短歌表現に於ける主観について

二月号の井上実枝子氏の一首の中に「先月号のH氏の一首抄の中に」と書いて主観の問題が取り上げられていた。H氏とは前後から押して私のことであろうと思うので、私が何故に主観を不可とするかを論じて皆様の批判を仰ぎたいと思う。

私は短歌が抒情詩である限りよろこびかなしみの表現であり、主観としての観念の把握でなければならないと思う。観念とは世界の求心的把握として、われわれはそれによって自己を確立していくのである。言葉による表現として短歌も亦自己発見をその根源にもたなければならないと思う。斯かる自己発見をわれわれは観念にもつのである。

唯私が言いたいのは嬉しいという言葉は、嬉しいということではないということである。幾度も言う如くわれわれの生命は内外相互転換としてある。外としての米や野菜を食べて身体を形作っていくのである。斯かる生命形成の充足が喜びであり、欠乏が悲しみである。外はわれならざるが故にその獲得は喜びであり、欠乏は悲しみであるのである。

勿論我々の喜び悲しみはそれに尽きるものではない。人間は言葉をもつことによって食・性・自己防衛の本能の根元に還り、永遠の前に立つことによってさまざまの哀歓の襞をもつ、個性・愛・聖等を生命形成の内容とするものとなるのである。併しそれが生命である限り充足と欠乏を喜び悲しみの原型としてもつことに変りはないと思う。

故に喜び悲しみを表現しようとすれば、その充足や欠乏の状態を言えばよいのである。例を俳句にとれば「大晦日隣は餅搗く杵の音」これで悲哀は表現されつくしているのである。若しこれに「子等は如何なる思ひに聞くらん」と主観を加える如きは詩性を殺すことに他ならないのである。

人間が社会生活を営み、言葉によって意志交換を行う限り、観念の根底に事実があり、事実の根底に観念があるのである。事実はわれわれが其の中に生き、それに面するものとして短歌に言われる具象であり、具体である。観念はその根源としての具体の中に消え、具体の中より生れることによって溌溂たる清新さをもつことが出来るのである。観念は形成的生命の内容として、無限に動的でなければならない。世界形成的でなければならない。それは創造的転身をもつことである。

私が具体で捉えなければならないというのは、観念が具体の中に消えよということであり、それは亦具体の中より生れることである。そして私はそれが観念を更に深めていくものであると思うものである。観念樹立とは初めに言った如く自己の樹立であり、観念の深化は自己の深化であり、そこに真の詩精神を見んとするものである

2015年1月8日