鍼灸医の葛野さんに「巨勢五号の原稿依頼が来たでしょう、貴方は人権を書かれますか」 と言ったら、「人権は言い尽くされていますので書きません」との事であった。事実人権問題は言い尽くされている。何でこんなタイトルを出されたのであろうと思いながら、いざペンを執って見ると案外茫漠としているのに気が付いた。勿論それは私の不勉強による。やむなく傍の辞書を開いて見ると『人間が生れながらにもっている自由、平等の権利』と書いてあった。他に適当な文献もないので、これを基本においてペンを進めることにする。人間は果して生れながらに自由であり、平等なのであろうか。「人間何ぞ貴種あらんや」と言ったのは福沢諭吉である。明治迄は貴人は貴種より生れるというのが常識であった。貴種の血統は常民の覗い得ない尊いものであった。貴人が地方へ下向した時には、その足を洗った水を争って奪い合い、病気の患部に塗ったと伝えられている。その何処に自由と平等があるのであろうか。
「君笑はれれば臣死す」 鍋島藩の葉隠れの言葉である。武士にあっては「君、君たらずとも臣、臣たるべし」であった。無法な手討であろうとも、家来は甘んじて受けた。君は手討したものの家族の悲嘆を思うことはなかった。それは「貴人に情なし」という言葉を生む程であった。併し君臣共にそのことを当然とした。それはひとり武士のみではない。武士と農夫、地主と農奴、その他使用人と被使用人の間にも全くの理不尽が通った。徳川幕府の階級制度の制度は、斯る人間関係の制度化であったということが出来る。私は明治時代迄辞書にあるような人権というのはなかったとおもう。意志の自由という言葉さえなかったのではなかろうか。
それは外国に於ても変りはない。印度のカースト制、中国の苦力それは日本よりも甚 い、無人権的社会であったということが出来る。古代ローマに於ても、家族の生殺与奪の権は父親にあったと言われる。フランス大革命の前に王女に対して、「その様に浪費をされますと、国民はパンを食うこと出来ません」と言うと、王女が「パンが無ければケーキを食べさせなさい」と言ったのは有名な実話である。それは全ての権利が王室にあったことを物語るものである。
日本は欧米より、人権、自由、平等の精神を輸入した。それは活字と講壇より獲得したものである。併しその何れも人間本来のものとして、種子の芽生えるごとく得られたものではなかったのである。イギリス人民が、議会政治制度獲得の為に如何に多くの流血の闘争を繰り返したか、人民の人民による政治獲得のために、大フランス革命以下幾度の戦いに、如何に多くの人々が死んでいったか、人権は闘い取られたものだったのである。それは幾多の挫折の後に人民のものとなったのである。私は人権とは、神権、王権に対し、それに打克つことによって得た言葉であるとおもう。
斯る神権、王権を打倒する力は何処から来ったのであろうか。私はそれを産業革命に求めたいとおもう。産業革命とは生産手段の革命であった。人類は道具による生産より、機械による生産へと転じたのである。物は天恵より、人間の製作へと転じたのである。人々は生物のエネルギーのみではなく、宇宙のエネルギーを利用しだしたのである。生産は飛躍的に増大した。それを愈々増大さす為に、人々は分業のシステムを見出した。分業は適材適所を要求すると共に、働くものの方向に個性を目覚めさせた。分業の要求するものは個性の方向に可能性を追究し、実現してゆくことである。自由意志とは個性の方向に可能性を展開させんとする世界の必然的欲求である。人格とは個性が世界を内に包み、個性であることが世界を創造することである生命の自己形成である。個性であることによって世界を作るものとして、全ての人間は世界に於て平等である。私は人権とは人間の製作的生命の自覚であると思う。それは農耕、牧蓄、漁撈といった自然の生産に依拠する間はもつことが出来なかったとおもう。マルクスの言える如く思考は生産手段によって決定されるのである。人権は近代的工業生産社会が生み出した、世界の主体的自己形成であるとおもう。アメリカの奴隷解放は、北部の工業地帯と、南部の農業地帯の戦争であった。それは共に生産手段の精神の闘争だったのである。
日本に於ては明治維新と共に自由、民権の声が澎湃(ほうはい)として起って来た。それは立ちおくれた欧米列強に比肩するには、資本主義国家となるより外ないとする危機感より出で来ったものであった。憲法を発布して、議会政治制度を作り、一応自由、平等は成文化されるに至った。併し依然として農業に経済の基盤をもつ我国に於ては、真に人権の意識の確立はなかったと思う。人権の意識は第二次大戦後に俟たなければならなかったと思う。
戦争は当事国に膨大な物資の消耗を強要した。消耗を充足する為に、兵以外の働けるものは生産に従事せざるを得なかった。而して大なる生産は工業生産である。工場は拡張され、人々は徴用工として生産に従事せしめられた。その挙句の敗戦である。総力戦の敗戦は殆んどが廃墟として残った。私は当時零番地、零地帯、零メートルといった、零の文字が氾濫したのを覚えている。虚脱より漸く脱却したとき、生きる道は戦時の延長としての工業生産であった。人々は生きるために自己のもつ技術に頼らざるを得なかったのである。政治も多くの人を養うために、工業生産を指向せざるを得なかったのである。而して零よりの出発は、全てが新しきものの建設である。そこに最も合理化された設計と、能率的な人員配置をもつことが出来た。それは旧態依然たる欧米に対して、生産性に於て上廻ることが出来たのである。私は斯る工業化の成熟と共に、日本人の人権意識は骨肉化してきたとおもう。
私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚は歴史的形成的である。歴史は通常過去の叙述と考えられている。併しそこに歴史はない。歴史は常に歴史的現在の、過去への延展に於て歴史である。過去は生きているものとして未来と激突し、そこに新しい世界が生れる。そこに現在がある。歴史的現在とは無限の過去を蔵し、未来を孕んで過去と未来が動転するところである。そこに時が初まり、そこに時が終るところである。大歴史家ランケの言える如く現在は常に保守と革新の闘うところである。人間は自覚的生命として、我々の生れるところは斯る歴史的現在である。私は人間が生れながらにもつ権利とは、斯るところから捉えられなければならないと思
我々は工業生産的社会にあるものとして、何処迄も個性の尖端に、技術を展いてゆくと ころに世界の進運をもつものである。それは主体的方向に自由と平等を、純化徹底してゆかなければならない道である。斯る世界に生れたものとして、我々は生れながらに人権をもつのである。人権尊重は歴史的現在の無条件命令の声であうとおもう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」