聖霊について

 キリストは聖霊によって生まれ、救世主として生まれたという。而し人間の汚穢なくして如何にして人々を救い得たのであろうか。自ら汚穢としてありつつ汚穢を克服した者でなくして如何にして苦悩を鎮め得たのであろうか。而し考えれば汚穢は汚穢を克服する事は出来ない。聖霊なくして罪を救う事は出来ない。

 人間は自覚的生命としてこの両端をもつ。生死するものが永遠なるものであるところに自覚はある。私達は名刺に住所と氏名と職業を書く。これは全て歴史的なものである。住所は祖先が営々として拓いて来た土地である。氏名は血縁伝承としての姓名である。職業は技術的伝統として習得したものである。私達が自己とするものは、私達を超えたものが私達に働き、私達がそれを負うということである。私達はこの歴史的世界の中に生まれ、世界を逆に内にもつ事によって自己となるのである。私達が働くということは永遠なる者を見ることであり、永遠を見るということは、永遠なるものが働く事である。見るとは生死するものに映すという事である。

 働くという事はあるものを否定してあるべきものを実現してゆく事である。永遠なるものが働くとは生死する我を否定して、生死するものに永遠なるものを実現してゆく事でなければならない。其処に人間の原罪がある。我々が自覚的として自己をもつということは否定さるべくあるということである。否定さるべきものは罪である。汚穢である。あるべく働くものは聖霊となる。斯くして神は全てを捨てて我に来れと命令する。

 自覚は歴史的にある。前にも言った如く、自己は深い過去を背負うことによって自己である。自己は自己を超えた過去によって自己となるとは無数の人々が働いたということである。深い過去を背負うとは無数の人々を背負うということである。無数の人々を背負うとは人類唯一なる生命の働きに自己があるということである。唯一なるものが働いて自己があるとはこの我に全人類唯一なるものを示現せよということである。

 生命は欲求的である。我々は欲求的としてある。而し欲求的なるものから我々の人間の自覚的自己は生まれて来ない。自己を自覚するには無限の時が働かなければならない。無限の時を現す永遠なるものが働かなければならない。自己があるとは欲求的なるものが永遠なるものに自己自身を否定する事によってあるのである。生命は無限に動的なるものとして欲求を罪とし永遠を聖霊とするのである。

 全人類とは限無く多数の人によって構成される。それが唯一であるとは、唯一は形なきものでなければならない。唯一なるものが働くとはかくれたるものが働くということである。唯一なるものが働く事によって自己があるとは唯一なるものが命令する事である。「汝等斯くなす勿れ」「汝等斯く為せ」の声は此処より聞こえるのである。天上より聞こえるのである。

 歴史は多くの人を生んでゆく。一方に罪人を、一方に聖霊を生みつつ動転してゆく。キリストは人類がその唯一を見た処に生まれたのである。聖霊によって生まれたのである。而し純なる聖霊とは何ものでもない。聖霊は働く事によって聖霊である。キリストは血を流さなければならなかった。罪人として人類の罪を購はなければならなかった。それによって聖霊は自己を実現したのである。万人の血、万人の言葉として復活したのである。

 唯一なるものによって我々の自己があり得るとは、絶対の外として我々に命令し来る神の声は直下に己が声でなければならない。其処に信がある。己を忘じて赤子の如くなる時に信はある。而しそれは赤子となるのではない。捨身の努力である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

つとめ

 「まあこれ、あの家の一番しまいの子も某会社へきまったんやて。」 「そう、あの家もえらい事やったけどもう楽やなあ。」「そうだいなあ、旦那さんやろ、奥さん内職しよってやろ、上の子の姉さんも勤めとってやろ、中の子二人は外へ出とってやけんど、もう楽なもんだいなあ。何ぼ宛でも何ぼ何ぼやろ。これから残るばっかりだいな。」 聞くともなしに聞いていると、何でも子沢山のために苦労していた家の末子が勤めが決まったらしい。私もよく知っているが、よく米を一升買いしているとか、着せる服が買えないので奥さんの里からもらったとか、噂の出ていた家である。よかったなあと思い乍ら勤めという言葉からふと、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり」と言う歌を思い出していた。誦し乍らこの歌のつとめとその子の勤めが決まったと言うつとめと一寸ニュアンスの食い違いがあるように思った。

 その子の勤めは報酬が目的である。この歌の草取る人も勿論秋の収穫としての報酬が目的であろう。而し取れるか取れないか判らないのである。その子は報酬をくれるかくれないか分からなかったら勤めないであろう。勿論昔は他に働く所の無かったという事もあろう。而し今日の勤めと言う中には単に報酬によっては律し切れないものがあるように思う。分からないけれども今日は今日として働くと言うのである。草なんか取るのは一日位伸ばしても大した事はあるまいと思う。それなのに今日の勤めとして働くと言うのである。勤めとは本来何んな意味であったのであろうかと思って 一寸大言海を開けて見た。

 つとめ(名) 格勤 ツトムルコト。為すべき事 仁君ニ仕フルコト。役目。 職務 三毎日佛前ニテ誦経、礼拝スルコト。勤行。修行。以下略

 これでは私の問いに答えてくれない。仕方がないから自分で考える事にする。此の中で何かがあるとすれば仕える事であると思う。仕事の仕も仕えると言う字を使ってある事を思えば、人間の行為は何等かの意味で仕える事なのかも知れない。仕えると 言う意味があったのかも知れない。而しこの農夫に君への観念があつたと思えない。 それでは仕えるとすれば何に仕えたのであろうか。其処で思い出すのは和辻哲郎が書いていた事である。

 かつて自動車王フォードが南方でゴム園を経営した事があった。其の時に現地人を 使ったのであるが、其の勤労意欲の無さには閉口したらしい。それで給料を多くやって貯金でもし出すと勤労意欲が湧くかも知れないと思って給料を上げてやった。する と彼等は金のある間は休んで無くなると働きに来たと言う。西洋人の間で定説になっ ている土人の怠惰に対して和辻哲郎氏はその勤勉振りを強調される。氏は其の労働振りを詳細に書かれた上で、彼等は金銭や自己の生活のために働くのではなくして神の作業として働くのであると言われる。氏の書いておられた事が私達の小さい頃にもあった事の記憶がある。

 私の隣村に菅田と言う村落がある。其の菅田の人の麦を栽培されるさまが氏が書か れているとおりであった。うねには草一本も生やさず、土を微小に砕いてうねの肩に角をつけて其の整然たる有様は麦を収穫するというには余りにも丁寧すぎた。其の根 底に流れていたのは或は神の威儀の実現であったのかも知れないと思う。

 此処に私は今日のつとめの意味が明らかになると思う。神の前にとして、今日の神と我との姿を見出すのである。収穫も大切である。而し神の前に誠である事の方が大切なのである。収穫も亦其の結果としても大切なのである。其処に今日のつとめの根 本の意味があったと思う。

 現在に於いてもそのつとめの究極の意味は変わっていないと思う。唯我々は神の代りに世界を持つ、世界の前にとして、今日の世界に我の姿を見出すのである。報酬は神を世界に転換させた社会構造の変化の必然である。

 昔に於いて詩は頌歌(しょうか)であり、詩を作る事によって神に其の威徳を附加すると考えられた。私は全て神の前に作ると言う事は、神を作ると言う意味があったのではないかと思う。私達が今日勤めを持って働くのは世界を作ると言う意味があると思う。私達は報酬によって生きる。而し其のより奥底に世界に何かを附加する事によって生きるのであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心弱き人の為に

 或る日の歌会で、一老婦人が自分の作品を説明し乍ら「この間も小豆を煮ているの で、その煮方を説明してやったのですが、嫁は聞こえぬふりをして言うたとおりにしませんでした。何か言うと激しく口答えをするので、今では何も言わない事にしています。一緒に暮らそうと思えば何方かが辛抱しなければなりませんので。」と言っていた。孫子も言う如く一歩を譲ることは百歩を譲ることである。この婦人はやがて一家の片隅へ追いやられるであろう。気が弱いとは如何なることであるか。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間は言葉をもつことによって他の動物と人間を区別したと言われる。私達はスメル文字を解読することによって、六千年前と心を一つにすることが出来た。六千年を一つの時間としてもったのである。この一つにする力によって技術を蓄積して来たのである。木を削り石を磨いて道具とした古代より、近代の壮大な機械文明の構築はながい時間の蓄積なくしてあり得ないものである。この蓄積は言葉が、そして言葉の延長としての文字が担ったのである。そこに人 間の栄光がある。

 しかし栄光は同時に悲惨である。我々は我々の生死を超えた時間に於いて自己をも つ。自己を超えた時間によって自己があるとは、我々は自己を否定することによって 自己を見出してゆくことである。歴史の蓄積とは多くの人々によって作られたと言うことである。このことは他者によって自己があると言うことである。私達は自分の所在を己の技術に於いて見るとき、無限の過去・現在・未来の人々との関わりを見ざるを得ない。他人の人格を認めない自己の人格はあり得ないと言われる所以である。人格とは自己の中に世界を持つことである。偉大なる人格とは、自己を忘れて世界となっ て考え行う人である。

 しかし他の人格を認めるものと、認めないものが、一緒に暮らしたらどうであろうか。それは一目瞭然である。一者は他者の行為を尊重して譲歩するであろう。一者は他者の譲歩を自己の力の証しとして益々自己を主張するであろう。他者との関わりに於いて自己を見ることの出来ない下劣なる人格は、自己の中に世界を見るのではなく、相手の譲歩に自己の拡大を見るのである。一者は益々主張し、一者は益々譲歩する。一つの生活に於いて一者が自己の意のままにするということは、他の一者は自己実現の場所を失うことである。人間にとって自己を実現するところをもたない程哀れはない。河合広仙氏は機関誌「巨勢」の中で「恥を知らず、厚かましく、図々しく人を責め、大胆で不正なるものは生活し易い。恥を知り、常に清きを求め、執着を離れへり下り暮らす賢者は生活し難い」と佛教の原始経典にあると書いておられる。私は心弱いと言われるのは多く斯る人格的なるものに由来すると思う。例えば言葉にしてもそうである。一方が罵っても低劣なる言葉を出すことを理性が許さないのである。他人の座敷に土足で上がって襖を破って帰るような言葉は唯自己嫌悪におち入るのみである。斯くして唯その人格関係に無限の悲しみをもって黙しているほかはないのである。私は冒頭の老婦人と嫁との間にも斯る関係を見ることが出来るのではないかと思う。

 而し人間に於いて栄光が同時に悲惨であるとは、悲惨は亦栄光でなければならない。ゲーテはミニヨンの詩の中で盲目の竪琴弾きに、「涙もてパンを食みしことなく、 夜々の臥床を泣き明かさざりし者は、知らじいと高き御身のいますを―」と歌わしめている。魂は常に不死鳥である。それは死の灰の中より羽ばたくのである。譲歩は他者につながるところにあつた。人間は他者につながることによって、自己を超えた無限の生命を見ることが出来るのである。私は日常生活の弱者は自覚的生命の強者であると思う。キリストが地の塩と言った人であると思う。悲嘆に暮れる代わりに聖者の言葉を探すべきである。譲歩を突き進めて死に切るべきである。そこに人間本来の無限の過去と未来を包む永遠の世界が現われるのである。譲歩せざるを得ない心弱き者は、その奥にいと高き唯一者への通路を持つのである。そしてそこから日常生活を見るとき、譲歩なきものは逆に哀れなものとして、新しい生活風景が生まれてくるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

植物という生き方

「植物という生き方」について考えてみます。最初に地球上に出現した生物とされ、光エネルギーを使って酸素を作ってきたシアノバクテリアを、植物は葉緑体として細胞内に取り込み、光合成により水と二酸化炭素からぶどう糖などの有機物をつくる「独立栄養生物」です。これに対し動物は感覚と移動能力をもつようになったため他の植物や動物などを捕食しないといけない「従属栄養生物」になります。「植物人間」という否定的な使われ方をしていますが、光合成だけで養分が得られるという植物の「動かない生き方」にも憧れるところがあります。しかし光を多く得るために密林などでは背の高い木が生き残ったり、他の植物の成長を阻むような化学物質を生成したり水面下の戦いは有るようで、どの生物の社会でも競争は避けられないようです。植物とシアノバクテリアのように細胞内に入り込みお互いの生命活動に利用し合うというのが本来の「共生」であり、人間がコロナウイルスとうまく付き合っていくというのは「コロナとの共存」ということになります。

植物が持つある化学物質にて他の植物の成長を妨げ、自分が使うために「水」や「栄養」を確保する。(新しい高校生物の教科書より)

春の開花と温暖化

さて、春になりました。様々な花が咲くいい季節ですね。 今年の東京での桜の開花は3月14日で、これまでで最も早い記録となりました。

倉吉市白壁土蔵群近くの桜並木

温暖化によりその開花の時期が徐々に早くなっているようです。一般に春における開花の調節には2つの遺伝子が関わり、開花発現を抑えるFLC遺伝子と促進するフロリゲン(FT遺伝子)があります。FLC遺伝子は数週間~数か月にわたる冬の寒さにより抑制が徐々に減少し、フロリゲンが増えて春の開花に向かいますが、遺伝子の解析を用いて地球温暖化により開花の時期が徐々に早くなることが証明されています。

開花を調節するFLC遺伝子とFT遺伝子が温暖化により変化する(Nature Communication 2013より)。

ジャイアントパンダ

今年の2月に上野動物園で生まれたジャイアントパンダの「シャンシャン」、和歌山県の「エイメイ」など3頭が中国に返還されました。私は昔、和歌山県白浜近くの病院に勤務していたことがあり、子供たちを連れてよく観にいったもので、いなくなるのは残念です。日本国内のパンダは50年位前から日中友好関係のために来ているということですが、全て繁殖研究を目的に中国から貸与されている形となり、たとえ日本で生まれても所有権は中国にあるようです。これは絶滅危惧を懸念されてのことみたいです。

竹の幹や葉(笹)を主食とするパンダはいわば「菜食主義者」です。一般に植物細胞は動物細胞と異なり細胞壁や植物繊維を持ちこれらはセルロースが主成分で、セルロースはでんぷんと同じようにぶどう糖(グルコース)から構成され、草食動物は腸内細菌によってぶどう糖に分解してもらってエネルギーを得ます。大昔の我々人間の祖先は盲腸が発達しており、ここに棲む腸内細菌によって植物繊維を分解していたようですが、動物の狩りをして火を使った調理により肉食が多くなると盲腸が退化してしまい植物線維を分解できなくなりました。脂質の摂りすぎにより生活習慣病に悩まされている現代人には、例えばパンダの腸内細菌を腸内に移植すると我々も竹や綿、紙などを主食として利用し健康的な生活ができるかも知れませんネ。

竹の葉を食べるジャイアントパンダ(無料イラストより)

人間を含め生物は糖分、脂質、たんぱく質などを外部から取り入れ、ぶどう糖やアミノ酸などに細かく分解して腸から吸収し身体の生体分子を合成し、またその一部を分解してエネルギーを作り出しています。「菜食主義者」については「ベジタリアン」とか「草食系男子」などの言葉が広く使われています。上記の栄養素のうち、脂質やアミノ酸の一部は他の栄養素から生成可能ですが、アミノ酸には必須アミノ酸と言って体内で合成できないものがあります。人間では9種類でこれらは食物から摂取する必要があり、菜食主義者は野菜だけでは生きれず、パンダ達は実は夏の間にタケノコや竹の新芽を多く食べており、これには蛋白質が高率に含まれています。ベジタリアン達も肉や魚などの動物性食品を摂らないだけで、ナッツや豆腐からアミノ酸を摂っているわけです。但し「草食系男子」はちょっと意味が違う様でWikipediaによると「恋愛に『縁が無い』わけではないのに『積極的』ではない、『肉欲』に淡々として心優しく、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」などと定義され、かなりかけ離れた使い方になっています。

様々な情報を発信するブログ『秘亭のネタ』

当ブログ「父子歌趣味」のWebサイトの制作者である「秘亭のネタ」の管理人は、幅広い分野にわたる情報を提供するブログを運営しています。

https://www.himetei.com/

パソコン、カメラ、Windows、web情報、機器のレビューなど。
また、飲食店のレビューやレシピなども扱っています。

月間PV数:10万pv
(2023年1月現在)

2023年3月3日 | カテゴリー : その他 | 投稿者 : thth0922

「冬眠」と「冬季うつ病」

寒い時期には「冬眠」する動物が多くいます。ウイキペディアによると「冬眠」は狭義には「哺乳類や鳥類の一部が活動を停止して体温を低下させ食料の少ない冬季間を過ごす生態」のことで、広義には「変温性の魚類、両生類、爬虫類、昆虫などの節足動物や陸生貝などの無脊椎動物が冬季に極めて不活発な状態で過ごす冬越し」のことも指します。生体変化としては表のようなものが挙げられますが、極端な例ではある種の亀などでは冬季は完全に身体が凍結されて心拍と呼吸が停止し、春になると復温されて心臓が再拍動するものもいるようです。人間では遭難などで極度の低体温に陥るも1か月近く殆どの臓器の機能停止が起こるがほぼ後遺症なく回復したという事例が幾つか報告されています。特に小児の回復力は強く、これを利用したのが新生児低体温療法です。新生児では周産期に受けたストレスにより容易に重度の精神運動発達障害が後に残ることがありますが、このダメージを最小限に抑え障害を回避する治療がNICU(新生児集中治療室)で行われるようになり、2010年国際蘇生法連絡協議会で標準治療として推奨されました。さらに心臓手術に際して心臓が拍動している状態では手術が困難ですので、心筋への血流を遮断、心筋を冷却し冠動脈から心筋保護液を入れて代謝を押さえ心拍動を停止させることにより、数時間の開診手術などが可能となり術後の障害も最小限に抑えられます。この手技は心臓血管外科の黎明期から研究・開発され、今日の一般治療につながっています。

 

冬眠(無料イラストより)

冬眠中の生体変化

・体温の低下

・活動の低下によるエネルギー消費量の低下

・摂食の中止

・排尿、排便の停止

・心拍数の低下(場合により心停止)

・呼吸数の低下(場合により無呼吸)

最近マスコミなどで「冬季うつ病」という言葉を頻繁に目や耳にします。これは寒い時期に「こたつや布団から出たくない」「寒い時に買い物に行くのが億劫だ」などの寒さへの恐怖や躊躇以外に様々な症状が現れます。「気分が落ち込む。物事を楽しめず気力が減退する。イライラする」など、「一般的なうつ病」と同じ症状が見られますが、「冬季うつ病」では「いくら寝ても寝足りない(過眠。布団から出たくないに関係?)「過食(脂肪を貯め込む)」「体重増加」が特徴とされ、これらは人間における「冬眠」現象の名残だとされています。私も山陰に来てから体重が増えましたが、これは冬季うつ病か単に食材や日本酒が美味しいせいだけかは分かりません。心当たりのある方は、お互い気を付けましょう。

一般のうつ病と冬季うつ病の違い

 

 

一般のうつ病

冬季うつ病

睡眠

 

低下

増加

食欲

 

低下

増加

体重

 

低下

増加

2023年の大雪

今年の1月はメチャ寒かったですが、皆さまお変わりありませんか。

1月下旬の山陰地方は大雪で、国道9号線が20kmにわたり不通となり1000台以上の車が立ち往生となった10年前の悪夢を思い出させるような記録的豪雪だったようです。当時米子市で89cmの積雪があり、あるタクシーの運転手さんは「夜中車内に閉じ込められたが、命からがら脱出した」と言っておられました。今年の大雪では私は車を米子高島屋の立体駐車場に入れたきり出すことが出来ず結局8日間止めっぱなしにしましたが、鳥取県東部の智頭町では1000人足らずの方々が何日間か孤立した状態になったということです。

大雪のため駐車場から脱出出来ない車たち

同時期に全国各地でも雪災害が続き、身近な例では新名神高速の三重県で最大66kmの立ち往生が発生したようですが「立ち往生は一時的なもの」との判断で自衛隊や県に応援が要請されなかったことが大渋滞の1因だったようです。また2月に東京出張に行った時には最大10㎝くらいの雪のため都市機能は大パニックになっておりました。ホテルに帰るとテレビではテロップで注意喚起がなされており「歩くときは大股にならないようペンギンのようによちよち歩きをするように!」「倒れる時は尻もちをつくようにお尻からこけるように心がけましょう!!」など、箸の上げ下げを指示するような有意義な指導がなされていました。

男の恋愛は別名保存、女の恋愛は上書き保存

「カルメン」は男女の異なる恋愛観のため結実しない悲劇、「アイーダ」は時代に翻弄された男女の愛として終わっていますが、恋愛は男と女によって捉え方が違うようです。夏目漱石は小説「明暗」の中で「男の恋愛は別名保存であるが、女の恋愛は上書き保存だ」と言っています。ここで、その違いを生物学的見解から考えてみます。まず受精に際しては何億個もの精子が「戎神社の福男」のように1つの卵子を求めて我れ勝ちに突進しほぼ無尽蔵に作り出される精子をもって「数打ちゃ当たる」的な行動をとるわけです。これに対し卵子から見れば受精できる時期は約1か月に1度の排卵時のみで、しかも一生の間に作られる卵子の数が限られ、年齢も小学高学年から50才くらいまでです。このため卵子は優秀で健康なただ1つの精子のみを待っているわけで、大切な恋愛の時期を守り有効に選択するのです。

このようなことを休み中にぼんやり考えていると、2021年のショパンコンクールで2位と4位を受賞した反田恭平と小林愛美の電撃的結婚が報道されていました。どうやら「できちゃった婚(最近では授かり婚というようです)」のようですが、無責任な憶測はしないようにいたします。

受精に際し、唯1つの卵子に無数の精子が「戎神社の福男」のように突進する。ムーア「人体発生学」より

ウクライナ国立歌劇場「カルメン」と英国ロイヤルオペラハウス「アイーダ」

変異したコロナウイルスがまたまた猛威を奮っていますが、皆さんはお正月休みはどのように過ごされましたか?

私は感染対策を十分に行った上で、趣味の1つで道楽でもある「オペラ」を2つ観てきました。

1つは、ウクライナ国立歌劇場によるビゼー作曲「カルメン」です。ウクライナ歌劇場はボリショイ劇場(モスクワ)、マリインスキー劇場(サンクトペテルブルグ)と並ぶ旧ソビエト連邦における3大歌劇場です。以前キエフ劇場(キエフはロシア語、ウクライナ語ではキーウ)と呼ばれ、学生時代には歌劇場附属のオーケストラを聴きにいったことがあります。現在ロシアとの戦争の渦中にあるウクライナは、人口4000万人ちょっとと日本の約1/3ですが、肥沃な土地と恵まれた気候、水資源のため「欧州の穀倉地帯」と言われていることはご存じのことでしょう。この豊沃な資源と同様に、すぐれた音楽家を多く輩出しています。ギレリス、ホロビッツ、リヒテルなどのピアニスト、オイストラフ、スターン、ミルシテインなどのバイオリニスト、作曲家プロコフィエフ等、枚挙にいとまがありません。ただそのほぼ全員がヒットラーやスターリンに迫害されアメリカやイスラエルなどに移住し活躍されています。また第二次世界大戦中にキーウ近郊バビ・ヤールでナチスによる大虐殺を受け、昔から紛争の絶えなかった地域です。この事件を題材にしてショスタコ―ビッチは交響曲13番を創作し、暗く陰鬱な曲想によって民族の悲哀と迫害の偽善性や無意味さを表現しました。

「カルメン」の内容は周知のことなので詳しくは触れませんが、妖艶で美しい「カルメン」は自由で移り気なジプシー女で、これに翻弄される純情で一本気な竜騎兵の伍長「ドン・ホセ」が主人公で最後にはカルメンを刺し殺すのです。人が死ぬため「悲劇」として扱われますが、アリアが少なく「闘牛士の歌」や「ハバネラ」「カルタの3重奏」の舞曲風の歌、フルートとハープの美しい「間奏曲」などが有名で、すぐに口ずさみたくなるような「大衆性」に溢れています。

ウクライナ国立歌劇場による「カルメン」パンフレットより。最後のカーテンコールでは自由に撮影をしてよいと指示されていた。また「ブラボー禁止令」は出ていなかったので、以前の盛り上がりが感じられた。

もう一つは英国ロイヤルオペラハウスによるベルディ作曲「アイーダ」です。これは映画館での「ライブビューイング」として観ました。といっても2022年10月の上映の収録なんですが、ロバート・カーセンによる現代の軍事情勢を彷彿とさせる新演出で非常によくできていました。原本では古代エジプトを舞台にエチオピア人奴隷のアイーダがエジプトの将軍ラダメスへの愛と祖国愛の間で引き裂かれる悲劇です。カーセンは軍事力を行使する架空の大国を考案し、エジプト王(どこかの国家元首に似ていました)とその娘はそれぞれ明るい青、真紅のブランド服を身にまとっていましたが、その他の全員が軍服に身を固め、実際の戦争の映像を背景に映しだしていました。掲揚される国旗も赤と青地に白い★です。サッカーワールドカップなどで聴かれる「エジプト軍の凱旋場面」は大国の軍事行進を模倣し、最後に逮捕されるラダメスとアイーダは核兵器が収納されている地下室に生き埋めになります。ちなみにこの時のラダメスはTシャツのような濃い緑の軽めの服装でしたが、左胸の文様があるのかはっきり見えませんでした。 今回、新型コロナ感染に翻弄され、またロシア軍侵攻の只中にあって来日されたウクライナ国立歌劇場の公演と、大国を果敢に皮肉った歌劇「アイーダ」を観たことは得難い貴重な経験となりました。

ライブビューイング「アイーダ」 パンフレットより

みなさん 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

昨年クリスマスの時期には山陰地方で2回も大雪に見舞われ不自由な休暇を過ごしていましたが、今回新春に相応しい話題で新しい年を迎えたいと思います。

昨年12月に鳥取市で「Next Generation」という次世代アーテイストを発掘するコンサートが開催されました。対象は鳥取県在住のバイオリンを演奏する中学生、高校生で、難曲に果敢に挑戦されていました。中でも2022年10月に第43回全日本ジュニアクラシック音楽コンクールの弦楽部門で第1位となった米子市淀江中学2年生の坂口碧望さんは、バッハ「無伴奏パルティータ」とモンテイ「チャールダーシュ」を弾いておられました。受賞のことをその直前に新聞で知ったばかりで、目の前で本人の演奏が聴けるとは思ってもいませんでした。その他の演奏家もパガニーニ「カプリス」、サンサーンス「死の舞踏」、モーツァルトやシベリウス協奏曲など、素晴らしかったです。また前月号で紹介した「第九」のコンミスであった、湯淺いづみ(バイオリン)と岸本聖華(ピアノ)、福本真琴(チェロ)による若手アーテイストトリオによる、メンデルスゾーン「ピアノ三重奏」も均整がとれており、しかも情熱的な演奏で感動しました。

2022年12月鳥取市で行われたNext Generation:若きアーテイストたちの夢の響演

音楽関係に限らず若手の活躍ぶりは目覚ましく、12月には日本新聞協会主催第13回「いっしょに読もう―新聞コンクール」小学生部門最優秀賞を鳥取県岩美北小6年生、森川暖人君が受賞していました。5万7千人の応募からの最優秀賞です。内容は「化学物質過敏症」に関するもので、柔軟剤やシャンプーの香りなど、日常ある様々な化学物質に反応して体調を崩すことを調べたものです。将来はこの方面の科学者になるのが夢であると言っており頼もしい限りです。(2023.1)

ウサギ年

地酒銘柄 
鳥取県の日本酒蔵元。鳥取県酒造組合パンフレットより
日本酒を飲むウサギをあしらった
神話「因幡の白兎」で有名な鳥取市「白兎(はくと)海岸」 鳥取市観光協会HPより (2023.1)

外科希望の学生教育

 以前から外科の領域では若手医師を育もうという試みが全国的に行われています。こちらでは年に2回山陰外科集談会が行われ山陰地方の外科施設から発表されます。今回は昨年12月に島根大学医学部で開催され、一般演題以外に島根大学と鳥取大学の学生や研修医からなるセッションが組まれ、両大学の外科系教授で当日出席した6名で評価しました。その内容として、研究を行うに至った「背景」、対象の選び方、研究の方法と分析方法が妥当かどうか、結果とそれを支持、或いは相反する他の研究との比較、今後の診療にどのように役立てるか、など的確に発表できたかどうかを採点するのです。また幾つかの質問に適切に回答できたか、現役の医師でも難しいと思われます。このような試練の中、当消化器小児外科に研究室配属で来ていた医学部3年の学生が表彰されました。

3年生と言えばやっと基礎医学の講義が終わり臨床医学の講義が始まったばかりというところですが、「消化器癌の予後を左右するCachexia(悪液質)Index」というテーマで、実際の手術患者のデータを解析し、現役外科医よりも堂々と立派に発表していました。その他医局内で行った抄読会では「Science」という一流の雑誌から「大腸がん発生に関係する腸内細菌」についての論文を紹介してくれ、実験や研究解析の手法の説明も詳しく、私の学生時代と比べて遥かに優秀であると思われました。

2022年12月に島根大学医学部で行われた「山陰外科集談会」 優秀賞にて表彰される鳥取大学医学部3年生

芸術や医学に限らず、スポーツ、ビジネスなど色んな分野でこのような「若い力」を育成し、その成長を見届けるのは楽しく嬉しいものです。(2023.1)