生命の形とは何か、生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外として生命はあるのである。動物に於ては食物を摂り、酸素を吸い、老廃物を排泄する。外を内とし、内を外とすることは変化せしめることである。変化せしめるには変化せしめるはたらきがなければならない。はたらきをあらしめるには身体は機構的でなければならない。我々の有する臓器は精密なる化学工場であると言われる如く、機構的なることによって外なるものを内とすることが出来るのである。私は生命の形とはより早く、より確かに、より強く内外相互転換を行う。機構を作ってゆく生命の相であるとおもう。我々は一瞬一瞬内外相互転換的に生きるものとして、無限に生命形成的であり、形相形成の過程である。而してそれは終局なき過程である。斯る形成作用としての生命は如何なるものであろうか。
内外相互転換は一瞬一瞬である。 この文字を書いている今も、胃は空腹に向って絶えざるはたらきをもっているのである。呼吸を止めれば数分にして死に至るのである。而して斯る一瞬一瞬の内外相互転換によって作られたものとして、内外相互転換を行う機構は一瞬一瞬をあらしめるものとして、一瞬一瞬を超えたものでなければならない。
一瞬一瞬に形はない、それは何処より来り何処に去りゆくかを知らないものである。 に超越的なるものにも形はない。形は空間的、時間的制約をもたなければならない。瞬間的なるものが永遠なるもの、永遠なるものが瞬間的なるものにして、初めて形作るものとなるのである。瞬間的なるものは永遠なるものではない。永遠なるものは瞬間的なるものではない。それは何処迄も相反するものである。はたらくとはこの相反するものが直に一つということである。そこに瞬間的なるものと永遠なるものがあるのではない。はたらきの両方向に瞬間的なるものと、永遠なるものが見られるのである。内外相互転換とは斯る相反するものの一として、何処迄も自己を維持しはたら いてゆくのである。行為することによって形作るとは、斯く矛盾するものが一なるものであることによってのみよく能うことが出来るのである。
相反するものとは何処迄も結びつかないものである。それが結びつくには媒介者がなければならない。直に一であるとは斯る媒介がはたらくものの自己媒介であるということである。自己媒介とは両方向が相互に媒介的であるということである。永遠なるものが瞬間的なるものを媒介し、瞬間的なるものは永遠なるものを媒介することである。永遠なるものは瞬間的なるものに自己を写すことによって、自己の形を実現し、瞬間的なるものは永 遠なるものに自己を写すことによって自己の形を実現することである。そこに直に一なるものがあるのである。生命が形作るとは斯る直に一なるものの純なる持続である。純なる持続とは、相反する方向に永遠なるものと、瞬間的なるものをもつものがはたらくという ことである。
直に一なるものとして、相反する方向を相互媒介的に自己自身を限定するものは無にしてはたらくものである。永遠なるものが瞬間的なるものによって自己を露はとすることは、自己を否定して瞬間的となることである。瞬間的なるものが、永遠なるものに写して自己を見るとは、瞬間的なるものを否定して永遠の形相をもつことである。而して否定することが肯定することである。永遠なるものが瞬間的なるものとなることによって自己を露はにするとは、瞬間的なるものになることによって自己を見るということである。瞬間的なるものが永遠なるものに写し自己を見るとは、瞬間的なるものは永遠なるものによってあるのであり、自己の根源に還ることである。永遠なるものを求めるとき、何処にも永遠なるものはない、唯空を摑むのみである。瞬間的なるものに実在を求めるとき、それは唯現れて消える虚幻にすぎない。それが実在として形相をもつのは、相互媒介としての無限の動転に於てである。自覚的生命としての人間に於ては、それは制作的行為に於てである。何処迄も相反するものの中に消えゆくことによって、自己を実現してゆくものとして自性なきもの、無にしてはたらくものとしてものの形はあるのである。
無にしてはたらくとは無いものがはたらくということではない。相反するものの中に己を見るということである。自己を消すことによって自己を見るということである。内外 相互転換としての自覚的製作的生命に於ては、外が作られたもの見られたものとなり、内ははたらくものとなる。作られたもの見られたものは、はたらくものの中に消えることによって、新たなものに生れるのである。はたらくものは、作られたものはたらくものの中に消えることによって、より大なるはたらく力を得るのである。外は内外相互転換の外として、より大なる内を孕む愈々明らかな形となるのである。
外が内になるとは見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るもの となることである。それは形の持続、形の発展の世界である。内外相互転換としての内は無限の欲求としてあり、無限の欲求によって形作られる外は、その一々に於て完結しつゝ未完の形である。見られたものが見るものとなるとは、池大雅の画を見ることによって、大雅の目が、私達が物を見るときにはたらくということである。作られたものが作るものとなるとは、作られた二条離宮が家を建てるときに、その様子が構想の中に入ってくるということである。個物より個物へと転じつゝより複雑なる内容をもつ、より高度な形を作ってゆくのである。一つの形がより複雑なものを内包するということは、より機能的ということであり、内外相互転換としての形の進化ということである。
見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなるとは、歴史的ということであり、形は内面的必然をもつということである。内面的必然をもつとは、形はそれ自 身が展開をもつということである。形が斯く内面的必然をもつということは、相互転換と しての内と外は、変じつつ変ぜざるものでなければならない。内に変化をもちつゝ 変化を統一するものでなければならない。それは時に於て変化を周期的にもちつゝ 周期を内にもつものとして不変なるものでなければならない。周期的とは繰り返すものであるということである。はたらくものも個性として一人一人異なりつゝ、ホモサピエスとしての同一をもつものでなければならない。変化の根底に同一があることによって形が生れ、変化と個性によって無限の進歩発展をもつことが出来るのである。堂々めぐりであることによって無限の多様をもつことが出来るのである。
形の根底に同一があるとは、形は決定せられたものとしてあるということである。斉藤 茂吉という個性と、彼が学んで来た言葉、そして北上川の白浪を見たということの中に、詠わるべき内容はすでに決定していたということが出来る。茂吉は唯決定していたものを取出しただけだということが出来る。併し松尾鹿次さんによれば、茂吉は畔にうづくまって半日頭を抱えていたという。そこに可能性と現実性があるのである。可能性は如何に豊富な内容をもつとも次の形を呼ぶものとなることは出来ない。事実として実現したもののみが次の形を呼ぶことが出来るのである。彼の呻吟は過去が其処に没して、新たな現在が生れる陣痛だったのである。創造は回帰であり、回帰は創造である。根底としての同一が無限の個性を宿し、新たな個性に呼びかけるところに創造はあるのである。形成とは創造である。
同一が個を宿し、新たな個に呼びかけるということは個が個を呼ぶということである。 個が個を呼ぶということが、同一がはたらくということである。斯るものとして個を呼ぶ 個は、創造としての世界を逆に内にもつものでなければならない。同一として無辺の空間と、無限の時間を内にもつものでなければならない。無辺の空間と無限の時間を内にもつものにして、はたらくものとして個が個を呼ぶことが出来るのである。製作的生命として個は製作するものである。製作するとは無限の過去と未来が現在に消えて生れることである。即ち個が世界を包むことなくして製作はあり得ないのであり、個が製作するとは世界を内に包むことである。製作に於てあるものは事実となり、個は製作に於て呼び交すものとなり、同一を実現するものとなることが出来るのである。勿論無辺の空間と無限の時間を内にもつということは、無辺の空間と無限の時間が身体にあらわれるということではない。製作とは無辺の空間と無限の時間が現在としてはたらくということである。それは個物を含んだものである。世界が個物を内にもつということが、個物が世界を内にもつことであり、個物が世界を内にもつということが、世界が個物を内にもつことであるところに製作があるのである。
見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなる世界は初めなく終りな き無限の形成的世界である。而して見られたものが見るものとなるということは、初めがはたらくということでなければならない。初めが終りをもつということでなければならな い。それと共に見られたものが見るものとなることは、見られたものは一つの形を維持することではない。見るものとなるとは新しい形が生れることでなければならない。そこに は新しい形が見られたものを限定する意味がなければならない。未来が過去を作るという意味がなければならない。初めが終りをもつということは、終りが初めをもつということである。我々は初めと終りを結ぶものをもつものとして製作することが出来るのである。初めなく終りなきものは、初めと終りを結ぶものの自己限定としてあるのである。初めと終りを結ぶものは、自己の中に初めなく終りなきものをもつことによって、初めと終りを結ぶものとなるのである。
製作とは新たな物を作ることである。それは無限の技術の蓄積の上に立つのである。技術の蓄積の上に立つとは、過去がここに消えて新たなものが生れることである。それは時がここに死んで新たな時が生れることである。それが現在である。内外相互転換として、人と物が否定的に転換することが物を作ることであり、現在として生きているということである。斯る製作が初めと終りを結ぶものをその根底にもつとは、現在の奥底は初めと終りを結ぶものであるといわなければならない。製作は永遠の今がはたらくといわなければならない。
私達はここに絶対の矛盾の前に立つのである。永遠なるものは動かないもの、はたらかないものでなければならない。動くもの、はたらくものは変じゆくものとして永遠なるものではない。而して現在は転換として、製作として、無限に動きゆくものである。初めと 終りを結ぶものは、作りも作られもしないものでなければならない。而して初めと終りがあるということはその中間に無限の過程があることでなければならない。
自己の形相を尋ねるとき、我々の推論はそこに至りつく、併しての矛盾は推論によって突破することの出来ない鉄壁である。全て相対的なるものは此処にあり、思考は此処より生れる。而して相対を絶し、思考の達すべからざるところである。それは相対は斯るものの形相であり、思考は斯るものの秩序であると言わざるを得ないものである。
斯るものとして私は、生命は無にしてはたらき、無にして成就するものであると思う。 無にして成就するとは消すことによって実現してゆくことである。形成して来た全空間と 全時間は、内外相互転換としての今の一事にあるということである。このことを言い換えれば、我々の一瞬一瞬の行履は、全人類の生命がはたらいているということである。果てなきもの、底なきものにつながることによってあるということである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」