年末も迫ってから村の役員が「来年のお頭を勤めて欲しい」と言って来た。聞くと当番の家の血縁に死者が出来たので、再来年に受ける私の家に廻って来たらしい。当日の一月四日はみかしほの新年宴会なので嫌であったが、仕来りの順序を変へることは難しいらしいので受けることにした。
その神は神殿は既に無くなり、その跡に地名だけが残っている、世間に疎い私はその神の祭祀がまだ遣って続いているのを知らなかった。「何うして祀るか」と聞くと、「私がご神体を作るのだ」と言う。一月四日になって初参の場所である公会堂に来てみると、成程正面に机が置かれて、中央に小さな木が立てられ、紙で作った幣が下げられ、その前に酒を入れた銚子が置かれている、そしてその横に、幾百年も経たであろう黒くなって、今にもこわれそうな箱が二つ重ねて置いてある。これが伝えられて当番が護持するものらしい。中には恐らくお札の如きが入っているのであろう。この前で氏子は一年の行事を謀るのである。恐らくは昔の様々の神意を問ふきびしい行事があったのであろう。そして五穀豊穣を祈ったのであろう。私はここで不意に一つの疑問が浮かんだ。栽培は私達人間がする、収穫は人間の努力に関わるのである、神の観念は何処より来たのであろうかということである。そして私はそこに人間の自覚の深い形相があるよう思ったのである。
自覚は全生命的である、生命は対象に自己を見ると共に主体が形成してゆくのである。対象を作ることが主体を作ることであり、対象とは身体の外化としての物である。身体は主体の実現としての物である。そこに稲を作るということには、単に稲作以上のもののはたらきが無ければならない所以があるとおもう。物を作るには先ず身体の製作的身体の出現がなければならなかったのである。斯かる身体として人間の前肢は手となり、脳に言語中枢が出現したのである。稲を作るには様々の経験の蓄積としての技術が生まれなければならない。斯かる技術は体に自己を見る根源的主体の自己実現であることによって働くものたることが出来るのである、栽培するときに人は先ず、生育に太陽と水が関わることを知るのである、そしてそれが人間を超えた深大な力であることを知るのである、その力を制御せんとして血から及ばぬ知り、その大なる力によって生育したものを食物として事故があるのを知るとき、自己も亦その大いなる力の内容として生きるのを知るのである。そしてその大なる力に順(したが)うことに万物の生育があると知る時に、天文地理が生まれてくるのである。天の運行を知り、気性の変化を知るのである、それはわれわれを超越すると共に、われわれがそれによってあるものである。その大なるものがわれわれの言語中枢に写されるとき、その量るべからざるものは驚異と畏怖である。斯かる驚異と畏怖は単に感情としてあるのではない、そこにわれわれが生死を見るものとしてあるのである。そこに日輪が天の表象となり、竜が光の表象となるのである。われわれがそれらを表象とすることは、表象は生死をもってわれらに対するものとして表わされたのである。生死をもって対するとは、われわれは生死に於いてあるものとして、天そのものであり、水そのものとしてあることである。私はそこに神の出現があったとおもう。背くものは死に、順うものは生きるのである。祀るとは順う意志の表示である。順うとはそれによって生き、それに従うと共に、それが自己であることである。それが自己であるが故に、それによってあり、それによって生きるのである。知るとは意識の内容となるものとして、この我の内にあるものとなることである。
自覚とは過去を包むより大いなる統一の立場に立つことである。過去を包むことによってより大なる自己を見出してゆく生命となることである。より大なる事故を見出すものとして、生命は形作る働きである。生命は形作るものとして外に食物を求める、即ち内外相互転換として生命形成をもつのである。それが過去を包んでより大なる統一の立場に立つとは、物を製作する生命になったということである。意識の内容となるとは製作することである。そして製作とは天が開け、地が拓けゆくより大なる生の地盤に立つことである。言語中枢をもち、手をもつとは斯かる生命の具現である。この生命の深大なる生成をこの我の立場より見るときに製作があるのである。斯かるものとしてこの我は、この深大なる生命のゆらぎの影である。ここにそれによってあるものとして、より深大なるもの回帰への強い要請が生まれる。そこに私は神を祀ると言うことがあったとおもう。
それなれば何故に最初に記した如き祭祀の衰退ということがあったのであろうか。私はこの現象は発展的解消として捉えるべきであるとおもう。神は無限なるはたらきである。私達に写された影とははたらくものの形として、この我の実現として写されるのである。はたらく形とはこの我に環境を写し、環境にこの我を写す内面的発展である。そこに神が現れるのである。現われたものは形として、無限のはたらきとしての神の本質が失われることである。生まれた形に即してはたらくものとなることである。時間的、空間的に現われたものとして、有限的存在となることによってはたらくものとなることである。生あるものは死に、形あるものはこわれるものとなってはたらくのである。而してそこに眞の無限のはたらきは生まれるのである。死することによって新しきものが生まれ、こわれることによって新しきものが作られるのである。新しいものの出現をもたないものははたらきではない。はたらくとはより大なる形の実現をもつことであり、もとうとすることである。より大なる形とは、今ある形を否定することであり、新たな形を構築することである。それは有限なるものの上に構築されるのである。而してそれがはたらくものとして構築されるとき、有言なるものの自己構築として、内面的発展として構築されるのである。そこに有限なるもののはたらくもの、自覚的として自己構築をもち、人間が神を想うものとなるのである。物として有限なるものであり、内面的発展として無限なるものとして、神を実現するものとなるのである。有限なるものとは自己の中に変化を含んだ無限なるものである。はたらくもののじつげんとして有限なるものである、神の実現として形をもったものである。変化するものとして、否定として実現するものとして、神を現わすのである。有限なるものは実現された神の姿である。斯く有限なるものが自己実現としてはたらくものが人間の営為である。私はそこに幣や神殿を神とすることを捨てた所以があるとおもう。人間の営為が紙を想うことは、作りとげた社会の形象が神の姿であるということである。そこに特別の表象をもつことは無意味となるのである。
われわれが製作するということは超越が内在となり、内在が超越となったことである。併しそのことは内が直に外となり、外が直に内となったことではない。内が煎と内となり、外がいよいよ外となることによって、絶対矛盾を媒介することによって一なるものとなるものとなったのである。人間がはたらくことによって、外の方向と、内の方向に形がいよいよ明らかになるものとして、一になったのである。私はそこに神は死んだのではなくして、いよいよ深大なるものとして背後よりはたらくものとなったのであるとおもう。はたらくことによって外の方向と、内に方向にいよいよ明らかになることは、このわれを超えたものとなることである。外は何処迄も内ならざるものである。物は何処迄も我ならざるものである。それが物が明らかになることによって我が明らかになり、我が明らかになることによって物が明らかになるとは世界を形成することであり、世界は我と物のはたらきによる統一として、我と物を形に明らかにしてゆくことである。否定的に実現されたものとして、人は死ぬものであり、物はこわれるものである。それを形成的に維持発展させてゆくものがはたらきである。われわれはそこに神を見るのである。世界現前を神とするのである