事実を捉えているようであるからとして以下の如く説いている。想像は「心像に於てする思考」で、想像活動は統覚の綜合及び分析作用の一の場合であり、本質に於て悟性活動と同じ。想像活動の動機は現実の経験或は現実に近い複合経験を作り出すにある。初め種々の表象要素及び感情要素から成立し、過去の経験の一般内容を含んでいる多少包括的な全体表象が時間・空間的に結合している多数の一定の複合体に継続的に分析せられ、最後に亦全体表象として全体が漠然意識に浮ぶ。想像活動には発達上、所動的及び能動的の二段階がある。前者は比較的動的注意状態の下に受動的の予想を主とし原印象のままに想像作用を活動せしめる場合、後者は、一定の目的、表象に従い能動的注意状態の下に表象結合に対して意志的の禁止及び撰択が著しく現われる場合である。と書かれている。これに於て私達はいささか鮮明な像をもち得るようである。以下両辞典を参考にしながら私の考究を加えてゆきたいとおもう。

 初め種々の表象要素及び感情要素より成立するとは如何なることであろうか、私はそこに人間の自覚ということがあるとおもう、生命は内外相互転換的に形成的である。環境を外として、食物を摂ることによって身体を形作り、老廃物を排出することによって自己を維持してゆくのである、自覚的とは斯る内外の転換が技術的となったことである。自然も技術的である。併し自然の技術は食物としての外を捕獲し、身体に化せしめる技術であった。それが自覚的であるとは身体の機構に擬えて外を変革することである、手の延長として外を道具と化し、脚の延長として車を作り、目の延長として望遠鏡を作ることである、斯る技術は経験の蓄積より来るのである。われわれの行為はその根源を生死にもつ、蓄積とはより大なる生を形成することである。それは一々の瞬間の行為を超えて瞬間を包むものをもったということである。内外相互転換は一瞬一瞬である、身体は斯る一瞬一瞬を内に包み統一するものとして形作って来た、瞬間を包むものをもつとは身体の斯る深奥が形をもったということである。形成作用として形は一瞬一瞬の内外相互転換としての営為を自己実現の手段としてもつのである。手段としてもつとはより高次なる生命が自己実現的にはたらくところに内外相互があるということである。蓄積は斯る高次なる生命が自己を実現してゆく形相としてあるのである。斯る高次なる生命の内容として、一瞬一瞬は外の方向に表象要素となり、内の方向に感情要素となるのである。一瞬一瞬は生死の転換として独自の表象と感情をもつのである。斯る表象・感情要素に対して高次なる生命は全体表象となるのである。それは要素がそれに於てあるものとして世界表象・宇宙表象の意味をもつものである。

 私は想像はそこより生れるとおもう、前にも述べた如くわれわれの行為の根源には生死がある。そして表象・感情はその根源を行為にもつのである。根源に生死があるとは、高次なる生命は生死に於て自己を形成し、実現してゆく生命であることである。内外相互転換とは内の方向に生を見、外の方向に死を見る生死の転換である。形成作用とは内を外に映し、外を内に映す無限のはたらきである、それは死を生に転ずるはたらきである、外としての食物の欠乏は死を意味する、それを道具をもって獲得し、栽培は飼養することによって充足するのが内外相互転換である。表象は外を内によって変革し形象化したということである。一瞬一瞬の無限の内外相互転換とは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたものとなることである。挺子がその力の感覚に於てころと結合し、車の使用が畜力と結合するのも作られたものが作るものとしての内面的発展をもったということである。車と牛馬は別々の表象である、それが運搬という目的によって結合するのである、それは或は偶然であったかも知れない。併し一度それが結合するとき、生命は自己形成として新たな力を求めそれと結合せんとするのである。作られたものとしての車と牛馬の結合表象が作るものとして新たな力の結合を求めるのである。水の力が、火の力が新しい力として世界形成へ参加を求められるのである。私はそこにわれわれの想像が生れるのであるとおもう。ゲーテはバラの花を見ている内に花びらの中より花びらが湧き出て部屋が花びらで埋まったという。内が外を映し、外が内を映す無限の過程に於て内に蓄積された表象が一つの目的に向って結集するのである。記憶の表象が湧き出て参加するのである。そ の中から目的に合うものが撰択され、構成されて一つの形象が作り出されるのである。

 生命は内外相互転換である、それに対して想像は内的表象の展開である、そこに外としての具体性はかくされて極小の意味をもつ、内外相互転換は対立否定としての転換である。それに対して想像は対立否定の意味が極小となるのである。それだけに抵抗をもたない想像の形象は自由であり、飛躍的である。私はそこに世界形成の発展の一因由があるとおもう。物への検証が極小にされているといっても表象はもと経験の内容である。それが映し映されることによって主体的表象として凝結したものである、それは形成的世界を離れるものではない、物の残影を宿すものである。物に実現されることを予期するものである。自由とか飛躍とかいうのは世界形成を内的表象に於て拡大することである、私はここに想像の世界形成に於ける先導性があるとおもう、内と外とが相互否定的緊張であるとは内は内の世界を構成し、外は外の世界を構成するということである、身体と物は各々独自の体系をもつということである。それが否定的に一として世界は自己を露わにしてゆくということである。生命は世界を生命の形相たらしめんとし、物は世界を物の形相たらしめんとする、併しその何れに於ても内外相互転換としての世界形成はあり得ない、そこに否定的一としての世界形成はあるのである。想像は内的方向の極限として私は想像なくして世界形成はあり得ないとおもう。物質はその固定性に於て物質である、想像が物質性を極小にするとはその固定性を極小にすることである、自由とか飛躍とは変革である、新しい形はそ こから生れるのである。而して内外相互転換的に形成的であるとは常に新しい形が生れることである、そこに想像があるのである。

 斯るものとして想像は世界が世界を見るところより生れるとおもう。想像はこのわれがする、併し想像としての表象の結合は世界の形成的操作にあるのである。表象そのものが世界の具現としてあるのである、表象が生れるには表現的行為がなければ ない、表現的行為があるためには技術がなければならない、技術は一人の力より生れることは出来ない、多くの人の力の組織より生れたのである。このわれは斯る世界の中に於て汝に対するものとしてこのわれである。斯るものとしてこの我より生れる形象は世界は如何にあるべきかであり、世界を作るものとして我と汝は如何にあるべきかであり、世界に於ける我の地位は如何にあるべきかである。ビントは想像に能動と所動があるという、私はそこに上記の如く積極的な世界形成の肯定的方向に対して否定的な方向を見ることが出来るとおもう。肯定的な方向が生に向うに対して否定的な方向は死に向うのである。環境汚染、原子力破壊、更に死後の在り方などに向うのである。言う如く死には展開がない、そこには原印象の活動あるのみである。併しての想像は両方向であって離れたものではない。生命は生死に於て生命である、所動的想像あって能動的想像はあるのであり、能動的想像あって所動的想像はあるのである。希望をもつが故に悲観をもつのである。更に私は原印象の活動の中に唯一者への思索に至る萌芽があるのではないかとおもう。死への想像は生への希求を背後にもつのである、絶対の死を見ることは絶対の生を見んとすることである。そこに生死を超えて、生死を自己の影とする絶対者への回心が生れるのである。生あって死が 死があって生がある全体者に帰一するのである。私は所動的想像はその入口に立つものであり、その延長線上に斯る信の世界があるのではないかとおもう。

 想像はこの我がする、併しての我がもつ表象の結集は一々のこの我を超えたものである、表象の蓄積は限りない人類の蓄積である。われわれは斯る蓄積を歴史的形成としてもつ、表象は歴史的世界に於て蓄積され、われわれは歴史的世界の形成要素として表象をもつのである、そこに想像は世界が世界を見る所以があるのである。われわれが想像するとは歴史的世界の形成要素として想像するのである。形成要素として想像するとは、想像は歴史的世界の自己形成としてあるということである。われわれが形成要素となるとは一つの核となることである。世界の中心としてこのわれが映した外としての表象が現在の目的に結集して世界表象を構成することである。この現在の目的は世界と我との接点に於て世界がもつ現在の歴史的課題よりわれに要請してくるのである、能動的にまれ所動的にまれ想像も亦ここより来るのである。歴史は常に危機としてある、内外相互転換は生死相接するところであり、歴史はその深奥に危機をもち、危機によって動いてゆくのである。想像の最も激しくはたらくところはこの歴史的危機に面するところである。

 この我が世界の核となるとはこの我が全存在としての世界の初めと終りを結ぶものを映すということである、この我が見ることによって世界があることである。而してこの我は汝に対すことによってあるのである、対話によってあるのである。対話とは斯る世界と世界が己れの実現を目指して対することである。故に対話は内に世界をもつものによってあり得るのである、われわれが言う世界とは斯る世界と世界の無数の対話の場所である。世界は無数の小世界を内包することによって、その対話に於て動転してゆくのである。想像はこの対話に於て他者を自己とし、自己を他者とし、他者より歪められ或は他者に展開するより来るのである。世界と世界が無限に対することによって世界がある故にわれわれは希望と挫折をもつのである。世界は一々が世界を内包するものをもつことによって世界である単一なる形象は世界でも何でもない、百化斉放、百鳥争鳴が世界の形象である。一々の小世界が世界を実現せんとするところに全世界があるのである、その小世界の世界形成的意志に於てわれわれの想像があるのであり、世界が世界を見る所以があるのである。

長谷川利春

名歌評釈

 先日「みかしほ」の二、三の女人と歌を語る機会があった。そのとき近代の女人短歌の異色作とでもいうべきものを、継続して紹介してゆくことを約束した。勿論私の評釈であり、私が感銘を受けた作品であるので、一面的であるの譏りを免れ難いと思うが御了恕ありたい。そのときに葛原妙子を最初にと言ったが、今手許に取上げたいと思っている歌の載っている本が見当らないのと、先に出したい歌があったので紹介したい。

 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 一読その声調の美しさに心を奪われる。鳥髪というのは地名であろうか、作者は今負うべきかなしみを抱いて立つのである。そこには霏々として雪が降っている。作者はそこで明日も降りなむと言う。その結句にはかなしみを閉じこめ、かなしみを永遠に凝固させるような力がある。結像した永遠のかなしみに、作者は「マッチ売りの少女」のような陶酔を味わっているのである。そこには対象化された透明な自己像がある。私はこの声調の美しさは、このような心情の投影であるとおもう。それにしても魔術とでも言うべき言葉の構成である。

 額に汗流して坂を登るとき無数の過去世の人と行き交ふ

 私の作である。山本礼子さんが十首抄に取上げたいと思ったと言った。私は取上げられなくてほっとした。実はこの一首の核とでも言うべき四句の「無数の過去世」は、五十年代にその鬼才をもって歌壇を震撼させた、高野公彦の代表作を剽窃したのである。出すべきではないと思ったが、この頃歌を作っていないので七首にすべく入れた。私は「みかしほ」の人々の鑑賞眼を軽視していたのである。この言葉が拓いた祖霊への新しい視点を捉える人はいないと思ったのである。目にもとめないと思っていたのである。それにしても山本礼子さんが発表される作品の勝れた感覚は偶然ではないと思った。次回は葛原妙子に したい。

名歌評釈(2)

 とり落さば火とならむてのひらのひとつ柘榴の重みに耐ふ 葛原妙子

 私はこの一首を読み乍らゲーテの幼時の体験というのを思い出していた。それはバラの花を見ているうちに、はなびらの中よりはなびらが溢れ出て、室がはなびらで満たされるというものであった。

 作者は今紅く熟した柘榴を手にもつのである。そしてそれを見ているうちに、自然の成した微妙な赤が、作者の心に無限の紅を生んでゆくのである。作者の目は微妙を見究めようとする。見究めようとすることで紅は拡がりを持ち全視覚を領ずるのである。次々と現われ来る紅は、紅が紅が煽るごとく成長してくるのである。作者はそこで「とり落さば火焔とならむ」という。私は以上を捉えてまことに巧な表現であるとおもう。斯る想念の展開は非常に力の表出を伴うものである。そこに結句の「重みに耐ふ」がある。

 私は氏の作品には形が形を生んでゆく、生命の創造に深く目を据えたものがあるとおもう。人間は望遠鏡を作り、顕微鏡を作って自己の視覚を拡大深化してきた。作者は言葉の操作によって、内的自己としての情感の目を深化拡大するのである。人類は色の中に色を見、音の中に音を聞くことによって、感覚と感情を養ってきたのである。

 書き乍ら私は何だか詰らないことをしているような気がしてきた。一寸も自分の勉強になっていないように思う。それで今月で止めたいとおもう。唯これを書くために女流歌集という一人三十首ばかり歌集を読んだ、以下少しその総括とでもいうべきものを書いておきたい。

 一人三十首位では読んだと言えるであろう、併し私は多くを読んだからといって必ずしも知ったということは出来ないとおもう。各作家には特色がある。特色があるとは個性的であるということである。個性的であるとは独自の核を持つということである。知るということはその核を掴むことであるとおもう。以下そういう面から私の感じたものである。

 前月号の山中智恵子は言った如く情感の結晶作用をもつとおもう。言葉による結晶作用は透明感をもたらせる。宝石箱を開けたような氏の歌は楽しい。生方たつゑは、女の情念を業として、女がある限りの宿縁として追求しているように思う。その激しさは読んでいて疲れが出る位である。重苦しいものが胸底に溜る。併しそれも一つの真実なのであろうか。斎藤史は死の鏡に生を写すことによって、生の幾多の面を私達に見せてくれるようである。初井しづ枝も透明な情感の結晶作用をもつ、併しそれは山中智恵子のそれではない、一瞬に触れ合う物と自己の交叉を映像化するのである。一つの情感の構成をもつのである。北沢郁子の健康な自我追求は好もしい。風土としての環境と自己を真面目に凝視しているようにおもう。上田三四二賞の講演に来た馬場あき子は生と死の葛藤、連続と断絶を、呪の熔鉱に近代知性を投げ入れることによって見ようとするように思われる。俵万智は上記の人々が身体に直接するものに於て、言わば血みどろになって闘っているのに対して、銀幕に自分を映し出してそれを詠っているようである。それだけに読む者も切迫感がない。それでいて余情にひたれるものをもっているようにおもう。

 以上読みとおして感じたことである。一回読んだだけだからひとりよがりであり、読み の浅さを免れ得ないであろう。唯核を摑むという読み方があるとだけ知っていただいたらとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

初めと終わりを結ぶもの

 私は七十才になって商売を廃めた。漸く思索に全身を打ち込むことが出来た二年半の跡である。書き乍ら大きなまとまりをもつ力を失なった、老いのかなしさをつくづくと味わわざるを得なかった。不生不滅を出発点としたものである。勿論不生不滅というのが有るのではない。生命は形作るものであり、生死は形作る生命のはたらきの姿であるということである。生死を超えて始めと終りを結ぶ生命が自己自身を見てゆくところに生死があるということである。不生不滅とは、目を初めと終りを結ぶ生命に置くということである。私達の生命は私達もその中に働く歴史的形成の内容である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ごきぶりを見乍ら

 本を読んでいると後の方で、かさかさというかすかなものの動く音が聞える。ふり返る とごきぶりが、背を光らせ乍らすべるように走っている。ごきぶりは妻にとって不倶戴天の仇にも等しいものであるらしい。見つけると大声を挙げて、行動は敏速果敢となり、たちまち打ち据えてしまう。私もその影響を受けてか、見ると殺さねばならぬような衝動が走る。私は傍にあったスリッパを掴んで電光石火の如き早業で打ち下した。実は一回失敗したのであるが、兎に角ごきぶりは動かなくなった。私は念の為にもう一度打ち下した。すると白い液のようなものを出して、脚が一本歪んだようであった。死骸は今度立った時に捨てようと思って再び本に向った。しばらくして散歩に出ようと思って振り向いて私は自分の眼を疑った。死んだ筈のごきぶりが影も形もなくなっている。見廻すと離れた壁に沿うたたみのへりを、白い液をひき、脚を一本引き摺ったごきぶりがすべるように走っている。私はその生命力というか、復原力の強さに驚嘆した。

 曽って何かの本で、ごきぶりは数千万年か数億年の生命陶汰の波を乗り越えて、生き残った生きた化石であるというのを読んだことがある。私はそれを思い出し乍ら一つの疑問をもった。それは生物が若し種族保存とか、個体保存を目的とするならば、何うして全てがごきぶりのような生体構造をもたなかったのであろうかということである。億年を維持したということは、適応力の優秀さを示すものである。生命が環境適応的にあったとすれば、そこに最もすぐれたものがあった筈である。

 併し生命は両棲類、哺乳類、人類へと進化して行った。而してそれらは時間としての年数に於て決してごきぶりにまさるものではなかった。それでも変化して行ったのは、生命の形成作用は、単に保存とか適応とかにつきるものではないのではなかろうか。

 生命の進化は機能の複雑化である。機能が複雑化するとは、生命は内外相互転換的として、外としての世界の多様に対し、外を内とする機構を創出することであるとおもう。機能ははたらくものである。はたらくものとして我々が外としての世界を見るとき、外は限りなき多様としての世界である。環境としての自然は周期的に回帰しつつ、我々は一瞬先の生命を知らないものである。機能とは斯る計ることの出来ない外界を、生命の機構の中に取入れようとする、生命の努力である。私は五感が何のようにして出来たか知らない。併し目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぐのは、生命が外を開くと共に、未来を拓いていったのだとおもわざるを得ない。生命は空間的、時間的として、空間的なるものは時間的なるものとして見出されてゆくのである。

 複雑化が世界の多様に対する、生命の自己創出であるとすれば、私は複雑化は、より多様なる世界を自己の中に織りなすものとして、生命は保存や適応を超えて、自己の風光を創造するものではないかとおもう。風光とは豊潤なる情緒であり、情緒に対応する世界である。喜び悲しみとしての内外相互転換の関りである。既に哺乳動物は喜びや怒りをもつ、それだけに環境よりの摂受は多様であり、密度高いものをもつとおもう。私は短歌を作るものであるが、人間に於ては見られたものが見るものとして無限に創造的である。私は 界と自己とのより高い密度を目指して、生命は自己を形成しているのではないかとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

かすかなるもの

 この間ホーキングを内容とした歌を作って歌会に出した。誰もホーキングを知らないと いうので概括を話した。私は話し乍らいつかの歌会での事を考えていた。それは彼の偉大なる宇宙論は、相対性理論と量子理論の結合より見出されたということである。極微の世界の電子の運動を知ることなくして、大宇宙の運動を説くことが出来なかったということである。

 いつかの歌会で、このような小さなものに目をつけたのはつまらんという批評があった。私は意識の発展は分化と統一にあるとおもうものである。分化が愈々細かくなることによって統一は愈々大となるのである。顕微鏡と望遠鏡の極限が結びつくことによって大宇宙の秘密、然も二百億年前の秘密が解明されたのである。

 画家は私達の見ていない美しい色を見ていると言われる。勿論私達に見えていないのではない、見ていないのである。画家はそれを描くことによって見出して来たのである。私達も初夏の山に萌え出る若葉を見るとき、実に多くの浅みどりのあることを知る。私は画を描いたことがない。併し若し絵筆を持って画布の前に立ったとすれば、その微妙の前に絵の具を溶くことすら出来ないであろう。それは無限の多様に面しているのである。和辻哲郎はその著風土の中で『自分は曽って津田青風画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指し乍ら言った。「諸君はあれを描くのだなどと思うのは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあく迄見入ってゆく内に手が動き出してくるのだ。」』。見入るとは如何なることであるか、それは宿されいる陰翳の今迄見ていなかったものを見ようとする努力である。その努力によって線が線を分ち、色が色を分つのである。微妙とは無限の多様である。画家の私達の見ていない美しい色とは、見つめている中に現われてくる驚きの色である。何百号の作品の前に立って私達の覚える感動は、この無限の細分化された視覚の努力への共感であるとおもう。この無限に分つ目に於てのみ、何百号の大作を力感あらしむるものとなるのである。一輪の花の、一片のはなびらを描きつくす力があって、何百号の大作をよく仕上げ得るのである。

 泰西の詩人が「詩人たるものは地球の自転の音を聞かなければならない」と書いているのを読んだことがある。地球は大である。併し地球の自転の音は小である、と言うより筆者はあるのか無いのかを知らない。恐らく生命が誕生して以来自転の音を聞いた者はないのではなかろうか。それを詩人は聞かなければならないというのである。私は創造とはそのようなものとおもうものである。与えられた目の上に目をもつのである。耳の中に耳をもつのである。物の世界に於て望遠鏡と顕微鏡をもち、それによって物の世界を展いて行った如きものを、音に色彩に言葉に於てもたなければならないとおもう。石の独語を聞き細菌の歓声を聞くのである。

 生命は時の姿に自己を露わにしてゆく、時に於ては最も大なるものが最も小なるものである。一細肪が逆に全存在を包むところに時はある。表現とは時の中に深く入ってゆく事である。微塵に全存在が自己を見ての表現である。

 私は以上言ったことを更に明らかにするために葛原妙子の短歌の世界に入って見たいと おもう。

生みし子の胎盤を食ひし飼猫がけさ白毛となりてそよげる

 何も今朝白毛となったのではなかろう。生みし子の胎盤を食ったという異常事態が、翌朝の作者の目に白毛を意識せしめたのであろう。何が白毛を意識せしめたのであるか、私はそこに同族を食ったとゆう作者のもつ罪の意識と、何ものをも食って生きてゆくという生の原質を見たのであるとおもう。上旬の暗黒と下旬の光輝、この矛盾と相克に作者は生命の真実を見たのであろう。恐らくは変っていなかったであろう白毛への意識から、生の深淵を開いて行った力は流石であり、下旬は誰でも言えるものではない。

鬼子母の如くやはらかき肉を食ふなればわずかな塩をわれは乞ひけり

 これは前に私なりの解釈をしたのでここでの歌意の追尻は止める。唯やわらかい肉を食ったというだけのことに、生きてゆくために他の生命の肉を食わなければならない。原罪ともいうべきものへ掘り下げている。

夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す

 夕映えの情景に接した作者は、わがマッチを介在さすことによって、恐怖としての実存する自己に結びつける。そこにこの歌の写生ではない異質性がある。内と外とが一なるものとしてものごとがある。作者はそこに立つのである。内と外を結びつけるものは行為である。作者はわがマッチを見出すことによってそれを成立せしめている。そしてそれは作者の卓絶した才能を示すものである。作者はマッチで火を付けたのではない。或はマッチを持っていなかったのではないか。作は想念に於てマッチを擦り、表象を拡大していったのである。表象を拡大せしめたものは実存としての生の不安である。

畳まれし鯉のぼりの眼球の巨いなる扁平をふと雨夜におもひて

 球型ではなくして扁平なる眼球、その巨いなるものは拡大された死である。それを雨の音が閉す夜に思い出している。そこに巨いなる目が作者を不安ならしめ、不安が目を更に巨いならしめている。生命の一面を私達に突きつけてくれる。

ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり

 ここにも見えない胎児が出てくる。作者は無よりの創造をもとうとするのである。性なき胎児とは如何なるものであろうか。全て胎性動物は性をもつ、それを敢て性なき胎児と言ったのは何故であるか。私はそこに作者が聖なるものに向けた目があるとおもう。仏陀やキリストは性の超克者であった。妻帯を禁じ、姦する勿れというのは、存在を一者に於て捉えんとするものの必然的帰結であった。作者はそれをすゞしき眼に於て表わさんとしたのである。

 私は葛原妙子は、日常のかすかなものを顕微鏡的に拡大することによって、人間の深部を露わにする稀有の才能をもっていたとおもう。物理学も短歌も共に世界の自己創造の内容である。極微と極大が結びつく、其処に世界は自己を創造してゆくのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

一即多

 生命は無限に動的である、動的とは内に否定をもつことである、矛盾として対立するものをもつことである。対立するものが何処迄も相互否定的なることによって動いてゆくのである。私は斯く内に対立を孕んで無限に動いてゆく生命は一即多、多即一とし自己を限定してゆくのであるとおもう。一は多ならざるものであり、多は一ならざるものである。 それは絶対に相反するものである。斯る相反するものに於て生命形成はあるのであるとおもう。生命は身体的に自己を形成する、私は一即多、多即一の直証を身体に見ることが出来るとおもう。

身体は内外相互転換的に形成的である、内外相互転換的とは外を内に換えることである、外を食物としてそれを摂ることによって身体と化せしめることである、転換による摂取と排泄に於て形作ってゆくのである。

生命は物質より出来たと言われる。そして地球上に存在する物質の量に比例する組成をもつと言われる、われわれの内外相互転換とは、身体は自己を組成するものを外として内外相互転換をするのである、私は生命は斯るものとしてその形成を求めるには先ず物質を 探らなければならないとおもう。

 物理学者によればわが天体とする光り輝く無数の恒星は宇宙の物質の十分の一を占めるのみであり、十分の九は目に見えない微粒子であると言われる。その微粒子が何かの契機で集合を初め、そのエネルギーで灼熱し、光明を放つのが恒星であると言われる。宇宙に遍満し構成する微粒子とは如何なるものであろうか、遍満し構成するものは一々が他者と関り合うものでなければならない、関り合うとは他を限定すると共に、他によって限定されるものでなければならない。関係するものとは相互限定的に一なるものでなければならない、相互限定的に一であるとは、関り合うものは個物として相互限定的に自己を実現するものでなければならない。関係することによって実現するものとして、個物の限定は世界の実現であり、世界を実現するものとして個物の一々は世界の中心の意味をもつのである。遍満する微粒子は一々が宇宙の中心として宇宙を映すところに全宇宙はあるのである、そのことは一々の微粒子はその関り合いに於て全宇宙の内容となることである。一々の微粒子が宇宙を映すということが宇宙が自己を形成してゆくことである。

 生命は斯る物質の発展として、相互否定の自己実現を代謝作用にもったものである。絶えざる食物の身体への変換に於て自己を維持してゆくものである。斯る食物は身体への変換可能なものとして組成を等しくするものであり、その最も直接なものとしての他の生命である。即ち生命の食物連鎖として生命は内外相互転換を行うのである。而して前にも書いた如く、生命はその発生に於て地表の物質の組成を模するのである、その地域の生命は地域の組成を模するのである。摂食によって生命形成をもつとは食物によって形作られることである、食物によって作られるとはわれわれの生命形成は外を映すということである。食物としての他の生命は我ならざるもの、他者として我に対立するものである。他の個的生命としてそれに遭遇することは偶然であり、その獲得は努力である。山野を駆けめぐり、水中に潜らなければならないのである。そこから身体の形は生れてくるのである。宇宙の一つとして地表はあり、生命は地表を映し、食物連鎖として生命が生命を映すところに身 体があるとは、身体は宇宙の凝縮としてあるということである。宇宙の凝縮としてあると は、宇宙が自己の形として身体に見出したということである。身体は行動することによっ て宇宙を実現してゆくということである。斯る形成に於て外は無限の多となるのである。 而して転換に於て無限の多は身体として一なるのである。併しそれはまだ真に一即多、多 即一と言うことは出来ないとおもう、食物連鎖の食物獲得だけでは宇宙の内容ではあって も、宇宙を内にもつということが出来ないからである。

 私は真に一即多、多即一となるためには人間の自覚に俟たなければならないとおもう。自覚とは自己の中に自己を見ゆくことである、自己の中に自己を見るとは内外相互転換としての生命の営為を更に映すことである、それが経験の蓄積である。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を統一し構成することである、それが製作である、製作に於て外が物となり内が主体となるのである。一瞬一瞬の統一に於て時間が成立し、製作としての形の出現に於て空間が成立するのである。時間の成立は空間の拡大であり、空間の拡大は時間の成立である。時間・空間の成立は世界の成立である。私達が原始生物の世界という場合 にも断る意識を投影しているのである。

 製作として物に形を見てゆく世界は最早食物的環境として、この我が身体の欲求充足に生きる世界ではない、表現に生きる世界である。表現に生きるとは、この我がそれによってあるものを表わすことである、この我は宇宙が無限に宇宙の中に映すことによって出現 したものであった、その自己の身体中にある宇宙を映し出すことである。物はわれわれに有用なものである。その限りに於て欲求充足的である。併しそれは与えられたものが、与えられたものを超えて見出したものである。もともと欲求的生命自身が、宇宙が内外相互転換的として宇宙の中に宇宙を見るものであった。それが外に形をもったということは、更にそれを超えて自己の中に自己を映したということである。食物的環境に於ての内外相互転換の転換のはたらき自身が自己を見るのである、自己の中に自己を見るとは見るものを見ることである。そこに製作としての物の形は宇宙の表現の意味をもつのである。最も深くはたらくものが形にあらわれたということである。

 製作とは宇宙が宇宙を映すところより生れ来ったのである、人類はそれを担うのである、人類が物を作るということは宇宙が宇宙の中に宇宙を見ることである。経験の蓄積として製作があり、そこから物の形が生れるということは宇宙が自己を実現したということである。そして宇宙はそれを人間が手や言葉をもつものとして実現したのである。表現としての製作は人類が内なるものを表わすのであり、人類は宇宙が内なるものを現わしたものである、断るものとして表現は何処迄も宇宙の内に入ってゆくものであると共に、製作するものとして人間は我と汝が映し合うものとなるのである、我と汝が映し合うとは、人類は最も深い宇宙の姿として、宇宙が宇宙の中に宇宙を見るということである。宇宙の実現者としてわれわれは全存在の一を自己に見るのである。

 映し合うことによってあるとはその一々が全存在であるということである。それは相互補足的なのではない、相互補足的なるところに映し合うということはない、全体の部分なのではない、全体の部分であるところに映し合うということはない、而してそれは同一と いうことではない、同一なるところにも映し合うということはない。一々の個が宇宙としての自己を表現したものとして形相を異にしつつ、宇宙がそこに自己を見たものとして全一である。製作するものも、製作されたものもそこに一々が完結をもつのである。完結をもつとは全一者の実現であるということである。最初に微塵の一々が宇宙の中心であると書いた、中心として個は一々が宇宙を映すのである、個の一々が宇宙を映すところに宇宙はあるのである。我と汝も個として宇宙を映し合うのである。映し合うところに宇宙は現前するのである。

 我と汝が映し合うところは言葉である、言葉を作った人はないと言われる、言葉は我と汝が世界形成的に出会うところより生れるのである。而して誰の言葉でもない言葉はない、私の言葉を他者は語ることが出来ない、常に語る人その人の言葉である。ということは我も汝も言葉も形成的世界に於て出会うというところにあるのでなければならない。宇宙が自己の中に自己を見てゆくというところにあるのでなければならない、そこに自分の言葉は他者が語ることが出来ないということは、宇宙はこの我に映されるのであり、この我に映すことなくして宇宙はないということでなければならない、而してそれは対話に於て映し映されるところに現前するのである。対話のないところに我の言葉も汝の言葉もない、対話に於て宇宙が現前し、我と汝が現前するということは宇宙が全一者として自己の中に自己を見るということである。

 我の言葉を他者が語ることが出来ないということは、我と汝は対立するものであるということである、言葉を作った人がないとは、言葉は生命発生以来の無限の形成の結果としてあるということである。無数の人が呼び応えることによって作ったということである。釈迦もソクラテスもその中に現われた一人ということである、われわれもその中の一人として言葉をもつのである。その中の一人として言葉をもつことによって世界を内にもつものとなるのである。世界を超えて世界を包むものとなるのである、そこに対話として映し映されるのである。映し映されるものは全てが世界の中にありつつ、世界を超えて世界を包むものとして世界は自己を形成してゆくのである。この我に現れた以外に世界はない、そこに独我論の出で来る所以があると共に、この世界は対話によってあるのである。斯かるものとして自己が世界を包み、世界を内に見るというところに唯一者があり、自己が世界の中の一人というに多を見るのであるとおもう、このわれがあるということは一即多、多即一としてあるということなのである、そしてそれが映し映されるものとして世界の存在の形なのである。そこにわれわれは自己を転ずるのである。一々の行履は宇宙が創世以来自己の中に自己を見て来たものとして確固不抜の自己を見ると共に、宇宙の動転の一塵として一朝の露命のはかなさを嘆くものとなるのである。そして一瞬一瞬の営為の織りなす生命の風光に神の姿を見、その充足に生きるものとなるのである。

長谷川利春「自覚的形成」

盗作

 露踏みて畑に通ひ来し女育つキャベツに屈みゆきたり

 先日出した未知の己の中の一首である。併し私は表題に入ってゆくために斉藤茂吉から語らなければならない。私は茂吉が好きである、一番偉大なる歌人はと問われたら、私躊躇なく氏の名を挙げるであろう。幾度も書く通り

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

に、それ迄技巧的な表現の歌を上手いと思っていた私は魂の根より動かされたのである。下句の何れ程も離れてゐないという把握に、単に赤茄子の腐れではなく、全生命が負うている腐れに思いを運ばす力がある。私は目を開かれた思いがしたものである。

 私は氏がものを見るのは単に目で見るのではなく、全身の生死に於て見ているようにおもう。河豚を殺した歌、蚕の歌にも苦行僧の心の裡を見るような粛然としたひびきをもっているようにおもう。対象を見ると同時に自己を見ているようにおもう。

 冬原に絵をかく男ひとり来て動く煙をかきはじめたり

の歌も好きである。四句の動く煙は凡庸の出る言葉ではない、動的な生命をもつものの目によってのみ見られるものである。動的とは背後より何ものかに衝き動かされいるということである。

 ここ迄書けば賢明なる読者は既に了解されているであろう如く、初掲の私の四句育つキャベツの育つは、本首の四句動く煙の動くを発想に於て盗んだものである。

 盗作というのはどこからを言うのであろうか、余りにも言い古された言葉であるが、「学ぶ」は「真似ぶ」から来たと言われる。私達は短歌を学ぶとき先蹤を真似ぶのである。言わば盗むのである。併しそのことは先蹤を受け継ぐことである。そこに伝統が生れるのである。私はわれわれの感性は先人を受けることによって陶冶されるのであり、創造は先人の上に立つことであるとおもう。

 私は今回の「未知の己」に於て「照り出でて」を多用している。これは初井しずゑが使 っていたのを盗用しているのである。私はこの言葉に研ぎ澄まされ感覚を感じた。そしてその言葉を使うことによって、表現の野とでも言うべきものが拡大されるようにおもうのである。これからも使いたいとおもっている。併し盗作ということを意識すると心中じくじたらざるを得ない。非難さるべき盗作の範囲は何のあたりからと編集当局の松尾さんや藤木さんの御教示を賜われば有難いとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

孫の画を描くのを見乍ら

 仕事の都合上大阪に離れ住んでいる子等夫婦が、学会出席の為シンガポールに行くことになり、その間幼い孫を預ることになった。三才余りの子供は成長が早い。帰る度に見せてくれる変貌は楽しいものである。昨日も一寸抱いてやろうとしたら、「奈央ちゃんはねえ、もう赤ちゃんじゃないの、もうおねえちゃんなの。だからだっこはしてもらわないの」 と言って走り去った。私は苦笑して見送る外はなかった。併し私より妻の方に傍に置いて離し度がらない。この頃は悪戯が激しくなって手古摺ることが多いのだが、それでも傍に居ないと淋しいらしい。

 その孫が書斉にゐる私の所へ来て、「おじいちゃん一寸来て」と言う。「用事か」と聞 くと、「奈央ちゃんがねえ、画を描くから見ていて」と言う。丁度退屈していたところな ので、一度立ちるのも良いと思って従いてゆくと、妻が「昼の支度をするから、奈央ちゃんが画を描くのを見てやっとってえ」と言う。見ると描きかけの画用紙らしいものと、クレョンが散らばっている。クレヨンは私達の少年時代の六色か七色と違って、数十色もあろうかという豪華なものである。今更のように時代の推移を感じながら画用紙の方を見ると、円とも線とも角とも分ち難い線が、用紙一杯に引き散らされている。孫は新しい紙に描き初めたが図型は大同小異である。

 表現の形は手と目の協動から生れてくる。視覚と運動覚が一つになってはたらくところより生れてくる。幼児の表現はこの手と目のはたらきが未分化のようである。表われたものを見ていると、何うやら原始感覚としての運動覚の方が優先しているらしい。孫はためらわずに線を引いている。「何を描いとるのん」と尋ねると、「兎さん」と答える。併し何う見ても兎や犬と言えるものではなくして無茶苦茶の線である。幼児の頭の中の映像は何うなっているのであろうと思いながら、「上手やなぁ」と言うと、「うん」と答える。私は見ながら、やがて意識の発達に伴なって目と手が分化し、目と手が対立して目が優先となり、手を制約するときに本当の表現となるのだと思った。

 和辻哲郎はその著『風土』の中で、津田青風画伯が初心者に素描を教えているときのことを書いている。画伯は石膏の首を指しながら「諸君はあれを描くのだなどと思うは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。此処では明らかに目が優先している。此処から本当の表現が初まるのであるとおもう。併し目と手が分れて対立しているあいだはまだ表現として未熟であるとおもう。目も手も一つの生命の構成としてある。表現が生命の表現となるにはそれが再び一つに還らなければならないとおもう。一旦相分れ、対立した手と目が一つにならなければならないとおもう。目が手となり、手が目となるのである。ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如きである。開眼とか円熟というのは斯る渾然たる生命となったことを言うのであるとおもう。

 孫は相変らず無心に描いている。時にははげしく、時にはゆるやかに、私達には何うしても意味の分らない線を引いている。私は見ながら形の根源にあるものは、視覚よりは、運動覚にあるのではないかと思った。幼ない孫が訳の分らない線を夢中で引いているのは、そこに手の喜び運動覚の喜びがあるからであろう。そうとするとこの線は物の形以前の運動覚のよろこびの形であろう。そしてそのよろこびは表現愛の底に深く潜むのではあるまいか。私は考えながら昔読んだ本を思い出していた。それは或る芸術家が、「表現の形の根元にいくつかの幾何図型がある」というものであり、円とか、角とか、円錘等を挙げていた。併し記憶が余りに模糊としていて、何等考えを拡げることが出来なかった。

 小便がしたくなったので立上った。すると今迄私のことなど忘れたように描いていた孫 が「行っちゃ駄目」と言った。「おじいちゃん小便」と言うと肯いたが、私が外に出ると 描くのを止めて妻の傍に行ったようだった。そして私が戻って来ると描きはじめた。私は何うして私が居なくなったら描くのを止めたのであろうかと思った。私は思いながらこの問いが孕んでいる底の深さにおやとおもった。

 何故見る人がいなければならないのか、同じ行為でも飯を食うときは見ていてくれと言わない。私が居ない時に描くことを止めたということは、見ている人がいるということが表現意欲への重大な要素となるのでなければならない。それは何か。此処迄書いて私は坂田さんの言葉を思い出した。「何かやわらかい文章が欲しいのです。哲学理論は真平です」これから筆を進めるには推論しかない。真平の領域へ踏み込まなくては行き場がない。これで筆を擱いて後は読まれた方の思索に委ねたいとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

偶然

 日常を省るとき私達は余りにもその多くが偶然であるのに驚かざるを得ない。私が今此処にあるということにしてもそうである。塚本邦雄の歌に「父、母を娶らざりせばさわやかに我なし」というのがある。多くの男女の中から二人が結びつくのは偶然である。そし 若し母の腹に私が宿った日に、父に所用があったとすれば今の私はなかったと言い得るであろう。

 私は大東亜戦争に召命された。戦争は生死相接するところである。弾雨の中では一米の距離、一秒の遅速が生死を分つのである。天命に帰する外ないところである。

 二人となって以来時々近くの食料品店に買物にやらされる。目当のものがあるときや無いときがある。忘れていた好物や、外国の珍品に出合うことがある。思いがけなく声をかけられて、ふり向くと少年時代の友達だったりする。必然は食物を買いに来たということだけである。出会う人、物は全て偶然である。

 山に茸とりに行ってもそうである。一本も無かったのも、籠一杯になったのも偶然であ る。人に出会って、生えているところを教えてもらったのも、石に躓いて怪我をしたのも偶然である。偶然とは一体如何なることなのであろうか。

 私はそこに生命の営為がなければならないとおもう。私達が山登りをしているときに、 落石があって道が塞がれていた。それは偶然である。併しヒマラヤ山の山奥で、同 落石があって道を塞いだとする。それは私にとって自然現象であって、偶然でない。魚 取りに行く人にとって、そこにばったが居たことは偶然でも何でもないであろう。併し昆虫採取に行った人であったらそれは偶然であろう。

 生命は内外相互転換的である。私達は瞬時も休むことなく呼吸している。呼吸は空中の酸素を摂取して、炭酸ガスを空中に排泄することである。食物を摂取して老廃物を排泄する。食物も酸素も我ならざるものとして、外なるものである。外を内とし、内を外とすることによって、生命は自己を維持してゆくのである。外の欠乏は内の死である。私は偶然の根源を、内が外であり、外が内であり、我ならざるものが我に転換し、我が我ならざるものに転換するところに求めたいと思う。併し内外相互転換も未だ真に偶然であるということは出来ない。偶然には必然の成立がなければならない。必然の目をもって初めて、他者との転換は偶然となるのである。

 生命の営為とはより大ならんとする努力である。単細胞動物から、哺乳動物迄数十億年の生命の営為はより大なる時間、空間の保持者たらん事であったと言い得ると思う。人間の細胞は六十兆と言われる。分化と統一の下に生命は一大有機体を作り上げたのである。斯る生命の主体的構成は大なる客体の構成でなければならない。内外相互転換として、内を構成することは外を構成することでなければならない。内を組織することは外を組織することでなければならない。

 内とすべき外は、生命がそれによってあるものとして、環境の意味をもつものである。 蜘蛛や蜂は巣を営む、それは主体として組織化された生命が環境を造り、造った環境によって、より大なる集団化としての力をもち得たのである。内外相互転換とは生命の自己維持として、形相の実現として技術的である。内と外とが形成された技術に於て、形相を実現するのが必然である。而して生命が必然を内包し、環境をより大ならしめることは、内外相互転換としての外を、より大ならしめることである。偶然がなくなることではない、偶然を愈々多様ならしめることである。此処に偶然には必然の成立がなければならない所以があるのである。

 併し蜂や蜘蛛に於ては未だ必然が顕在したということは出来ない。必然が顕在する為には、意識の内容として意志による実現を俟たなければならない。即ち人間の自覚的表現的生命に於て、はじめて必然が顕在するということが出来るのである。

 自覚的生命とは時の統一者となることである。時を内にもつものとなることである。内 外相互転換としての一瞬一瞬を、内に蓄積するものとなり、著積を現在の自己限定とするものである。一瞬一瞬の異った転換を蓄積するとは、異った働きを構成することである。それを現在の自己限定とするとは、物を製作することである。物の製作に於て意志は合目的的となり、外と内とは必然の意識に於て結ばれるのである。自覚とは生命が内面的必然的となることである。人間は技術としての内面的発展によって、無辺の空間と無限の時間を見るのである。

 生命は何処迄も内外相互転換的である。内外相互転換とは内が外となり外が内となることである。他が我となり、我が他となることである。偶然は必然を生み、必然は偶然を生むのである。技術の集積である自動車は、我々に益々多くの出合いの機会と、事故死の機会を与えるのである。而して事故を媒介として車は愈々精密となり、精密となることによって普及し、事故は益々増大するのである。必然は環境を自然から歴史へと転移せしめる。自覚的生命としての人間は、歴史的環境としての、自己の製作的世界の中に生きるのである。

 自然的環境に生きる生命が与えられた身体として生きるのに対し、歴史的環境に生きる 生命は製作する身体として生きるのである。物に結合する者として社会に生きるのである。社会とは歴史的形成的世界である。

 製作する身体として生きるということは、自然として与えられた身体を超えるということである。言葉や技術は個々の身体の生死を超えて、はかり知れない伝統の上に成り立っているのである。我々は無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私達が今自己というのは言葉や技術をもつものとして、無限の時の上に立っているということである。

 我々の身体が歴史的身体として、所与としての身体を超えたものであり、身体の生死を超えて伝承し、伝達する過去、現在、未来の統一者であることを知るとき、そこに我々は永遠を見るのである。永遠の相に自己が立つとき、偶然は外として、他者として主体の否定者として運命的となるのである。必然の目をもつことによって内外相互転換が偶然になるとは、偶然は運命として我々に迫って来るということである。自己の前後を俯瞰する目によって、一瞬一瞬に生死を見るとき我々は運命的にあるものとなるのである。

 蛆虫やとんぼは、離島に生れようと東京に生れようと大した差異はないであろう。併し 人間に於てはその文化度に於て、大なる運命を感ぜしめるのである。偶然ははかるべからざるものとして、理知の光りに照して運命は暗黒である。離島と東京に於てそこに出生の運命を感じるものは離島に於てより大である。

 我々は生れて、物を食って生命を維持し、そして死んでゆく限り何処迄も偶然的であると言うことが出来る。即ち運命的である。我々は常に暗黒の口の前に立っているのである。併し理知の光りに照して暗黒であるとは、理知の光りは運命の暗黒より生れ来るのでなければならない。偶然はそれ自体が機能的として、必然の母胎である。 必然は偶然に回帰することによって、新たなる形象を獲得し、無限に自己創造的となるのである。運命の暗黒 を見ることは、それ自体が理知の光明である。暗黒と知るのは、光明に照らさるべく暗黒と知るのである。私はそこに人間の営為があると思う。

 先日何でであったか忘れたが、輝く星は大宇宙の質量の10%程であり、後の90%は暗い空間に浮遊する微小物質である。そしてその微小物質の集合、拡散が宇宙創生の原動力であり、輝く星もこの微小物質の質量より生れたものである。世の中に神を惜定するとすれば、この微小物質の質量が神であると思うといった意味のことが書かれてあった。

 私は宇宙物理学については一丁字もなきものである。その真偽については何等語る資格を有しない。而して私は読み乍ら、人生の偶然と必然も亦斯くの如きではないかと思った。 我々の日常の大部分は偶然である。而して偶然は、偶然の故に意識に上ることは少ない。 併しそこに思いを致せば、偶然ははかるべからざる奥底をもつ。神が働くというのは或は斯るところからではないかと思う。運命の底に神はあるのではないかと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

人格

 人格とは他の動植物に対する人間の生命の位置付けである。私は斯る位置付けを人間生命の自覚性に求めたいとおもう、自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己の中に世界をもつことである、生命は内外相互転換的に自己形成的である、外を内とし、内を外とすることによって自己を実現してゆくのである。外を食物として、食物を身体に化してゆくのが生を営むということである、それが自覚的となるとは内によって外を作るということである 食物を摂取することに作られた身体によって外を作ることである。もともと内外相互転換とは内が外を映し、外が内を映すことであった、人間生命はそれが自覚的となったのである。内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのである。無自覚としての生命に於ては相互転換が直接的であり、同一的であった。それが自覚的生命に於て否定的に対立するものとなったのである。外が物として、内が身体として否定を媒介して形成するものとなるのである。否定を媒介として形成するものとなるとは映し合うものとなることである。物は身体を映し、身体は物を映すものとなることである、食物は身体ならざるものであり、摂取に於て身体に化するものである。それをより容易に獲得し、より勝れた機能の身体に化せしめるのが物が身体を映すということである、環境適応的であった身体を、環境を身体に適応せしめるのである、外は身体に与えられたものではなくして身体が自己の延長として作るものとなるのである。内外相互転換が身体に直接なるものは未だ物ではない、製作に於て外は物となるのである。

 内外相互転換として、外を食物とする生命は欲求的である、欲求的であるとは内と外と が対立することである、我ならざるものを我となさんことが欲求である、そこに内外相互転換があるのである、そこにわれわれは身体を形作ってゆくのである。欲求やそれの充足としての行動は身体の形成のはたらきとしてあるのである、内外相互転換的に形成するとは、形成された身体は内外の統一としてあるということである。内外の統一としてあるということは、身体の形成は内にあるのでもなければ外にあるのでもない、内外相互転換的に自己を見てゆくものの自己形成としてあるということである。自覚とは自己の中に自己を見るものとして、この統一としての内外一なるものが露わとなってゆくことである。そこに製作があるのである、製作は一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積が見出した形である、無限の経験が現在の行為にはたらくときに製作があるのである。製作は転換として内外相分れたものが一つとなることである、それは前に身体に直接なるものは未だ物ではないと言った如く初めから分れていたのではない、製作的生命として内外分れると共に一になるも のとなったのである。

 内外一なるものは物でもなければ我でもない、私はそれを宇宙的生命と言い、物を作ることによって見出してゆくのを世界と言うのである。

 生命が内外相互転換であり、物の製作が内外の統一であり、物の製作によってわれわれが自覚をもつとき、われわれの自覚は宇宙的生命の自覚と言わなければならない、宇宙的生命の自覚を映し、分有することによってあると言わなければならない。人間は手と言葉をもつことによって製作的生命となったと言われる、手と言語中枢は人間が作ったのではない、創世以来の生命の大なる形成の流れの中より出で来ったのである、生命が生命の中 に見出でた生命として現われたのである。

 斯る宇宙的自覚は宇宙がその唯一性に於て負うのではない、一人一人の人間がもつのである。内外相互転換は個個の生命が負うのである。個々の生命が欲求的自己として外を内に転換し、内を外に転換することによって自己を形成してゆくのである、それは無数の個として形成してゆくのである。単なる個は何ものでもない、言葉は対話としてあるのである、我と汝が対立するものとして一つの世界を形成するものである。対立するものとして一つの世界を形成するとは、我と汝はこの形成的世界に於て自己を見るということである。私は経験の蓄積も斯るところに於てもつとおもう、経験の蓄積としての記憶をわれわれは言葉にもつ、それは我と汝の対話に於てもつということである。物の出現に於て我と汝はあり、我と汝に於て物の出現はあるのである。そこに世界が出現するのである。対話とは世界がそこに実現するのであり、そこより我と汝が現われるとは、我と汝は世界を映すものとしてあるということである。世界を映すとは世界を我の内に在らしめることである。而して世界を内に在らしめることによって我と汝は対話をもつのである、我と汝が対話するとは我と汝が映した世界が異なるということである、我の映した世界以外に我に世界はなく、汝の映した世界以外に汝に世界はない、それが世界の形成であるとは対話とは世界実現の闘争である。我が世界を映すとはこの我の個をとうして世界を実現せんとすることである、世界実現的に世界を映したこの我が人格である。

 この我と汝は対立するものであり、対話するとは一なることである。対立するものが一であるとは、各々己が世界を実現せんとすることである。世界実現的に争うということである、斯く争うということは生命としての身体は個々として無限の陰影をもつということである。自覚的生命は直接的な本能性を超えるといっても食わずに居れるということではない、生命の中に生命を映すとはそれを包んでそれをより瞭らかにすることであって消えてなくなることではない、秩序に於てより大なる形をもつということである。食物は外としてならざるもの偶然としてあるものである、生存を至上命令とする生命の維持に我と争わなければならないものである。製作は偶然を必然ならしめるものとして、より大なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざまの技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するものと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではなかった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざま の技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力 となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するも のと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外 の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではな かった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世 界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認め合うものである。

 私は真に人格が成立するためには近代の産業革命がなければならなかったとおもう、産業革命は人間の労働を機械の生産に置き換えた、そしてそのことは専制君主より多くの 人民を解放することであった。人類は自然の暴威に一人の統率者による集合の力を必要としなくなったのである。分業による一人一人の能力こそ最大の力となったのである、さまざまの分野に個性が尊重されてきたのである。個々の分野に人々は創意をもち得たのである。勿論それは一挙になし得たのではない。機械生産には大なる投資が必要であった、それをなし得たのは支配階級であった。併し多くの人々は創意に於てそれを打破ってブルジ ョア階級を打樹てたのである。それは神権、王権に対する民権の確立であったとは多くの人の説くところである。それによって直に人権が普遍性を得たのではない、女工哀史は近々百年程以前のことであった。旧支配階級による主従関係が依然として続いたのである。これを打砕いたのは第二次世界大戦であったとおもう、私は人格形成の立場から見て、個性による世界形成への脱皮と今次大戦を位置づけたいとおもう。人類の全てが内在する能力を発揮すべくなったのである。宇宙的生命の個として世界を映し、世界に映すものとなったのである。

 人格は人格に対することによって人格であるとは対手の人格を認めることである、対手を人格として対することは我を人格とすることである、私は斯る意味に於て奴隷を認めた古代ギリシャの哲人や、帝王と民衆を是とした中国の古賢は人格というよりは神格と言うべきものであったとおもう、師の影三尺にして踏まずと言ったところには、教えはあっても対話はない、併し私はそのことは神格が人格より高いことではないとおもう。神格が内在的となったのが人格であるとおもう、内在的となるとは、言葉によって露わとなった天地の理法が人間の内なるものとしてはたらくものとなったということである。宇宙の創造を一人一人の人間が担うものとなったということである。言葉や製作として技術は本来斯るものであり、それが露わとなったということである。言葉が真に自己を露わにしない時に於ては人間は宇宙の内容であったのである。それが世界形成として逆に宇宙を内にもつものとなったのである。外に宇宙を見たことが神を見たことであり、内に宇宙を見ることが人格となったことである。全てのものは宇宙を映す、それが表現的にはたらくものとなったときに人格となり対話をもつのである。外を内として内が更に他となるの表現である。それは一々の人間が担うのである対話的に担うのである。

 胎児が形をもつ最初の時に八つ目鰻の斑点の如きものが現われると書いてあるのを読んだことがある。それは人類が未だ海中にいた時の鰓の跡だそうである、それから両棲類に似て来、哺乳類の形となり、出産の時は猿に似ているのだそうである。そして類人猿の歩行に似たる姿を経て人体となるのだそうである。私達が今この姿をもっているということは生命発生以来の全過程を体現した結果としてもつということであり、更に我々が学ぶということは、歴史的形成の全過程を内にもつことであるとおもう。われわれは意識下に魚類の、両棲類の、哺乳類の生命衝動をもち、原始人類の、縄文人の、弥生人の欲求を潜めるのであり、意識はその上に打樹てられたものである。生命は意識下と意識の綜合としてわれわれの行動はあるのである。意識は生命が自己の中に自己を見たものとしてその根源に情動を有するのである。自己の中に自己を見たとはそれを否定し、克服してきたことである。自己の中に自己を見るものとして否定し克服したとは、それが無くなったのではない、より大なる生命の内容としての機能をもったので、それが意識である、意識はより大なる時間・空間の意味をもつのである。意識としての形成が歴史的形成である、それは生物的進化しての生体的変化ではなくして、言葉による否定の努力である。身体をして言葉の内容たらしめる努力である、人格はそこに成立したのである。否定的形成として努力とは限りない克己である、克己とは生体的個としての形成的欲求を言語的普遍への形成へ転 換せしめることである、情動に理念の衣服を着せることである、肉体的形成ではなく、 界形成によろこびかなしみをもたせることである、世界形成としての汝との対話をものと なることである、他者を手段としてではなく、目的として対するところに人格はあると言われる所以である、手段とは他者を自己形成の内容とすることであり、目的とは共に宇宙形成の内容となることである。勿論生命が身体的形成である限り、共同社会を営むものと して相互手段的であるのは避けられないことである。相互手段的であるのが生きてゆくことである、それを目的とするとはお互が対手を利用してゆくことが世界の自己形成の内容となることである、自己を否定して自己も他者も世界の実現の内容とすることである、自己と他者が世界実現の内容となることが対話である、そこは他者に自己を見、自己に他者に映して自己があり、自己に映して他者があるのである、自己の存在の為に他者があるのではない、他者に生かされ、他者を生かして自己の存在があるのである、自己に映して他者があるのではない、過去・未来の無限の他者に映して自己はあるのである、われわれの生命の欲求としての無限の時間、無涯の空間は我より出ずるのではない、無限の他者に映しているということである、対話はそこより生れるのである、他者として互に無限の生命につながり合うところに対話はあるのである、そこに相互目的として人格となるのである。相互目的として手段は目的であり、目的は手段である、それは単にわれわれの意識が変ったというのみではない、手段はより大なる手段となったのである、無限の過去と無限の未来の陰影をもつものとなったのである。産業革命に人格の基盤を求める所以である。私は 産業革命以後の国家が多く正義・友愛・自由等を旗印に掲げ、建設の基本理念としたのもこれによるとおもう、人格と人格とが対話をもつ社会、そこに人格は真の自己を見、実現せんと望むのである。

 何処迄も生物的身体としての生命が他者に自己を見ることは絶えざる自己否定の努力が必要である、身体的充足は世界が自己に化すことである。食も性も自己の身体を中心に置き世界を転ぜんとする行為である、他者に自己を見るとはその根底に他者があるということである、欲求は世界や社会の中に於ての欲求であるということである。世界や社会なく して欲求は成り立たないということである。われわれの身体は生物的生命を超えて自覚的形成的生命となったということである、斯る自覚が自己否定としての努力をもつ生命である、このことはわれわれが自己否定の努力を失うとき、人はその人格性を失うということ である。身体的生命は絶えず自己充足を要求するのである、それを世界に転ずる努力に於 て人格性を保つのである、それは両者の闘争である、身体は肉体に於て絶えず利己ならんとし、言葉は絶えず利他ならんとするのである。肉体的欲求が優勢なるとき、言葉は肉体的欲求に従い、言葉の欲求が優勢なるとき、肉体は言葉の内容となるのである。それは手段と目的として、手段が目的であり、目的が手段である具体的世界に於て絶えざる対抗緊張である。斯る対抗緊張に於て人格は自己自身を見出でてゆくのである、それは生命形成の本源的形式である。目的が手段であり、手段が目的であるとは、目的は手段に自己を実現し、手段は目的によって自己を大ならしめるのである。個々の身体が自己の中に世界を見ることなくして世界はあり得ないのである。個としての身体が世界を包むということは世界を自己の意志の下におかんとすることである、斯る個的身体の根底にあるものは身体の充足的欲望である、それは反人格的なものである、手段は常に反人格的である。斯る自己が世界が世界を形成するところに見られるとするとき人格となるのである。神は反極に悪魔をもつことによって神となる、人格は神の内在である、何処迄も反人格的なものをもつことによって人格となるのである。私はキリストの原罪、親鸞の罪深重というのも斯かる人格の根源の自覚に於て成立したのであるとおもう。人格的に愈々深大となることは反人格的にも愈々深大となることである。斯る極はどうすることも出来ないものとして自己 放棄してそのままの受容に生きたところに成り立ったのであるとおもう。そのままの受容とは矛盾そのままを実在とすることである、闘うことそのままが根源的存在者の自己実現とすることである。そこに自己が摂取されることである。私は受容の世界に自己を放棄せず何処迄も世界実現的に克己に生きたところに人格があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

勿体をつける

 つぎつぎと車過ぎゆきはるかなる動かぬ山に瞳置きたり

 例によって零点の、みかしほ八月歌会の私の詠草である。内藤先生が「この歌には骨がある、長谷川さん勿体をつけなさい」とのことであった。私は本来自分の歌を語るのは嫌いである。併し考えてみると稀には自己弁護も必要のようにおもう。それで勿体をつけてみる。

 この歌にもし見るところがありとすれば四句動かぬ山であろう。山は信玄の風林火山にもある如く、通念として動かぬものである。動かぬものを動かぬというのは、写生として最も拙劣なものである。それを敢て言ったのは、そこに自己の内面を表そうとが故に外ならない。勿論そこには目のやすらぎというものがあった。而して作者は目のやすらぎの根底に、変ずるものに対する不変なるものへの心の憧憬を感じたのである。

 祇園精舎の鐘の音は諸行無常と響くなりという、それは無常に対す常住への憧憬である。一瞬一瞬の移り変りに対する、永遠なるものへの愛慕である。動かぬ山は永遠の象徴のつもりだったのである。併し表現技術拙劣にして、理解の届く言葉を撰択することが出来なかったのは申訳ないことである。以上一寸勿体をつけ過ぎたかという心配もある。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

偶然と必然

 私は前に人間が人間になり得たのは、言葉による経験の著積によってであると言った。そして経験とは生命が生死として、内外相互転換的にある事であると言った。私達は摂食と排便をもつものとして生命を維持する。その食物を取る所、排便する所が環境へしての外である。そして食物を摂るもの、排便するものが身体としての内である。そして食物が無い事は死として、我々に否定として迫って来るものが環境である。私は今食物のみを言った。その他自然の暴威、他の生物等全て我々に否定として迫って来るものが外としての環境である。死として迫ってくるものを生に転ずるのが営為である。それは常に力の表出を伴う。それは生命が本来的に宿さなければならないものである。この死生転換が人間に於て経験である。経験とは斯る様態をより高次なる立場より把握したものである。そのより高次なるものを私は人間の自覚的生命に於て捉えたいとは前にも書いた通りである。斯るものとして私は経験は偶然的であるとおもう。

 偶然とは何か。此処に石がある、それは偶然でも何でもない、唯ありのままである。 その石に私が蹴躓いたとする。その時その石は偶然其処にあったのである。私は否定に面したのである。赤犬が私を襲おうとしたとする。私がその石を掴んで投げて追っ払ったとする。私は否定を肯定に転じたのである。その時その石は偶然そこにあったのである。人に してもそうである。もし私が群集の中にゐたとする。それは偶然でも何でもない。そこで知った人に出会ったとする。するとその時、其処、知人、自分等全てが偶然となる。そして知った人とは、出会いたかった人か、出会いたくない人か、肯定か否定かの何方かの人である。その何方でもない人は知った人ではない。偶然とは生命がその時、その場所に於て死生転換する唯一点の事柄である。故に私は人間を除く生命は偶然的であり、人間も亦生命としてその多くを偶然にもつと思う。経験とは斯る偶然を把握したものである。把握するとは偶然としてあったものを繰り返すことの出来るものとするということである。言葉による蓄積である。そして言葉によって蓄積することによって偶然は経験となるのである。経験を蓄積するとは如何なることであるか。

 生命は種と個の綜合として生命である。個的生命は生死することによって個的生命であり、種的生命は個的生命の生死を内包することによって、自己を維持するものとして種的生命である。否定と肯定を内包することによって自己を維持するということは、種的生命は無限に技術的であるということである。環境との相互限定に於て、無限に適応的であるということである。如何なる小さな虫といえども、それ自身によって動くということははかり知れざる機構をもつものでなければならない。死生転換を介して種的生命はそれを構成して来たのである。偶然はその刹那に於ける外に対する内の対応があって偶然である。その対応の背後には限りない生命の技術的形成があるのである。

 死生転換に於て主体の客体化が死であり、客体の主体化が生である。環境が凛烈なる寒気をもつとき、身体がその寒気に閉さるる時は、主体の客体化として死にゆくのであり、体温を保持すべく環境を変換するときは、客体の主体化として生を見るのである。生命はその生きんとする意志に於て、常にその生の方途を見出してゆく、その方途を記憶によって再生せしめる事が出来るのが蓄積である。

 環境は我々に繰り返すものとして与えられている。日は繰り返し年は繰り返す。環境が 循環的にあるということは、方途が繰り返されるということである。再生とは繰り返し の中の無限の方途から最善の方途を撰び出せるということである。そしてその方途の上に新たな方途を積上げる事が出来るということである。

 私達は斯る蓄積を言葉に於てもつ、言葉を作った人はないと言われる。それは人間の呼び交わしの中から出で来ったと言われる。それは無限の人の交流の中より自から作られたものとして全人類の内容である。我々は世界の中に於て言葉をもつのである。言葉は内なるものを外に表わすものとして自覚的である。自覚は個を超えた全人類の内容として、世界形成的として種的生命が自覚するのである。蓄積は生死する生命を内包する種的生命に於てあり得ると思う。新たな方途も、一人の人がもつことは出来ないと思う。無数の人による無数の方途が、言葉によって結合するときに生れるのであると思う。

 環境の主体化とは物を身体の延長とすることである。環境という言葉は既に主体との交叉を意味するのである。巣を作り、塒を作るのも主体化である。それが人間に於ては自覚的である。自覚的とは本然的に具有するのではなくして、記憶と再生と他者との結合に仍て、其の時、その場所によって構図を画くことである。其処に人間の技術がある。構図を画くとは製作することである。

 私は必然とは人類が製作的、発展的となることであると思う。一つの製作としての形が 新たなる経験の形を加えることによって、より主体化されるのが必然であると思う。全人類の内容として、形が形を呼ぶのが必然であると思う。甲が作った形に、乙が自分の見出した形を附加してゆくのである。著積するとは単にあることではない。これによって生きよと呼び声をもつことである。そしてそれによって生きると共に我々は我々の製作としての経験を附加することによって、次の時代への呼び声とすることである。斯る時の連続附加が必然であると思う。

 私は偶然とは斯る必然への転化以前として偶然であると思う。偶然が言葉によって永遠の内容となることによって経験となり、経験が言葉によって統合整理されて技術的製作的として必然となるのであると思う。必然とは自覚的形成的ということである。偶然は必然の光りに照して偶然である。

 かつて何かの本で偶然は原因が複雑で究明し難い事柄であると言った意味のことを読んだ事がある。而し私は犬に吠えられた時に、其処に石があったということは、幾億光年の星の距離を測定するより複雑であるとは思われない。偶然とは言葉以前なるが故に偶然であると思う。

 勿論私は偶然が単純であると言わんとするものではない。我々が生命である限り我々の日常は偶然的である。主体化である限り主体は達すべからざる深さである。四十億年前に地球の誕生があったと言われる。その間生死を繰り返すことによって形成し来った機構は解くべからざる謎であると思う。唯生命として死生転換にその機微の一端を現わすのであると思う。我々は偶然に於て垣間見るのである。

 かつて何かの本で南方の未開人が酋長を決めるのに角力を取る所がある。その時に誰が見ても強く、酋長になると思っていた男が、偶然そこにあった木の根に躓いて負けとする。すると皆は勝った方を酋長にすべく、神がそこに木の根を置いたと信じて疑わないと書いてあるのを読んだ事がある。私はそこに偶然に対する最初の受取り方があると思う。そこは未だ偶然と必然は未分である。木の根は神の心に於て必然である。斯る必然が更に根源的な因果の必然の自覚によって、木の根は偶然となり、神の心の方向に力の必然が生れるのであると思う。木の根に躓いたということは経験となるのである。根源的なる必然の自覚は、言葉が時を内にもつことによって生れるのである。

 環境の主体化とは、環境を外的身体とすることでである。身体の延長として環境を変革することである。道具は物を手の延長とすることであると言われる。我々は道具によって対象を変革し、死としての環境を生に転じる。蓄積は身体によって、身体の外化として蓄積されるのである。外化に対応するものとして大脳の言語中枢の発展に於て蓄積するのである。故に蓄積とは無限に製作的である。而して製作の必然より見るとき、最初に道具の素材となったものは偶然である。其処に経験の蓄積がある。

 経験の蓄積は全人類的として、必然は人類の種の内容であると思う。それに対して経験は死生転換として、偶然は生死する個的生命としてあると思う。人間生命は自覚的として何処迄も必然化であると共に、個的身体的として、何処迄も偶然的であると思う。必然に於て人間の栄光をもち、偶然に於て豊潤なる質料をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

 諸悪莫作、衆善奉行という言葉がある。私達はより善き世の中を作り、そのためにより善き人であらんと欲する、善とは何かは古来人間行為の基本的価値の問題として幾多の人によって求められて来た。併し浅学なる私は私の内面の要求に真に応えるものをもっていないのに気付く。以下私は私なりに自分の内面に入ってゆきたいとおもう。

 我があるとは生命としてある、この我が生きてゆくところにある、斯かるものとしてわれわれの問いの第一は我とは何ぞやであり、生命とは何ぞやである。私は善とは何ぞやの問いも断る問いの中に於て問われなければならないとおもう。生命は物質より生れたと言われる、物質は無限大のエネルギーの爆発より出現したと言われる、エネルギーより物質が出現し、物質より生命が生れたというとき、エネルギーも、物質も、生命も不可知者である。エネルギーも、物質も、生命も現存在としてあると言わなければならない。勿論現存在としてあるとはこの一瞬の現実としてあることではない、変化することによって自己を維持するものとしてあるということである。移るものとしてあるということである。力とは対立をもつことである、エネルギーはそのもつ対立に於て遷移をもつのである。対立に於て遷移をもつとは、形は常に対立するものによって限定されるということである。

 生命は三十八億年前に出現したと言われる。生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂取して身体を作ってゆくのである。内外は相互転換的として相互否定的である。有機体は食物を有機体にもつ、求むべき対象は個体として自己維持を図るものである。それは抵抗をもち、それに出逢うのは偶然である。生命の否定は死を意味する、内外の相互否定は死をもって対するのである、死に面して生への転換を図る努力から生命は身体にさまざまの機能を創り出すのである。人類の祖先も単細胞動物の項に、同じ単細胞動物に幾億年か食われ続け甲殻をめぐらす身体をもったと言われる、それが現在の骨格の基礎になったと言われる。新しく甲殻をもった生命の出現ということは既成の生命から考えられないことである。私は遺伝ということからも考えられないとおもう。それが考えられるのは生死を超えて、生死に自己を見てゆくものが自己自身を限定してゆくと考えられなければならない、私は突然変異が生命のより基礎的なものであるとおもう。光エ ネルギーより物質へ、物質より生命へと変じた宇宙の存在者は量るべからざる変化をもつのであるとおもう。それが生命に於て内外相互転換的に形成的として出現したのである。内外相互転換的に形成的であるとは欲求的ということである。欲求は内外が対立することであり、対立することは相互否定的として闘争することである。而して個体は斯る闘争に於てより大なる形相を実現してゆくのである、より大なる形相とは生命がその一を実現することである、宇宙的一を実現することである。個的生命は身体的形成として何処迄も欲求的であり、闘争的である、闘争的とは形相実現的として普遍的生命の実現することである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己の中に自己を見るものである、本来の相が露わになることである。私はそれを形の創造に見たいとおもう、個体が何処迄も闘争的であり、闘争が形相実現的であるとは、対立は形相実現的にあるのでなければならない。形の創造とは何処迄も否定的対立としての闘争の陰にかくれ 形相を表現的に露わにすることによって内面的発展をもたしめることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう、経験の蓄積とは一瞬の内外相互転換を把持し、現在の行為を時の統一の内容とすることである。昔の農暦は播種、施肥、収穫等の日を経験によって定めたものであった。そこに内外は対立するものではなくして一なるものとなるのである。外は偶然的存在ではなくして内を宿すものとして必然となるのである、人と人とは闘うものではなくして協調するものとなるのである。より大なる生産の為に集合するものとなるのである。本来の相が露わとなるとは対立の根底の一が具現することであり、そこに生命の自覚があるのである。

 善への意志は私はここに生れるとおもう。自覚は経験の蓄積として一挙に現われるのではない、外を必然たらしめるとは外を変革することである。それは額に汗して働く努力で ある。力の表出は外を内とすることである、外を内ならしめるとは、自己の内にもつ力により食糧を多大ならしめることであり、それはより大くの人類を養い得ることであり、内を大ならしめることである。斯る努力の繰り返しの中に現在を未来に投影し希望をもつものとなるのである。私は希望をもつとは本来の自己を更に一歩踏み込んで露わにしたものであるとおもう。生命に具現した宇宙的生命は文に大なる形相を実現したのであり、更に大なる発展を内在せしめたのであるとおもう、善への意志は斯る希望がその形相を実現せしめんとするにあるとおもう。私はそこに善とは何かがあるとおもう、それは全身を挙げて宇宙的生命の形成に努力することである。この我は個体として無数の個体に対するものである、我は汝に対することによって我である、汝は亦我に対することによって汝である、汝に対することによって我であり、我に対することによって汝である個が全身を挙げて宇宙的生命の実現に努力するとは、宇宙的生命は我と汝が対するということでなければならない。個体の一々は宇宙的生命を担うものであり、対するということは宇宙的生命が実現したということでなければならない。一々の生命が宇宙を映す、それ以外に宇宙があるのではない、もしそれ以外に宇宙があるのであれば個が宇宙的生命の実現に全身を挙げるということはあり得ない筈である。而してそれが我と汝の対話によって実現するとは、宇宙的生命は我にあるのでもなければ汝にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのでなければならない。個が全であり、全が個である、一即多であり、多即一である、そこに形成があり、形成は常に矛盾の自己同一である。私はそこに善への意志がある とおもう、そこは自己形成が世界形成であるところである。そこに善の直覚が生れるのであるとおもう。それは対話の底から、世界の底からこの我の自己実現として命令するものである。私はカントの無条件命令の声は宇宙創生以来の大なる形成の継承として捉えたいとおもう。良心の声は斯る形成に即するのであるとおもう、良心の声はそれによって自己がある世界形成の声である。

 善は反極に悪をもつことによって善である、単なる善というのがあるのではない、善は は悪に対することによって善である。善に対する悪とは如何なるものであろうか、私は善が世界形成から考えられる以上、悪も亦世界形成から考えられなければならないとおもう、世界形成に於て相対するのである。私達は世界を言葉によって見出す、人間が言葉をもつのは言語中枢をもつということである。言語中枢は人間のみにあると言われる、人間のみにあり、人間を万物の霊長とすることは、言葉は生命の発展の究極としてあるということである。生命は機能の複雑化とその統一として進化してゆく、後より現われたものはより大なる時間・空間の統一者として、その統轄は過去に形成された機能を従属せしめるものである、言葉は言葉によって全機能を指示するものとなるのである。言葉は己れの純なる形相を全機能に於て現前せんとするのである。 宇宙的一の形相たらしめんとするのである。それに対して従前の機能は身体的に個体保存的であり、種族保存的である。斯くして身体は二重構造的でありつつ行動的一である。二重構造でありつつ一であるとは如何にして考えられるのであるか、私はそこに個体保存的、種族保存的なものが自己の中に自己を見たところに言葉があるとおもう、自己の中に自己を見るとはより大なる空間、より大なる時間をもつものに転態したのである。言葉の内容となるとは個体保存的、種族保存的なものがなくなったのではない、より大なる力を獲得したのである。物の製作はより優れた個体、種族の具現としてあるのである。二重構造は斯るものとしてあるのである、何処迄も生命 は個体的としてこの我に見る方向と、世界の自己形成として見る方向である、それが動的 に一なるのが生命形成である。而して言葉はこれを分つものとして言葉である、分つものとして一方に世界を見、一方に自己を見るところに自覚があるのである。より大なる時間空間は分離と統一より生れるのである。分離と統一より生れるものとして、何れもそれは根源的である。この我や汝の個なくして世界はないと共に、世界なくしてこの我はない、ここに私達は個に執し、世界に執する所以があるとおもう。何れかを軸としてわれわれは行為をもつのである。そこに善と悪が生れるのであるとおもう、世界の自己形成に副うのが善であり、背くのが悪であるとおもう。

 世界は対話的形成であり、対話は我と汝である、我と汝が対話するとは、我は汝ならざるもの、汝は我ならざるものとして対話するのである。それが世界形成的であるとは、我は我の中に世界を映し、汝は汝の中に世界を映すものとして対するということである。世界を映すとは世界形成としての技術と物を自己の内容とすることである、技術と物を所有することにより我は我となり、汝は汝となるのである。対話するとは技術と物の所有に於て対話するのである、世界形成とはより大なる技術、より豊富なる物を産むことである。それは技術の蓄積が技術を産み、物の蓄積が物を産むのである。技術と物とは相互形成的に生産を増大してゆくのである、われわれは世界を映すものとしてより大なる技術と物の所有を世界より要請されるのである。要請されるとは世界を表現せんとすることである。我と汝は世界を表現するものとしてその技術と物に於て蓄積を争うものとなるのである。斯る争いが世界の要請として機能せず、この我の実現の欲求としてはたらいたときに悪が生れるのである。争いは建設の争いではなくして破壊の争いとなるのである。世界形成に背くものとなるのである。争いが世界形成に収斂されるとき和となるのである。それが善と言われるものになるのである。

 斯るものとして善悪はものの表裏である、悪なくして善はない、善なくして悪はない、 自己は何処迄も自己を見てゆくものである。而して見出でた自己は悪である、それが善であるためには見出でた自己は常に捨ててゆかねばならないのである、形の実現は常に我に見出でた世界の形であり、世界を映した我である。それは我として世界ならざるものである。それは知慧の果実を食ったことによって背負わされた人間の原罪である。形の実現は我の実現である。われわれは表現に於て自己を見るのである。而してそれは自己が世界を映したものとして世界の実現である。斯る世界の形に我を見るときそれは悪となるのである。私達は絶えず自己否定をもたねばならないのである、絶えず世界へ転ぜねばならないのである。休むことなき世界創造の内容となることが善である。世界創造は一と多、全個の否定的形成である、世界を否定して我を見るときに悪となり、その我を世界の中に転ずるときに善となるのである。斯る関係は逆説的である、私は親鸞の罪深重の自覚に真の善なる意志の成立があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

経験

 生命は身体的として、内外相互転換的である。食物を摂ることによって、細胞が増殖と死滅をもち、形相を維持してゆくのである。食物は摂取するものとして、我ならざるものであり、食物の欠乏は死として、外なるものである。食物は我々に必須なるものでありつつ、我ならざるもの、外なるものとして、その獲得に努力しなければならないものとして我々に対して環境となるのである。

 内外相互転換的として、生命は主体的、環境的である。環境は単に食物的環境として、我々に対するのみではない。食物を介して、他の生命と対するのであり、行動するものとして環境の状態と対すのである。対するとは否定し来るということである。環境は否定として、死をもって我々に迫ってくるものである。内外相互転換的とは、斯る死をもって迫ってくるものを生に転ずることである。環境は常に我々に対するものである。常に対するとは常に死をもって迫ってくることである。常に死をもって迫ってくるとは、生命は常に危機としてあるということである。

 我々の身体は幾億年前の生命発生以来、斯る否定を乗り越えて来たものとして、維持して来たのである。外を内にするとは、機能的であるということである。獲得するものとして、異質なるものを同質化するものとして、それは限りなく組織的統一体でなければならない。我々の身体には六十兆の細胞があるという。そして一日に何十億かが死滅し、新生するという。それが全て機能し、その統一的整正体に於て、死を生に転換するのである。新たな状況に対応する力となるのである。

 内外相互転換的として、環境が常に否定として迫ってくるとは、状況的として一々が新たなことでなければならない。身体が機能的であるとは、転換の経緯を身体の組織に於て蓄積することである。若し常に同じ状況がくり返されて、生の維持があるとすれば、それは危機でなくして楽園である。死は身体に内在的なものであって環境が死として迫ってくることはない。生物の身体は状況としての危機の中から無限の機能を作って来たのである 生体の進化とは、如何に多面的に危機に対応出来るかの機能を作って来たかにあるとおもう。

 一瞬一瞬に否定的転換として、機能がはたらくとき、それは反射的である。その反射作用は、その生体が数億年形成し、蓄積し来たった機能の全身的動作に於ける、死の生への転換である。私は経験とはかかる生命の営為の人間の自覚的把握であると思う。

 自覚とは生命が超越者に自己を映して、自己を見ることである。個が永遠を宿すことである。私達は斯るものを言葉にもつ、私達の先祖は、語部によって個を超えた民族の歴史を語り伝えた。言葉は時の変化を超えて、過去、現在、未来をその中に包むものである。私は、経験とは一瞬一瞬の内外相互転換の営為が、永遠に包まれたものと思う。

 一瞬一瞬の営為が包まれるということは、死生転換の機能のはたらきが蓄積されるということである。一瞬一瞬の、危機を超克した機能の技術が蓄積されるということである。

 私は前に身体が機能的であるとは、死生転換の経緯を、身体の組織に於て蓄積することであると言った。自覚とは断るものを、言葉に於て蓄積するのである。身体は生死し、亦変化する状況に対応する為に、前の事柄を忘れなければならない。身体の蓄積はその故に生得的機能の蓄積に限られて、習得的機能のはたらきは、その個体の消滅と共に消滅するのである。言葉に於て蓄積をもつとは、個体のはたらきを、個体を超えて蓄積するのである。それは限りない蓄積である。

 この頃の猫はねずみを取らないと言われる。聞くところによると、ねずみをとるのは、猫の本来的なものではなくして、親猫が教えなければいけないそうである。だから生れたすぐにもらって来た猫は、ねずみをとることが出来ないのだそうである。これが人間であったらどうであろうか。いつであったか、発見された図面によって、戦国時代の製鉄法の炉を築いたと書いてあった。幾世代を超えて過去の事物を現前せしめたのである。恐らくそれは長い経験の積み重ねであったであろう。そしてそれは言葉の延長としての文字と、図面によって伝えられたのである。そこに人間の蓄積があるのである。

 蓄積するとは、現在に於てはたらくということでなければならない。生命はどこ迄も死 生転換的である。転換の経緯が蓄積されるということは、現在の転換に応用出来るということでなければならない。

 死生転換とは、死を生に転換することである。環境としての死を生に転ずることである。それを蓄積するとは環境を変革することでなければならない。生体に於て転換は一瞬一瞬であった。其処に変革はない、状況の変化があるのみである。それを蓄積するとは持続することである。持続するとは環境を生の相に作ることである。そこに機能のはたらきの持続があるのである。はたらくとは環境を合目的的とすることである。

 環境を変革するとは技術的ということである。経験を蓄積する生命とは、多くのものを 包み、統一する生命である。無限の個の経験を一に結合する生命である。私は技術とは、無限の経験が現在に於て、一つとしてはたらくものであると思う。

 はたらくものは身体としてはたらく、身体としてはたらくとは、環境に身体の構構を投 影することによって、環境を生に転ずることである。人間は手の延長として道具を作り、道具を使うことによって物を作り、物を作ることによって人間になったと言われる。道具の使用が人間のあけぼのであると言われる。かくして経験の蓄積は、人間を表現的、製作的身体とし、経験は製作的経験となるのである。一瞬一瞬の相互転換を永遠なるものに於て包むとは、斯く製作的身体の行為としての経験である。

 湯川博士は、物理学は視覚と関節覚と綜合の発展であると言われる。斯る意味に於て音楽は聴覚の発展であり、絵画は視覚の発展であると言うことが出来ると思う。私は真理とは表現が、身体の機能のはたらきと一致したることの直覚であると思う。力とか、数とかの学の内面的必然も、数億年の組成を内として、それの外化として機能に添うものであると思う。視覚とか、関節覚の延長とは斯るところから見られるのであると思う。宇宙の大も、身体的構成の外化として、構成することによって見ることが出来るのである。最初の宇宙把握が擬人的であり、漸次身体の真に動くものへの把握はこれを証すると思う。

 蓄積するとは、はじめにおわりがあるということである。現在がはじめをもつというこ とであり、はじめが現在に働いていることである。はじめとおわりを包むものによって、 蓄積があるのである。

 而して蓄積するとは、何処迄も個が世界を破ってゆくことである。無限なる経験の著積は、金銭の貯蓄の如く、同質なるものの量的蓄積ではない。同質なる物の蓄積は、経験の蓄積の上に築かれたものである。死生転換として、環境的、主体的なる経験は一回的である。一回的なものとして過去にも、未来にも有らざるものである。一回的なるものの附加として過去の変貌を求めるものである。

 変貌を求めるとは、過去の蓄積の上に立つことである。而してそれを否定することである。永遠が現在に於てあることである。永遠の内容としての一点が、逆に永遠を内にもつことである。現在の経験が、経験の蓄積の上に立つとは、歴史的形成的ということである。我々は歴史的現在に生き、歴史状況に対する、否定即肯定として、内外相互転換として経験するのである。それは最早素朴なる自然の内外相互転換ではない。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った意味に於て、内外相互転換をもつのである。そこに永遠としての言葉が、経験を蓄積するの意味があるのである。

 経験が一回的であるとは、内外相互転換としての生命は、無限に多として自己を限定するものであるということである。内外相互転換として、否定として迫って来る環境は状況的である。否定として迫ってくる状況を、肯定に変えたということは、状況を変えたということでなければならない。即ち異った状況として、状況は我々に死として迫ってくるのである。生命は製作的主体として、環境は歴史的状況として、我々の経験はあるのである。

 個は個に対することによって個である。状況に対する主体は、無数の個として対するのである。言葉は我と汝が交すのである。此処に蓄積がはじまるのである。言葉をもつとは永遠を内にもつことである。一人一人が永遠を内にもち、永遠に於て対話するところに、経験は蓄積されるのである。変化する状況に一人一人が死生転換する。そこに蓄積があるのである。蓄積とは複雑化である。複雑なるものの統一である。そこに無限の個人が要求されるのである。

 変化する状況の中に生れて、死生転換する個人は、常に無として出現するのである。此処に無というのは、予め作るべき形相をもって生れて来たのではないということである。昔狼の中に育った少年が捉えられたことがあった。その少年は手足で走り、狼の如く吼えたそうである。即ち狠の状態に生きたのである。生れたものは生きる世界を映すのである。無として生れるとは、生れるものは現在に生れることである。現在とは生が対決すべき状況である。我々は限りない経験の蓄積としての、歴史的現在に生れたのである。而して現在の史的状況が抱える、課題の転換を担って生れたのである。

 刹那としての死生転換を、言葉として永遠の相下に捉えることは、自覚的ということで ある。自覚とは自己が自己を知り、自己が自己を見ることである。死生は我の状態である、そこに経験の蓄積は自己を知ることを要請する。知るものを知ることを要請する。

 我々は此処に不可知者に遭遇するのである。言葉に現前するのは内外相互転換に於てである。それは常に状況として、変化するものである。それを捉えるものは言葉であり、言葉をもつものである。知るものを知らんと欲することは、唯一者としての、不変なるものを知らんとする欲求である。而してそれは変化としてのみ現前するのである。内外相互転換として、状況は限りなく変じてゆくものである。その一々の否定即肯定として、言葉は常に異なった言表をもつのである。

 斯く我々の内深く、一としてありつつ、無限に変ずるものとして現われ、現在を否定よ り肯定に転じ、肯定より否定より転ずるものが神と呼ばれるものであると思う。それは現 実限定として直下に触れつつ、過去として過ぎ去り、未来として未だ来らざる、触るるべからざるものである。我々も亦一瞬一瞬の映像として、時の流れの中に没しゆくべきものである。而して没しゆきつつ、神の映像として時を超え、時を包むのである。私は経験は深く神の自己限定としてあるのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」