短歌と身体について

ロダンは、ギリシャの彫刻は、両肩と両足に於いて四つの面をなしている、それは生命の調和の姿である、それに対してミケランジェロの作品は二つの面である、それは苦悩の姿であると言っている。そしてミケランジェロに深く傾倒した彼は作品「考える人」に於いて、上体を深く折り曲げた姿勢によって、人生の苦悩を徹底的に追求している。

短歌とは抒情詩である。感情による生命の表現である。感情とは何か、私達は生命であり、生命は身体的に自己を形作る。私は生命が自己を形作っていく動的なるものが感情であると思う。私達はその激情に於いて身体を忘れる。そして最も静的な睡眠に於いて感情を失う。身体が動く時、身体は情緒としてあるのであると思う。顔の動きは表情としてあるのである。それは顔の動きは感情の動きとしてあることである。

私達は生命として生きているものが死を持つものである。そして身体は力として、力の表出に於いて死を克服して生の姿を打樹てんとするものである。そこに生は喜びとして、死は悲しみとして現れ来るのである。力の表出に於いて死を克服する時に私達は意識を持つ。そして意識に映すことによって世界は無限の展開を持つのである。愛憎はそこに生れるのである。斯かる無限の展開に於いてより深大なる喜び悲しみを見出すのが芸術である。意識に再生させることによってこの我の内容となるのである。それが芸術である。例えば舞踊の如きも、体験した動作が意識の再生に於いて、間然することなき感情の秩序を持つのであると思う。短歌の如き詩は意識の内容としての言葉による表現としてより高次なるものであると思う。言葉は記憶と想像を持つものとして、身体の瞬間性に対して、永遠として時間を包むものである。そこに文字による表現の苦しみがある。併しそれによって深き喜び悲しみに接し得るのである。

2015年1月8日