新聞を読みながら

 十日程前になるであろうか、新聞を読んでいると、「フセインはアラブ世界不世出の英 雄である」という記事があった。勿論イラクが報道したというのである。私は読みながら懐旧の思いににやりとした。思えば私達の少年時代は英雄伝記の氾濫であった。プルターク英雄伝は必読の書の中に数えられ、ナポレオンや豊臣秀吉などを、文字通り肉躍らせて読んだものである。

 いつ頃からであっただろうか、英雄とゆう言葉が私の意識より薄れ、隠れていったのは、思い出が模糊としているのは既に久しいようである。思えば最近は書店の本棚にも英雄の文字を見かけないようである。私は書店の本棚は時代を映す鏡であると思っている。時代が何を求め、何に苦悶しているかが最も明らかに現われる所であると思っている。そこから姿を消したということは、英雄は最早現代に於て求められる人間像ではないが故であるとおもう。私の意識のうすれも抹殺される世界の人間像を写したものであろう。私がフセインの英雄ににやりとしたのは、その時代錯誤的なナンセンスとでもいうべきものを感じたが故であるように思う。アラブとはそれを真直目に掲げる程後進的なのであろう。英雄が否まれるとは、世界が如何なる質的変化をもったということであろうか。

 英雄の評価は人を何人殺したかで定まるという言葉がある。英雄とは大量の殺人者である。その大量の人命は版図の拡大に費されたのである。ドストエフスキーの罪と罰は、この大量の殺人者が賞讃されて、一人を殺した者が何故罰せられるかということへの問いから初まった。何故に賞讃を受けるか、私は版図の拡大の中に人類の意志とでもいうべきものが見ることが出来ると思う。人類が一つのものとして凝結しようとする意志が働いているようにおもう。

 言葉をもつ人間は、言葉を交し意志を疎通することによって、密度高い世界を築き上げることが出来るのである。大なる疎通は大なる文明を築き上げることが出来るのである。私は英雄は止むに止まれぬ人類の意志によってはたらいたのであり、止むに止まれぬ人類の意志は、斯るより大なる世界の展望にあったのであるとおもう。流血は人間が生きるものとして、身体をもつものとしての一つならんとする軌みであったと思う。英雄の殺人は斯る人類の意志の具現者として賞讃されるのであると思う。

 私は英雄伝が書店の棚より消え、英雄の時代が過ぎ去ったということは、地球的規模に於て人類の意志の疎通が出来るべき基盤が出来たということであると思う。よく街の辻で「暴力を止めて話合おう」といった標語を見かける。それは世界が力による角遂の時代が終り、対話による構築の時代に入ったということであるとおもう。

 対話による構築とは、お互が内にもつ力を引き出し合うことである。競争がなくなるの ではない。競争がより大なるものを作り出し合う競争となるのである。抹殺し合う競争ではなくして、共存する競争である。尖端に立つものは英雄ではなくして、天才である。ロゴスによる密度高い世界を作ることである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」